藤原新也の写真・沖ノ島展 2017年7月27日

宗像大社に行ったのは12,3年前です。
九州での勉強会ついでに思い切って行った宗像大社に、他の聖地とは違った印象を持ったのを覚えています。宗像大社に向かう途中の風景は神話の概念というよりも、地霊のようなものを強く感じ、「古墳の匂いがする。。。」と、呟くと、タクシーの運転手さんが方々を指さし、「お客さんの言った通り、こっちも、あっちも古墳なんですよ。」と教えてくださいました。お椀を伏せたようなこんもりとした小さな丘の森が古墳と分かった瞬間、この土地に入ることを許されたような感覚が湧いてきました。
宗像大社を参拝し、宝物殿もじっくりと見学した中で知ったのが島全体がご神体である沖ノ島の存在です。
つい最近ユネスコの世界文化遺産に登録された理由は、宗像大社、沖ノ島等の精神性、宗教観が認められたからです。
沖ノ島は4世紀から9世紀にかけて国家祭祀が執り行われ、神職が一人で毎日島に入り、祈りを捧げます。それが現代まで受け継がれているのです。女人禁制で、その島に入った者は、そこで見たものは全て語ってはいけない、という掟があり、もちろん、石や草でも持ち帰ってはいけないということを守り続けてきたそうです。
今回の沖ノ島展は、インドやシルクロード、そして高野山を撮り続け、その後も聖地と云われる場所を撮り続けてこられた藤原新也氏の写真の展覧会でもあります。
ご自身の父親を最期まで看取り、その後、千葉のご自宅が津波の被害を受けたことまでは、藤原新也に影響された私自身の認識にあったのですが、それ以来、久しぶりの写真との対面でした。
自然界に含まれている私自身が、素粒子を通す地球と同じ個体であることを想うと、草木や土や石のような存在と同等である人間に智を与えた創造主に、その意味を囁かれ続けていることを思うのです。でも、その囁きが、潜在的に受けてはいても、意識に降りてこない、つまり意識化されにくいところに、人間の性質を感ずるのです。そういうふうに設計されたのだと思うと、その意味を考えることはバカバカしいようにも思います。
それこそが、人間の自由意思であるからです。
この夏は、積読(つんどく)の一冊になっている、教皇フランシスコの書いた「回勅 ラウダート・シ」を完読せねば、と思うのでした。
某大統領が教皇から、この本を手渡しで頂いていたようですが、きっと、降りてくるものに気付かない種類の人なのかもしれません。気付きたくない、ということもありそうですが。
これもまた、自由意思なのです。
日本橋高島屋8階ギャラリーで開催している沖ノ島展で、8月1日まで。
人間が与えられている自由意思と自然に含まれている人間そのものを考えるに相応しい時間を藤原新也氏の写真から頂いた貴重な時間でした。
場所柄、夕方だったので仕事帰りのサラリーマンも多かったことも、印象に残っています。


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2017年公開講座のご案内
ユースフルライフ研究所
9月5日 鎌倉腰越講座
9月19日 つつじが丘講座
NPOキュール東急セミナーBE講座
7月28日15時半~雪谷校
7月28日10時半~たまプラーザ校
7月の東急講座は、第四週金曜日に雪谷講座が変更となっています。ご注意ください。
(NPOキュール会報もしくは東急セミナーBEのホームページをご覧ください)

宗像大社に行ったのは12,3年前です。
九州での勉強会ついでに思い切って行った宗像大社に、他の聖地とは違った印象を持ったのを覚えています。宗像大社に向かう途中の風景は神話の概念というよりも、地霊のようなものを強く感じ、「古墳の匂いがする。。。」と、呟くと、タクシーの運転手さんが方々を指さし、「お客さんの言った通り、こっちも、あっちも古墳なんですよ。」と教えてくださいました。お椀を伏せたようなこんもりとした小さな丘の森が古墳と分かった瞬間、この土地に入ることを許されたような感覚が湧いてきました。
宗像大社を参拝し、宝物殿もじっくりと見学した中で知ったのが島全体がご神体である沖ノ島の存在です。
つい最近ユネスコの世界文化遺産に登録された理由は、宗像大社、沖ノ島等の精神性、宗教観が認められたからです。
沖ノ島は4世紀から9世紀にかけて国家祭祀が執り行われ、神職が一人で毎日島に入り、祈りを捧げます。それが現代まで受け継がれているのです。女人禁制で、その島に入った者は、そこで見たものは全て語ってはいけない、という掟があり、もちろん、石や草でも持ち帰ってはいけないということを守り続けてきたそうです。
今回の沖ノ島展は、インドやシルクロード、そして高野山を撮り続け、その後も聖地と云われる場所を撮り続けてこられた藤原新也氏の写真の展覧会でもあります。
ご自身の父親を最期まで看取り、その後、千葉のご自宅が津波の被害を受けたことまでは、藤原新也に影響された私自身の認識にあったのですが、それ以来、久しぶりの写真との対面でした。
自然界に含まれている私自身が、素粒子を通す地球と同じ個体であることを想うと、草木や土や石のような存在と同等である人間に智を与えた創造主に、その意味を囁かれ続けていることを思うのです。でも、その囁きが、潜在的に受けてはいても、意識に降りてこない、つまり意識化されにくいところに、人間の性質を感ずるのです。そういうふうに設計されたのだと思うと、その意味を考えることはバカバカしいようにも思います。
それこそが、人間の自由意思であるからです。
この夏は、積読(つんどく)の一冊になっている、教皇フランシスコの書いた「回勅 ラウダート・シ」を完読せねば、と思うのでした。
某大統領が教皇から、この本を手渡しで頂いていたようですが、きっと、降りてくるものに気付かない種類の人なのかもしれません。気付きたくない、ということもありそうですが。
これもまた、自由意思なのです。
日本橋高島屋8階ギャラリーで開催している沖ノ島展で、8月1日まで。
人間が与えられている自由意思と自然に含まれている人間そのものを考えるに相応しい時間を藤原新也氏の写真から頂いた貴重な時間でした。
場所柄、夕方だったので仕事帰りのサラリーマンも多かったことも、印象に残っています。


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9月5日 鎌倉腰越講座
9月19日 つつじが丘講座
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7月28日15時半~雪谷校
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7月の東急講座は、第四週金曜日に雪谷講座が変更となっています。ご注意ください。
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