大学を卒業してから、もうすぐ50年になる。学園紛争により、卒業が5月末に延期されたため、1970年3月5日から4月2日まで約1ヵ月にわたって、那覇・石垣島・台湾・香港・マカオへの卒業旅行を満喫した。晴海から琉球海運の船で出港したが、海が大荒れで、那覇港到着まで丸3日もかかり、下船後も船揺れの後遺症で暫くフラフラしていた。沖縄には知り合いがいたこともあって、本島内は路線バスで見て回ることにしたが、1日数本しか運行されていなかったので、計画には苦労した。コザ(今の沖縄市)経由で辺士名という田舎町で、知り合いの薬局を紹介してもらい泊めてもらったが、そこから、また路線バスで、最北端の辺戸岬めぐりを行った。本島では、ひめゆりの塔や健児の塔の南部戦跡巡りの他、玉泉洞という新しい鍾乳洞も見学した。1週間ほど本島に滞在した後、那覇から石垣島まで南西航空(今の日本トランスオーシャン航空)のYS11の飛行機に乗ったが、これが生まれて初めて乗った飛行機であった。上空高く飛ぶのではなく、かなり低いところを飛行していたので、美しいサンゴ礁の海を窓から臨み、感動したことを覚えている。キャビンアテンダントが2名乗務していたが、すごい美人に思えた。
石垣島では、川平湾の美しい海の印象が強く残っているが、どこで宿泊したかは記憶にない。また、船で近くにある竹富島に渡り、そこでも1泊した。当時、乗り物は軽トラックが1台あるだけという小さな島で、民宿では、薬草料理をご馳走になったことを覚えている。石垣島からはやはり船で台湾の基隆に向かったが、台湾海峡は、大荒れで有名なところのようで、この船旅は大揺れの連続で、荷物が船室の中で、揺れるたびに移動する始末で、ほとんど全員が船酔い状態であった。
台湾の基隆に上陸したが、これが人生最初の外国訪問である。今では、102か国を訪問しているが、台湾はその1号なので、印象深い。台北では、安くあげるためにYMCAのホテルに宿泊し、観光としては故宮博物館、龍山寺、中正紀念堂等を見て回った後、新北投温泉にも宿泊した。そこから、有名な日月潭の湖にも足を運んだ。その後は、列車に乗って、彰化→台中→台南→高雄へと移動したが、その列車内での中国語による車内アナウンスの美しい響きにうっとりしたことを鮮明に覚えている。これがその後、鄧麗君(テレサ・テン)による美しい中国語の魅力に取りつかれた原点である。日本語と違って、中国語の流れるような旋律の響きの美しさは世界一であると感じた。
台湾滞在中に、日本の歌謡曲が中国語で歌われ、ヒットしていることを知った。そこで、テレサ・テンのことを知り、中国名の鄧麗君の歌うレコードやカセットテープもいっぱい売られていた。いくつかを買って帰ったが、彼女が日本でデビューする4年も前のことである。その時からのオールドファンはあまりいないかも知れない。テレサ・テンの他では、「一路順風」(花笠道中)と「說聲對不起」(女のみち)が流行っていた。「女のみち」は、今でも中国語で歌える唯一の曲である。
高雄から高速列車で台北に戻り、そこから香港にノースウェスト航空機で移動したが、これが2回目の飛行機搭乗で、香港が2番目の外国となった。香港では、ビクトリアピークはじめ定番の市内観光とマカオまで足をのばした。香港から那覇までは、初めて日の丸の飛行機に乗り、那覇から羽田行の帰国便に乗ったのは、よど号ハイジャック事件の翌々日であったので、緊張したことを覚えている。あれから、もう50年、時に流れを痛感する今日この頃である。
石垣島では、川平湾の美しい海の印象が強く残っているが、どこで宿泊したかは記憶にない。また、船で近くにある竹富島に渡り、そこでも1泊した。当時、乗り物は軽トラックが1台あるだけという小さな島で、民宿では、薬草料理をご馳走になったことを覚えている。石垣島からはやはり船で台湾の基隆に向かったが、台湾海峡は、大荒れで有名なところのようで、この船旅は大揺れの連続で、荷物が船室の中で、揺れるたびに移動する始末で、ほとんど全員が船酔い状態であった。
台湾の基隆に上陸したが、これが人生最初の外国訪問である。今では、102か国を訪問しているが、台湾はその1号なので、印象深い。台北では、安くあげるためにYMCAのホテルに宿泊し、観光としては故宮博物館、龍山寺、中正紀念堂等を見て回った後、新北投温泉にも宿泊した。そこから、有名な日月潭の湖にも足を運んだ。その後は、列車に乗って、彰化→台中→台南→高雄へと移動したが、その列車内での中国語による車内アナウンスの美しい響きにうっとりしたことを鮮明に覚えている。これがその後、鄧麗君(テレサ・テン)による美しい中国語の魅力に取りつかれた原点である。日本語と違って、中国語の流れるような旋律の響きの美しさは世界一であると感じた。
台湾滞在中に、日本の歌謡曲が中国語で歌われ、ヒットしていることを知った。そこで、テレサ・テンのことを知り、中国名の鄧麗君の歌うレコードやカセットテープもいっぱい売られていた。いくつかを買って帰ったが、彼女が日本でデビューする4年も前のことである。その時からのオールドファンはあまりいないかも知れない。テレサ・テンの他では、「一路順風」(花笠道中)と「說聲對不起」(女のみち)が流行っていた。「女のみち」は、今でも中国語で歌える唯一の曲である。
高雄から高速列車で台北に戻り、そこから香港にノースウェスト航空機で移動したが、これが2回目の飛行機搭乗で、香港が2番目の外国となった。香港では、ビクトリアピークはじめ定番の市内観光とマカオまで足をのばした。香港から那覇までは、初めて日の丸の飛行機に乗り、那覇から羽田行の帰国便に乗ったのは、よど号ハイジャック事件の翌々日であったので、緊張したことを覚えている。あれから、もう50年、時に流れを痛感する今日この頃である。
旅行アルバム: