Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

只今「焦土」です

2006-08-12 16:55:39 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨に向けた憂さ晴らしアホ読物「偽!桃太郎伝説」の連載が一段落した為、暫くお休みを頂いていた当ブログだが、約10日振りで近況でも書いてお茶を濁す事とします。

「偽!桃伝説」の終了直前に梅雨が明け(よって今夏の長梅雨は良い塩梅だと思っていたのだが・・・)、想像以上の猛暑となった。

ここ1週間は連日の真夏日と熱帯夜。深夜でも冷房が止められず、石油製品の高騰にて光熱費がかさんでいる所へ又頭痛の種が増えた。

毎夏恒例となった「夜の蝉時雨」もやや遅れはしたが、盛大に上演中。

甚だしい時には我が居所の網戸にまで止って鳴きやがる。深夜とあっては風情も何もなく、睡眠障害の元となるだけだ。

しかしながら防犯上ある程度の明るさは必要であり、こちらも痛し痒しである。何か良い方法はないものか?

明日明後日は悪友と長野方面へ遠出予定。英国での航空機テロ未遂事件もあって、直前で海外行きを諦めた方も多い様で、甲信越方面の宿は相当混み合っている様だ。

まあある程度の混雑や渋滞は覚悟すべきかも。読者各位もご健康とご安全に留意の上、有益な盆休みとせられたい。又、連休の叶わない各位には申し訳なく思う。この方々もどうかご無理なく・・・。Dscn1821

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命運~酔いどれ電停

2006-08-12 16:11:00 | インポート
すうじさん今日は。先程本日の貴日記を拝見し、今まだ衝撃の中にいます。
今日はそう、今を去る21年前、1985=昭和60年に発生した日本航空大阪行第123便、B747型旅客飛行機が関東北部に墜落、我国航空事故史上最悪の520名もの犠牲者を生じたのでありましたね。
先の大戦終結の月と同じとあって、どうしても陰になりがちな出来事ですが、こちらもやはり、決して風化させてはならない史実でありましょう。
この事に際し、貴方は本当に凄い体験をなさっていたのですね。これは初めて知り得た事実でした。
ご搭乗予定日の直前に決まった会議の為に、日時をご変更になった事が、結局は貴方の1つしかない命を救う結果となったのですね。しかしながらこの事を素直に喜んで良いのか、我が心は今も揺れているのが正直な所です。
他にも搭乗便変更により事故機に乗らず、難を逃れた方がある様ですが、その代わりに乗った方が尊い犠牲となった面がないとは言えないからでしょう。
当時私は、以前の勤務先の都合により関西は神戸に赴任しており、盆休みにて帰省していた当市中村区の実家にて、事故の第一報に接しました。
「レーダーより機影が消えた」との速報に初めは「何をバカな・・・国内線じゃないか!?」との想いが強く、俄かにはこの事態を受け入れる事ができませんでした。
「空飛ぶ不沈艦」にも例えられたB747型機の高いと言われた安全性の面からも、すぐには合点が行きませんでした。
「願わくば不時着」の望みも空しく、翌日同機の墜落、そしてその余りにも大きな悲劇が確認されました。貴日記を読んだ直後には、本当に言葉を失った程でした。
昨日、TVにて事故の特集記事が行なわれているのを拝見しました。
事故直前、極限の事態に追い込まれ、最期を悟った乗客各位の家族や知己に宛てた最後の想いが綴られたメモを拝見した時は、さすがに涙を禁じ得ませんでした。
私は幼少期の1966=昭和41年秋に、叔父を大きな交通事故にて失いましたが、この時感じたのはその時の想いと同じものでした。
家族親族、あるいは知人友人などの人と人との繋がりは、一朝事あればかくも簡単に断ち切られ、引き裂かれてしまうものかと一時は絶望の淵に立たされた思いがしたものでした。
叔父の死からも、この不幸からも学び得た事ですが、「安全に、絶対はない」と言う事ですね。
「絶対に落ちない」と言われた大型旅客機の墜落からも、残された我々はその事を強く肝に銘じ、日々を、そして貴方を初め色んな方々との交流を大切に生きなければと今は強く思います。特に叔父の死は、当時まだ装着義務のなかった拘束装置=シートペルトがあれば防げた事であり、自家用車にも乗る私にとり、必須の重い教訓となっています。
こうした心がけが、心ならずもお亡くなりになった犠牲各位への最大の弔意になるのではと思っております。
命運と言えば、豊橋市内線の路面電車も日々多くの方々と、それぞけの命運を乗せて走り続けています。
1日の乗車人員は数千人以上と言われ、今日もきっと色んな人生模様が往来し続けている事でしょう。*(コメント)*

