いきなり涙は沸き上がった。大げさではない。父の目は、みるみる涙に覆われた。
「ウ、ウ、ウ……」
何かを訴えているが、言葉にならない。口惜しさが、口をわなわなと震わせた。
「おじいちゃん、泣いてる。どうしたん?」
話しかけた妻の声が届いているのかどうか、父の涙は、一向に止まらない。父が涙を流すのは稀だ。これまでに三度しか見ていない。
不肖の息子、わたしが仕出かした不祥事で顔が上げられずにいると、背後にその嗚咽は聞こえた。いや感じた。唇をかみしめて耐える父の口から洩れる、音を伴わない嗚咽の直撃に、頭は空白になった。
確かめようのない父の涙は、不肖の息子の心を改めさせるに充分だった。七十直前に至る半生、間違いを起こしかけるたびに、父の音なし嗚咽が脳裏に蘇り、物事の善悪を思い出させた。おかげで、いっぱしの不良にならずに済んだ。
二度目は兄の結婚式。新郎新婦に感謝の言葉を受けた瞬間、目を潤ませた父を目撃した。
その兄は事故死した。父に仕込まれてブリキ職人になると、着実に後継者の道を歩んでいた最中だった。仕事に出向いた現場で、高所から落下。即死だった。父の目前で、起きてはならぬ悲劇は起きてしまった。
不思議なことに、兄の死から葬儀、法事に至るも、父は一切涙を見せなかった。その心中を、いまだに理解できないでいる。
三度目の涙は、不肖の息子の結婚式だった。結婚と無縁でしかなかった次男の奇跡に、父は熱い涙を流した。その涙が、結婚生活を三十六年維持したいまを迎えさせた。
すべて子供のために流した涙だった。寡黙な性格の父との会話は、「あー」「うー」おー」で殆ど通じた。そんな父が流す特別な涙は、感謝してもし足りないものだった。
今回目撃したのは、父が自身のために流す涙だった。失われた言葉が託されていた。
脳梗塞に倒れた父。前日までグランドゴルフを楽しんでいた。九十五歳とは思えぬ矍鑠ぶりが、突然絶たれた。
「ホールインワンしたんやど、わし」
偶然に過ぎなくても、よほどの感激だったのだ。もう一回を期した父の挑戦は、続いていた。その中途で、すべてが終了した。
車いすに乗り、自由にならない四肢を踏ん張る試みを、繰り返す父を感じた時だった。父は涙で訴えた。ボロボロと……そう、確かにボロボロと流した。無念の涙だった。
「おじいちゃん、つねよっさんが来とるよ。分かってる?おじいちゃんの息子だよ」
妻の声は、確かに届いた。声に藩王らしきものを見せた父の目玉が証明している。
「分かってるんだよね。おじいちゃん、分かってるんだよね」
単純に喜ぶ妻に、涙がきらりと光った。
翌日、脳梗塞の再発をみた。父の涙は、あっけなく奪われてしまった。そう永遠に!
「ウ、ウ、ウ……」
何かを訴えているが、言葉にならない。口惜しさが、口をわなわなと震わせた。
「おじいちゃん、泣いてる。どうしたん?」
話しかけた妻の声が届いているのかどうか、父の涙は、一向に止まらない。父が涙を流すのは稀だ。これまでに三度しか見ていない。
不肖の息子、わたしが仕出かした不祥事で顔が上げられずにいると、背後にその嗚咽は聞こえた。いや感じた。唇をかみしめて耐える父の口から洩れる、音を伴わない嗚咽の直撃に、頭は空白になった。
確かめようのない父の涙は、不肖の息子の心を改めさせるに充分だった。七十直前に至る半生、間違いを起こしかけるたびに、父の音なし嗚咽が脳裏に蘇り、物事の善悪を思い出させた。おかげで、いっぱしの不良にならずに済んだ。
二度目は兄の結婚式。新郎新婦に感謝の言葉を受けた瞬間、目を潤ませた父を目撃した。
その兄は事故死した。父に仕込まれてブリキ職人になると、着実に後継者の道を歩んでいた最中だった。仕事に出向いた現場で、高所から落下。即死だった。父の目前で、起きてはならぬ悲劇は起きてしまった。
不思議なことに、兄の死から葬儀、法事に至るも、父は一切涙を見せなかった。その心中を、いまだに理解できないでいる。
三度目の涙は、不肖の息子の結婚式だった。結婚と無縁でしかなかった次男の奇跡に、父は熱い涙を流した。その涙が、結婚生活を三十六年維持したいまを迎えさせた。
すべて子供のために流した涙だった。寡黙な性格の父との会話は、「あー」「うー」おー」で殆ど通じた。そんな父が流す特別な涙は、感謝してもし足りないものだった。
今回目撃したのは、父が自身のために流す涙だった。失われた言葉が託されていた。
脳梗塞に倒れた父。前日までグランドゴルフを楽しんでいた。九十五歳とは思えぬ矍鑠ぶりが、突然絶たれた。
「ホールインワンしたんやど、わし」
偶然に過ぎなくても、よほどの感激だったのだ。もう一回を期した父の挑戦は、続いていた。その中途で、すべてが終了した。
車いすに乗り、自由にならない四肢を踏ん張る試みを、繰り返す父を感じた時だった。父は涙で訴えた。ボロボロと……そう、確かにボロボロと流した。無念の涙だった。
「おじいちゃん、つねよっさんが来とるよ。分かってる?おじいちゃんの息子だよ」
妻の声は、確かに届いた。声に藩王らしきものを見せた父の目玉が証明している。
「分かってるんだよね。おじいちゃん、分かってるんだよね」
単純に喜ぶ妻に、涙がきらりと光った。
翌日、脳梗塞の再発をみた。父の涙は、あっけなく奪われてしまった。そう永遠に!