ゴエモンのつぶやき

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重監房、特別法廷は何だったのか?

2018年01月24日 01時33分36秒 | 障害者の自立

1月28日は「世界ハンセン病の日」。今年も1月30日にインド・ニューデリーで、ハンセン病患者・家族に対する偏見・差別の撤廃を訴えるグローバルアピールが日本財団と「障害者インターナショナル」(DPI)の連名で発表される。これを機会に我国の「重監房」(特別病室)と「特別法廷」(隔離法廷)について、あらためて記しておきたいと思う。特別法廷に関しては最高裁が16年、最高検が昨年、謝罪した経過があり、やや時期外れの感はあるが、歴史的な負の遺産として長く語り継ぐ必要があると考えるからだ。

重監房は1938年、群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園の敷地内に作られた。強制隔離や結婚する場合の優生手術(避妊手術)など“ハンセン病絶滅政策”がとられる中、全国13ヵ所の療養所に逃亡や反抗を罰する「監房」が整備され、重監房には、とりわけ反抗的な入監者が全国から集められた。

「療養所の秩序を保つ」を名目に「特別病室」の名を付しているが、現実には患者を重罰に処すための懲罰施設。標高1000メートルを超す草津の郊外に4畳半ほどの独房が8つあった。1947年に閉鎖されるまで9年間に93人が収監され23人が在監中、または出て間なく死亡している。

2014年に開所した重監房資料館内に原寸大の重監房2室が設けられ、昨年10月に訪問した際、小さな入り口から中をのぞくと、板敷きの間には小さな明り取り、逃亡防止のためか浅く掘られたトイレの穴しか見当たらず、収監者はここで薄い布団1枚で寝起きした。真冬の温度はマイナス20度にも達したといわれ、「患者懲戒検束規定」で「監禁期間は最長2ヵ月」とされたものの500日以上、留め置かれた収監者もいた。

国会でも問題となり、厚生省(当時)が使用中止にした後、解体され、跡地には1982年に建立された「重監房跡」の石碑がある。

後を追うように1948年から始まったのが特別法廷。下級裁判所からの臨時法廷使用の上申を最高裁が認可する形で1972年までに95件の裁判がハンセン病療養所や刑事収容施設で行われた。撤回が1件あるが、実質的な認可率は100%。1952年、熊本県内で発生した殺人事件(菊池事件)の裁判も国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園などに設置された特別法廷で行われた。

九州弁護士連合会の「ハンセン病『特別法廷』と司法の責任に関する決議」は特別法廷の模様を「消毒液の臭いが立ち込め、裁判官、検察官、弁護人はいずれも予防衣と呼ばれる白衣を着用し、長靴を履き、手袋を付けた上で調書や証拠物を火箸等で取り扱った」と記している。

事件は翌年に死刑判決が確定、第3次再審の請求が棄却となった1962年に死刑が執行されており、どこまで厳正な証拠調べなどが行われたか疑問が残る。最初から「有罪ありき」の特殊な裁判だった気さえする。開廷の告示を掲示したとされているが、強制隔離政策に伴う偏見・差別の中、裁判の公正を図るための公開の原則(憲法82条)などが本当に担保されたのかも疑わしい。

ハンセン病患者の強制隔離政策は1996年の「らい予防法」廃止まで90年間続いた。2年後、熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が提起され2001年5月に原告側勝訴の判決が出され国と国会は謝罪した。最高裁は全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)などが出した「特別法廷設置の検証要請」を受け事務総局に調査委員会を設置、その報告書に基づき2016年4月にようやく「偏見・差別を助長し、人格と尊厳を傷付けた」として謝罪した。

最高検察庁も翌年、特別法廷に関与した責任を認め謝罪したが、全療協が菊池事件について求めた再審請求は見送り、元患者(回復者)6人が昨年9月、検察が再審請求をしないことで精神的苦痛を受けたとして国家賠償請求訴訟を熊本地裁に起こしている。

以上が経過の概略で、本来の請求者である遺族が再審請求を行うのが難しい状況にあるとされ、起訴した検察が自ら行うよう求めている。困難な訴訟になると思われるが、特別法廷の特殊な経過からすれば、司法にも柔軟な対応を求めたい。

