昔は我が家の水田だった。離農し田畑を売り、生家も失った。帰る家がないのは寂しい。でも故郷の風景が遺っていた。
ぽっかり穴があいた
同じ屋根の下で暮らす
家族
亡くなる
その場所だけが
心が
ぽっかり穴があき
言葉にできない
悲しさ、寂しさに襲われる
家族
言い争い、喧嘩、怒られたりもしたが、家族皆で食堂に入り、
熱々の醬油ラーメンを食べた。昭和30年の頃の我が家にとり
ご馳走だった。
いまあなたは床に伏し静かに眠る。戦後、町の娘が農家に嫁ぎ、
その労苦や遣る瀬無い気持ちは、言葉にできないほど溢れこぼ
れ落ちた。子どもを産んだ翌日から汗と泥だらけになって田圃
に這いつくばり草取りをした。乳が出ないときは、米のとぎ水
や山羊の父で自分を育てた、と老いてからお袋は話してくれた。
日本中の国道はどこもかしこも舗装になっている。昭和30年頃
片田舎の国道は砂利路であった。親父とお袋は農閑期になると、
日銭を稼ぎで農機具の借金に充てた。汗水流し慣れぬ「土方」
をし夕暮れ時から農作業をしていた。
在宅訪問に行くと、昭和一桁生まれの老女からも、男衆と混じっ
て「土方」をした苦労話を繰り返し聴かされた。
お袋の楽しみは何だったのか。月一度のお寺の講話を聴きに行
くことだったのか。それとも愚息子の出世を夢みていたのか。
その愚息子は人生に躓き、いま辺境の地に生息している。
お袋が遺骨となり四十九日までは祭壇があり、お袋がまだ生き
いるような気さえした。月命日を幾たびか過ぎ、お袋が座って
いた処やベッドの処だけが、ぽっかり穴があいたような気持ち
になり、お袋はもうこの家には「居ない」寂しさや哀しさが
襲ってきた。
認知症やリウマチを患っていたお袋は、齢を重ねるたび「でき
ない」ことが増えてきた。もっとやさしい言葉をかけてやれば
よかった、と反省しても、もうお袋はいない。生きている間に、
もっと親孝行をしておけばよかった、と後悔しても、親不孝だ
ったことは消えない。いまは毎朝、お供え物をあ仏壇に向かい、
家族の健康と無事故を祈っている。