ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

マガキガイとシラヒゲウニ

2011年03月25日 | 飲食:飲物・嗜好品

 春の海の幸

 オキナワの偉人である具志堅用高のエピソードで、用高が父親の職業を訊かれ、「海を歩いてます」と答えたという話。本当かどうか、いくら具志堅用高でもそこまで変ではあるまいと私は思うのだが、もしそれが本当だとしても、「海を歩いてます」には一応ちゃんとした理屈はある。
  漁師のことをウチナーグチではウミアッチャーと言う。ウミアッチャーは、和語に直訳すると「海を歩く人」ということになり、用高はそれを答えたのである。が、その意味するところは「海で働いている人」ということ。「海で働いている人」であるから漁師だけでなく、船乗りのことも指す。ちなみに、農夫のことはハルアッチャーと言う。ハルは畑のことで、畑を歩く人、つまり、畑で働く人ということになる。
 漁師という意味では、ウミンチュと言う言葉も使われる。和語に訳せば「海の人」となる。「海人」とも表記される。こちらの方が字面も音の響きもカッコイイ。釣や潮干狩りなど趣味で海の幸を得る人のことは、ウミアッチャーともウミンチュとも言わない。

  ウミアッチャーでもウミンチュでも無い従姉夫婦は、時々釣へ出かけ、年に1、2度、旧暦の3月頃になると潮干狩りにでかける。今年は、彼らの姉妹を含め4人で出かけた。たくさん獲れたという電話があったので見に行った。その日の獲物は大量のシラヒゲウニと十数個のマガキガイ、1個のシャコガイであった。シラヒゲウニとマガキガイは沖縄の海に多く生息しており、毎年お目にかかる。私も獲った経験がある。
 どちらも酒の肴としては上質のものであるが、シラヒゲウニは調理が面倒臭い。殻を割って、中の身をスプーンで剥ぎ取る作業が面倒なのである。それに、その作業をやっていると手が痒くなる。私は面倒臭がり屋なので、シラヒゲウニを見つけても獲ることはしない。マガキガイも調理して、殻から身を取り出してという少し面倒な作業の割には身が小さい。これもまた私は、見つけても獲る気にはならない。食べたい時は、魚屋さんで調理されたものを買うか、居酒屋さんで食べるようにしている。
      
      
 補足
 漁師のことはイユトゥヤーとも言う。イユは魚、トゥヤーは獲る者。
 農夫のことはハルサーとも言う。ハルは畑、サーは「する者」で、畑する者。
 猟師のことはヤマジシトゥヤーと言う。ヤマジシは猪のこと。
 他に、ウミワザ(海業)、ハルワザ(畑業)という言葉もある。

 動物としての詳しい紹介は別項とするが、
 マガキガイは方言名をティラジャーと言い、殻長は6センチほど。
 シラヒゲウニは方言名をガシチャーと言い、殻径10センチ内外。

 記:ガジ丸 2006.8.8 →沖縄の飲食目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


懸命の仕事

2011年03月25日 | 通信-社会・生活

 「一所懸命働きなさい」などと、よく耳にする「懸命」、その文字を見ると、「命を懸ける」となっている。「あー、そういうことだったか」と改めて思い、であれば、そう簡単に使える言葉では無いなと思う。「命を懸けて働く」なんてそう簡単では無い。
 南の島でのんびり育ってきた呑気者の私は、生まれてこのかた、懸命の経験は無い。懸命に勉強したことも、懸命に働いたことも、懸命に遊んだことも無い。趣味としていたギターもテニスも太極拳もお茶も、みなテキトーである。現在、命の糧としている芋作りの畑仕事も「懸命」にはやっていない。「へとへと」になるまでもやらない。せいぜい1日4、5時間の作業で切り上げる。それで収穫できる分が私の食糧だ。「ないるうっぴどぅないる」とは伝統的沖縄精神の一つ、「できる分しかできない」ということ。

  今勤めている職場に、私は命を懸ける気は全く無いのだが、そういう状況に追い込まれそうになることが以前はよくあった。まだ体重が今より10キロも多かった頃、ひどい肩凝りに悩まされていた頃、私はあまり健康的な肉体では無かったと思う。そんな時、真夏の炎天下での肉体労働はとてもきつかった。したたか汗をかき、息を切らし、頭がボーっとして、周りの景色がぼんやりうす暗くなるようなこともあった。
 私は命を懸ける気は全く無いのだが、社長命令でそういう状況に追い込まれていた。もちろん、社長が悪いのでは無く、健康管理のできていない自分が悪いのである。
 仕事に命を懸ける気なんかさらさら無く、また、その能力も無い私は、仕事も遊びも腹六分、努力も苦労も腹六分で生きている。オジサンの日常は芋作って、芋掘って、芋食って、屁をこいているだけ。そんなオジサンの話は、今、どうでもいい。