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痕跡~酔いどれ電停

2006-08-09 22:48:00 | インポート
みさSAN今晩は。今夜の豊橋は熱いです。
真夏の熱帯夜もさる事ながら、同市中心部の東、岩田運動公園にて、我らが中日ドラゴンズ球団が、これも我々のサークルの盟主、らむSANやもう1つのお世話になっているサークルの主、すうじさんの地元代表たる広島東洋カープと激突、大変内容の濃い試合を見せてくれています。あ、今試合が終わりました。恐れながら中日の勝ちです。らむSANにすうじさん、ご免遊ばせ!
同所では年に1度のプロ試合とあって、大変に盛り上がった様です。JR豊橋駅や中心部への帰りの電車も増便は必至でしょう。観客各位の帰路のつつがなきを祈ります。
さて本日8/9も、かつての戦争の話題に触れない訳には参りません。
1945=昭和20年のこの日日中11am頃、九州長崎に史上2発目の原子爆弾が投下され、当初だけで7万数千もの犠牲者を生じました。
後遺症たる原爆症に苦しんだ揚句、落命された方々も少なくなく、改めてこの不幸な出来事の大きさを感じる所です。
更に貴女のいらす北の方でもこの日、大きな事件がありましたね。
同年の同月日、当時我国の実効支配下にあった満州に旧ソビエト連邦軍が侵攻、この地方の他本来は我国の固有領土だった南千島の四島まで占領、以後今日までこの状態は解消していません。
勢いに乗る旧ソビエトは当初、北海道の占拠をも要求していたと言われ、これがもし実現しておれば、あるいは貴女と私はこの様に、気軽に交信できない間柄になってしまっていたかも知れません。
又、悪くすれば地続きで、同じ線路や道路で土地が繋がっているのに、朝鮮半島やかつてのドイツ国などの様に、軍事境界線によって往来叶わぬ状況下に置かれてしまったかも知れないのです。
当時の強大国の思惑に動かされた面も多くあるものの、同じ統一国家に生きてある事を、今は感謝しなければならないのかも知れませんね。
今夜の豊橋の路面電車、先に終点の1つをご紹介してしまいましたが、まだこの小旅行、半分来た位の所です。この続きは又次回にでも。又この時期、豊橋市内線には夜ともなると予約制のビアホール列車が出現します。流れる夜景を眺めながらの一杯には憧れますね。いずれその内にと思っています。この事が「酔いどれ電停」の副題の由来なんですね。*(ビール)*

