ダンポポの種

備忘録です

春なのに

2008年03月13日 22時25分26秒 | 鉄 道
きょう夕方のニュース番組(関西ローカル)で、
寝台特急「なは・あかつき」のことが取り上げられていました。
あす3月14日の夜に発車するのが、最後の列車ですね。

私は、山口県で過ごした学生時代に「あかつき」のレガートシート(座席車)に2~3回乗りました。携帯型カセットテープ再生器を持って乗り、イヤホンで(あっ、ヘッドホンか)聴きながら、車窓を流れる町灯かりを眺めていたものです。

快適な座席だったけれど、レガートシートでは「寝た」という記憶が無いです。
座席は、たしか、電動リクライニング式ですよね。
でも、スイッチ入れたら〝くい~ん〟って動作音がして、静まり返った車内ではうるさい気がしました。下関から乗り込むと、車内はすでに減灯されていて「就寝モード」なので、静かなのです。
「夜行の車内に電動式っていうのも、良し悪しだな…」と思いました。

レガート乗車区間は、下関→京都のほか、下関→岡山も一度ありました。


学生時代だったので「寝台席」を奮発するのは難しかったけれど、一度だけ、あかつきの京都→小倉で「ソロ(1人用B個室)」に乗っています。
このときは、大学の先輩と一緒で、それぞれ「ソロ」に収まったのですが、
京都を発車後は片方の個室に集結し、駅弁と缶ビールで乾杯(ここでもか!)しました。

「個室とは言っても、狭いですねぇ~」

とか言いながらも、楽しいひとときでした。

「あかつき」は長崎ゆきなので、小倉へは朝5時ぐらいに着くのです。
到着前に車掌さんが個室の扉をノックして声を掛けてくれた(モーニングコール?)ので下車できましたが、直前までふつうに寝ていたからな…。
小倉の手前で下関にも停車するのですが、4時半ぐらいに到着するもので、そこで降りてもアパートまで帰る術が無い…ってことで、小倉まで乗ったのだと記憶しています。

こんな思い出は、語り始めるときりが無いですね。



かわいくない…?!

2008年03月12日 16時26分49秒 | 日記・雑記
来る2010年に奈良で開催される『平城遷都1300年祭』に用いられるマスコットキャラクターが、
〝かわいくない!〟として、話題になっているようです。


↓3月12日付『京都新聞』より



「気持ち悪い」とか、「批判1000件」とか、見出しにあります。
その一方で、「(見ているうちに)慣れてきた」という声もあるようで。

「布をまとった童子にシカの角が生えた」というデザインです。
奈良の要素をしっかり盛り込んであるのですが、デビューする前から評判のほうがいまひとつのようです。

いま、このキャラクターの愛称を募集している最中らしく、
現時点では愛称がありません。

かわいらしい愛称が付いたら、いいですね。


◎参考(近隣地域のマスコットキャラクター)
彦根の「ひこにゃん」と、京都の「たわわちゃん」

『国宝・彦根城築城400年祭』公式HPより、「ひこにゃん倶楽部」のページ

「京都タワー」公式ページ(←「たわわちゃん」が載っています)



陽気に誘われて

2008年03月11日 23時04分12秒 | 日記・雑記


きょうは、天気もよく、暖かい一日でした。
一気に春が来た、という感じでした。
夜のニュースを見ていたら、京都でも4月中旬並みの陽気だったそう。
引き続いて明日も、4月上旬並みの気温が予想されています。
でも、まだ、もう一回か二回は〝寒さ〟がくるのだろうな。

きょうは、確定申告に行ってきました。
早い時期にさっと済ませてしまう年もあるのですが、今年はすでに終盤で、満を持しての駆け込み申告になってしまったな…。
暖かくなるのを待ってたんや。(←おじいさんか)

申告会場で、担当の職員さんから、
「この一年間、医療費を(たくさん)使いましたか?」
みたいなことを尋ねられました。(毎年尋ねられるけど)
医療費控除に関わることなのでしょうが、
「いいえ」
と私は答えながら、今更の如く、この一年間は医者にかかっていなかったことに気づきました。おかげさまで、元気に暮らしております。



先生!黒板が見えません

2008年03月10日 18時38分11秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

メガネ・デビューを果たす前、私が最前列の席で板書写しに悪戦苦闘していたころの、ある日の出来事。

私のすぐうしろの席に座っていた女子が、前フリも無く、先生に直訴した。

「先生…、黒板が見えません。Dくんの頭が大きすぎて」

授業の冒頭、先生が本題に入ろうとされた直前の、一瞬の隙をついて発せられた一声だった。
クラスメートたちにも聞こえていて、教室内に笑いがおきた。

おまえは、突然何を言い出すのか…。
しかも、「黒板の字が見えません」ではなくて、「黒板が見えません」と言った。
意識的に、敢えてそう言っただろう。
だって、「頭が大きすぎて…」と言ったじゃないか。

