「お客さん。着いたよ」
運転手の声が、夢世界を遊んでいた頭を少し蘇らせた。タクシーに乗り込む前からしっかりと握り締めていた千円札を前方に突き出した。
「これで足りる?」
「あ、どうも。えー、よれよれだよ。これだから……」
運転手のぶつぶつ言う声が耳に入る。
「すみません。酔ってて」
「いや、ええですよ。はい、有難うございました。二百五十円のお釣り」
少しでも早く迷惑なお客とおさらばしたいのが、ありありだった。
Uターンしたタクシーが立ち去る。尾灯を見送ると、またしても酔いが頭を擡げた。
フラフラと足を前に運んだ。いくら酔っていても、自分が住むアパートは間違わない。不思議だが、いつもそうだった。
神納壮之は元より酒に強くない。相手に勧められない限り、自分から呑む方ではない。ただ勧められると、断れない。おかげでここ数日は度を越してしまった。今夜も正体不明になる寸前まで呑むはめに陥った。
借りている部屋は二階の一番端にある。錆の目立つ鉄の階段を覚束ない足元で上った。
「あ?」
薄暗い通路の行き止まりに黒い影があった。壮之の部屋に背を寄り掛からせている。顔が陰になって誰かは分からない。
「……うちに用事があるのかな?」
ちょっと冗談めいた口調で訊いた。酔いで体がふらつくのを止められない。
「遅いのう。いったい何しとんのや」
聞き覚えがあった。しかし、深酔いした頭でピンと来るのは無理な話である。
「遅い?他人に言われる筋合いはあらへんわ。遅かろと早かろと、カラスの勝手…でしょ。ん?お宅、誰やいね?」
「あほ!人の顔も分からんまで飲みくさってからに。早よ鍵を出さんかい」
「鍵?……ああ、鍵ね。鍵なら、ここに……ちゃんとあります!」
壮之がポケットから引っ張り出した鍵を、男は無言で引ったくった。
「あ!何すんねん」
「ぼけ。少しは人様の迷惑を考えんかい。大声出しくさってからに。さあ、さっさと部屋に入れ!」
壮之は体を抱えられて、やっと相手の正体を知った。
「おやじ?」
「そうや、わしや。やっと分かりくさったわ?この親不幸もんが」
「……い、いつ出て来たんや?」
「もう、話は後や。さあ、入れ!」
放り込まれた壮之は、玄関口にしゃがみ込んだ。瞬間、彼の意識は別世界に飛んだ。
「ほんまにだらしない奴や。こんな生活しとるんやったら、田舎へ連れて帰らなあかんわ」
壮之の父親、耕三は一人呟いた。壮之は幸せそうな高鼾をかいている。
けたたましい目覚まし時計に壮之は叩き起こされた。半身を起こした壮之の目に、胡坐をかいて睨みつける父の姿が飛び込んだ。いっぺんにしゃんと意識が戻った。
「……やっぱり……夢やなかったんか?」
「下らんこと言うとらんと、さっさと起きんかい。もう八時になるぞ」
「勘弁してや。まだ早いわ」
「ええ加減にせんかい!この道楽者が」
耕三はかけ布団をめくり取った。
朝食が用意されていた。昔は飲食店をやっていた耕三にはお手の物だった。白いご飯に味噌汁と納豆、法蓮草のお浸しにハムエッグと食卓に並んだ。
「どうせ朝飯などまともに食っとらんのやろう。来る時に食材を持って来といたんじゃ。今朝はちゃんと食え」
まるで母親の言い分である。仕方がなかった。壮之の母は彼が十二歳の時に亡くなった。以来、耕三が二役を器用にこなして来た。
「今日は、わざわざ何の用なんや?」
納豆を捏ねながら、壮之は訊いた。大よそ見当は付いている。つまりは念押しだった。
「お前に、ええ話があるんや。別嬪さんやぞ」
やはり!耕三は二時間以上かけて兵庫県からの来阪だ。何か魂胆があって然るべきだった。これまでの来阪も縁談話だった。
「四十近い男が女っ気なし。放っておけるかい。いい加減に所帯持ってくれんと、わしゃ死ねんで。それにのう。今度の相手は、初婚じゃ。二度とないぞう」
「初婚でも出戻りでも同じや。断ってくれたらええが。俺は俺でちゃんとやってるさかい。約束してる女も、ちゃんとおるわい」
