差別にもいろいろあって、人種差別、男女差別、身分差別、階級差別、地域差別、職業差別、学歴差別など細かい分類は数知れず、それぞれに解決困難な課題を含んでいます。しかし、将来的に解消することが不可能とまではいえない、多少の希望くらいは持てる事柄です。
大抵の差別意識は、「同族意識」の反作用として起こります。「われわれ」に所属しない者に対する拒絶から派生するものなので「仲間である」と認識さえできれば、ひとまずは解決の扉が開きます。
ところが、数ある差別の中でも障害者差別にはその希望すら持つことが難しいと感じています。なぜならば、障害者差別は同族意識の反作用ではないからです。親ですらわが子を見捨てることが珍しくないのです。むしろ仲間内にこそ強力に排除する力が働いてしまうのです。イザナギ・イザナミの初子「ヒルコ」のように。
もちろん表面的には解消されたかのように取り繕う努力がなされてきましたし、これからもさまざまに啓蒙(けいもう)され、対策もとられるでしょう。
しかしながら、どうにも排除することのかなわない溝があります。「健全でありたい」誰しもが至極当たり前に求める、何の悪意もない単純な願いが、ただそれだけの気持ちが、もうどうしようもなく障害者との間に一線を引いてしまうのです。
「私は違う!」という人も大勢います。その言葉を否定することはできません。しかし、疑いは消せないのです。心底ではどうなのやらと。非難など決していたしません。健やかであることを願ってはいけない理由があるものでしょうか。
かくいう私も障害者としてこの世に生を授かりました。幸い乳児のうちに手術を受けましたので、日常生活になんの支障もありません。ですが今も残る傷跡と変形は、やはり多少目立ちます。見る人が見ればわかるもので、いくどとなく不愉快な思いをしました。
「やっぱりお前は普通の人間やない」と面と向かって言われたことすらあります。しかも担任の教師に。昔はそんな言葉を平気で投げつける人がごろごろいたのです。障害者とは何か。健常者とは何か。どんな必然がこの2種類の生き物の存在を許しているのか。あるいは偶然に生じた許されざる異物であるのか。
その答えを求めずにはいられませんでしたが、中学生だった私には過大な難問でした。図書館へ行き、差別に関する書物を読んでみましたが、結局のところ「差別はいけません!」と人権を振りかざしているに過ぎませんでした。私の求める答えを提示してくれる書籍は皆無でした。私が求めたのは世間の暖かいまなざしではなく、完全無欠の「自己肯定」だったからです。
答えを出せないまま数年がたち、翌年に成人式を控えていたある日、昼食をとるため立ち寄った喫茶店でアイスコーヒーとオムライスを注文し、週刊誌を読んでいました。店内に流れるラジオのリクエスト曲として、懐かしいアニメソングが流れてきました。アニメ「妖怪人間ベム」のハニー・ナイツが歌う主題歌でした。
「あぁ懐かしいな、子供のころよく見ていたな」と軽く聞き流しておりましたが、次の一瞬、聴き慣れたはずのフレーズが、偽装兵よろしく耳に突撃してきたのです。
「早く人間になりたぁ~い!」
心に響き渡るのは黎明(れいめい)の咆哮(ほうこう)でした。「そうか!彼らが人間に成りたがるのは、人間ではないからだ。人間にはなれないと悟っているから、人間に恋い焦がれ、渇望し、悲哀に暮れるのだ。人が健康を求め、健全でありたいと願うのは人そのものが障害者だからだ!」。大図書館で見つからなかった答えが、街角の喫茶店に漂っていました。
アイスコーヒーをストローで飲みながら、ニコニコと涙を流している姿は、さぞかし気味が悪かっただろうと思います。会計の際にアルバイトのかわいらしい女の子の顔が引きつっていたのを覚えています。
その日から私は人間観察に没頭しました。あの人はやけに怒りっぽいな、感情の制御に不具合が生じているな、障害者決定。あいつはギャンブルにはまって生活が破綻しているな、障害者決定。刑務所に入るような連中は、まとめて障害者決定。
人は必ず死ぬ、年老いて体が衰えて意識も定かではなくなって呼吸さえ止まる。老化現象から逃れられる人など存在しない。健常者など実在しないのだ、頭の中だけの空想の産物だ。
誰の賛同も承認も必要ありません。私の真理です。障害者差別は同族意識の反作用ではなく、同族嫌悪の成れの果てでした。
「ワシは悪くないやろ?お前らが勝手に勘違いしとるだけやがな」と天から声が聞こえてくるようです。自己肯定を完了して成人の日を迎えることのできる、わが身の幸運に感謝しました。ときに不愉快な出来事は起こりますが、惨めさはみじんもありません。「お気づきではないでしょうが、あなたも立派な障害者ですよ」と心の中でそっと教えて差し上げています。
