こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

調理場・その1

2015年05月31日 00時31分00秒 | 文芸
坂手将太は刺身包丁でマグロの柵をひき続けた。三千台の切り数が必要だった。イカ刺しとサーモンはすでに数を切り終えた。凍えた手は神経がかなり鈍くなっている。
 ゾクゾクする。足元から厳しい冷気が伝い上がる。生ものを扱う調理場だった。一年の大半は冷房を効かせた部屋となる。厳冬期はさすがに冷房は止められたが、ストーブなど暖房手段の持ち込みは禁じられている。何枚も衣服を着重ねて備えるしかない。制服の白衣はパンパンに膨れてボタンが引きちぎれそうだ。それでも寒さから完全に逃れられない。体を環境に慣らすしかこの仕事を全うする手段は他に見当たらない。
 もっとも気を付けるのが風邪。一度ひいてしまうと長引くのは解り切っている。気の緩みが一番の敵だ。。緊張感が解けた時に風邪のウィルスはここぞとばかり襲い掛かってくる。首筋に悪寒を感じたらもう万事休す、手遅れである。
 調理場の片隅にある事務机の上方にかけられた掛け時計を見た。一時四十三分。もちろん深夜だ。よく遅れる時計だった。人間と同じく厳しい環境は時計にも影響を与えているのかも知れない。作業に入る直前に調整しておいたからたぶん間違ってはいない。勤務は明け方の五時に終わる予定だ。とはいえ作業の物量の多寡で前後する。いくら超過勤務になろうと、残業手当はまずつかない。サービス残業をしたくなければ、作業を迅速に進めて終わらせるしかない。
 将太がこの仕事についたのは五年前。2×4工法のパネル製造工場で働いていたが、収入を増やす必要に迫られて転職した。ハローワークで見つけたのが仕出し・弁当専門の食品会社だった。深夜勤務だと時間給千三百円と、2×4パネル工場で貰う自給の一・五倍以上になる。しかし生活のリズムは大幅に狂う。仕事内容も未体験の部類である。
「大丈夫なの?夕方から翌朝までずーっと立ち仕事でしょ。体を壊さないか心配だわ」
 出産を控えた若菜は、額に皺を寄せて言った。あまり賛成ではないらしい。とはいえ子供が新たに家族に加わると、今の経済状態ではかなり無理を迫られる。考えれば他に選択肢はなかった。将太は妻に胸を叩いて無邪気に笑った。転職はそれで決まった。
「なにかやる事ある?」
 調理場を覗いたのは、パートの佳美だった。白い帽子とマスクで目だけしか見えない。どんな顔かは想像するだけだ。若いのか年を食っているのかも分からない。ただ、その目の印象と声は将太好みだった。
 (つづく)

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