壮之は意思に反したデカい口を叩いた。
「夕べのザマを見せられて信じれるかい。仕事かて、なんや訳の分からんケッタイなモンしくさって。田舎で百姓やっとる方がまだマシやわ」
壮之は舞台製作の個人会社で働いている。注文に応じて、ドロップ幕に背景を描き、装置を仕上げ、照明のプランを練る。自分では、いっぱしの舞台屋を気取っている。他にアルバイトをしなければ暮らしていけない収入しかないが、プライドだけは人に負けないものを持っている。
「おやじに俺の仕事は分からん」
「あほ抜かせ。ちゃんとした稼ぎものうて、寄ってくる物好きな女はおらんやろ」
「ちゃんとおる」
「ほな、わしに会わせてみい、ほんまにおるんやったらな」
「ああ。会わしたるわい、いつでも」
売り言葉に買い言葉である。壮之は抜き差しならぬ立場に追い込まれた。耕三に付き合っている女を紹介する方向に話は進んだ。
「おやじを納得させて田舎に帰さなあかん。ええ知恵ないか?」
壮之が相談を持ちかけたのは、旧知の湧永浩志。アマ劇団オスカのリーダーである。オスカの公演に関する製作面は壮之の会社が丸ごと引き受けている。直接劇団と接するのは、壮之の役割だった。五年以上の付き合いになる。湧永とは、もうツーカーの仲なのだ。
「しゃーないなあ。壮ちゃんの頼みや、何とかするか。うちの女の子に芝居させたるわ」
「そうか。恩に着るで」
「それで、どの子がええ?壮ちゃんの恋人やからな。好みの相手やないと、失敗するで。あのおやじさん。しっかりしとるから、そう簡単に引っかからんぞ。ぬかりのないように手筈を整えるんが先決や」
湧永は面白がっている。前に来阪した耕三を誘って、湧永を含めた三人で居酒屋に行った。呑み助の耕三と湧永は芋焼酎を呑みあって意気投合。だから、耕三を割と理解していた。
「相沢有紀ちゃん、どないやろ?あの子、やって呉れるんやったら、頼んでーな」 劇団オスカの舞台装置を製作するたびに、いつも手伝ってくれる有紀。公演では、ほんの端役ばかりだが、生真面目に取り組んでいる姿には好感が持てた。平凡な顔立ちだが、女性らしい優しさをちゃんと持ち合わせている。話も気も結構合う相手だ。個人的に外で会いたいと思ったりもするが、どうも気後れして行動に移せずにいる。断られるのが怖いのだ。
「へえ。有紀ちゃんねえ?ええ選択肢やがな」
湧永は意味ありげにほくそ笑んだ。
「はじめまして、相沢有紀です。神納さんに、いつもよくして頂いてます」
何の打ち合わせも出来なかったのに、有紀は巧みに耕三と接した。さすが劇団員である。
口だけではない。交際の深さをそつなく見せた。有紀は壮之の部屋のキッチンに立った。手際よく食事を用意する。今時のメニューではない、ちゃんとした家庭料理だった。
「得意なのは煮っころがしで、シチューやグラタン好きじゃないから。完全におばあちゃんなんですよ、わたし」
有紀の控え目な説明に、耕三の顔は綻んでいる。気に入ったらしい。「旨い旨い」と平らげては、機嫌よく饒舌になった。
「なんで、もっと早う紹介してくれなんだんや。ええ娘さんやないか」
「ま、まあな。安心したやろが」
ホッとした。これで耕三は家に帰ってくれるだろう。
「そいで結婚はいつする?」
「え?」
壮之はわが耳を疑った。
「結婚式や、結婚式。なんやったら、わしがすぐ手配したる。ええな?」
思わぬ方向への矛先に壮之は慌てた。
「ま、待ってや。結婚は……彼女の方の考えもあるさかい。いくら俺がその気になっても」
「あほ。はっきりせんやっちゃなあ。のう、有紀さん。はよ一緒になりたいやろが」
いきなり問われた有紀は顔を赤らめた。彼女のはにかみぶりが、壮之には意外だった。
「見ろ、壮之。有紀さんは、その気やないか。まかしとけ、段取りはわしが進めたる」
「あ、あの……?」
強引な父親に、壮之は口あんぐりとなった。
「はははは。そいつは愉快や」
湧永は腹を抱えて笑った。他人事だから笑っていられる。
