Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

帰路~酔いどれ電停

2006-08-24 23:11:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!

今月はこれまで、私の周囲での色んな事共を交えながら、我が故郷の隣街を走る路面電車、豊橋鉄道市内線、東田(あずまだ)本線をざっと辿って参りました。途中の運動公園支線を含めても5km余。徒歩でも足に覚えのある方なら、約1時間強で踏破できる距離かも知れません。
終点の赤岩口は豊橋の東郊。ここから県道は上り坂となり、静岡県との境、多米(ため)峠へと通じます。ここからの浜名湖の眺めも中々ですね。赤岩口電停の近所にも寺社などがあり、又有名な葦毛湿原への徒歩コースにもなっている様です。が、これらの見所は又の機会に譲り、恐れながら再びJR豊橋駅へと戻る事にします。
帰路の電車は昨春廃止の名古屋鉄道の岐阜路線、美濃町線にいた801号。
この車輌の事は昨秋の鉄道記念日にても少し触れましたが、2000=平成12年夏、正に我が故郷にて落成した一部低床式の所謂LRV。
これからの路面電車の方向性が強く示され、中央扉はノンステップにて車椅子での乗降も容易です。又空気バネを使ったエア・サスペンションによる走行系の威力で大変走行音が抑えられ、発進時のモーター音も、殆んど聞えないレベルであるのは何度乗っても新鮮な驚きです。又、かつてこの線にて活躍した元名古屋市内線電車に用いられた、駆動輪の径を大きくして走破性を向上させるマキシマム・トラクションの仕組みがこの車輌にも取り入れられており、良き技術の伝承をも感じさせます。登場後僅か5年弱で岐阜を追われ、当地にて昨夏より再起を果たしています。

さて私は折々この線を往来している訳ですが、やはり電車の車窓より眺めていますと、道路を通行する人や車輌の余裕のなさを感じるのは事実です。
無理な右折、強引な合流、無神経な路肩の駐停車等々・・・。
歩行者にしても、電車や車の直前横断、歩行喫煙、及び歩道上での携帯電話使用など、どうもマナーの悪さばかりが目につきます。
電車と一般車のニアミスもしばしばで、乗車中片道で1回は、ムッとする事がありますね。現に1年に何度か、接触事故が起きている様です。
考えてみますと、やはりほんの僅かな不心得の集積が、大きな迷惑や危害、そして遺憾な事故へと繋がっている様な気がします。逆に申せば、各位の僅かな心がけ1つで取り除ける問題が多い訳ですね。
こうした問題を少しでも改善する為には教育と啓蒙が必要です。道徳教育の再建が叫ばれて久しいですが、未だ改善への道筋は見えて来ません。
「道徳」の話題が出るとすぐ「戦前の軍国主義復活に結びつく」として執拗な反対論が出て参りますが、方法さえ適切ならそんな心配はないでしょう。そうした反対のあり方こそ短絡的で憂慮すべき事だと思います。
こうした教育は本当は、親が子に対して行なうべきものの様ですが、「その親たる中高年が壊れてしまっている」とはお笑いの第一人者にして映画監督の北野 武さんと文学者の福田和也さんのご指摘になっている所です。
何としても大人向けの道徳教育を再建し、再び子孫を健全に導ける、そんな状況を呼び返さなければと強く思うのは、私だけではないでしょう。
(ご案内)当HP「HAKASEの隠し部屋」の自己紹介欄と、WEB写真帖の各作品中にて、路面電車801号の影像を載せておりますので、ご興味があればご参照下さる様。*(日本)*
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離合~酔いどれ電停

2006-08-21 23:52:00 | インポート
みさSAN今晩は。高校野球夏季大会における、駒沢大苫小牧高校の優勝試合はちと残念でしたね。ですが凄く内容の濃い試合。価値ある準優勝です。又来年に期待しましょう。所で今夏は当サークル仲間の親御様のお具合が優れない所が多い様ですね。
先日も触れた猫さんの所は、交代で看護に当っていらした姉上が遂に過労で倒れてしまった由。酷暑のこの時期に、誠に痛ましい限りです。親御様共々、1日も早いご快癒をお祈りすると共に、お1人で看護に当る猫さんの大過なきを心より望みたいものであります。勿論貴女もどうかご無理なく。

さて、今月ずっと触れている豊橋市内線。
戦後間もなく開通した、豊橋競輪場前までやって参りました。電停には単に「競輪場前」とのみ表示されています。
ここは路面電車の営業所があり、又2車分ある待機線には日中、朝の通勤通学輸送を終え、夕方の混雑に備えて鋭気を養うべく待機する電車の姿が見られます。もちろん一部の車輌であり、日中も間隔が開きこそすれ、絶え間なく運転されている訳ですが。

