自分の放った言葉に、思いがけなく強い力が纏う瞬間がある。
それは度々、ネガティブで断定的な言葉を発した時に起こる。
「無駄」
役に立たないこと。
それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。
無益。
という意味らしい(goo辞書)。
紙の辞書を買おう、いまいち説得力に欠ける。
「無駄」であることは多くの日本人にとって、忌み嫌うべき対象なのだ。
生産性を求める過剰な合理主義には違和感を覚える。
以前にも書いたが、なぜ社会では仕事ができる人が賞賛の的になり、
仕事ができない人は戒められるのかとう疑問が未だに解消されていない。
効率性・利便性を追い求めれば至極当然のことのようにも思えるけれど、本当にそうだろうか。
「当然」という言葉が一番怪しい。
社会を構成する要員として興味深いのはむしろ後者の方だったりする。
しかし我が身振り返れば、私も例外でなく身にしみた効率主義がだだ漏れる。
身近な話をすれば「無駄な物は省く」という思想が根強いのはそのためかもしれない。
使う物だけがあればなにかと探し物も楽になるだろう。
しかしここで難しいのは大事な物と使う物が必ずしも一致しないと言うこと。
昨年秋、母が体調を崩したのもあり1ヶ月ほど実家に帰って家の手伝いをした。
主に掃除。
少し非情かもしれないけれど、使わない物はどんどん捨てるというやり方だ。
何に使うのかよく分からないものはとにかく母に詰め寄った。
「いるの?いらないの?」
「いるの?いらないの?」
実家には90も半ばのおばあちゃんが住んでいる。
もう私のことも分からないみたいだが、存在感は大きい。
関係のない話だが居間で寝てしまった日、真夜中に物音で目が覚めると、
おばあちゃんが今にも覆い被さってきそうな態勢でこっちを見ていた時は心臓が止まるかと思った。
そんな彼女の部屋は人形や飾り物や衣服で溢れ、物がたくさんあるため煩雑としている。
そのほとんどは私にとって無駄な物に思える。
おばあちゃんが寝ている隙に、これはいらないだろうと思った物を少しずつ部屋から運び出していると、
おばあちゃんはいつの間にか起き上がり、それを大事そうに拾っていた。
彼女にとって大事な物なのだ。
「物より思い出、プライスレス」という有名なキャッチコピーがあるけれど、
私が思っているより人が物に対して持つ思い入れは大きいのかもしれない。
それを切り捨てる行為は、人によっては自己を引き裂かれるほどの大きな事態となり得る。
これは非常に個人的な問題であり、きっと他人が軽々しく首を突っ込むべき事ではないのだ。
もちろん仕事場となると話は別だが。
余分な物は切り捨てる、削ぎ落す。
その先にあるのはなんだろう。
私が高校3年生になった年、学校の校長が変わった。
なんでも学校を挙げて小論文に力を入れ受験の合格率を上げたという実績を持った人らしかった。
少し面白そうと思ったのはつかの間、皆同じような本を買わされ小論文の訓練がはじまった。
この校長先生をあまり好きになれなかった決定的な言葉が、
「小論文も他の教科と同じで答えが決まっているからあとは流れを覚えるだけ」というもの。
膨らんだ期待感はこれによって一瞬にしてしぼんでしまった。
自分の考えを真面目に書けば書くほど、返ってきた原稿用紙は赤ペンで添削されていた。
割り切って校長の言う通りに書いたら、校長室に呼ばれお褒めの言葉をいただくことが出来た。
無駄な文章は省き、適切な言葉を沿える。
これは文章を書く上でとても基本的な事だ。
しかしここで言う「無駄」は、同じ答えを導くために不必要となる文章という意味だ。
つまり「個人の考え」がそれに相当する。
このように教育の名の下で個人的な部分を削ぎ落し同じ方向を向かざるを得ない環境に侵される。
私の中で小論文事件と呼ぶこの出来事は、意識的に感じ取った添削脳育成のはじまりだったのかもしれない。
「添削」本来の意味には付け加えるという意味も含まれるが、
ここで使う「添削」は主に他人が人の物を良くするために削る・省く行為を指す。
また自分自身に対しても自らが他者的視点で添削していることを前提にしたい。
ないがしろにされがちな「無駄」が実は人間っぽさであったり、私っぽさなのだと最近思う。
無駄な物、無駄な時間、無駄な言葉、いろいろあるけれどそれは言い方を変えれば、
「隙間」、「余白」、「余韻」などとすることが出来るのではないだろうか。
それらはガチガチに管理された社会の中でクッションのような役割を果たす重要な要素だ。
そういう意味では、社会では仕事ができる人と同じくらい仕事ができない人も重要な役割を果たしていると言える。
偉そうに「無駄」という言葉を使うのは改めよう。
「当たり前」の中にある傲慢さをもう少し和らげる事ができたらいいなと思う今日この頃。
