☆『ラブれたーずfrom中野』第3弾です。
興味深い分析が続きます。お友達のKさんが、アニメに出てくる仮面ライダーの必殺技=暴力より秘密のアッコちゃんのミラクルパワー=非暴力に共感を覚えたというお話は、特に。ゲイの方たちがみんなというわけではないのでしょうが・・こんなところにも個人差はありますよね。それを「男の子はやっぱり仮面ライダー!女の子はアッコちゃん!でしょう」と思い込んでしまうのが,社会の趨勢ですね。思い返してみると私の息子は仮面ライダーを好んでいなかったようでしたが、それでも、私も「男の子はブルー、女の子はピンク!」と信じて疑わなかった母親の一人でした。ちょっと考えればそんなわけないことぐらいわかりそうなものなのですが・・子育て中には考えもしませんでした。個性が大事・・とか言いながら・・。知らないということは哀れですよね。まったく早く教えてくれればよかったのに!!・・とまあこんな親は多いはず!だから早くみんなに教えてあげましょう。
前置きが長くなりましたが、桑島さんの自己分析、どうぞお読み下さい。おもしろいです!!
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『僕の受けた性教育?』
虹色のみなさん、今回は「性」教育の話をしますが、「赤ちゃんはどうしたら…」の性教育や僕の〈性体験〉を語る(泣)のでは無いことを最初にお断りして置きます。僕の受けた〈男「性」〉教育についてお話したいのです。
まず僕は「健太郎」という名前をもらいました。健康と長男の意味を持つ男性の名前です。家族や親戚は僕を「健ちゃん」とか「健坊」と呼びましたが、僕は違和感も抵抗感もなく「健太郎」及びその愛称を受け入れて今日まで来ました。
次に僕はオムツが取れるとパンツとズボンをはかされました。七五三は五歳の時に一回だけで写真屋さんで撮った写真が残ってますが、半ズボンをはいていて金太郎飴を持っています。当時も今日も「男装」?を特に不満はなく受け入れています。今はさすがに半ズボンははきませんが(泣)。
記憶を遡れば幼稚園から一人称は「僕」あるいは「俺」でした。文章を書く場合は「私」を使う場合もありますが、このエッセイの様に「僕」を使うことがほとんどです。そしてこの一人称にも全く違和感はありません。どうも僕は椿姫彩菜さんや上川あやさんや中村中さんの様なトランス(MtF)の方たちではなくいわゆるありふれた男性のようです。さて僕が受けた最大の「男性」教育は男子校に入ったことです。僕は女子では無いことが対外的に立証された訳です。ゲイ友のKと〈在日〉の友人Nと出会ったのはこの男子校でした。中学高校が一緒の私立学校でした。武蔵高校と言います。
男子校は見渡す限り男!男!男!です。現在の武蔵高校は女性の先生方もおられる様ですが、僕が中学2年生14歳だった1980(昭和55)年は教師も生徒もみな男性でした。お兄さんにおじさんにおじいさんです。先輩や先生は僕たちのロールモデルでした。
誤解を恐れずに言えば男子校はホモ社会です。ホモはホモジーニアス=均質・同等の意味です。ノンホモ牛乳のホモのことです。
女性がいないのは寂しくてわびしいのですが、お気楽な世界でもありました。女性に気をつかわなくて(泣)あるいは心を奪われなくて(泣)良かったわけですから。母親を除いて(泣)ですが。僕たちは男同士なので感性や表現がよく似ています。僕はみんな同じ=ホモだと思い込んでいたのです。
しかしゲイ友のKは違っていました。これは最近になって教えてもらったことですが。彼は三人兄弟の真ん中でみな男なのでテレビのチャンネル戦争は起きないはずでした。しかしKはお兄さんと弟さんの視ていたアニメが正直面白くなかったそうです。『ウルトラマン』『仮面ライダー』は視ていて辛かったそうです。善悪がハッキリ分かれていて正義?の味方の主人公が必殺技=暴力!で解決するのについていけないなぁと感じていたそうです。『魔法使いサリー』『秘密のアッコちゃん』の様にミラクルパワー=非暴力で家族や友人の危機を救う物語に強く共感を覚えたそうです。
不思議なことにアニメを視ていて主人公の性と自分の性の不一致はあまり気にしません。男の子も主人公のちびまるこちゃんや岡ひろみの気持ちになって物語を体験しているのだと思いますし、女の子もアムロやクレヨンしんちゃんになりきっているのかもしれません。しかし現実に少年漫画と少女漫画が存在してその描く世界も違う所からは性が違う主人公にはやはり違和感があるのでは?とも思います。主人公の言動や心理に今ひとつ入って行けないと感ずるのがそうです。性差の問題が横たわっているのでしょうか。
物語のテーマや展開を外れて登場人物に恋情をいだくことがあります。Kと僕はここも違いました。
『魔法使いサリーちゃん』で言えばKは家族の前では「僕はカブだよ」と男の子の振りをしてサリーちゃんの心だったそうです。そしてサリーちゃんのお父さんが「好き」だったと僕に教えてくれました。僕はスミレちゃんとサリーちゃんのママに恋情を覚えていました。すみません(泣)。自分自身はよっちゃんの三つ子の弟に投影していたと記憶しています。
今回は自分の話が多く恐縮です。なぜ僕が男性であるという退屈?なお話をしたかと言うとマジョリティである男性社会のホモフォビアについて分析したいからです。僕はフォビアという語は不正確で本当はコンプレックスあるいはアンビバランツを使った方がピッタリくるとの持論を持っています。
次回をお楽しみに。
興味深い分析が続きます。お友達のKさんが、アニメに出てくる仮面ライダーの必殺技=暴力より秘密のアッコちゃんのミラクルパワー=非暴力に共感を覚えたというお話は、特に。ゲイの方たちがみんなというわけではないのでしょうが・・こんなところにも個人差はありますよね。それを「男の子はやっぱり仮面ライダー!女の子はアッコちゃん!でしょう」と思い込んでしまうのが,社会の趨勢ですね。思い返してみると私の息子は仮面ライダーを好んでいなかったようでしたが、それでも、私も「男の子はブルー、女の子はピンク!」と信じて疑わなかった母親の一人でした。ちょっと考えればそんなわけないことぐらいわかりそうなものなのですが・・子育て中には考えもしませんでした。個性が大事・・とか言いながら・・。知らないということは哀れですよね。まったく早く教えてくれればよかったのに!!・・とまあこんな親は多いはず!だから早くみんなに教えてあげましょう。
前置きが長くなりましたが、桑島さんの自己分析、どうぞお読み下さい。おもしろいです!!