ここから先は単線となり、上下列車はこの電停にて必ず行き違いを行ないます。安全意識、信頼心など、人の持つ倫理観念が強く問われる光景です。無理をし、運行規則に反すれば、直ちに大きな事故に繋がってしまいます。この6月、東京都内で本当に路面電車の衝突事故を生じてしまった事は、本当に遺憾です。
競輪場前の次が井原。ここは道路交差点にも「井原電停」の名称が付けられています。ここで岩田運動公園へと向かう支線が右に分れ、南へと向かいますが、ここの右への分岐が実は我国の鉄道において、最も急峻なカーブです。半径実に11m!大型トラックやバスでも苦しい狭い交差点を、電車は正に、折れる様な感じで曲がって行きます。支線の終点、運動公園前電停は、交差点からも見通せます。
東へ暫く直進すれば、本来の終点、赤岩口へと達します。この辺りはもう、豊橋市の郊外と言った風情で、新興の住宅地や郊外型の小売店も見られます。

起点の豊橋駅前周辺から新川の辺りは昔も今も変わらぬ賑わいですが、豊橋市役所から東田にかけての商店街は、やや元気がない様です。これは地方都市に多い「空洞化」の影響なのでしょうか。最近、そして今後の動向が気になる所ではありますね。

もう1つ、豊橋の路面電車は軌道内への一般車乗り入れが原則禁止です。公共性を重んじる方向よりは当然の事であり、本当は昨春運行廃止となった岐阜市内もこうすべきでした。申したくはありませんが、岐阜市民には、どうもこうした「公共の足を市民レベルで守る」との危機意識に欠けていた嫌いがありますね。
昨日も大型小売店の1つが閉鎖に追い込まれた同市ですが、市民レベルで街の繁栄を守ると言う動きが強く求められつつある様に思います。この意識はこの後触れる「公共心」の問題とも関連して、とても大切な意識の様に思われます。*(日本)*
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幽霊列車・・・

2006-08-20 13:59:27 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜遅く、当地の南隣、三重県津市の西郊を走るJR名松(めいしょう)線にて、運行を終えたはずの列車が無人のまま、約8kmを走行する不祥事があった。

途中駅にて終点となった列車が翌朝の折り返しに備えて駐泊するも、制動が不十分(専門用語で手歯止めと呼ばれる車輪止めの使用が不徹底だった模様)だった為に到着後、駅地点がゆるやかな下り坂だった事もあり、動き出してしまったらしい。

幸いにも踏切の保安装置、警報や遮断機が正常に動作した為大事には至らなかったが、問題の列車は駐泊駅から離れた踏切そばで停止後に発見された由で、地方都市の郊外なら深夜帯も人や自動車の通行はそれなりにあるはずであり、何故異変の発見が遅れたのかは気になる。

事件を起こした列車の運行管理に当るJR東海は当然問責を受けるべきだが、それにしても周辺地域も今1つ、危機感に欠けていたのではないか。無灯火の列車が走るのは常識では考えられない事であり、かなり大きな走行音からも異変は察知できたはずだ。

もうこうなると「真夏の夜の幽霊列車」などと言う長閑な連想では済まされなくなる。何か事が起きてからでは遅いのだ。JR東海社に猛省を促すと共に、くれぐれもこうした事例に対し、無関心でいない様にしたいものである。Dscn1794

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沿革~酔いどれ電停

2006-08-19 15:57:00 | インポート
猫さん今日は。ようやく少し、休養できる日がある様になったのかな?ご両親の事につき、決して疎かにはできない事ですが、くれぐれもご自愛下さる様・・・。

さてさて、以前の日本航空機事故や、終戦の日の話などで、我々の臨時電車は途中の電停にて思わぬ長停車となってしまいました。今日は当路線、豊橋鉄道市内線の歴史に少し触れたく思います。

当路面電車の運営は、豊橋鉄道株式会社によって行なわれているのは良く知られる所ですが、この市内線こそ同社の歴史そのものであり、又存在理由でもあるのですね。
この私鉄、大正末期の発足当初は豊橋電気軌道と称していた様です。
1925=大正14年7月に、当時の鉄道省豊橋駅前より、豊橋市役所近くの札木と言う地点までと、南へ分岐する柳生橋までが初開通。これは昨春惜しまれつつ廃止となった、岐阜の路面電車に遅れる事14年の発進でした。同年中には今の国道1号沿いの東八町を経て、多米(ため)峠より浜名湖へ向かう県道沿いの東田(あずまだ)までが開通。これが戦前最後の延長となります。