「有紀ちゃんに迷惑かけてしもてからに」
壮之は口を歪めて、珈琲を啜った。
同じ年代なのに、湧永は女性にモテる。ちゃんと家庭を持ちながら、ほかに何人もの女友達がいる。実に不公平極まりない。
「実はな、壮ちゃん」
「何や?」
「お前、有紀ちゃん、どない思うてる?」
「え?」
湧永はにやりと笑った。
「あの話、お前の親父さんも承知の上なんや。頼まれてなあ、断れなんだ。それでお前が心憎からず思てる相手を選んだんやけどな。間違うてなかったやろ、有紀ちゃんで。あのなあ。有紀ちゃん、お前、いい人やて言うてたぞ。ありゃあ、お前に好意を間違いなく持っとるわ」
壮之はまたしても言葉を失った。騙しているはずが、騙されていたのは、自分だった。
「済みませんでした。私……」
有紀が部屋の入り口から顔を覗かせた。彼女もすべてを心得た上でのお芝居を……いや、嘘のない行動を見せた訳だ。正直どう思っているのか?彼女の口から訊きたい。
「さあ、どないする?男の決断、見せてみろ」
湧永は真剣な顔に変わった。もう冗談は終わったのだ。湧永を見やり、次に有紀に目を移した。優しく相手を思いやる笑顔はいつもと同じ。彼女の魅力が手の届くところにあった。壮之は拳を握りしめた。覚悟は決まった。
「こんな僕でもええんか?」
声が少し上擦っている。我ながら情けない。
有紀が頷いた。瓢箪から駒が出た。騙したつもりで騙された。それで幸運を手繰り寄せた。これが「結果オーライ!」てヤツだ。
田舎の道は、壮之が大阪へ向かったあの日のままだった。両脇に広がる田圃は、黄金色の稲穂が波打っている。じきに収穫だ。
「すごい田舎で、ビックリしたんちゃうか?」
「ちっとも。神納さんが、ここの風景にピッタリなんに感心してるんよ」
壮之は思わず表情を崩した。彼女といると、不思議に優しくなる。耕三は息子の変化を決して見逃すまい。そして笑って茶化すだろう。
「騙されて得するヤツがおるんやのう」と。
運転手の声が、夢世界を遊んでいた頭を少し蘇らせた。タクシーに乗り込む前からしっかりと握り締めていた千円札を前方に突き出した。
「これで足りる?」
「あ、どうも。えー、よれよれだよ。これだから……」
運転手のぶつぶつ言う声が耳に入る。
「すみません。酔ってて」
「いや、ええですよ。はい、有難うございました。二百五十円のお釣り」
少しでも早く迷惑なお客とおさらばしたいのが、ありありだった。
Uターンしたタクシーが立ち去る。尾灯を見送ると、またしても酔いが頭を擡げた。
フラフラと足を前に運んだ。いくら酔っていても、自分が住むアパートは間違わない。不思議だが、いつもそうだった。
神納壮之は元より酒に強くない。相手に勧められない限り、自分から呑む方ではない。ただ勧められると、断れない。おかげでここ数日は度を越してしまった。今夜も正体不明になる寸前まで呑むはめに陥った。
借りている部屋は二階の一番端にある。錆の目立つ鉄の階段を覚束ない足元で上った。
「あ?」
薄暗い通路の行き止まりに黒い影があった。壮之の部屋に背を寄り掛からせている。顔が陰になって誰かは分からない。
「……うちに用事があるのかな?」
ちょっと冗談めいた口調で訊いた。酔いで体がふらつくのを止められない。
「遅いのう。いったい何しとんのや」
聞き覚えがあった。しかし、深酔いした頭でピンと来るのは無理な話である。
「遅い?他人に言われる筋合いはあらへんわ。遅かろと早かろと、カラスの勝手…でしょ。ん?お宅、誰やいね?」
「あほ!人の顔も分からんまで飲みくさってからに。早よ鍵を出さんかい」
「鍵?……ああ、鍵ね。鍵なら、ここに……ちゃんとあります!」
壮之がポケットから引っ張り出した鍵を、男は無言で引ったくった。
「あ!何すんねん」
「ぼけ。少しは人様の迷惑を考えんかい。大声出しくさってからに。さあ、さっさと部屋に入れ!」
壮之は体を抱えられて、やっと相手の正体を知った。
