日本の障害者にとって歴史的な前進だ。障害者権利条約を結ぶ政府案が先の国会で認められた。健常者と分け隔てられることなく生きる権利を守る国際ルール。画餅に帰さぬよう魂を吹き込みたい。
二〇〇六年に国連総会で採択された今世紀初の人権条約だ。障害者への差別をなくし、社会参加を支えるよう締約国は求められる。
すでに約百四十カ国・機関が批准済みだ。日本は〇七年に署名したものの、国内法の整備を優先させてきた。
「障害は個人の側ではなく、社会の側にある」。条約の考え方を平たく表現すればそういうことだ。旧来の紋切り型の障害の捉え方は大きな転換を迫られる。
想像してみよう。建物の玄関に車いすの人がいる。目の前には階段があって中に入れない。
かわいそうだが、自力で歩けるよう足腰の治療に専念し、訓練を重ねるほか手だてはない。障害は自己責任なのだから。同情心や哀れみを覚える人も多いだろう。
でも、これからは意識を変える必要がある。車いすの人の出入りが困難なのは足腰が不自由だからではない。階段があるからだ。周りの思いやりや良心より前に、建物の責任こそが問われるのだ。
責任者はスロープを設けるなり、介助するなりして車いすの移動の自由を担保せねばならない。締め出すのはもちろん、お金や人手を十分賄えるのに放置するのも差別とされ、人権侵害になる。
健常者の利益ばかりに目を向ける社会の仕組みを見直させ、障害者の利益を等しく確保する。端的に言えば、それが条約の効力だ。
改正障害者基本法をはじめ国内法には、曲がりなりにも条約の理念が反映された。一六年に施行される障害者差別解消法は、その具体的なルールとして重要だ。
好きな地域に住み、健常者と共に学校で学び、職場で働く。余暇を楽しみ、選挙で投票し、災害から逃げる。自立して暮らすには要望に応じた手助けが欠かせない。
手話や点字、介添えやスロープなどは、障害者にとってまさに命綱そのものだ。その提供を怠るのは原則として許されない。
ルールが定着するまで前途は多難だろう。なにが差別かを人々が理解することが出発点となる。現場を見守り、紛争を解決する体制づくりも進めねばならない。
日本は世界最速の高齢化に直面している。不自由を抱える人々も増えるだろう。障害の有無を超えて支え合う社会を目指したい。
東京新聞-2013年12月17日