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『僕の受けた性教育?』
虹色のみなさん、今回は「性」教育の話をしますが、「赤ちゃんはどうしたら…」の性教育や僕の〈性体験〉を語る(泣)のでは無いことを最初にお断りして置きます。僕の受けた〈男「性」〉教育についてお話したいのです。
まず僕は「健太郎」という名前をもらいました。健康と長男の意味を持つ男性の名前です。家族や親戚は僕を「健ちゃん」とか「健坊」と呼びましたが、僕は違和感も抵抗感もなく「健太郎」及びその愛称を受け入れて今日まで来ました。
次に僕はオムツが取れるとパンツとズボンをはかされました。七五三は五歳の時に一回だけで写真屋さんで撮った写真が残ってますが、半ズボンをはいていて金太郎飴を持っています。当時も今日も「男装」?を特に不満はなく受け入れています。今はさすがに半ズボンははきませんが(泣)。
記憶を遡れば幼稚園から一人称は「僕」あるいは「俺」でした。文章を書く場合は「私」を使う場合もありますが、このエッセイの様に「僕」を使うことがほとんどです。そしてこの一人称にも全く違和感はありません。どうも僕は椿姫彩菜さんや上川あやさんや中村中さんの様なトランス(MtF)の方たちではなくいわゆるありふれた男性のようです。さて僕が受けた最大の「男性」教育は男子校に入ったことです。僕は女子では無いことが対外的に立証された訳です。ゲイ友のKと〈在日〉の友人Nと出会ったのはこの男子校でした。中学高校が一緒の私立学校でした。武蔵高校と言います。
男子校は見渡す限り男!男!男!です。現在の武蔵高校は女性の先生方もおられる様ですが、僕が中学2年生14歳だった1980(昭和55)年は教師も生徒もみな男性でした。お兄さんにおじさんにおじいさんです。先輩や先生は僕たちのロールモデルでした。
誤解を恐れずに言えば男子校はホモ社会です。ホモはホモジーニアス=均質・同等の意味です。ノンホモ牛乳のホモのことです。
女性がいないのは寂しくてわびしいのですが、お気楽な世界でもありました。女性に気をつかわなくて(泣)あるいは心を奪われなくて(泣)良かったわけですから。母親を除いて(泣)ですが。僕たちは男同士なので感性や表現がよく似ています。僕はみんな同じ=ホモだと思い込んでいたのです。
しかしゲイ友のKは違っていました。これは最近になって教えてもらったことですが。彼は三人兄弟の真ん中でみな男なのでテレビのチャンネル戦争は起きないはずでした。しかしKはお兄さんと弟さんの視ていたアニメが正直面白くなかったそうです。『ウルトラマン』『仮面ライダー』は視ていて辛かったそうです。善悪がハッキリ分かれていて正義?の味方の主人公が必殺技=暴力!で解決するのについていけないなぁと感じていたそうです。『魔法使いサリー』『秘密のアッコちゃん』の様にミラクルパワー=非暴力で家族や友人の危機を救う物語に強く共感を覚えたそうです。
不思議なことにアニメを視ていて主人公の性と自分の性の不一致はあまり気にしません。男の子も主人公のちびまるこちゃんや岡ひろみの気持ちになって物語を体験しているのだと思いますし、女の子もアムロやクレヨンしんちゃんになりきっているのかもしれません。しかし現実に少年漫画と少女漫画が存在してその描く世界も違う所からは性が違う主人公にはやはり違和感があるのでは?とも思います。主人公の言動や心理に今ひとつ入って行けないと感ずるのがそうです。性差の問題が横たわっているのでしょうか。
物語のテーマや展開を外れて登場人物に恋情をいだくことがあります。Kと僕はここも違いました。
『魔法使いサリーちゃん』で言えばKは家族の前では「僕はカブだよ」と男の子の振りをしてサリーちゃんの心だったそうです。そしてサリーちゃんのお父さんが「好き」だったと僕に教えてくれました。僕はスミレちゃんとサリーちゃんのママに恋情を覚えていました。すみません(泣)。自分自身はよっちゃんの三つ子の弟に投影していたと記憶しています。
今回は自分の話が多く恐縮です。なぜ僕が男性であるという退屈?なお話をしたかと言うとマジョリティである男性社会のホモフォビアについて分析したいからです。僕はフォビアという語は不正確で本当はコンプレックスあるいはアンビバランツを使った方がピッタリくるとの持論を持っています。
次回をお楽しみに。