通販や個人売買が拡がり、コロナ禍が拍車を掛け、いまや物流は人手不足で社会の大きな課題になりました。アマゾンがスピード配達の実現の為に真夜中でも配達する一方、郵便局は荷物が届くまでの時間が長く掛かるようになりました。配達効率を上げる為に「置配」という手法が導入されたり、自然災害によって物流の大切さが見直されたり、社会インフラとして今後はより重要な位置づけになるでしょう。
ここは昭和30年代終わりの「梅田貨物駅」です。「梅田北ヤード」とも呼ばれていました。ご存知の無い方も多いと思いますが、普通の人が出入りする場所ではありませんでしたし、今はもう消えてしまった場所です。
昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長期にあって、貨物輸送量は大幅に増加。鉄道による貨物輸送に代わって、トラック輸送がシェアを拡大しました。その最中、梅田貨物駅は昭和3年(1928年)に、大阪駅・貨物取扱所を独立させるかたちで開業。大阪駅と同一駅の扱いでした。
これは2011年の梅田貨物駅。 駅敷地の再開発計画に伴い、2013年3月16日のダイヤ改正より、梅田貨物駅の機能は関西本線百済駅(百済貨物ターミナル駅に改称)と、東海道本線吹田操車場跡地に新設された吹田貨物ターミナル駅に移転され、同月末日をもって廃止されました。
高知県から出て来た親父は、今はもう無いホテルプラザや大阪タワーの近くの運送会社に就職、この梅田貨物駅に出入りをしていました。小さかった僕は、時々親父のトラックの助手席に乗り、この駅は勿論、ダイハツ工業の中に入って車が組み立てられるライン等、普通の子供が見れない光景を見たものです。3歳~4歳の僕にとっては、大きなトラックの助手席に、まさに登るのが一苦労だったのを覚えています。
梅田貨物駅の広大な敷地を再開発すべきとの声は1960年代からありましたが、当時は鉄道貨物の全盛期であり、国鉄が撤去に応じることはありませんでした。しかし、70年代に入ると鉄道貨物の輸送量が急減し、昭和50年(1975年)度末の国鉄の累積赤字が3兆円を超えると、状況が変わって広大な敷地が徐々に民間に売却されました。
JR大阪駅周辺はこの跡地も含め、広大な土地が再開発を待っています。土地の値段が高いこともあり、この再開発計画は一体いつになったら終わるのか、誰も想像が出来ません。
かつては地盤沈下に悩み、大きな池もあった中津から梅田に至る場所には、梅田スカイビルやグランフロント大阪、百貨店やホテルも立ち並び、大阪駅も建て直されましたが、まだまだ手付かずの土地が開発を待っています。いつどのような姿になるのか、僕が生きている間に再開発の仕上がることはありませんが、未来への社会に役立つ「昭和の遺産」として活用されて欲しいと願っています。