ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

初の障害者スポーツボランティア育成へ

2015年01月04日 02時16分48秒 | 障害者の自立

5年後に迫った東京パラリンピックに向け、ボランティアの育成が課題となるなか、東京のNPO法人が、国内で初めてとなる障害者スポーツのボランティアに特化した大規模な養成講座を開講することになりました。

2020年の東京パラリンピックに向けボランティアの養成講座を開くのは、障害者スポーツを支援する東京のNPO法人「STAND」です。
養成講座は「ボランティア・アカデミー」という名称で、独立行政法人、日本スポーツ振興センターの補助を受けて、来月、開講します。
東京オリンピック・パラリンピックでは8万人のボランティアが必要だと見積もられていて、参加を希望する市民の機運も高まっていますが、障害者スポーツに関わったことのある人はまだ限られ、人材の育成が課題となっています。講座の第1弾は、来月25日から5回にわたり50人の定員で行われます。
1回の講座は90分で、体の不自由な人への接し方やスポーツに関する英語などの指導を無料で受けることができます。
このNPO法人によりますと、障害者スポーツのボランティアに特化した大規模な養成講座は国内では初めてだということで、今後、継続して開いていくことにしています。
代表理事を務める伊藤数子さんは「パラリンピックのボランティアとして多くの人を輩出するとともに、障害者スポーツの魅力を広く知ってほしい」と話しています。

1月3日 4時11分      NHK


仮想現実デバイスで視覚障害者が見る世界を再現

2015年01月04日 02時11分50秒 | 障害者の自立

盲人に色を語ることは不可能だとしても、健常者が色覚障害者の世界を知ることは不可能ではない。

視覚障害者の見えかたをリアルタイムで再現できれば、機械や設備など、さまざまなもののインターフェイスを開発する際に、視覚障害者にも見やすいものを開発することができるはずだ。これまでもそのような装置はあったようだが、コストがかかり、正確性や没入性の面で限界があったという。

しかし、ネバダ大学リノ校のEelke Folmer准教授が、低コストで、没入性が高く、様々なタイプの視覚障害者が見る景色を再現できるシステムを開発した。SIMVIZと名づけられたその装置は、視覚障害者にとっても見やすさを簡単にチェックすることができ、ソフトウェアの開発などの際に役に立つ。

その装置とは、市販ヘッドマウントディスプレイであるOculus riftに、広角カメラ(プレイステーション4のカメラ)を装着し、その映像を加工してOculus riftに映写する。Oculus riftのメリットはその110度という広い視野で、これは人間の視界をカバーし、高い没入性を発揮してくれる。

様々な視覚障害を再現できる

映像をOculus riftで再生するためのレンダリングには、VRプレーヤーを使用する。VRプレーヤーは、HLSLを使ったさまざまな映像効果に対応しているので、色覚障害や緑内障、白内障、糖尿病による網膜障害、加齢黄斑変性などの特有の見えかたを再現するフィルターを使って、映像を作り出すことができる。それもキーボードの操作で簡単に切り替えられる。

こういった装置を活用することで、インターフェイスは視覚障害者にとって、これまで以上に見やすいものにすることが可能だ。

実際の見えかたは下の動画で見ることができる。

参照:Eelke Folmer -SIMVIZ: Simulation of Visual Impairments using a See-through Display -


交流し、共に生きる社会を ハシ先生のメッセージ

2015年01月04日 02時06分37秒 | 障害者の自立

◆「できるか、できないかではなく やるか、やらないか」

 「かなわぬ夢を夢見、勝てぬ敵と闘い…」

 昨年十二月下旬。神奈川県鎌倉市の主婦稲田睦子(むつこ)の自宅に、一枚のファクスが届いた。文章はこう続く。「忍びがたい悲しみに耐え、勇者もひるむ土地を馳(か)け…」

 愛と信念を貫く騎士を題材に、一九六五年に米ブロードウェーで初演されたミュージカル「ラ・マンチャの男」。そのラストで歌われる「見果てぬ夢」を、日赤の元青少年課長の橋本祐子(さちこ)(故人)が邦訳した手書きの歌詞だった。

 「ハシ先生の気持ちそのままだ」

 稲田の脳裏に、六四年の東京パラリンピックがよみがえる。青山学院大学四年だった二十一歳。日赤が組織した通訳ボランティア「語学奉仕団」に参加した。

 約二百人のメンバーを率いたのが「ハシ先生」こと橋本。当時の日本では、下半身まひの身体障害者の多くは病院などで一生を過ごし、接する機会がない。橋本は大会前、奉仕の精神を学ばせようと、障害児施設などにメンバーを連れ出した。

 「子どもを抱っこしてあげたら?」。しかし、戸惑い、顔色をうかがう者が多かった。橋本はこう導いた。「できるか、できないかじゃない。やりたいか、やりたくないか。やるか、やらないのか、なのよ」

