2020年10月17日、NPO法人LGBTの家族と友人をつなぐ会福岡ミーティングと交流会を行いました。
午前のミーティングではとあるビデオを視聴し、その内容について各々が思ったことなどを話し合ったそうです。
私自身が参加できていないので詳細なことはわかりかねますがとても有意義な時間だったみたいです。
こういった場で個人の意見を発信していくという取り組みは常に行っていくべきだと思っています。
セクシャルマイノリティを取り巻く環境は刻一刻と変化をしており、その流れや認識をみなで確認し合うという行為は現代を生きる当事者にとって必ず有益なものとなりうると私は思っています。
午後からの交流会に参加した私ですがあまり目立ちたくないのでおとなしく座っておりました。
しかしタイミングが良かったのか悪かったのか私の存在が少し影響を及ぼすこともあり参加しておいてよかったと思う次第です。
影響を及ぼすなどと傲慢な物言いですが今回に限っては事実かと思われます。
詳しくは書けないので、私がトランスジェンダー当事者であるという事実をここに提示し、あとはみなさまのご想像にお任せします。
昨今の教育現場での取り組みについての話が活発に行われていたように思いました。
トイレのことや身体測定や健康診断なんかですね。
自分が中学生や高校生だった当時のことを思い出してわりと動揺してしまいました。
あれイヤですよね、健康診断の時に効率がいいからと最初から上半身裸にさせられるの。
別に誰が気にしているわけではないのですが自分が気にします。
さらに誰も何も周りは思っていないのに自分の心の中だけが忙しいのもなんかモヤっとした思い出です。
トイレはなんかもうあきらめていました。
どうしようもないですからね。
変に目立ったりするのもイヤでしたし。
なるべく学校ではしない、くらいでしょうか。
今はわりとそういうのなくなっているのかな。
学校に事情を話せば何かしらのアクションを起こしてもらえるみたいですが、高校は私立なんかだと対応が様々なようです。
入学時にしっかりとしたスタンスを示せるかどうかというのも大切なようです。
学校側も『慣れ』のようなものが必要みたいですし、自分が最初の一人になって人柱になるみたいなことは誰しもイヤでしょうが、そういうケースを作ることにも意味があるようです。
するとあとになってまた同じようなケースで入学してくる人間がいても学校側はその対応をしやすくなるのかな、と。
でもやっぱり私だったらイヤです。
学校との交渉でガリガリと精神を削られる青春というのももったいないですし。
さも青春が尊いものであるかのような物言いですが、大切なことはおそらく『若さ』でしょうか。
私の体内の時計はまだ寝台特急レベルのスピードですが、もうちょっと歳を重ねるとこれが新幹線くらいになるそうです。
しかし10代半ばのそれは恐らく各駅停車の鈍行、あるいは西鉄バスか何か。
体感時間が長いのでその中でトイレだの健康診断だので心を痛め続けるのも辛いとは思いませんか?
さてさてではこの問題の終着点について私なりの考えを述べさせていただこうかと思います。
なんのために学校側は性的少数者の声に耳を傾けその対応をしてくれているの?
面倒くさいけどあとでごねられてもことだしとりあえず言うことを聞いとけば不満は出ないだろう、と?
それとも本当に親身になって性的少数者、主にトランスジェンダーの日常を想像してくれている……?
それはその当事者とその周囲の人間にしか知ることができませんが、いずれにしてもその対応は当事者の『未来』をきちんと想定している必要があるのではないでしょうか。
その場しのぎで対応、それも結構です。
仮に私もそんなことが許されていたのならそれだけで満足していたかもしれません。
トイレは職員室の横のを使ってね。
身体測定や健康診断は別室でやろうね。
修学旅行の部屋はどうにか考えようね。(これに関しては実は私は中学の時はなんかしてもらいました、なお自身がトランスジェンダーであることは話していなかったのでかなり強引に。)
こうやって環境が整っていけば当事者が青春に割くリソースの多くを学生の本分とやらにつぎ込むことができるでしょう。
しかし実際はやっぱり自分の中のセクシャリティと葛藤しちゃうのではないかと。
そこのフォローってのは誰ができるわけでもなく、結局は自身の問題として自分の中で消化しないといけないわけです。
でもやはり誰かの助けというのも欲しい。
我がままではあるけれども自分一人の問題を自分一人では解決できない。
今この場では多くの問題が解決されている、しかしここを卒業した先でまた何かに何処かに所属することになる。
そんな時に今度は誰も助けてくれない。
だから厳しいようだけれどこれは当事者自身がちゃんと知っている必要がある。
そして周りの人間はそれを当事者にちゃんと意識させることが必要なのではないかと思います。
学校で学ぶことってのは勉強だけだと私は思っていましたし、実際大学に入学するまではそれでなんの問題もなかったのです。
でも違いました。
とりあえず大学に、なんて考えはよくない。
早く。
一秒でも早く抜け出したい気持ちで高校を卒業したけど、結局何も変わらない。
なぜならしっかりとしたビジョンを描けていなかったから。
想像力に乏しかったから。
周りは何も教えてなんてくれなかった、……なんて言うとちょっといやらしいですね。
まあ要はトイレとかその他セクシャリティが絡む出来事で気を揉む必要がない分、その他のことをしっかりと考えなさいってスタンスでいないとダメなんだと思います。
当事者も周囲の人間も、です。
中学あるいは高校を卒業したとして、勝手に状況が好転するなんてことはあり得ないのですから。
むしろ自分で考えないといけない分きついです。
学生の本分は確かに勉学に励むことにあるのだと思います。
しかしその学びをどこに向けるのか、これをしっかりと考えさせる場でもあるべきなのではないかと。
特にトランスジェンダー当事者なんかは自身はこうありたいと望む姿はあっても、ではそこからどうするのかということまではなかなか想像できないのではないでしょうか。
自我が芽生えた瞬間になりたい姿は想像できてもなりたいものは見当もつかない、そんな感じです。
性自認になんの疑問も持たない人間。
性自認にしか疑問を持てない人間。
この間にはスタート地点からしてかなりの距離差があるように感じます。
結局は性的少数者であろうとなかろうと将来の明確なビジョンってのは描けているに越したことはないのです。
ただ、そのビジョンを描くためのリソースがトイレやらなんやらに割かれてしまうのは避けるべき。
そのための学校側の措置。
この認識を両者の間できちんと持っておく。
するとその他無数に出てくるであろうセクシャリティ絡みの出来事への対応にも、自ずと答えが出てくるのではないでしょうか。
とりあえずやってみるのも悪くはありません。
大歓迎です。
でもやる意味や意義を考えることも必要なのではないかと思います。
そんなことをぐるぐると考えつつ皆さんの話に耳を傾けておりましたとさ。
当時のことを思いだすだけでまだ心臓がバクバクするのに自分で驚きました。
まだまだ功夫が足りないようです。