──附属病院の新築・移転計画がいよいよ動き出します。
「本学が目指す国際口腔歯科医療機関に相応しい機能を備えた新病院を2017年4月にフルオープンさせる予定です=左下イメージ。横須賀市の中心部にある『小川町駐車場』の敷地の取得がほぼ決定しました。契約等がまとまり次第、解体工事に着手します。12階建ての建物は既存施設の約2倍の大きさ。16号線沿いに正面玄関を設けます。医師・看護師の育成や医療技術の研究といった役割だけでなく、一般の歯科診療も今まで以上に充実させます。口腔と全身を横断的に診察できる優秀なドクターを招へいするほか、高齢者対応として訪問歯科診療(歯科往診)やアンチエイジング治療なども手掛けていきます。新病院のもうひとつ大きな役割として、障害者や児童養護施設退所者の社会参加を後押しするような喫茶サロンを併設します。雇用の場として機能させながら、児童養護施設の退所者が進学できる支援の仕組みを設けたいと考えています。既存施設の跡地には将来、1000人収容できるホールを建設する構想で、こちらも地域の活性化に寄与していきます」
──「戦略的大学連携事業」に取り組んでいます。
「福岡歯科大を筆頭に8つの歯科系大学が連携しながら得意とする分野のデータ交換などを行っています。今月10日には、歯周病と全身疾患の関係性や生活習慣病対策をテーマにした講演を行います。大学連携で言えば、私自身は「文医融合」の教育に注目しています。つまり、宗教学や民俗学、国際関係学、比較人類学などの文系科目を、医療を志す人に学んでもらうのです。本学では現在、アジア圏を中心とした留学生が1割強となっています。その比率をこの先、2割まで高めていく方針であります。将来、彼らをアジア各国の研究機関などに送り込んでいく。そうした際に、相手(国)のアイデンティティや文化を理解して議論できる人材でなくてはなりません。歯科の専門分野だけでなく、横断的な教養が必要となります。これを実現するための拠点として本学のサテライトをシンガポールに置くことも構想しています。国内では18歳人口が減少の一途をたどっていますが、広くアジアに目を向ければ人口は増加しています。日本の少子化を危惧していません。本学の未来を戦略的に想定して行動しなければなりません。先の新病院の開設を含め、100年後の価値を今(いま)創造するのです」
──構内に咲くジャカランダの花が多くの人の知るところになりました。
「初夏の風物詩として定着しました。開花期間中、毎年3000人もの人出があります。昨年は初めて「ジャカランダ祭り」を開催し、好評でした。こうした施設開放や公開講座、教養セミナーを今年も積極的に行っていきます。常に地域に開いた大学でありたいと思っています」
■神奈川歯科大学/横須賀市稲岡町82/【電話】046・822・8751(総務課)
【URL】http://www.kdu.ac.jp/
神奈川県に住む30代の会社員、寺田智美の朝は、決まって目の回るような忙しさから始まる。
平成26年12月。空に夜の気配が残る午前5時半に起き、小学2年の長女、梓(8)と自分の弁当作りに取りかかった。アニメキャラクターをかたどる「キャラ弁」とまではいかないが、手は抜きたくない。30代の夫の毅と梓を見送った後、自転車で次女の藍(3)を保育園まで送り届けて、ようやく出勤だ。
努力家だが少しルーズな梓、まだトイレがうまくできない藍。手を焼くこともあるが、梓が月に3、4通くれる手紙を読むと、心がほどける。
「ママへ。だいすき。長いきしてね」
かつて「普通の家族」をどれほど渇望しただろう。家族を裏切った父、子供の私を放置した母…。
智美が児童虐待の一つ、育児放棄を意味する「ネグレクト」という言葉を知ったのは、22年7月末。大阪市で3歳の女児と1歳の男児の遺体が見つかったことを伝えるテレビニュースを目にしたことがきっかけだった。後に殺人罪で有罪が確定した20代の母親は同年6月上旬、自宅に2人を閉じ込めて外出。2人は同月下旬に餓死した。
「これだ」。自分もネグレクトを受けていたと、智美が認識した瞬間だった。今の家族は、置き去りにされた部屋で孤独に耐え、涙した幾つもの夜を経て、やっと手にした「宝物」だ。
普通じゃない
父の敏夫は営業職に就いていたが、給料を酒とパチンコにつぎ込んでいた。智美が物心つく頃には、母の美幸が夜、飲食店で働き、生計を支えていた。
智美が6歳になる頃、父に愛人がいることが分かった。父は相変わらず家に生活費を入れなかったが、母は離婚しなかった。智美の2つ上の兄、宏は知的障害者だった。「あんな父でも兄のために必要だと考えたんだと思う」。智美は当時の母の心情を推し量る。
寺田智美さん(仮名)が長女から贈られた手紙。「だいすき」「長いきしてね」という言葉が並ぶ