 決して「やりなさい」とは言わない。強制されたら奉仕ではないから。代わりに数々の名言で背中を押した。「未来は今日つくられるの」「苦しみのない喜びは三流品よ」

 それは稲田の心にも染み渡った。大会本番、車いすのスイス選手団を付ききりで介助した。買い物や外食にも付き添い、翌年スイスの自宅を訪ねるほど絆が強まった。

 理想に燃える橋本の信条のようなラ・マンチャの訳詞が、元メンバー宅から見つかったのは昨年のこと。ハシ先生の思い出を共有しようと、仲間が稲田宅にもファクスしてくれた。

 橋本は一九〇九年に中国・上海で生まれた。四五年の終戦を北京で迎え、日本へ引き揚げる早春。約百二十キロ離れた港町に向かう汽車は寒くてたまらなかった。屋根もない石炭用の貨車だったからだ。

 乗り合わせた数十人が、持っていた小さな布を集めた。縫い合わせて屋根代わりにし、身を寄せ合って風雨をしのいだ。

 赤十字との出合いは帰国の二年後。友人に誘われ、日赤本社を訪れた時だ。まだ占領下の配給時代。ボランティアの準備会合で「奉仕どころではない」と本音を漏らした参加者に、三十八歳の橋本は黙っていられなかった。

 「奉仕って何ですか。余計に持っているものをあげることですか。違うでしょ。分け合うことではないのですか」。引き揚げ体験を切々と訴えた。

 日赤の職員となり、パラリンピックを皮切りに、アビリンピック(全国障害者技能競技大会)やさまざまな国際イベントで若者のボランティアを指導した。都内にある墓碑には「できるか、できないか…」の語句が刻まれている。

 教え子の稲田は、奉仕団を辞めた後も市民講座や英会話サークルのボランティアを続けた。古希を過ぎ、二〇二〇年に再び迎える東京パラリンピック。息子や娘、小学生の孫らにも、外国人や障害者と交流してほしいと願う気持ちが強くなってきた。

 思いついたのがホームステイの受け入れだ。子ども部屋が物置になっている。そこを片付けよう。友達にも声を掛ければ、高齢化が進む地域の活性化になる。

 ハシ先生は半世紀前、挑戦を、と勇気付けてくれた。稲田は言う。「やってみるって、すばらしいこと。へたでも何でも、いいじゃないですか」 (敬称略)

 わずかな持ち物を差し出し、他者と分け合う。そんな思想に共鳴し、半世紀前のパラリンピックを支えた「語学奉仕団」のメンバーらは、その後も共生社会を目指して歩んできた。背中を押したのが、ハシ先生の言葉。そのメッセージは今も色あせず、次世代へと引き継がれる。

 <東京パラリンピックの語学奉仕団> 日赤傘下の自主運営ボランティア団体。1964年11月、東京五輪の直後に開催された東京パラリンピックで、通訳ボランティアとして組織された。前年の63年、当時の橋本祐子・日赤青少年課長の旗振りで、日赤で翻訳をしていた学生6人が友人に声をかけ、14カ国語を話す学生ら約200人が結集。大会では22カ国の車いす選手計375人を無償で介助した。事前に語学の勉強を重ねたほか、病院などを訪ねて障害に関する研修も行った。

2015年1月3日    東京新聞


母との生活…放置、束縛、そして葛藤「人生に卑下するところない」

2015年01月04日 01時59分35秒 | 障害者の自立

 「ねえ、これってママの小さい頃? 太ってるね」

 神奈川県に住む30代の会社員、寺田智美の長女、梓(8)が、自分と同じ小学2年の頃の智美の写真を見て、声をかけてきた。智美の母、美幸がからかうように応じた。「太ってる。太ってる」

 どこにでもある、だんらん風景のように見えるが、智美の内心は穏やかでなかった。「誰のせい? ご飯作らなかったでしょ」。思わず母を責める言葉が口を突いて出た。美幸は黙り込んでしまった。

 智美は幼い頃、両親にネグレクト(育児放棄)された過去を持つ。2人の娘の育児と仕事。今でこそ充実した日々を送るが、時折、怒りや悲しみといった、かつてのやりきれない感情が呼び覚まされる。

 平成26年5月、神奈川県厚木市のアパートで男児の白骨遺体が見つかった。男児は死亡当時5歳。19年1月ごろには栄養失調で死んでいたとみられる。

 智美は気付けば市役所に電話をかけ、訴えていた。「公園でも図書館でも、この子の名前を残せないですか。生きた証しとして」。誰に知られることもなく、あまりに短い生涯を閉じた男児。母に十分な食事を用意してもらえず、一人置き去りにされた、幼く無力な自分が重なった。

全く食事作らず

 家に生活費を入れず、酒とパチンコに溺れた父、敏夫を残し、美幸と智美、2つ上の兄、宏は家を出た。智美が小学3年の時だ。

 美幸は飲食店で働いて生計の一切を担う一方、残る時間は知的障害のある宏の学校や施設へ付き添った。自然、智美は一人で過ごす時間ばかりが増えた。

 小学4年で兄が障害者施設へ入り、母と2人の生活が始まる。美幸は仕事と兄の世話にかかりきりで、智美を完全に放置するようになる。幼心にも母の忙しさは理解していたつもりだったが、当時の智美にとっては「ひどい母」だった。