「おやじ?」
「そうや、わしや。やっと分かりくさったわ?この親不幸もんが」
「……い、いつ出て来たんや?」
「もう、話は後や。さあ、入れ!」
放り込まれた壮之は、玄関口にしゃがみ込んだ。瞬間、彼の意識は別世界に飛んだ。
「ほんまにだらしない奴や。こんな生活しとるんやったら、田舎へ連れて帰らなあかんわ」
壮之の父親、耕三は一人呟いた。壮之は幸せそうな高鼾をかいている。
けたたましい目覚まし時計に壮之は叩き起こされた。半身を起こした壮之の目に、胡坐をかいて睨みつける父の姿が飛び込んだ。いっぺんにしゃんと意識が戻った。
「……やっぱり……夢やなかったんか?」
「下らんこと言うとらんと、さっさと起きんかい。もう八時になるぞ」
「勘弁してや。まだ早いわ」
「ええ加減にせんかい!この道楽者が」
耕三はかけ布団をめくり取った。
朝食が用意されていた。昔は飲食店をやっていた耕三にはお手の物だった。白いご飯に味噌汁と納豆、法蓮草のお浸しにハムエッグと食卓に並んだ。
「どうせ朝飯などまともに食っとらんのやろう。来る時に食材を持って来といたんじゃ。今朝はちゃんと食え」
まるで母親の言い分である。仕方がなかった。壮之の母は彼が十二歳の時に亡くなった。以来、耕三が二役を器用にこなして来た。
「今日は、わざわざ何の用なんや?」
納豆を捏ねながら、壮之は訊いた。大よそ見当は付いている。つまりは念押しだった。
「お前に、ええ話があるんや。別嬪さんやぞ」
やはり!耕三は二時間以上かけて兵庫県からの来阪だ。何か魂胆があって然るべきだった。これまでの来阪も縁談話だった。
「四十近い男が女っ気なし。放っておけるかい。いい加減に所帯持ってくれんと、わしゃ死ねんで。それにのう。今度の相手は、初婚じゃ。二度とないぞう」
「初婚でも出戻りでも同じや。断ってくれたらええが。俺は俺でちゃんとやってるさかい。約束してる女も、ちゃんとおるわい」
壮之は意思に反したデカい口を叩いた。
「夕べのザマを見せられて信じれるかい。仕事かて、なんや訳の分からんケッタイなモンしくさって。田舎で百姓やっとる方がまだマシやわ」
壮之は舞台製作の個人会社で働いている。注文に応じて、ドロップ幕に背景を描き、装置を仕上げ、照明のプランを練る。自分では、いっぱしの舞台屋を気取っている。他にアルバイトをしなければ暮らしていけない収入しかないが、プライドだけは人に負けないものを持っている。
「おやじに俺の仕事は分からん」
「あほ抜かせ。ちゃんとした稼ぎものうて、寄ってくる物好きな女はおらんやろ」
「ちゃんとおる」
「ほな、わしに会わせてみい、ほんまにおるんやったらな」
「ああ。会わしたるわい、いつでも」
売り言葉に買い言葉である。壮之は抜き差しならぬ立場に追い込まれた。耕三に付き合っている女を紹介する方向に話は進んだ。
「おやじを納得させて田舎に帰さなあかん。ええ知恵ないか?」
壮之が相談を持ちかけたのは、旧知の湧永浩志。アマ劇団オスカのリーダーである。オスカの公演に関する製作面は壮之の会社が丸ごと引き受けている。直接劇団と接するのは、壮之の役割だった。五年以上の付き合いになる。湧永とは、もうツーカーの仲なのだ。
「しゃーないなあ。壮ちゃんの頼みや、何とかするか。うちの女の子に芝居させたるわ」
「そうか。恩に着るで」
「それで、どの子がええ?壮ちゃんの恋人やからな。好みの相手やないと、失敗するで。あのおやじさん。しっかりしとるから、そう簡単に引っかからんぞ。ぬかりのないように手筈を整えるんが先決や」
湧永は面白がっている。前に来阪した耕三を誘って、湧永を含めた三人で居酒屋に行った。呑み助の耕三と湧永は芋焼酎を呑みあって意気投合。だから、耕三を割と理解していた。