母は父に「せめて夜だけは家にいるように」と言いつけ、夕食を作り置きしては働きに出た。しかし、父は片付けすら面倒なのか、決まって智美と兄を近くのファミリーレストランへ連れて行った。誰も手をつけない夕食はゴミ箱行きだ。
ビールを飲む父を見ながら、智美が食べるのはいつもハンバーグ。野菜を食べることはほとんどなく、見る間に太っていった。
智美が自分の家庭を「普通ではない」と感じるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
父は食事を与えてはくれたが、頭の洗い方や歯の磨き方、食生活のバランスといったことは何も教えてくれなかった。不在の母に代わり、洋服などの洗濯は父に頼むしかなかったが、放置されることもしばしばで、臭いを気にしながら同じ服を着たこともある。
「普通の親がやってくれることを、自分の親は何もやってくれなかった」
小学校に入学し、プールの授業を前に実施されたギョウ虫検査。同級生に配られた検査結果の用紙には黒い文字が印刷されていたが、智美だけは茶色の文字だった。「なぜだろう」。卵が検出されたのだ。
頭髪のシラミ検査も、同級生は担任が調べるだけなのに、智美は保健室の先生に入念にチェックされ、結局、シラミが見つかった。同級生にうつしてしまい、白い粉の駆除薬をしばらく頭にかけられていた。
「当時は幼いから、恥ずかしいという気持ちまではいたってないけど、なんで自分だけ違うんだろう、とは思っていた。今思うと、恥ずかしいですけど」
中でも、定期的に回ってくる給食当番は気が重かった。洗濯してもらえず汚れたままの白衣を見た同級生に「寺田さんに配(はい)膳(ぜん)されるのは嫌だ」と言われ、牛乳配りばかりしていた。臭くないか、不潔じゃないか。常に人の目を気にするようになった。
小学3年の頃には歯石がたまって歯茎が腫れ、歯周病に。その後も虫歯が7本あることが分かり、現在も痛々しい治療痕が残る。
20年ぶりの夢
父はやがて、夜も週5日は家を抜け出し、愛人の元へ行くようになった。夜中に智美が目を覚ますと、静まり返った一軒家には兄と自分だけだ。
幼い智美はたまらなく不安になり、夜起きては泣き出した。「大丈夫?」。異変を察した近所の人が顔を出してくれることも。「子供をほったらかして親は何してるんだ…」。そんな両親への非難も聞こえた。
「親をかばいたいけど何も言えず耐えていた。自分が親に見捨てられているって思いたくないし、認めたくないから耐えるんです」
小学3年で両親は離婚した。父を残し、智美は母と兄と家を出た。なんとなく、もう父と一緒に住めないことは分かっていた。最後の日の父の記憶はない。
3年前、父方の叔父から父が亡くなったと知らされた。聞けば、離婚後に職を失い、郷里に戻った父は、晩年まで両親の介護に明け暮れていたという。
ふびんに感じた。
ファミレスに連れて行ってくれたこと、家でともに過ごした時間…。無責任だが怒られた記憶のない父には「不思議といい記憶しか残っていない」という。その後、憎しみと愛情がないまぜとなり、多くの葛藤を抱えることになる母への思いとは対照的だ。
実は叔父からの連絡の半年前、20年ぶりに父の夢を見た。「智美」と自分の名を呼ぶ声は、かつての懐かしい記憶のままだった。
「死ぬときのお別れに来たのかな。今となっては最後の日に『元気でね』と話してあげればよかった」。家族の不思議な縁を感じた。
(文中はいずれも仮名、敬称略)
ともに過ごした月日の分だけ、涙があり、笑顔がある。家族って何だろう。人口減少社会を迎えた今、その大切さを伝えたい。時に「鎖」に縛られ、傷つきながらも、新たな「絆」を育もうとする人たち。第1部は「虐待」を乗り越えた2組の家族に焦点を当てる。
児童虐待は23年連続で増加 7万件を突破
児童虐待の相談件数は増加の一途をたどっている。全国の児童相談所(児相)が平成25年度に対応した児童虐待の件数は前年度比で10・6%増の7万3802件。調査を始めた2年度から23年連続で増加しており、初めて7万件を突破した。5年前の約1・7倍、10年前の約2・8倍と増加率も高い。
件数は児相が18歳未満の子供に関する被害連絡を受け「虐待」として対応したもの。社会的な関心の高まりに加え、厚生労働省が25年、虐待を目撃したきょうだいも「心理的虐待」を受けたとして対応するよう通知したことも背景にあるが、虐待そのものも増えているとみられる。
自治体別では大阪府が全国最多(1万716件)。神奈川県(9838件)、東京都(5414件)、千葉県(5374件)、埼玉県(5133件)と続いている。
2015.1.2 産経ニュース
集会所の置き時計がむなしく時を刻んでいた。2014年3月30日、川崎市北部の住宅街に移転を計画する精神障害者のグループホームと、約20人の地区住民の話し合いは平行線のまま、3時間がたとうとしていた。