 育ち盛りの智美に朝食が用意されることはなく、やがて飲食店経営を始めた母は、夕食も含めて全く食事を作らなくなった。

 智美の「食事」は、母が飲食店の客からもらった菓子やケーキ。小学校高学年になると、学校の調理実習の見よう見まねでゆで卵やそうめんを作れるようになったが、それでも栄養バランスの取れた食生活にはほど遠かった。

 「心の支えになる人もいなくて、毎日、生きるのに必死だった」。当時を振り返る智美の言葉は悲痛だ。体重は高校1年で74キロまで増えた。

 転校した小学校高学年の頃も「普通の家庭」ではないことを痛感させられる瞬間は、やはり訪れた。

 泊まりに行った同級生宅。食卓に並ぶ夕食や朝食、きちんとたたまれたパジャマ、きれいに洗われた靴…。どれも、智美の家にはなかった。洗ってもらったことなんてない黒ずんだ靴。「玄関で友人と靴を並べられるのが恥ずかしくて…。放置されているなんて言えなかった」。みじめさに耐えた。

徐々に変化した思い

 智美を放置し続けた母との関係性は、高校へ入ると束縛へと変わっていく。

 掃除、洗濯、食器洗い…。母は、手のかからなくなった娘を労働力として頼るようになった。あらゆる家事を智美が担い、土日は特段の用事がなくても一緒にいることを求められた。

  かつてあれだけ家にいてほしかった母と過ごす時間は増えたが、高校生の智美にとっては「まるで使用人のように扱われている」としか受け止められなかった。「逃げたい」。「放っておいてほしい」。母への嫌悪だけが募っていった。

 だが、友人との先約があっても「スーパーに一緒に行こう」と誘う美幸の言葉にどうしても逆らえない。

 10歳から23歳まで続いた初日の出登山の強要も辛かった。自然に興味のない智美にとって午前2時にたたき起こされるのは苦痛でしかない。むしろ、母の様子に身勝手さが透けて見え、いらだつだけだった。

 「親に愛されたい、嫌われたくないという気持ちが残っているから、言うことを聞いてしまうんです」  智美は今、かつての同級生宅に見たような理想の家庭を目指し、決して家事、育児の手を抜くことはない。「母のようになりたくない」という一心からだ。

 ただ、母への思いも徐々に変化しているという。

 「小さいときは自分が愛される価値のない人間と認めたくなかった。高校のころは母から逃げたかった。でも、今は学校を出してもらえて感謝している。母なりに大変だったんだなと思えるようにもなった」

 恵まれた歩みばかりではなかったが、智美は今、かけがえのない家庭を築いている。「いろいろありましたが、私の人生に卑下するところは何もありません」

(文中はいずれも仮名、敬称略)

虐待4類型、最も多いのは「心理的虐待」

 厚生労働省は児童虐待を「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト(育児放棄)」「心理的虐待」の4種類に分類している。

 最も多いのは、言葉による脅しや無視といった心理的虐待だ。平成25年度、児童相談所への虐待相談の対応件数でみると、計7万3802件のうち、心理的虐待は2万8348件と全体の約38%を占める。きょうだい間で差別的な扱いをしたり、子供の目の前で家族に暴力をふるうドメスティック・バイオレンス(DV)なども心理的虐待に区分される。

 これに続くのが、殴る蹴る、激しく揺さぶるといった身体的虐待で、2万4245件(約33%)。炎天下の自動車内に乳幼児を放置し、熱中症で幼児が死亡するケースも相次いでいるが、こうした事例を含め、食事を与えないなどのネグレクトは1万9627件(約27%)だった。

2015.1.3      産経ニュース

 


県、年度内に開設 重症心身障害児者の支援センター

2015年01月04日 01時55分39秒 | 障害者の自立

 県は在宅の重症心身障害児者、家族への支援体制を強化する。本年度中に「障がい児者在宅医療等支援センター」を開設。在宅障害児者の家族や医療機関からの相談を受け付けるサポートデスクを設置するほか、家族間のつながりをつくるため交流会の開催や情報誌を発行する。

 県議会12月定例会でセンターの開設費510万円を盛り込んだ本年度補正予算案を可決した。本年度中に県看護協会(岐阜市薮田南)に開設する。

 センターにはコーディネーターが常駐。在宅の重症心身障害児者の家族や診療所、訪問看護ステーションなど医療機関から医療や福祉に関する相談を受ける。電話相談や訪問相談に対応する。

 また、家族間の情報交換のための交流会を企画し、会場設営などをサポート。新年度から年2回程度情報誌を発行し、孤立しがちな家族の間で連携できるように支える。

 重症心身障害児者には介護保険制度のケアマネージャーのような支援者がおらず、現状では家族が自ら医療や福祉サービスを探している。県は同センターを家族を支える中核施設と位置付け、相談に乗ったり医療機関と調整したりする。

 重症心身障害児者は重度の知的、身体障害があり、寝たきりなどの生活をしている人。県の調査によると、県内に少なくとも在宅で580人以上いると推計されている。

2015年01月03日      岐阜新聞