私は、椅子に座ったまま、上半身をひねって振り向いた。
相手は満足そうに、ニコニコしている。
どうやら、ネタにされてしまったようである。

私の〝頭ネタ〟(大きさ編)は、卒業の日まで継続的に登場した。



メガネ・デビュー記念日

2008年03月09日 10時06分26秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生の2学期後半ごろから、自分でも気付いていたのだが、黒板の文字が見えづらくなってきた。
視力の低下だった。

授業中も、目を細めたり、指で目尻をつり上げたり、下げたり…、なんとか焦点を合わせようと奮闘していたが、やがて、そういう頑張りも効果が薄れてきて、自分自身でも「これは不便だ」と実感するようになった。不便というのは、黒板の字をノートに書き写すのに、人よりも余計に時間がかかるようになったことである。

5年生に進級したとき、担任の先生の配慮によって、健康検査で視力が悪かった児童たちは優先的に、黒板から近い教室前方の席に配置されることになった。
『この際だから、一刻も早く、眼鏡を買ってもらうように!』
という、指導付きの措置ではあった。

この取り計らいにより、私も最前列の席を割り当てられ、当初は懲りもせず裸眼で頑張っていたが、近視はどんどん進んでいくので、ほどなく、最前列からでも黒板の字が見にくくなってきた。
視力の良い人には想像がつかないだろうが、本当に、最前列の席からでも、黒板の字がぼやけて読めなくなる。もう、眼鏡なしでは為す術がない。

私の場合、肝心の眼鏡は視力検査の直後に早々と買ってもらっていて、毎日ランドセルの中には入れて、登校していた。けれど、クラスメートの前で眼鏡を掛けるのが恥ずかしくて、ずっと躊躇していた。学校内ではランドセルから眼鏡を取り出せずにいた。小学生のメガネ・デビューには勇気が必要だ。

私としては一生懸命に黒板の文字を見ようとしているだけなのだが、その姿は、最前列の席にデンと座り、目を細め、しかめっ面で黒板を睨みつけているわけだから、つまり…、教壇に立つ先生に対してガンを飛ばしていることにも等しく見える。本人だけが気づいていないが、傍から見ると相当印象が悪い光景だ。


ある日の授業中、ついに、見かねた先生の鋭い声が飛んできた。

「コラッ!! 眼鏡を持って来ているんだったら、さっさと、掛けなさいっっ!!」

実際には、私を〝名指し〟しての一撃だった。
声を聞けば分かる、先生の本気モードの叱り声が炸裂し、授業の流れが完全に止まった。
〝ザッ…〟という空気の変化。それは、クラスメートたちの視線が一斉に私へ向けられる気配。
うううっ、背中にみんなの視線が…。悲惨すぎる。

授業が止まり、突然の静けさに包まれた教室内に、ランドセルから眼鏡ケースを取り出す音だけがゴソゴソと響いた。





カメさん

2008年03月08日 12時38分17秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生から5年生へ進級する際に、クラス替えがあった。
担任の先生方もクラスメートも、組み合わせは大幅にシャッフルされ、私は5年2組になった。
4年生のときの担任だった〝恐いT先生〟は5年5組の担任に就かれたので、私はそれとは別の教室で、内心はホッとした気分が正直あった。


5年2組での日々がスタートしてまもなく、私は、「カメさん」というニックネームの子と仲良くなった。
4年生のとき、彼が何組にいたのかは、私もよく覚えていない。
とにかく、5年2組の教室で初めて出会った子である。

よく分からないが、こいつとは不思議と息が合った。

社宅暮らしの子で、低学年の時にお父さんの転勤でよその町から西宮へ移ってきたという経歴の持ち主だった。そういう事情が私と共通していたのも、気が合った理由のひとつだったのかもしれない。休み時間にもよく遊んだし、学校から帰った後にカメさんの家へ遊びに行くこともしばしばあった。

名字に「亀」という字が入っているので、ニックネームは「カメさん」だった。
ほどなく、短縮形(敬称略?)で呼ばれるようになり、6年生に進むころにはすっかり「カメ」になっていた。担任の先生も、そう呼んでおられた。


社宅暮らしの宿命か、私と同様、カメさんも小学校卒業と同時に西宮を離れることになった。
以後、しばらくは年賀状の交換もしていたが、大阪府豊中市の住所が記された葉書を最後に、彼との交信は途絶えてしまっている。



3月なのか

2008年03月07日 23時25分01秒 | 日記・雑記

↑なんじゃこれー?!