「原発も安全と言われながら事故が起きた。精神障害者は本当に安全なのか」「社会的地位の高い住民が多い地域に来ないで」
激しく畳みかける住民の言葉に、ホームの青野真美子所長(55)の顔はこわ張った。
同じ町内の老朽化した一軒家から1キロ離れた新築アパートへ移る予定で、工事は終わりかけていた。だが、話し合いからまもなく、さらに大きなショックが待っていた。工事業者から連絡を受け、駆けつけた青野さんの目に飛び込んだのは、10本近いのぼりと横断幕だった。「精神障害者 大量入居 絶対反対」。夕闇の中、赤い文字が揺らめいていた。
炎を拡大させたのは近くに住む女性医師だ。経営する医院のブログに書き込んだ。「精神障害者にも幸せに暮らしてほしいが、まともに働いて税金を納めている人の生活を阻害してはいけない」。医院の受付に反対の署名用紙を置いた。共感は近隣住民から地区内の子供を持つ親へ広がり、署名は1カ月で1000人を超えた。
ホームの職員は動揺した。「入居者を傷つけるだけかもしれない」。撤退を促す意見も出た。青野さんは、入居者たちに反対運動が起きていることを打ち明けた。
「そういうのあると思ったんだ……」。刺し子が得意な60代の女性がうつむいた。
女性は家庭内のストレスから心を病み、10年前に精神科病院に入院した。2年半の入院後、家族と離れホームで暮らすことを決めた。小さな一軒家での共同生活。誰かが熱を出せばみんなでおかゆを作った。やっとたどり着いた穏やかな暮らし。同じ仲間とのきれいな新居での生活も楽しみにしていた。
6月、完成したばかりのアパートで、近隣住民にホームの雰囲気に接して障害への理解を深めてもらうための会が企画される。女性も住民と直接話したいと思って参加したが、誰も来なかった。その時、初めてのぼりを見て、肩を震わせ泣いた。
数日後、ホームを運営するNPOが市内のホールで文化祭を開いた。支援者ら約200人が見守る壇上に、女性はいた。
「あのアパートに住みたいんです。応援お願いします」
仲間に励まされ、小さな体が声を振り絞った。拍手が湧き、やまなくなった。NPOの三橋良子理事(61)は「偏見を一番知っているのは障害者自身。その彼女たちが強さを見せてくれたことがうれしかった」と振り返る。
7月、事態が動いた。NPOを支援してきた弁護士の呼びかけで弁護団が結成された。さらに、女性医師のブログが障害者のフリーライター、みわよしこさん(51)の目に留まり、「いつ誰が精神障害者になるか分からない」という反論の記事がインターネットに載った。
ネット上で批判が相次ぎ、ブログの書き込みは削除された。弁護団が住民に撤去を求め、のぼりは下りた。
それから4カ月後、私は住宅街を歩いた。
予定より半年近く遅れ、秋からホームでは男女8人が生活を始めていた。周辺に家を構えていたのは、過熱した反対運動とは無縁に見える還暦を過ぎた住民だった。戦後の社会や経済をけん引した世代で、30年ほど前にマイホームを求めた。今は子供も独立し、仕事も一線を退いた。それぞれ口にしたのは静かな老後へのこだわりだ。「今の生活は我慢して作った財産。壊されたくなかった」。だが、心配の根拠は「問題が起きるかもしれない」といった漠然としたもので、障害への深い知識があるわけではなかった。
女性医師の家で玄関先に出てきたのは、医師らとともに運動の中心とされた70代の夫だった。大手企業の元役員だという。
「一番の当事者の住民には何も解決できない」。矛先を向けたのは、13年に成立した障害者差別解消法。グループホーム建設を巡っては各地で住民とのトラブルが起きており、障害者の人権を守るため、付帯決議で建設に住民同意は必要ないと定めた。「今は弱者が強くなっている時代。でも我々も強者ではない。普通の住民なのに」。唇が震えていた。
だが、言葉が途切れた後に、ふと表情が緩んだ。「私もいつか逆の立場になって(ホームの)お世話になるかもしれない。だから悩んだ」
ある住民も「老後の生活に困っても国には期待できない。自分で何とかするしかない」と訴えていた。住民たちも、グループホームの必要性は理解していたのだろう。だが、自分たちが忘れられていくような危機感を抱き、存在を示そうと掲げたのが、あののぼりだったのかもしれない。
年末、ホームの前で、青野さんと入居者たちが白い息を吐き、落ち葉を掃いていた。住民のわだかまりは消えたわけではない。だが引っ越しのあいさつの時は、手作りのお菓子を受け取ってくれた。「一歩ずつですよね」。青野さんが言った。
坂道を下ってきた初対面の女性が、青野さんたちに声をかけた。
「きれいにしてくれて、ありがとう」
笑顔が広がった.
考え方が違う人、立場が弱い人への攻撃が激しい。多様な価値観や存在を受け入れられない社会の根底には、何があるのだろうか。わかりあえたら。そんな願いを込め、年初に不寛容の時代でもがく人たちと考えたい。
毎日新聞 2015年01月01日 東京朝刊