去る平成28年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」にて前代未聞の大量殺人事件が発生しました。死者19人、負傷者26人という惨劇を引き起こした犯人は、同施設元職員の26歳の男性で、彼もまた精神を病んでいたようです。
「障害者は不要な存在だ、この世からいなくなってしまえばよい」という趣旨の発言を繰り返しているそうです。はらわたをえぐられるような思いで、その報道を見ていました。
彼が本気で正義の執行だと信じて行った所業であるのか、それとも自己否定をこじらせた末の破壊衝動を理由付けするために障害者を利用したのかは、彼のみが知るところでしょう。
いずれにせよ彼の主張が正しいとしたなら、人類そのものを抹殺しなければなりません。障害者がこの世に存在しているという事実が、人類の存在を肯定している、たった一つの証しであるというのに、人のなんたるかを指し示す根源の指標であるというのに。彼は自らの存在理由を、存在意義を、存在価値を、真っ向から否定してしまったのです。
1859年にイギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンによって『種の起源』が出版されました。彼の提唱した「自然選択による進化」の概念は、彼のいとこフランシス・ゴルトンをして「優生学」を構築するに至りました。彼は、社会的弱者には遺伝的欠陥があり、その生存および生殖の継続を社会が容認することは、人類に対して本来起こるべき自然淘汰(とうた)をゆがめ、進化を妨げていると主張しました。現在においても「進化」に関して、見解の統一はなされておらず、外的誘因、内的原因、偶発的要因、さまざまに入り乱れた複雑系であろうと思われます。
ダーウィンの進化論は、遺伝子の分子的な理解もない時代の理論ですので「進化」の「とある一面」を示唆したに過ぎません。例えるなら、幼児教育に用いる「積み木ブロック」のレベルです。
ゴルトンの誤りは、「生物種の環境適応」と「社会の繁栄」とを混同してしまったことです。しかし彼と同じように完璧であることを夢見た者たちによって「優生思想」は世界中に広がりを見せました。家畜と同様に人類にも品種改良が必要と唱える者たちさえ現れました。
最も過激な事例としてアドルフ・ヒトラー率いる「国家社会主義ドイツ労働者党」通称ナチス・ドイツが行った「T4作戦(障害者抹殺)」および「ホロコースト(ユダヤ人虐殺)」があります。ヒトラーの主張は、「アーリア系ドイツ民族こそが最も優秀な民族であり、支配者として純血を保持し、劣化の原因となる劣等分子は駆逐しなければならない」というものです。私の感覚からすると、病的な強迫観念を持つ人物の発想に思えるのですが、皆さんはどう思いますか。
社会の繁栄をなし遂げて維持しようと欲するのであれば、まずはその社会が信用と信頼とで満たされて、好循環を醸成するように「利他」の精神を養うものでなければ、到底実現できるものではないでしょう。
しかし、選民思想は「利己」を根源として咲くあだ花なので、逆行こそすれ繁栄の礎となり得る道理がないのです。白熱した身を幾度も打たれて、鋼は強靭(きょうじん)さを備えるのです。
沈没しかけた船から荷物を投げ捨てるのは、取り返しの付かない過ちを重ねた結果です。彼らは強くなりたいと願っておきながら、実には脆弱(ぜいじゃく)化の方策を実践してしまったのです。道理を踏み外したその結果は、万人の周知とするところです。不完全であるからこそ求める動機が発生し、前進する意思が働くのです。不完全であることこそが人にとって価値のある要素であると、私は考えます。
第二次世界大戦の後も、優生思想に基づく「優生政策」は、小規模ではありましたが継続されていました。日本においても「優生保護法」が平成9年まで存続し、法改正により「母体保護法」となりました。この法律に関しても賛否両論ありますが、現在の社会の現状にあっては、女性の意思決定権を私は優先的に支持したいと考えています。
手あたり次第に試行錯誤する進化の中で人は生まれ、貧弱な体躯(たいく)で過酷な環境を生き延び、子孫を残すために悩みに悩んで、やがてその溝の中に「哲学の素」を見い出しました。さまざまな不可思議を不可思議であると認識し、答えを求め続け、ある時は真理を垣間見て、ある時は止めどなく迷走し、知識を積み重ね随分と便利な暮らしを人類は手に入れましたが、捕食者におびえ暗がりに隠れ住み、小枝から小枝へと逃げ回っていた頃の臆病で卑屈な性質を、どれ程までに克服することができているのでしょうか。