「ダンポポさん、これって…、ふつう、ひとりでやるものじゃないでしょう」

「すみませんね、〝単独登山〟したもので」

「いや、そういうことじゃなくて…。じゃあ、これは誰が写したのですか?」

「駅員さんです。〝発車前に1枚どう?〟って」

「でも、ひとりって寂しいし…、結構ですって断ればいいのに」

「客が、私ひとりだったんです。
 そういう状況で声をかけられて、断ったら、非常に気まずいでしょう」

「だけど、見るからに寒々しいし…」

「これ、〝あちらのカメラ〟で写してくれるのです。
 私のカメラで写したのではないです。
 その場で撮影からプリントまでやってくれて、
 発車前に〝はい、どうぞ〟って出来上がった1枚をもらえるのです。
 しかも、無料なんです。
 このサービスを、駅員さんは笑顔で対応してくれるんです。
 断る理由が、無いでしょう」

「なんだか、ありがた迷惑みたいな顔をしていますよ」

「笑ってるでしょう?」

「いやー、これは笑ってないですよ」

「だって、笑ったんだから」

「これで? 分かりにくいな…」

  ◇     ◇     ◇

業務上青年部会の「会報誌」に掲載する資料写真を撮るために、
きょうは〝お山の上〟まで行ってきました。

えっ、どこの〝お山〟だか分からない…?


ひえ~っ!



画像で見る、どんぐり

2008年03月06日 18時45分54秒 | うちの近所
きのうの記事の補足です。
百聞は一見にしかず、ってことで、画像です。
(なんで、そんなに入念やねん…)



↑どんぐり看板です。けっこう大きいでしょう。
 走行中の車内から写したので、やっぱりブレました…。
 
 ぼやけていますが、「どんぐり街道」って読めますか?
 その上には、「自然にやさしい」と書いてあります。(どういう意味だろう?)

 この看板は道路上に何箇所かあり、走っていると、忘れたころに出てきます。
 どんぐりを描いたイラストは、看板ごとに違う絵になっています。




↑すでに完成している(ように見える)、料金所のETCゲート。
 ゲートが出現してから、ずうっと「試験中」です。
 今月末の開通が楽しみです。



どんぐり街道にETC!

2008年03月05日 18時39分25秒 | うちの近所
K奈道路(どんぐり街道)のETCレーン開通日について、情報が出ました!
やっと、このときが来ました。
現時点で、すでに設備は完成しているように見えるぞ。早く開通させようさー。

先月、私が料金所のおじさんから聞いた情報では、
「開通は今年4月の予定」(←日にちは未定と言っていた)
ということだったのですが、
このたび出された最新情報では、3月31日に開通するとのことです。
今年度の事業として片付けてしまおう、ということかな。

レーン整備には巨額の費用が必要なようで、今回は、K奈道路のすべてのインターチェンジにこれが整備されるわけではありません。したがって、走行する区間によって、一部、ETCレーンを使えない場合があるようです。
私も、この点には注意しなければいけない利用者になるはず…。


↓NEXCO西日本(西日本高速道路)のホームページです。

 「新着情報」の欄から、
 3月4日付『京奈和自動車道の一部料金所でETCの運用を開始します』
 の記事です。
http://www.w-nexco.co.jp/



タタン、タタン…

2008年03月04日 23時05分15秒 | 動画・music,音
『music,音』カテゴリーになりました。(音って…)

「ロマンスカー」の名で知られている、小田急の特急電車の動画を見つけました。
ほかにもたくさん投稿されています。


連接構造と言って、車両と車両を連結する仕組みに特徴を持つ列車です。

ふつう、列車が通過するとき、車輪がレールの継ぎ目を拾う音は、
「タタンタタン、タタンタタン、タタンタタン…」ですが、
連接構造の列車(連接車)が通過するときは、これが、
「タタン、タタン、タタン、タタン…」となります。


↓小田急7000系特急ロマンスカー(愛称LSE)が通過していきます。
 通過音がよく拾えていると思います。

LSE 秦野駅通過



タタンタタン(ガタンゴトン)とは聞こえないでしょう。

小田急沿線の方々にとっては聞き慣れた音だと思いますが、
よその人間からすると、これは珍しい音(リズム)です。



「ミ号」が1周年

2008年03月03日 17時10分39秒 | それゆけスペース
あす3月4日、「ミ号」がデビュー1周年を迎えます。
明らかに1日早いですが、きょうの投稿で〝誕生日〟を祝っておきましょう。
本当は2月登録のクルマなんですけどね。(←しつこく言う)

先月の投稿で書いたように、すでに「12ヶ月点検」は済んでいます。
現在の距離は15000kmで、これがそのまま年間走行距離ということになります。
やっぱり…、結構伸びるもんだな。

