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+ 金木犀の香る頃・・・ 政教一致の根拠~ 「民主主義といえども神と法の下にあり」

2009年11月02日 21時18分40秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 金木犀  流れ星とや  散りにけり

     中村 梅士 Baishi 

 

 

 

 

 金木犀の香りがふっと香ってその花を垣間見たが、また後

でと思って通り過ぎた。

 その数日後、心の準備もなく、父が息を引き取った。

 それから十日が過ぎて、金木犀をさがしたが、花はもう、

何処にもなかった。

 

 また後で、と思っていた父へのサービスができなかったよ

うに、金木犀も終わってしまった。

 母は、一人、テーブルの上に父の遺影を置いていた。

 写真の前でお茶を飲んだり、食事をしたりしているらしい。

 

 久しぶりに教会の礼拝を待合室で聞いていた。

 11月1日の日曜日は、聖餐式だった。

 パンと葡萄酒が振舞われた。

 

 洗礼を受けている自分もそれを受ける資格があったが、違

和感があって受けなかった。

 

 キリスト教は異教ではないが、もはや自分の信仰の核心に

はないということを実感する待合室であった。

 その儀式も説教も、古いのである。

 リアリティーがないのである。

 

 それでも、アメリカ人の多くが満足している宗教なのでは

あるが、それは幸福の科学をしらないからであろう。

 幸福の科学の思想がいかに高いものであるかを改めて実感

するのである。

 

 

 父は、まだ母と一緒にお茶などを飲んでいるのだろう。

 母の献身なくして父の生活は成り立たなかった。

 母も大変だったが、それが生きる意味だったかもしれない。

 それを失ったとき、母は生きる目的を失ったような空虚感

を味わっているのかももしれない。

 

 しかし、人間の生きがいは、人助けと信仰を深めることに

ある。

 母にとって、信仰とは「神は愛なり」ということに尽きる

といった。

 私も、キリスト教の本質的教えは、「神は愛なり、愛が分

からなければ私を見なさい」という言葉に尽きていると思う。

 

 そのイエスが重罪人として十字架にかけられて処刑された。

 それが究極の愛の姿と思われているが、そうだとしたら、

その愛を有らしめるために信仰者の罪が予定されざるを得な

い。

 そこに悲壮感がある。

 自虐があり、被害妄想がある。

 

 確かにイエスの愛は、許しの愛であったろう。

 しかし、人々に、救世主を処刑させ、弟子たちに裏切りの

言葉をはくところまで追い詰めたことも愛だろうか。

 

 許しの愛を演出するインパクトが2000年も続いたことは事

実であるが、とらわれてはならない悲劇ではないかと思う。

 救世主処刑の悲劇は、愛のインパクトではあっても、愛の

本質ではなからである。

 

 

 

 

 

 

 

政教一致の根拠~ 「民主主義といえども神と法の下にあり」


 兄ちゃんと呼び習わしている従兄弟がいる。

 小さいときからの極貧の生活のために、優秀な頭脳を持ち

合わせていたに関わらず、一種義侠心から高校を中退し、や

がて、建設請負業を立ち上げて一人会社を三十年来やってき

た苦労人である。

 

 会社は個人企業ながら、下請けはやらず、元請のみで身の

丈の商売を続けてきたことは、非凡というべきであろう。

 その人生観はなかなか筋の通った正論であろう。

 だからこそ信頼されて、大不況の時代も仕事を得てきたの

であろう。

 

 しかし、幸福実現党については、宗教が政治に組すること

は危険であるというのが持論であった。

 なぜならば、排他的であり、覇権主義の政治になるからだ

と。

 

 幸福の科学については、創価学会とオウムが引き合いに出

された。

 同類という認識であろう。

 結局は、教養が浅いなあと思わざるを得なかった。

 

 貧乏を克服した勤労も、辛抱の経営も、彼の人格を鍛え、

磨いてきたことは確かだろう。

 しかし、彼にとって、貧乏は自慢話なのだ。

 自慢話の貧乏や苦労というものは、相手を非難する息苦し

さをもっている。

 

 それもまた、貧乏を抱きしめている姿ではないかと思った

ものである。

 

 幸福の科学は排他的な宗教ではない。

 再誕の仏陀による、伝統宗教を統合して生かしめる最高峰

の宗教思想である。

 

 だからこそ、キリスト教徒である自分の信仰と並存して、

むしろ発展した。

 だからこそ、神社神道に親しみ、八百万の神を誇りにもし

ている。

 イスラム教徒に対しても、その敬虔を美しく感じる。

 

 排他的ではなく、それぞれの風化や不足を補って発展せし

める最高度の教えなのである。

 それが、現代の救世の法なのである。

 

 祭政一致が不幸を招く政治スタイルだとしたら、アメリカ

が世界ナンバーワンの国になるはずがないではないか。

 民主主義の当然として政教分離だと思い込んでいる人々が

大半なのであろう。

 しかし、その論理的関係とは何なのか。

 

 『民主主義といえども神と法の下にある』と知るべきであ

る。

 これこそは、現代のマグナカルタである。

 

 人による人の支配こそが、覇権主義に通じている。

 政教分離のまやかしをこそ、警戒するべきである。

 

 

立憲女王国・神聖九州やまとの国

梅士 Baishi

 

 

 

  

 

         

 

 

 

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