電動車いす生活を送る小松千吉さん(65)=仙台市青葉区=は、震災で名古屋市に避難した体験をきっかけに、より重い障害がある人を支援するため働こうと、太白区にある社会福祉法人「ありのまま舎」に就職した。障害者福祉が手厚い名古屋への永住に心が傾きかけたが、「古里のために働こう」と考え直した。ゆくゆくは「自分でヘルパー事業所を運営したい」と夢を膨らませる。
◎ヘルパー事業所新設へ車いすで活動
太白区茂庭台の「太白ありのまま舎」。昨年5月、知人の紹介で職員に採用された小松さんは、訪問介護のヘルパー事業所新設に向けて、書類を作成する業務を担当する。
震災により、主に津波被災地では重度障害者を介護するヘルパーが不足。障害者や家族を対象にした相談機能も充実させなければならない。6月、宮城県亘理町にありのまま舎が開設した相談支援センターの設立にも携わった。
<名古屋が契機>
「私はポリオ(小児まひ)で肢体不自由になって左手は動かないけど、もっと重い障害がある人のために働くことができる。こんな当たり前のことに気付いたのは、名古屋に行ったからでした」
震災発生時、小松さんは原因不明の腰椎骨折で名取市内の病院に入院していた。日が落ちたころ、多くの人々が避難してきた。「家が流された」「家族と連絡がつかない」。悲痛な声が聞こえた。布団をかぶって一晩過ごした。
困難は重なる。骨折により介護度が高まったため、一人暮らしをしていたケア付きの県営住宅を出なければいけなくなった。震災の混乱で新たな住居を探すのは不可能だ。
「これからどうすればいいのか」。手を差し伸べたのは、支援のため被災地入りしていた名古屋市の社会福祉法人「AJU自立の家」だった。
震災1週間後の3月18日、名古屋市内にあるAJUの障害者入居施設に入った。「カルチャーショックの連続。障害者自身の考え方が、仙台とはまったく違ったからです」
<セミナー参加>
仙台では障害者はなるべく人の手を借りず、努力して自立することが大切。外出もできる人だけがするという雰囲気だった。
一方、名古屋ではヘルパーを積極利用して社会参加していた。障害者同士が結婚し、ヘルパーの手を借りながら子育てをするケースもあった。障害者が、自分より障害程度が重い人たちのために事業を起こすのも当たり前だった。
「障害者は努力して健常者に近づくべきだと、ずっと思い込んでいた。全く違う生き方が名古屋にはあった」
刺激を受けた小松さんは、AJUが運営するケアタクシー事業所などでの就労体験を通じ、就労施設の在り方を学んだ。障害者の自立支援団体のセミナーにも参加した。
名古屋の暮らしは魅力的だったが、仙台で障害者の潜在的ニーズを掘り起こし、解決する仕事をしようと心に決めた。昨年4月、仙台に戻った。
<力まず生きる>
小松さんは授産施設にいた20歳代のころ、障害者自立運動に携わったことがある。「生活圏拡張運動」。1960年代末、仙台の障害者が全国に先駆け、バリアフリー社会実現のため声を上げたムーブメントだった。
活動を続ける中で、「自分はもっと頑張れる」と信じて授産施設を出て、工場や映画館で働いた。だが、自分を追い込み過ぎて心が擦り切れた。施設に戻ったり、また出たりを繰り返す生活になった。
「『障害者は頑張らなければいけない』という考えから抜け出せなかった。頑張らなくても達成感を得ながら暮らせる環境づくりを、障害者自らがすればいい」
ヘルパー事業所新設のため書類作成業務に当たる小松さん。「還暦を過ぎて新しい生き方を見つけました」と語る=太白ありのまま舎
河北新報-2013年07月06日土曜日
◎ヘルパー事業所新設へ車いすで活動
太白区茂庭台の「太白ありのまま舎」。昨年5月、知人の紹介で職員に採用された小松さんは、訪問介護のヘルパー事業所新設に向けて、書類を作成する業務を担当する。
震災により、主に津波被災地では重度障害者を介護するヘルパーが不足。障害者や家族を対象にした相談機能も充実させなければならない。6月、宮城県亘理町にありのまま舎が開設した相談支援センターの設立にも携わった。
<名古屋が契機>
「私はポリオ(小児まひ)で肢体不自由になって左手は動かないけど、もっと重い障害がある人のために働くことができる。こんな当たり前のことに気付いたのは、名古屋に行ったからでした」
震災発生時、小松さんは原因不明の腰椎骨折で名取市内の病院に入院していた。日が落ちたころ、多くの人々が避難してきた。「家が流された」「家族と連絡がつかない」。悲痛な声が聞こえた。布団をかぶって一晩過ごした。
困難は重なる。骨折により介護度が高まったため、一人暮らしをしていたケア付きの県営住宅を出なければいけなくなった。震災の混乱で新たな住居を探すのは不可能だ。
「これからどうすればいいのか」。手を差し伸べたのは、支援のため被災地入りしていた名古屋市の社会福祉法人「AJU自立の家」だった。
震災1週間後の3月18日、名古屋市内にあるAJUの障害者入居施設に入った。「カルチャーショックの連続。障害者自身の考え方が、仙台とはまったく違ったからです」
<セミナー参加>
仙台では障害者はなるべく人の手を借りず、努力して自立することが大切。外出もできる人だけがするという雰囲気だった。
一方、名古屋ではヘルパーを積極利用して社会参加していた。障害者同士が結婚し、ヘルパーの手を借りながら子育てをするケースもあった。障害者が、自分より障害程度が重い人たちのために事業を起こすのも当たり前だった。
「障害者は努力して健常者に近づくべきだと、ずっと思い込んでいた。全く違う生き方が名古屋にはあった」
刺激を受けた小松さんは、AJUが運営するケアタクシー事業所などでの就労体験を通じ、就労施設の在り方を学んだ。障害者の自立支援団体のセミナーにも参加した。
名古屋の暮らしは魅力的だったが、仙台で障害者の潜在的ニーズを掘り起こし、解決する仕事をしようと心に決めた。昨年4月、仙台に戻った。
<力まず生きる>
小松さんは授産施設にいた20歳代のころ、障害者自立運動に携わったことがある。「生活圏拡張運動」。1960年代末、仙台の障害者が全国に先駆け、バリアフリー社会実現のため声を上げたムーブメントだった。
活動を続ける中で、「自分はもっと頑張れる」と信じて授産施設を出て、工場や映画館で働いた。だが、自分を追い込み過ぎて心が擦り切れた。施設に戻ったり、また出たりを繰り返す生活になった。
「『障害者は頑張らなければいけない』という考えから抜け出せなかった。頑張らなくても達成感を得ながら暮らせる環境づくりを、障害者自らがすればいい」
ヘルパー事業所新設のため書類作成業務に当たる小松さん。「還暦を過ぎて新しい生き方を見つけました」と語る=太白ありのまま舎
河北新報-2013年07月06日土曜日