「ねえ、これってママの小さい頃? 太ってるね」
神奈川県に住む30代の会社員、寺田智美の長女、梓(8)が、自分と同じ小学2年の頃の智美の写真を見て、声をかけてきた。智美の母、美幸がからかうように応じた。「太ってる。太ってる」
どこにでもある、だんらん風景のように見えるが、智美の内心は穏やかでなかった。「誰のせい? ご飯作らなかったでしょ」。思わず母を責める言葉が口を突いて出た。美幸は黙り込んでしまった。
智美は幼い頃、両親にネグレクト(育児放棄)された過去を持つ。2人の娘の育児と仕事。今でこそ充実した日々を送るが、時折、怒りや悲しみといった、かつてのやりきれない感情が呼び覚まされる。
平成26年5月、神奈川県厚木市のアパートで男児の白骨遺体が見つかった。男児は死亡当時5歳。19年1月ごろには栄養失調で死んでいたとみられる。
智美は気付けば市役所に電話をかけ、訴えていた。「公園でも図書館でも、この子の名前を残せないですか。生きた証しとして」。誰に知られることもなく、あまりに短い生涯を閉じた男児。母に十分な食事を用意してもらえず、一人置き去りにされた、幼く無力な自分が重なった。
全く食事作らず
家に生活費を入れず、酒とパチンコに溺れた父、敏夫を残し、美幸と智美、2つ上の兄、宏は家を出た。智美が小学3年の時だ。
美幸は飲食店で働いて生計の一切を担う一方、残る時間は知的障害のある宏の学校や施設へ付き添った。自然、智美は一人で過ごす時間ばかりが増えた。
小学4年で兄が障害者施設へ入り、母と2人の生活が始まる。美幸は仕事と兄の世話にかかりきりで、智美を完全に放置するようになる。幼心にも母の忙しさは理解していたつもりだったが、当時の智美にとっては「ひどい母」だった。

育ち盛りの智美に朝食が用意されることはなく、やがて飲食店経営を始めた母は、夕食も含めて全く食事を作らなくなった。
智美の「食事」は、母が飲食店の客からもらった菓子やケーキ。小学校高学年になると、学校の調理実習の見よう見まねでゆで卵やそうめんを作れるようになったが、それでも栄養バランスの取れた食生活にはほど遠かった。
「心の支えになる人もいなくて、毎日、生きるのに必死だった」。当時を振り返る智美の言葉は悲痛だ。体重は高校1年で74キロまで増えた。
転校した小学校高学年の頃も「普通の家庭」ではないことを痛感させられる瞬間は、やはり訪れた。
泊まりに行った同級生宅。食卓に並ぶ夕食や朝食、きちんとたたまれたパジャマ、きれいに洗われた靴…。どれも、智美の家にはなかった。洗ってもらったことなんてない黒ずんだ靴。「玄関で友人と靴を並べられるのが恥ずかしくて…。放置されているなんて言えなかった」。みじめさに耐えた。
徐々に変化した思い
智美を放置し続けた母との関係性は、高校へ入ると束縛へと変わっていく。
掃除、洗濯、食器洗い…。母は、手のかからなくなった娘を労働力として頼るようになった。あらゆる家事を智美が担い、土日は特段の用事がなくても一緒にいることを求められた。
かつてあれだけ家にいてほしかった母と過ごす時間は増えたが、高校生の智美にとっては「まるで使用人のように扱われている」としか受け止められなかった。「逃げたい」。「放っておいてほしい」。母への嫌悪だけが募っていった。
だが、友人との先約があっても「スーパーに一緒に行こう」と誘う美幸の言葉にどうしても逆らえない。
10歳から23歳まで続いた初日の出登山の強要も辛かった。自然に興味のない智美にとって午前2時にたたき起こされるのは苦痛でしかない。むしろ、母の様子に身勝手さが透けて見え、いらだつだけだった。
「親に愛されたい、嫌われたくないという気持ちが残っているから、言うことを聞いてしまうんです」 智美は今、かつての同級生宅に見たような理想の家庭を目指し、決して家事、育児の手を抜くことはない。「母のようになりたくない」という一心からだ。
ただ、母への思いも徐々に変化しているという。
「小さいときは自分が愛される価値のない人間と認めたくなかった。高校のころは母から逃げたかった。でも、今は学校を出してもらえて感謝している。母なりに大変だったんだなと思えるようにもなった」
恵まれた歩みばかりではなかったが、智美は今、かけがえのない家庭を築いている。「いろいろありましたが、私の人生に卑下するところは何もありません」
(文中はいずれも仮名、敬称略)
虐待4類型、最も多いのは「心理的虐待」
厚生労働省は児童虐待を「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト(育児放棄)」「心理的虐待」の4種類に分類している。
最も多いのは、言葉による脅しや無視といった心理的虐待だ。平成25年度、児童相談所への虐待相談の対応件数でみると、計7万3802件のうち、心理的虐待は2万8348件と全体の約38%を占める。きょうだい間で差別的な扱いをしたり、子供の目の前で家族に暴力をふるうドメスティック・バイオレンス(DV)なども心理的虐待に区分される。
これに続くのが、殴る蹴る、激しく揺さぶるといった身体的虐待で、2万4245件(約33%)。炎天下の自動車内に乳幼児を放置し、熱中症で幼児が死亡するケースも相次いでいるが、こうした事例を含め、食事を与えないなどのネグレクトは1万9627件(約27%)だった。
2015.1.3 産経ニュース