例えば最高裁は、治療薬の普及でハンセン病が治る病気となった1960年以降の特別法廷は裁判所法に反する、としているが、それではそれ以前の特別法廷の認可やその運用に問題がなかったのかー。特別法廷で審理された95件中26件は菊池医療刑務所で行われており、特別法廷の実態を後世に伝える意味でも、密度の濃い審理が期待される。

ハンセン病は1980年代初頭の治療薬の開発で「治る病気」となり、日本財団、次いでノバルティス財団の協力により世界で無料配布され、最盛期、世界で1000万人を超えるとされた患者は大幅に減少している。それでも2016年には世界で21万5000人の新たな患者が発生しているほか、患者・回復者に対する偏見・差別は依然、深刻。そうした実態を改善するためにも我国のハンセン病対策の歴史は詳細に残される必要がある。

2018年01月22日   BLOGOS


高次脳機能障害の症状と当事者・家族の苦悩

2018年01月24日 01時22分18秒 | 障害者の自立

 小室哲哉さんの不倫疑惑報道から、介護の大変さにフォーカスしている言葉がネット上のあちこちから出ています。

 小室さんの妻KEIKOさんがくも膜下出血で倒れたのは、KEIKOさんが39歳の時。小室さんがKEIKOさんの発症にすぐに気が付いて救急搬送した先の病院で5時間以上にわたる大手術で一命をとりとめ体には大きな障害が出なかったものの、脳の機能障害が著しく出てしまった事は様々なメディアが伝えている通りです。
KEIKOさんが発症している、高次脳機能障害とは。

■高次脳機能障害の症状と当事者・家族の苦悩

 脳へのけがや病気などによる損傷により、身体面以外での障害が出現するのが高次脳機能障害と呼ばれています。具体的には

・数分前の事を覚えている事ができず同じ質問を繰り返してしまったり、物をどこに置いたのか分からなくなったり、新しい事を覚える事が非常に困難となる『記憶障害』
・二つ以上の事が同時に起こると混乱してしまう、ぼんやりしていて注意力が散漫になる、一つの作業を長く続けられないなどの『注意障害』
・自分で計画を組んで物事を進める事ができない、人に指示してもらわないと行動を起こすことができない、約束した時間を守る事ができなくなってしまう、『遂行機能障害』
・興奮しやすくなり暴力性が出てしまう、自分の思い通りに物事が進まないと大声を出してしまう、自己中心的になるなどの性格の変化が病後に出現する『社会的行動障害』

といった症状がけがや脳疾患などで出現します。

 突然の病気の発症と、その後の性格や行動の変化に一番戸惑い辛く思うのはその本人と家族。急激な変化を受け止め切るのは並大抵な事ではありません。「今までこんな事難しい事でも何でもなかったのに」「どうしてこんな簡単な事ができないのか」など、「なぜ、どうして」という気持ちに苦しんでいるのです。

■若年者の介護の難しさ、しんどさ

 介護というと高齢者が主な年齢層であり、その要介護者である高齢者を見守り介護していく家族のしんどさや辛さは今までも度々話題となっていました。高齢者介護は国を挙げて対策を整えてきていますが、その一方でKEIKOさんの様な比較的若い人が要介護状態になった時の受け皿は未だ少ないのが現状です。

 デイサービスやショートステイ、入居施設などは高齢者しかいない事も多く、40~50代の世代の利用者は非常に少ないのです。同世代がほとんどいない、高齢者しかいない施設で馴染めないなどの理由で通所施設に通ってもすぐにやめてしまう人も多くいます。

 小室さんの場合、KEIKOさん自身が有名人でありそういった施設の利用が難しかった側面もあるかもしれません。若く身体的に機能障害がないために施設利用を検討するのが困難だったという側面もあるかもしれません。様々な要因があったがために小室さんがKEIKOさんと密接した状態で介護せざるを得なくなったのは想像に難くありません。KEIKOさんの実家にも支えてもらっていたとはいえ、常に一緒に暮らしていながら大人同士の会話もできない、本来であれば支えあって生きていくはずの人の責任を全部負って仕事しながら介護をこなすのは相当の苦労があったはずです。

