春分の日も近づき、いよいよ春のおとずれといった感じですね。障害の特性上、寒くなると筋肉が硬くなってしまうので、暖かい季節が心から待ち遠しいものです。
パラリンピックの熱き闘いが幕をおろしました。アルペンスキーでは狩野亮選手が堂々の金メダルを獲得し、さらにバイアスロン男子では鈴木猛史選手が銅メダルに輝くなど、本当にたくさんの選手が活躍してくれました。日本だけでなく、全身全霊で勇姿を見せてくれたすべての国の選手に、心からの拍手を!
今回のタイトルは、「障害者という記号」。いささか抽象的なテーマになってしまいました。
あらためて言うまでもなく、僕は障害者です。生まれつき障害を抱えた人間として、26年あまりの時間を過ごしてきました。僕自身、障害者と呼ばれることについて何ら抵抗はありません。だからこそ、時代の流れに半ば逆行するかたちで、あえて(障害)という表記を使いつづけてきました。障害者と呼ばれることをかたくなに拒絶することは、自分の障害から目をそむけるのと同じ意味だと考えるからです。
(参考 : アピタルなび 「障害? 障がい? 障碍?」)
僕自身は今のところ、障害というワードをあまり意識せずに生活しています。健常者への過剰なライバル心もありませんし、障害者であることを必要以上に卑下する気持ちもありません。それはきっと、幼い頃から健常者と自然に触れ合ってきた経験や、両親の教育方針のおかげだと思います。
世間一般にはまだ、(障害者)というだけで無条件にひと括りにしてしまう風潮があるようです。そのことを痛感するのは、ニュースなど、自分の手の届かないかたちで(障害者)が取り上げられるのを目にした時です。
古い話題を蒸し返すようで恐縮なのですが、昨年夏から秋にかけて、某有名女優の舞台降板騒動がワイドショーを賑わせました。上演作品の原案者の女性が身体障害を抱えていたこともあり、このニュースはもともとの内容以上にセンセーショナルに取り上げられました。
また最近では、十数年間にわたり、知人が作曲した楽曲を自分の作品として演奏・収録していた音楽家のニュースもありました。彼はのちの記者会見で自身が低音性難聴であることを繰り返し訴え、さらなる反論の姿勢を見せています。
ふたつのケースに共通するのは、(障害)というキーワードです。
少しだけ、角度を変えて考えてみましょう。もしも、ふたつのニュースに(障害)という要素が絡んでこなかったら、ここまで大々的に取り上げられていたでしょうか。最初のケースにしても、原案者が障害を持っていなければ、単純に主演女優のよくある降板劇で終わっていたかもしれませんし、各局のワイドショーを連日のように賑わせることもなかったでしょう。
音楽家の一件も同様です。もちろん、ゴーストライターの存在を隠していたことは明らかに問題ですし、倫理的な責任を問われるべき事柄です。しかしながら、ニュースの真相が徐々に明らかになるにつれ、批判の力点が(ゴーストライター隠し)よりも、(聴覚障害者になりすましたという疑惑)に移っていったように思えてならないのです。
世間にとって、(障害者)はひとつの記号なのではないかと、僕は考えるようになりました。記号には、特定のイメージが必要です。「障害者という記号」につきまとうイメージとは、一体何なのでしょうか。
一言で表すなら、それは(善)なのではないかと、僕は思っています。
障害者は優等生
障害者は頑張り屋
障害者はいつも前向き
障害者は笑顔
障害者は純粋
障害者は素直
障害者は頭がいい
障害者は苦労人
障害者は明るい
障害者は人に好かれる
以上がテレビなどでよく伝えられる、(表向きの障害者像)です。これらのイメージをひとつに凝縮すると、善、という言葉になるのではないでしょうか。
もちろん、これらのイメージが似合う障害者も大勢います。パラリンピックなどで日本の代表として活躍している選手の方々は皆、僕なんかは足もとにも及ばないくらい努力家で、精一杯頑張ってほしいと思います。けれど、障害者も人間です。善人、と単純にひと括りにできる人はいませんよね。ひとりの人間の中にも善と悪が共存し、微妙なバランスを保っている。
僕自身は、先ほど挙げたイメージからはずれた障害者を否定する気にはなれません。そもそも、それらは世間が勝手につくりあげた虚像であって、それに無理やり合わせる必要はありませんよね。
また、はた目には本当に根っからの努力家で前向きに見える人でも、自分自身ではそのイメージを窮屈に感じ、(本当の自分はそうじゃない!)と悩んでいる場合が多いものです。
勇気を出して直接訴えたところで、打ち明ける人を間違えれば、(そういうところも頑張り屋さんなのね)などとふわっとした言葉を押しつけられ、かえって何も言えなくなってしまう。本当の自分を理解してもらえないことほど、辛いものはありません。
ではなぜ、(障害者という記号)がこれほどまでに浸透してしまったのでしょうか。
それは、便利だからです。(どんな時でも清廉潔白な存在)という役割を障害者に背負わせておけば、自分たちはつねに安全地帯にいられて、社会のいやな部分からも目をそむけることができる。だからこそ、そのイメージから少しでもはずれた行動を取る障害者を自分勝手だと過剰に批判し、その反動として、障害者はつねに守られるべきだという極端な論調が出てくる。
エネルギーの方向性は違いますが、障害者の実像を理解していない(理解しようとしない)点において、ふたつの心理は共通しているのです。
立石芳樹という男が努力家というイメージが到底そぐわない、わがままで世間知らずな人間であることは、僕と半日間じっくり関わればすぐにわかります。
外出ボランティアというかたちで関わってくれている学生さんは、誰一人として僕のことを努力家とは言いません。それは照れ隠しでも何でもなく、僕という人間の弱い部分をきちんと見ようとしてくれているからです。かぎられた時間の中でこれだけ密度の濃い関係性を築いてこられたことを、僕は誇りに思います。
(仮面をつけて生きるのは、息苦しくてしょうがない)
ザ・ブルーハーツの曲の一節です。障害者というのが記号であり仮面だとしたら、いつどうやって脱ぎ捨てるべきなのか。お仕着せの人生はうんざりだ。けなされても非難されてもいいから人間臭く、人間らしく生きるんだ……。日本にも、ようやくその波がおとずれつつあるようです。当事者の声を無視して、真のノーマライゼーションはあり得ません。
もっと、知ってください。目の前の障害者を、ありのままに理解しようとしてください。何も知らなくて不安だから、ありきたりなイメージに頼って接してしまうのです。
障害者が積極的に外に出る
↓
障害者のイメージが変わる
↓
障害者がもっと外に出やすくなる
このプラスの循環をもっと広げるために、僕はこれからも障害について語ります。
ツイッターのハッシュタグは、
#晴れのちSunnyday
です。御意見・御感想、お待ちしています!
立石芳樹 (たていし・よしき)
1988年、神奈川県生まれ。生まれてすぐに脳性マヒ(CP)と診断される。中学校の頃から本格的に創作活動を始める。専門はショートショート。趣味は読書と将棋。ツイッター(@dupan216)も始めました。座右の銘は「一日一笑」。
・ より良い世界へ希望を込めて アピタルコラムの筆者、立石芳樹さん