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模様~酔いどれ電停

2006-08-08 23:10:00 | インポート
猫さん今晩は。今春以来、ご両親のお具合が優れず大変な様ですね。
今は少し落ち着いたご様子ですが、姉上と交代での介護は想像を絶するご苦労があったのではないでしょうか。
我が両親も既に高齢。何時私が貴女の立場になるか解りません。
介護保険制度は今春も見直され、結局は弱者に厳しい方向ではないかとの批判も多い様ですが、要は極力利用しないで済めば、それに越した事はないと言う事でしょう。
どうかご無理なく。大過なきをお祈り致します。
昨夜ですが、ある知友のサイトにて「抱きしめると言う会話」について触れていらっしゃいましたので、ここで少しご紹介しておきますね。
記事は「子供の頃に抱きしめられた記憶は幾つになってもその方の心の大切な部分に強く残り、優しさや配慮、して良い事といけない事の分別。そして又、生死を分ける程の苦悩に陥った時の心の支えになる」とのAC=公共広告機構のメッセージを引用し「しかしながらそれは、大人とて同じではないのか?」とのご指摘でありました。
私はこれを読んで、ちと考え込んでしまいました。
大人と言えばまず思い浮かぶのは「自己責任」。つまり「自らの事は自らの責任にて行動する」ですね。これは確かに一方の真理でありましょう。
しかしながら他方、人の心はそうそう強いものではないのも事実です。「人は弱いものよ」との歌詞もある様に、やはり誰かのお世話にならねば、誰かと支えあわずにはいられない面も厳然と存在するのですね。「俺は独立独歩」とは言ってもやはり限界があり、それは認めよと言う事でしょう。
今、私が当事者となっているのは両親であり、親族であり、又交流の長い悪友達もある程度はそうでしょう。
既に高齢の両親も、心の中では未だに、子供の我々に「頼られる部分があって欲しい」との願望があるのを感じます。これはどなたも似た状況なのでしょうか。
人の親でもなければ夫でもない私です。余り大きな事は申せませんが、やむを得ない場合は、子供の様に頼っても良い場合すがあるのだと思うと、少し気が楽になった様な気がします。勿論みだりに行なうべきではありませんが、「困った時はお互い様」の諺をも思い出し、少しホッとしている所です。
あっ・・・貴女も似た事を過日日記に記していらっしゃった様な記憶がありますね。
・・・て事は、改めて詳しく申すまでもなかったか・・・失礼。
所で国道1号に合流した豊橋市内線の電車は再び東に進路を取り、約1km先の東八町までほぼ直線コースを辿ります。
中間には豊橋公園があり、電停も設置されています。
この6月には、ここの名物、夏の夜店並びが開かれ見物に参ったのですが、混雑が激しく、心ならずも写真撮りは諦めました。ただここにも、そして混み合う電車内にも又、多くの人間模様がありました。
これからは花火の季節。同じサークルのえいさんも励まして下さいましたが、今年こそは何とかお目にかけられる絵をものにしたく思います。
ご多忙の折、当記事はあくまでお時間のある折にご一読下さる様・・・。*(三日月)*
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記憶~酔いどれ電停

2006-08-06 23:41:00 | インポート
すうじさん今晩は。当日記では初めて、貴方宛の伝言記事を記します。日付的に当然かも知れませんが。
そう、今から60余年前の1945=昭和20年のこの日、貴方がお住いの広島県の県都は人類史上未曾有の大惨禍に見舞われたのでしたね。
この日朝、広島県上空に飛来した合衆国軍機より投下された新型爆弾1発は8am過ぎに広島市上空にて炸裂、20万人を超える犠牲を生じる大惨事を引き起こしました。これが「原爆忌」ですね。我々日本人が決して忘れてはならない日付でしょう。
この事は一昨年、去年と毎年欠かさず触れて参りました。今朝も現地では追悼式典が厳かに催されましたが、核保有国よりの参加が僅かであるのは気になる所です。あの時の当事国、米合衆国は恐らく1度も参加していないのではないでしょうか。又、原爆に被爆した桜より分けられた苗木が手折られたり平和公園に供えられた千羽鶴が放火されるなど、当時の歴史をわきまえない不祥事の頻発も遺憾ですね。
当時の広島は、半世紀は復興不可能と言われた程の惨状だった様ですね。しかしながら都市の活力とは凄いものがありますね。
原爆投下の僅か数日後には、再興への動きが始まります。その後の高度経済成長期にかけての驚異的な復興はもう、語るまでもありませんよね。ただ、そうした現在の繁栄は、戦中の多大な犠牲の上に成り立っている歴史的事実は、くれぐれも記憶に留めておかなければならないと肝に銘じている所です。
所で同じ被爆地長崎もそうですが、広島と共に路面電車が市街地交通の主役を張っています。軌道内の一般車乗り入れ禁止措置に代表される優先走行策と、観光客にも利用し易い様配慮された営業策が奏功している様です。我が街とも言える豊橋にても、こうした施策を多く採り入れて、路面電車が都市交通の主戦足り得る様対策を願いたい所です。
新川電停を発った電車は交差点を左折、一旦進路を北に取って次の札木(ふだぎ)電停の北で国道1号と合流、右折後再び東へと進みます。札木の次の電停が豊橋市役所前。
ここの傍に建つ豊橋公会堂は、当地では有名な西洋式建築の1つですが、ドーム風の屋根が被爆前の原爆ドームにちょっと似た所がありますね。
と言う所で夏の有り難くない名物「夜の蝉時雨」が開演してしまいました。これから未明まで本当に蝉の大合唱!当居所周辺が深夜でも明るいせいです。
今夜は果たして、眠れるかな?*(日本)*

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