1945=昭和20年6月の豊橋空襲にてほぼ全線が被災、翌1946=同21年2月まで半年強の休止を余儀なくされます。従いまして、終戦時は運行していなかった訳ですね・・・訂正。
戦後は良く復興し、1954=昭和29年までに豊橋競輪場前まで、そして1960=同35年に現在の終点、赤岩口へと到達します。

この間、自動車普及=モータリゼーションのあおりもあって、途中より分岐の柳生橋までの路線や、豊橋駅前より市民病院までの路線が廃止を余儀なくされましたが、現路線の東田本線は良く善戦し、1982=昭和57年には岩田運動公園への支線も完成、路面電車再興への布石となりました。更に1998=平成10年に、一時途切れていたJR豊橋駅前乗り入れを再び果したのは先述した通りです。
同社は路面電車の他にも事実上の本線、田原市へ向かう渥美線をも保有していますが、この路線は戦後、当地の大私鉄たる名古屋鉄道より移管を受けたもの。他には現存しませんが、三河山間部の鳳来町と設楽町とを結ぶ田口線をも一時保有していた事がありますね。

国道1号を東進した電車は東八町(ひがしはっちょう)と言う地点にて国道と分れ、斜め左に進路を取って浜名湖へ向かう県道を更に東へと向かいます。この先は上り坂で、軌道敷きの石畳がとても良い感じで続いています。当日記の読者各位にも、是非ご覧下されたい光景です。

上り切った所が東田坂上(あずまださかうえ)。この次の東田と競輪場前の各電停は安全地帯の完備されない岐阜市街の様な、直接路面にて乗り降りする構造。岐阜の時の危険な記憶を呼び覚まされる様な思いが致します。なるべく早急な改善を、是非願いたい所であります。(以下次回)。*(コメント)*
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追悼~酔いどれ電停

2006-08-15 09:19:00 | インポート
だいちさん、お早うございます。
今夏は近年でも屈指の猛暑となっています。お互い健康留意にて、何とか今月を乗り切りたいものです。今日8/15は終戦記念日ですね。昨年に続き、その事に少し触れさせて頂ければと思います。

速報ですが、先程小泉内閣総理大臣が、公約であった靖国神社をご参拝になりました。記帳は「内閣総理大臣」が明記された模様で、これまで5年間の任期中の大きな公約の1つが果された事となります。まずは同閣下のご意思を尊重したく思います。

先の大戦、大東亜戦争こと太平洋戦争の事共につきましては、これまでにも貴方と意見交換をさせて頂いて参りましたので、ここではなるべく概略に留めさせて頂こうと思います。

昨年も記させて頂いた記憶がありますが、戦争とは1枚のカードの表と裏の2つの面があると思います。

祖国の歴史と栄光を担い、又大きな貢献をも行なった「正」の面と、心ならずも進出駐屯した現地にて、多くの住民各位に少なからぬ犠牲を生じてしまった等の「負」の面とですね。これらを巨視的、公正的に見据えて評価し、本当に必要な場面には反省をも加えて総括して行く強い姿勢が必要なのでしょう。

これは貴方ともほぼ同じ見解であると信じますが、あの時代に祖国日本の取った行動は、決してその全てが侵略行為ではなかったものと信じます。例えば旧満州や台湾などにおける社会資本整備とかですね。

しかしながらそうした事実を中立公正に評価せず、戦勝国の一方的判断により戦争責任を裁いてしまったのが極東国際軍事裁判と言う事でしょう。インド最高の法学の権威、R・B・パール博士のご指摘にもある様に、国際法上大いに疑義があり、被告人全員無罪の可能性さえある同裁判をそのまま鵜呑みにする訳には断じて参りません。

不幸な点はこの一事に関し、周辺の中華人民共和国や大韓民国より、未だ正しい理解を得られていない事でしょう。
今春より作家の上坂冬子さんがTVや雑誌にて良くご発言になっている様に、我々は我国の戦没者表敬への姿勢につき、周辺を初めとする諸外国の深い理解を得られる様、これからも粘り強く、忍耐強い説明を繰り返し続けて参る必要があると、今は強く思います。

かつて戦争犯罪人のレッテルを貼られ、大戦を指導したとされる各位の問題をどうするか、などの難題が横たわってはいますが、お互いに理解する努力を怠らなければ、接点はいつの日か必ず見えて来る事と信じます。今は静かに、戦没及び戦災犠牲の各位のご冥福を祈る1日としたく思います。

原爆を投下された広島や長崎の街でもそうでしたが、あの日、豊橋の路面電車も戦火をくぐり抜け、黙々と走り続けていたはずです。そして終戦の日の今日は、あるいはその車内でも、追悼の祈りが捧げられているかも知れません。*(日本)*
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