こんにちはタッキーです。
気づけば3月です。なんと!「歪んで見える愛」公演まで2週間切っているではありませんか!今回はなかなか前途多難でして、最低限それなりのものとして出来上がるのか心配なのですが、自分にできるベターな芝居をできるよう頑張ります(しかし後何回稽古できるのか・・・小道具も作らないと・・・)。
さて、今日はひとつ、最近私がふと思った疑問について話しましょう。
それはずばり、「感情をこめる」の正体は何か、です。同じシーンの芝居をして、「心がこもっている」、「心がこもっていない」と二分して考えるとしましょう。ですが、その分別の根拠はどのように求められるのでしょうか。演者の内面で、「心をこめて、心をこめて、心をこめて」と演技したとして、みている側が受け取るのはあくまで、その演技として外面に表出された部分だと思います。心がこもっている、こもっていないの違い、それはどこにあるのか。そして、それを抽象的なものとせず、具体的なものとして捉えることはできないだろうか、というのが私の問いです。ここで、具体的というのは、例えば、表情筋の違い、目線の違い、発声の違い、眉間のしわの寄り方、動きの自然さ、等のように身体が表す諸々の所作のことです。「空気」とか「雰囲気」とかにも同種の問題をあてはめることができるのではないでしょうか。楽しい雰囲気、重い空気、「あの人が出ると空気が変わる」、等々、何かと使われている言葉だと思いますが、そこで言う空気や雰囲気を、私たちがそのように受け取るのはなぜでしょうか。「何かが違う」と言うとき、その何かとは?そして、芝居に立ち返ってみたとき、そこで肝となるのは、演者が「心をこめた」内面と、実際に表現される身体的外面とをどのように接続していくか、なのではないか。
演劇を通して、私はこのような疑問や考えが浮かんできました。私はお芝居の素人ですし、専門的な勉強もしていないので、的外れな話であるのかもしれません。ですが、「心をこめる」とか「雰囲気」とか、そういった抽象的な事柄の正体が何なのか。皆さんも気にはなりませんか?
では、稽古の回数もわずかですが、頑張っていきたいと思います。それでは。