人類の英知が越えていかなければならないいくつもの課題のうち、最も克服しがたいのは己の正体を達観することだと考えています。
簡単にいえば、自分が不完全の出来損ないであるとは、おいそれと容認のできるものではありません。社会的地位の高く、あるいは経済的に豊かな、はたまた己の努力と成果を自負する者にはたわ言でありましょう。いかにもその功績は素晴らしいものであることに、全く異論の余地はありませんが、私の価値観においては、ものすごく頑張った「障害者」が手にした栄光であって、「健常者」だから成し遂げられたものではないと考えています。
思い通りにならない人生を誰かのせいにしたがるのが人の常であります。向上心の裏側で、あいつよりマシだと安堵(あんど)するのが人の性(さが)であります。誰かを見下すことで自己の優位性を誇示しようと計らうのが人の愚かさでしょう。悪癖は容易に治らないから悪癖と呼ばれます。
しかしながら、昔に比べれば随分と改善されてきたのも事実でしょう。個々の人の認識に今昔の目覚ましい違いは感じませんが、少なくとも日本社会全体の流れとしてはマシな方向に進んで来たと考えます。「集合知の歩み」と表現したくなります。
拡散され希釈されて、日常の表には現れないかすかなよどみを、私は肌で感じながら生活してきました。何の因果因縁かは知りませんが、たまたま彼を核として凝集してしまったのでしょう。口にしづらい、話題にしづらい事柄ではありますが、せめて義務教育の現場においては、主要なテーマとして思索を深めていただきたいものであります。
これはあくまでも私の個人的な肌感覚なのですが、子供の純粋であるがゆえの残酷で幼稚な理性では、障害者に対する悪感情を制御することは難しいでしょう。私が「インクルーシブ教育」に半信半疑である理由であります。
子供は大人の顔色を瞬時にくみ取ります。障害者をサポートしている職員が少しでも困ったそぶりを見せると、それが「障害者は負担」だとする印象につながりかねません。また、各家庭での会話の中で何気なしに言った言葉を、子供は意外な程にピックアップしているもので、それが障害者に否定的なものであれば、深く思慮することのないまま学校に持ち込んでくるものです。
児童期にそのように刷り込まれると、長期間にわたって修正困難であるように思います。社会正義などの「公共性」の概念が理解できる年齢、せめて中等教育以降に適用する方が望ましいと考えます。準備不足の危険性を軽視すべきではないと思います。
うかつに子供を神聖視すると、そのつけが障害を持つ児童に無慈悲な打撃となるかもしれません。教育現場において、一つや二つの成功体験を一般化してしまうのは早計に過ぎるかと思います。千差万別、全てがオーダーメードであろうと考えています。それを担うことのできるプロフェッショナルが、どの程度に拡充しているのでしょうか。無理難題を押し付けられる現場の教職員の方々も、また気の毒なのです。
障害者に無条件で優しくしろとか、過剰な好待遇をせよとか、そんなばかげた主張に、私は一切の賛同をしません。相手に不愉快な思いをさせて己は愉快な気分に浸りたいなどとは笑止千万の極みなのです。自らを惨めな存在におとしめてどうするのでしょうか、対等である以上の喜びを私は知らないのです。それぞれの場所、それぞれの立場で、持たざる者の意地を張り倒すしかないのだと思います。
私のこまやかな願いは、厚生労働省の公式見解として「健常者」という概念を否定していただけないかと思うのです。「障害者と健常者が共に」などと表現しているのが、まるで別の生き物を共生させようと苦心惨憺(さんたん)するサファリパークの運営会社の思惑のようで、胸くそが悪いのです。「健常者」を廃止し「軽微障害者」と再設定していただいて「普通障害者と軽微障害者が共に」であれば、溝も随分と狭くなるかと思うのです。
だからといって障害者差別がなくなるものでもないと考えています。障害者同士の間でさえ差別意識はあるのですから、人の業の深さは計り知れないのですよ。楽園から追放されたその時から、人は皆「神様規格」から外れた「わけあり物件」です。願わくば相互理解の遍(あまね)く広がりますようにとつぶやいてみるのですが、底辺貧乏無神論者の祈りは誰に届くのでしょうか。
ぜいたくをいわせていただけるなら、できればもう少し速く歩いてもらえると有り難いのですよ。人の寿命は結構短いのです。
返す返すも口惜しい事件です。いっそのこと忘れてしまいたいくらいです。しかしながら、忘却は過ちによって犠牲になられた方々に対する冒瀆(ぼうとく)でしょう。彼の主張、彼の衝動は、彼1人の特異なものではないからです。