演歌を蔑視する妻が不在。鬼の居ぬ間の演歌三昧。
自分は演歌が好きである。というより、旋律から作者の意図する心情や原風景をイメージする能力が全く無いためにクラシック等は別世界の音の羅列にしか聞こえない。それでも意味不明の言語歌詞ながら一部洋楽は楽しめるのだが、歌=歌詞絶対とする気持ちは揺るがない。かっての宴席で熱く音楽を語る艦長に「音楽なぞ、もともとは文字を持たなかった原始人部族内の通信手段・符牒であり、受け手によって意味が変わるなんてことはあり得ない」と云い放って、「お前にゃ音楽は解らん」と大顰蹙を買った経験がある。
さて、主題の「一、二、三の人生あかり(詞:山田孝雄、曲:蔦将包)」であるが、二番の歌詞にいたく共感したので紹介する(山田さんごめんなさい)。
二 みっつみんなで 歩く時
いつもあの子が びりになる
そこで神様 笛を吹く
止まれ全体 まわれ右
人あかり 情あかり 泪あかり
ー・二・三の 人生あかり
常に落伍者すれすれ・集団の最後尾付近に甘んじている自分に、今まで笛を吹いて「回れ右」を号令してくれる神様は現れなかったし、これからもお出まし下さることは無いだろうが、こんな神様がいるかもしれないと思うと、なにやら「もう少し頑張ってみようか」の気持ちになれる。
演歌は川上音二郎の「オッペケペ節」を始祖とする「演説歌」の短縮形「演歌」とされているが、自分にとっては異説とされる艶歌、怨歌、援歌でも一向に構わない。
園かは、音学的には「ヨナ抜き音階(自分には意味不明)」という日本独独の旋律とされているが、アメリカにはジャズが、フランスにはシャンソンが、ポルトガルにはファドが、ラテンがサルサがレゲエがヨーデルがホーミーが・・・あり、「演歌:ヨナ抜き音階」上等じゃねえか!!と思っている。
とはいううものの、CDショップやレンタル店でも、演歌コーナーは申し訳程度に奥まった場所に・ほんの一角であるのが普通で、無い店すらあることを思えば、演歌大好き人種の末路は明らかであるように思える。
真木ことみさんについても一言。ことみさんは大きなハンデを背負われているが、年に数曲の新譜を出すなど頑張っておられる。
本ブログに登場して頂いたのは、高橋真梨子・吉幾三・大川栄策・都はるみ・ちあきなおみ・松山千春各氏に次いでいるが、今後とも老ファンのために頑張って頂きたいものである。
そういえば、最愛の八代亜紀さんが登場されていないなァ。