日常業務での移動や、京都ヘッドへの往復など、ミ号の活躍は素晴らしいです。
デビュー時からETC装置を付けてあるので、このたび開通した阪高京都線(京都高速)でも一丁前にノンストップ走行をします。今後、来月(4月)には、K奈道路のETCレーンも開通するそうなので(←料金所のおじさんから聞き出した情報です)、ますます、ミ号の活躍が期待されるところです。


◎ウ号短信

ウ号はデビューから1週間たちました。
使い勝手は旧ウ号と変わりませんが(本当に)、一応〝習熟運転期間〟ということで、おとなしく超控えめな稼働状況のうちに最初の1週間が過ぎたところです。
只今の距離は240km。(←めっちゃ控えめです。過去の例を思い返すと、最初の1週間で500kmを超えたりしてたからな…)



↑ミ号と旧ウ号の「並び画像」です。
 並び画像は、この一枚しか存在しません。貴重です。
 旧ウ号引退の際に、記念に写したもの。
 駐車スペースの関係で、ミ号はちょっと斜め向きで停車です。
 


ダンジョウ小学校

2008年03月02日 13時03分49秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

塾の思い出を、もうひとつだけ。

私が通った塾は、阪急今津線甲東園駅から歩いてすぐの所にあったが、その近所に段上町という町があった。
「西宮市段上町」という地名が実際に存在するのだ。現在もある。
字が違うけれど、私の名字と読みが同じだ。

その町には西宮市立段上小学校というのがあって、そこの児童も塾へ通って来ていた。
だから、私が初めて塾へ通った日、新入りの名前が「ダンジョウ」だと知るや、教室内は大爆笑に包まれてしまった。地名と同じ読み方をする風変わりな名字が面白かったのだろう。顔を揃えているのは小学生ばかりだから、こんなときはとりあえず笑う。私は、自分の名字を恨みたくもなったが、これは仕方がないことだ。

その場の勢いも手伝って、「ダンジョウ小学校くん」というあだ名を付けられそうになって困ったが、もちろん、そんな長ったらしいあだ名が定着するはずもなく、日を追うごとに、誰も何も言わなくなった。

このとき、『自分は、珍しい名字の人と出会っても笑ったりしないでおこう』と心に思ったのは本当の話である。

塾の話は、これでおしまい。



ジャガイモと、サツマイモ

2008年03月01日 14時15分00秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

塾通いをした話-。
4年生の9月(2学期)から、私は塾へ通わせてもらうようになった。


初めて塾へ通った日のこと。

その日は、理科の授業が行われる日だった。
小さな教室の中には、30人ほどの生徒(児童)がいた。
「入塾は随時受付していますよ」という塾だったが、やはり一般的には春(4月)から入塾する生徒が多いようだ。私は9月からだったので、中途入塾した格好で、この教室でも〝転校生〟みたいな心境に陥った。
四面楚歌というか、教室内には私の知らない顔ばかりが並んでいた。

きょうは新入りが加わったということで、授業の冒頭、早速、担当の先生(理科)が私を指名した。

「まず、檀上に質問をします。ジャガイモは、何科の植物ですか?」

この質問は、今も忘れられない。

じゃがいも、何科…?
そんなことは、聞いたことも考えたこともなかった。その場で考えたって分からない。

ほかの生徒は、私が何と答えるかジッと聞いている。

わかりません…
静まり返った教室で、私は、蚊の鳴くような声でそう答えるのが精一杯だった。

「ハイ。それでは…、ほかに分かる人はいますかぁ?」

と、先生が教室じゅうに声を向けた瞬間、ほかの全員が、サッ!と手を挙げた。(怖かったわ

ジャガイモはナス科の植物だと、このときに知った。
『じゃがいもは、なすびの仲間だったのか』と、私は驚きながら覚えた。
 

先生の質問がさらに続く。

「それでは、続いて、檀上に質問をします。サツマイモは、何科の植物ですか?」

だから…、ふつう知らないって、そんなこと

サツマイモはヒルガオ科の植物だと、このときに知った。
ヒルガオ科の植物には、ほかに、アサガオとヨルガオがあるそうだ。
『さつまいもは、アサガオ(朝顔)の仲間だったのか…』と私は覚えようとしたが、アサガオを印象付けてしまうと肝心の〝ヒルガオ科〟という名前を忘れる恐れがある。すると、先生が覚え方を教えてくれた。

「朝・昼・夜に、サツマイモを食べる!」

と、覚えなさいと。


じゃがいもはナス、そして、朝昼夜にさつまいも。
(さらに、ユウガオはウリ科なので注意せよ!というオマケ知識も記憶に くっ付いている)
 
大人になって、こうした知識とは縁が薄い道へ進んでしまった現在の私だが、今も忘れずに覚えていることを思うと、このとき私が受けた衝撃は相当強烈だったようである。