 病前の状態に回復できる見込みの不明な、日々出口のないトンネルの中を歩き続ける様な日々を何年間も続けていて精神的に辛くない人なんていないのではないでしょうか?自分の辛さ、介護の辛さを何でも話せる心の支えになる人がいなければ早晩精神が病んでしまいます。

 筆者は7年間リハビリ支援型のデイサービスに看護師として勤務しており、その前は脳外科を含む混合病棟でも勤務していました。脳外科病棟に入院していた人の1~2割は60歳未満。中には30代で子供が生まれたばかりという若い父親も重篤な脳疾患で入院していたのを看てきました。病棟から施設勤務になって見えてきたのは、支援する側の一貫した継続的な関わりの重要性と、家族の計り知れない苦悩でした。退院後の生活をどうしていいか分からないという人も多く、ケースワーカーも一緒に悩んできた事も数知れず。一家の大黒柱や心の拠り所から一転してケアされる側になってしまった患者さんの苦悩にどう言葉をかけていいか分からない事も多くありました。決まった答えなどはないのです。その患者さんや家族を深く知る以外には本当に必要な支援はできないのです。

頑張らない介護の必要性

 仕事を続けながら介護をするのは並大抵な事ではありません。介護のために仕事をやめる「介護離職」も社会的問題として取り沙汰されています。仕事と介護の両立は、どちらも頑張り過ぎないで家庭外の力を借りる事で初めて成り立ちます。

 頑張らない介護に必要なのは、社会的資源。いくらお金がたくさんあってもそのお金を自分の負担を軽くするために振り分ける事ができなければ意味がないと言えます。お金も必要ですが、そのお金を使ってでも味方にできる人や病医院・介護施設などの社会的資源はまだまだ足りていません。特に、若年層の要介護者を支える受け皿は特に少なく、介護の専門家であるヘルパーや介護福祉士も低賃金で働かざるを得ない現状ではやりたくても職業として選ぶのが困難という声も現場では常に上がっています。
一方で、医師などの有識者の間では高次脳機能障害を含め要介護者は家族以外のプロの介護支援を入れなければ介護にまつわる問題はいつまでも解決しないという声も多く上がっています。

 この問題を解決するためには税金や国政から変えていかないといけない、壮大な話になってしまいますが、だからこそ選挙に行ったり一人ひとりが問題を報告しあうなど自分たちにできる事をやり続ける必要があると思います。黙っていたら解決しないのです。幸いな事にネット上では平等に発言できる場所が昔よりも格段に増えています。ネットを使いこなせる人たちはテレビや新聞だけしか情報ソースを持たない人たちへの情報の橋渡しをして、より多くの問題提起や解決策を共有できるようになっていっていますがまだまだ不十分。必死に頑張っている人には届いていない情報や心遣いも多く、孤立している人を見つけるのは未だ困難な状態。紋切り型の今までの支援体制からより踏み込んだ支援に発展させるためにも、自分たちの未来に失望しないためにも、できる事をそれぞれが積み重ねていければと思います。

(梓川みいな / 正看護師) おたくま経済新聞  2018/1/22


出来島、平昌代表入り 冬季パラ

2018年01月24日 01時06分50秒 | 障害者の自立

 3月9日に開幕する平昌冬季パラリンピックの日本代表に女子ノルディックスキー距離、バイアスロンの出来島桃子選手(43)=新発田市役所=が選ばれた。日本パラリンピック委員会(JPC)が22日、東京都内で運営委員会を開き、日本代表選手33人を決めた。新潟県出身の日本代表は出来島選手1人。

 出来島選手は2006年トリノからの4大会連続4度目の出場。前回のソチ大会では距離女子5キロフリー立位で6位に入るなど、個人3種目、団体1種目で入賞を果たした。

 今季は昨年12月にカナダで行われた障害者ノルディックスキーのワールドカップ(W杯)で、距離7・5キロフリー(立位)で6位、バイアスロン6キロ(立位)で7位に入っていた。

 出来島選手は新潟日報社の取材に「今まで以上に残りの1カ月間、気を引き締めたい。日本代表としてベストの状態でやれるようにし、後悔することのないレースをしたい」と意欲を語った。

 出来島選手は20歳の時に右脇下の腫瘍を切除してから右腕が不自由になった。スキー競技は20代後半に始めた。

 
出来島桃子選手
 
出来島桃子選手
 
2018124日   新潟日報