作中、鷺は画面の端々にありふれた風景の一つとして描かれていますが、強く印象に残るシーンが二つあります。
水原哲さんの手帳に描いた鷺、そして空襲の中で突然あらわれた鷺。
物語の中盤、納屋で水原さんと一夜を過ごした折り、彼からオミヤゲで貰った鳥の羽をペンにして鷺を描きます。
この時すずさんは苦戦し「どうもいけん...思うたようにうまく描けん...」と独り言ちる。
側で見ていた水原さんは、上手く描けないのは生活に追われて絵どころでは無くなり下手になっているのだと勘違いします。
でもここ「思うたようにうまく描けん」のセリフ、原作では「しばらく見んけぇね」と言っているんです。
つまりすずさんは絵を描くこと自体が下手になっているのではなく、記憶の薄れで鷺がどんな形をした鳥だったかわからなくなっている...原作にある「しばらく見んけぇね」をあえて隠しているんです。
鷺は海辺に生息する鳥で、灰ヶ峰中腹に位置する北條家で目にすることはなく、すずさんも記憶が薄れている...つまり、この時点で故郷・広島江波への想いは薄れ、かなり呉という地域に馴染んできている気持ちを表現していると感じます。
その対極なのが、空襲時に現れた鷺。
この鷺、すずさんの頭上にピッタリ軸線をあわせ、唐突に出現します。
そして他のどのシーンに描かれている鷺よりも驚くほどリアルに、爪の先までディテールアップされて表現されています。
ところがこれを原作でどう描かれているかというと...。
何か異様に淡泊に表現されているのです...。
これについて「公式アートブック」に解説があります。
鷺は、別紙に鉛筆で書いたものをコピーし原稿に切り貼りしている。
該当する「別紙」には鷺の飛ぶ姿を真横・真上・真後ろに、そして脚の細かな描写が並べて描いてある...これを見た時、まるで資料のような三面図みたいだなと感じました。
三面図...片渕さんも同じように感じたのではないか?映画で表現されたのは写実的な鷺...まるで3DCGで作成されたかのような正確な描写で。
ここでも三面図的な描写を隠し、そのままではなく、それを元に生成されたかのような鷺にしている。
前述したように、鷺が山の中腹のような高所に出現することはないと言われますし、映画でも見ているのはすずさんだけです。つまり今まで少しずつ呉に馴染み、鷺(=広島江波)の記憶が薄れていたものが、戦災による苦しみと悲しみで炙られた結果、超現実な像を結び、あたかもゴーグルを装着している本人にしか見えないヴァーチャル・リアリティーのように出現したと想わせているように見せていると。
要するに呉において自分の居場所が完全に失われたと感じ限界を越えてしまった瞬間、急速に望郷の濃度が振り切ったことを象徴的に描いているのではないか...この後に周作さんに「広島に帰る」と口走るシーンへの無理なく繋がるキッカケにもなっています。
下手に描かれた鷺、そして写実的な鷺の対比...片渕さんの演出家としてのアレンジの妙技。
単に原作のまんま忠実ではなく、映像化する意義を考えに考え抜いた一端と...あらためて凄味を感じた次第です。
水原哲さんの手帳に描いた鷺、そして空襲の中で突然あらわれた鷺。
物語の中盤、納屋で水原さんと一夜を過ごした折り、彼からオミヤゲで貰った鳥の羽をペンにして鷺を描きます。
この時すずさんは苦戦し「どうもいけん...思うたようにうまく描けん...」と独り言ちる。
側で見ていた水原さんは、上手く描けないのは生活に追われて絵どころでは無くなり下手になっているのだと勘違いします。
でもここ「思うたようにうまく描けん」のセリフ、原作では「しばらく見んけぇね」と言っているんです。
つまりすずさんは絵を描くこと自体が下手になっているのではなく、記憶の薄れで鷺がどんな形をした鳥だったかわからなくなっている...原作にある「しばらく見んけぇね」をあえて隠しているんです。
鷺は海辺に生息する鳥で、灰ヶ峰中腹に位置する北條家で目にすることはなく、すずさんも記憶が薄れている...つまり、この時点で故郷・広島江波への想いは薄れ、かなり呉という地域に馴染んできている気持ちを表現していると感じます。
その対極なのが、空襲時に現れた鷺。
この鷺、すずさんの頭上にピッタリ軸線をあわせ、唐突に出現します。
そして他のどのシーンに描かれている鷺よりも驚くほどリアルに、爪の先までディテールアップされて表現されています。
ところがこれを原作でどう描かれているかというと...。
何か異様に淡泊に表現されているのです...。
これについて「公式アートブック」に解説があります。
鷺は、別紙に鉛筆で書いたものをコピーし原稿に切り貼りしている。
該当する「別紙」には鷺の飛ぶ姿を真横・真上・真後ろに、そして脚の細かな描写が並べて描いてある...これを見た時、まるで資料のような三面図みたいだなと感じました。
三面図...片渕さんも同じように感じたのではないか?映画で表現されたのは写実的な鷺...まるで3DCGで作成されたかのような正確な描写で。
ここでも三面図的な描写を隠し、そのままではなく、それを元に生成されたかのような鷺にしている。
前述したように、鷺が山の中腹のような高所に出現することはないと言われますし、映画でも見ているのはすずさんだけです。つまり今まで少しずつ呉に馴染み、鷺(=広島江波)の記憶が薄れていたものが、戦災による苦しみと悲しみで炙られた結果、超現実な像を結び、あたかもゴーグルを装着している本人にしか見えないヴァーチャル・リアリティーのように出現したと想わせているように見せていると。
要するに呉において自分の居場所が完全に失われたと感じ限界を越えてしまった瞬間、急速に望郷の濃度が振り切ったことを象徴的に描いているのではないか...この後に周作さんに「広島に帰る」と口走るシーンへの無理なく繋がるキッカケにもなっています。
下手に描かれた鷺、そして写実的な鷺の対比...片渕さんの演出家としてのアレンジの妙技。
単に原作のまんま忠実ではなく、映像化する意義を考えに考え抜いた一端と...あらためて凄味を感じた次第です。