「相沢有紀ちゃん、どないやろ?あの子、やって呉れるんやったら、頼んでーな」 劇団オスカの舞台装置を製作するたびに、いつも手伝ってくれる有紀。公演では、ほんの端役ばかりだが、生真面目に取り組んでいる姿には好感が持てた。平凡な顔立ちだが、女性らしい優しさをちゃんと持ち合わせている。話も気も結構合う相手だ。個人的に外で会いたいと思ったりもするが、どうも気後れして行動に移せずにいる。断られるのが怖いのだ。
「へえ。有紀ちゃんねえ?ええ選択肢やがな」
湧永は意味ありげにほくそ笑んだ。
「はじめまして、相沢有紀です。神納さんに、いつもよくして頂いてます」
何の打ち合わせも出来なかったのに、有紀は巧みに耕三と接した。さすが劇団員である。
口だけではない。交際の深さをそつなく見せた。有紀は壮之の部屋のキッチンに立った。手際よく食事を用意する。今時のメニューではない、ちゃんとした家庭料理だった。
「得意なのは煮っころがしで、シチューやグラタン好きじゃないから。完全におばあちゃんなんですよ、わたし」
有紀の控え目な説明に、耕三の顔は綻んでいる。気に入ったらしい。「旨い旨い」と平らげては、機嫌よく饒舌になった。
「なんで、もっと早う紹介してくれなんだんや。ええ娘さんやないか」
「ま、まあな。安心したやろが」
ホッとした。これで耕三は家に帰ってくれるだろう。
「そいで結婚はいつする?」
「え?」
壮之はわが耳を疑った。
「結婚式や、結婚式。なんやったら、わしがすぐ手配したる。ええな?」
思わぬ方向への矛先に壮之は慌てた。
「ま、待ってや。結婚は……彼女の方の考えもあるさかい。いくら俺がその気になっても」
「あほ。はっきりせんやっちゃなあ。のう、有紀さん。はよ一緒になりたいやろが」
いきなり問われた有紀は顔を赤らめた。彼女のはにかみぶりが、壮之には意外だった。
「見ろ、壮之。有紀さんは、その気やないか。まかしとけ、段取りはわしが進めたる」
「あ、あの……?」
強引な父親に、壮之は口あんぐりとなった。
「はははは。そいつは愉快や」
湧永は腹を抱えて笑った。他人事だから笑っていられる。
「有紀ちゃんに迷惑かけてしもてからに」
壮之は口を歪めて、珈琲を啜った。
同じ年代なのに、湧永は女性にモテる。ちゃんと家庭を持ちながら、ほかに何人もの女友達がいる。実に不公平極まりない。
「実はな、壮ちゃん」
「何や?」
「お前、有紀ちゃん、どない思うてる?」
「え?」
湧永はにやりと笑った。
「あの話、お前の親父さんも承知の上なんや。頼まれてなあ、断れなんだ。それでお前が心憎からず思てる相手を選んだんやけどな。間違うてなかったやろ、有紀ちゃんで。あのなあ。有紀ちゃん、お前、いい人やて言うてたぞ。ありゃあ、お前に好意を間違いなく持っとるわ」
壮之はまたしても言葉を失った。騙しているはずが、騙されていたのは、自分だった。
「済みませんでした。私……」
有紀が部屋の入り口から顔を覗かせた。彼女もすべてを心得た上でのお芝居を……いや、嘘のない行動を見せた訳だ。正直どう思っているのか?彼女の口から訊きたい。
「さあ、どないする?男の決断、見せてみろ」
湧永は真剣な顔に変わった。もう冗談は終わったのだ。湧永を見やり、次に有紀に目を移した。優しく相手を思いやる笑顔はいつもと同じ。彼女の魅力が手の届くところにあった。壮之は拳を握りしめた。覚悟は決まった。
「こんな僕でもええんか?」
声が少し上擦っている。我ながら情けない。
有紀が頷いた。瓢箪から駒が出た。騙したつもりで騙された。それで幸運を手繰り寄せた。これが「結果オーライ!」てヤツだ。
田舎の道は、壮之が大阪へ向かったあの日のままだった。両脇に広がる田圃は、黄金色の稲穂が波打っている。じきに収穫だ。
「すごい田舎で、ビックリしたんちゃうか?」
「ちっとも。神納さんが、ここの風景にピッタリなんに感心してるんよ」
壮之は思わず表情を崩した。彼女といると、不思議に優しくなる。耕三は息子の変化を決して見逃すまい。そして笑って茶化すだろう。
「騙されて得するヤツがおるんやのう」と。