それは度々、ネガティブで断定的な言葉を発した時に起こる。
「無駄」
役に立たないこと。
それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。
無益。
という意味らしい(goo辞書)。
紙の辞書を買おう、いまいち説得力に欠ける。
「無駄」であることは多くの日本人にとって、忌み嫌うべき対象なのだ。
生産性を求める過剰な合理主義には違和感を覚える。
以前にも書いたが、なぜ社会では仕事ができる人が賞賛の的になり、
仕事ができない人は戒められるのかとう疑問が未だに解消されていない。
効率性・利便性を追い求めれば至極当然のことのようにも思えるけれど、本当にそうだろうか。
「当然」という言葉が一番怪しい。
社会を構成する要員として興味深いのはむしろ後者の方だったりする。
しかし我が身振り返れば、私も例外でなく身にしみた効率主義がだだ漏れる。
身近な話をすれば「無駄な物は省く」という思想が根強いのはそのためかもしれない。
使う物だけがあればなにかと探し物も楽になるだろう。
しかしここで難しいのは大事な物と使う物が必ずしも一致しないと言うこと。
昨年秋、母が体調を崩したのもあり1ヶ月ほど実家に帰って家の手伝いをした。
主に掃除。
少し非情かもしれないけれど、使わない物はどんどん捨てるというやり方だ。
何に使うのかよく分からないものはとにかく母に詰め寄った。
「いるの?いらないの?」
「いるの?いらないの?」
実家には90も半ばのおばあちゃんが住んでいる。
もう私のことも分からないみたいだが、存在感は大きい。
関係のない話だが居間で寝てしまった日、真夜中に物音で目が覚めると、
おばあちゃんが今にも覆い被さってきそうな態勢でこっちを見ていた時は心臓が止まるかと思った。
そんな彼女の部屋は人形や飾り物や衣服で溢れ、物がたくさんあるため煩雑としている。
そのほとんどは私にとって無駄な物に思える。
おばあちゃんが寝ている隙に、これはいらないだろうと思った物を少しずつ部屋から運び出していると、
おばあちゃんはいつの間にか起き上がり、それを大事そうに拾っていた。
彼女にとって大事な物なのだ。
「物より思い出、プライスレス」という有名なキャッチコピーがあるけれど、
私が思っているより人が物に対して持つ思い入れは大きいのかもしれない。
それを切り捨てる行為は、人によっては自己を引き裂かれるほどの大きな事態となり得る。
これは非常に個人的な問題であり、きっと他人が軽々しく首を突っ込むべき事ではないのだ。
もちろん仕事場となると話は別だが。
余分な物は切り捨てる、削ぎ落す。
その先にあるのはなんだろう。
私が高校3年生になった年、学校の校長が変わった。
なんでも学校を挙げて小論文に力を入れ受験の合格率を上げたという実績を持った人らしかった。
少し面白そうと思ったのはつかの間、皆同じような本を買わされ小論文の訓練がはじまった。
この校長先生をあまり好きになれなかった決定的な言葉が、
「小論文も他の教科と同じで答えが決まっているからあとは流れを覚えるだけ」というもの。
膨らんだ期待感はこれによって一瞬にしてしぼんでしまった。
自分の考えを真面目に書けば書くほど、返ってきた原稿用紙は赤ペンで添削されていた。
割り切って校長の言う通りに書いたら、校長室に呼ばれお褒めの言葉をいただくことが出来た。
無駄な文章は省き、適切な言葉を沿える。
これは文章を書く上でとても基本的な事だ。
しかしここで言う「無駄」は、同じ答えを導くために不必要となる文章という意味だ。
つまり「個人の考え」がそれに相当する。
このように教育の名の下で個人的な部分を削ぎ落し同じ方向を向かざるを得ない環境に侵される。
私の中で小論文事件と呼ぶこの出来事は、意識的に感じ取った添削脳育成のはじまりだったのかもしれない。
「添削」本来の意味には付け加えるという意味も含まれるが、
ここで使う「添削」は主に他人が人の物を良くするために削る・省く行為を指す。
また自分自身に対しても自らが他者的視点で添削していることを前提にしたい。
ないがしろにされがちな「無駄」が実は人間っぽさであったり、私っぽさなのだと最近思う。
無駄な物、無駄な時間、無駄な言葉、いろいろあるけれどそれは言い方を変えれば、
「隙間」、「余白」、「余韻」などとすることが出来るのではないだろうか。
それらはガチガチに管理された社会の中でクッションのような役割を果たす重要な要素だ。
そういう意味では、社会では仕事ができる人と同じくらい仕事ができない人も重要な役割を果たしていると言える。
偉そうに「無駄」という言葉を使うのは改めよう。
「当たり前」の中にある傲慢さをもう少し和らげる事ができたらいいなと思う今日この頃。
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