 私は、原子力発電所の構造についてほとんど知らない。ウランを核反応させて、熱を発生させて、その熱で蒸気を発生させて、蒸気で電気を発生させる、などという当たっているのかどうかもあやふやな、大雑把な認識しか無い。
  原子力発電所がどのようにその安全性を保っているのかもよく知らないのだが、いったん事故が起きると大惨事になる可能性があるってことは、チェルノブイリやスリーマイル島の事故を、当時のテレビの報道で観て知っている。チェルノブイリは大惨劇で、漏れた放射能も大量で、多くの人々が被爆し、現在でもなお苦しんでいる人々が多いと聞く。なので、福島の原発事故もすごく気になっている。その収束を強く願っている。
 その収束に、まさに命を懸けて挑んでいる人々がいる。東京電力の職員たちも、消防隊員たちも、自衛隊員たちも皆、懸命の仕事をしている。彼らの働きを観、彼らの話を聞いていると胸がキュンとなる。私が少女だったら、きっと彼らに恋をしたであろう。

 他方、今回の事故で、原子力安全・保安院なる組織があることを私は知った。原子力の安全、保安においては最も中心的な役割を持つ役所なのであろうと、その名前から想像された。ところが、記者会見で事故について説明をしていた最初の頃の担当者には、責任感がまるで感じられなかった。「こんな重大事においてもお役所仕事かよ!」と自分のことは棚に上げて、私はムカついていた。原子力安全・保安院は「原子力安全・不安因」と改名したら良かろうと思った。無駄な役所であることが一目で判る。蓮舫の出番だ。
         
         

 記:2011.3.25 島乃ガジ丸


悲惨の収束は早めに

2011年03月25日 | 通信-社会・生活

 この二週間で私は、おそらく二ヶ月分くらいはテレビを観ている。お陰で、仁科亜希子が38歳で子宮頚癌に罹った、沖縄では一人で食事する子供が全国平均の2倍いる、思いは見えないけど、思いやりは見える、などといったことを覚えてしまった。それと、現官房長官が、首の短い人であることにも気付いてしまった。偉いの官房長官。
 大震災以降、官房長官が現状を説明する記者会見が何度も開かれている。その説明は丁寧であると私には思える。なので、彼の説明の概ねを私は理解できている。
 先週土曜日の午後4時頃にも官房長官の記者会見が開かれた。重要な報告がいくつかあった。原発事故の収束に向けて、注水作戦と、外部電源を引いて冷却装置を動かす作戦があり、どちらも上手く行きそうな計画が構築されつつある、ということと、もう一つ、牛乳とホウレンソウから基準値を超える放射性物質が検出された、ということ。

 放射能汚染が広がるなんて非常に恐ろしいこと。緊急に対策を講じる必要がある。ところが、「牛乳とホウレンソウが売れない、農家が困る。政府は補償するのか?」という質問をする記者がいた。補償は当然だ、何でそんな当たり前のことを訊いて時間を潰すのだろうかと思った。今知りたいのは、「汚染は健康への影響があるのか?どこまで広がっているのか?」などだ。でも、それはまだいい。農家の不安を代弁しているから。
  「総理が『東日本は潰れる』と言ったのは本当か?」なんて質問する記者もいた。この記者は人の言うことを聞かない性格なのか、「そうは聞いていない」という官房長官の答えを無視して、「言ったか言わなかったかを国民は知りたがっている」などと言う。さらに、「総理がそう言ったから東京で水などの買い占めが起きている」とも言う。国民の一人である私はしかし、総理がそう言ったかどうかなんて興味無い。何でそういったくだらない質問をして、一分一秒も無駄にできない今の時間を潰すのか不思議。
 今知りたいのは、「国と総理は原発事故を収拾するためにどう動いているのか?」だ。そういう質問をする普通の記者もちゃんといて、官房長官は解りやすく説明した。「総理が不適切発言をして東京で買い占めが起きた、責任を取れ!」なんてことは、事故が収束して後に言えよ、と思った。もちろんその時には、「総理があんなこと言ったから私は水などを買い占めた」という証拠になる1万人程度の署名も用意して欲しい。

 官房長官と記者たちとのやり取りを観ながら私はイライラしていた。今は必要で無い質問をするし、何度も似たような質問をして、何度も同じ答えを聞かされる。
  何で、同じことを何度も訊いたり、今は必要で無い質問をして時間を潰すのか、を考えてみた。好意的に考えると、マスコミ各社は、多くの記者を被災地へ送って、会見場には若手のペーペーを行かせた。ペーペーは何が重要なのか事態が読めないのだ、余裕が無いので人の話を聞かないのだ。そう思うことで、私はイライラを収めた。 
 イライラは収まったが、翌朝に流れたニュースで、私はまた、少し気分が重くなった。大震災から一週間、テレビでもその情報が無く、ずっと気になっていたリビア情勢、久々のその情報は、多国籍軍がリビアを攻撃しているとのこと。「国が大変な時に他所の国のことなんか」と思う人もいるかもしれないが、日本人もリビアの人も同じ人間。あっちもこっちもいろいろ事情もあるだろうが、悲惨(飛散も)の収束は早めにと願う。
         
         

 記:2011.3.25 島乃ガジ丸