HIBARIピアノ教室レッスン日記♪

ピアノのレッスン日記、その他ヒバリ先生が見聞きした音楽関係・芸術関係etcの日記。

「月光・第一楽章」のイメージとベートーヴェン

2017年05月28日 | クラシック曲
Tさん(大人):
「自分の『月光』のイメージがわかりました」
楽譜を譜面台に置いて、開口一番、Tさんが言いました。
聞けば、今までずっと、世間一般に「『月光』のイメージ」とされている、静かに降り注ぐ月の光とか、ルツェルン湖とか、そういうのが どうもピンとこなくて、自分はどう思っているのか模索していたそうなのです。
それが、ようやく自分のイメージを具体化することができたそうで、Tさんがいろいろ例を挙げてくれる言葉を総合すると、どうやらTさん自身が このソナタから感じていたイメージは、美しい月光というよりむしろ、「苦悩」といったようなものだったらしい。
「滝廉太郎の『憾(うらみ)』とか、それに似たような・・・」とTさん。
なるほど。
努力しても努力しても報われない悲しみ。非情な世間への恨み。自分に対する歯がゆさ。
みたいな?
「そんな感じです」
自分の感じていたイメージが「苦しみ」の方向だったんだとわかった時、これまでずっと感じてきた違和感が払拭された、ということでした。
「それじゃ、そのイメージで弾いてみて?」
とTさんに 第一楽章を通して弾いてもらったら、
うわあ・・・
「苦悩」だ・・・
Tさんが自分のイメージをはっきりつかめたせいでしょうか。
「月の光」「ルツェルン湖」というイメージを投げ捨て、いっそ大胆に遠慮なく「苦悩」に没入してるので、タッチにも力がこもり、ただでさえ暗く重い嬰ハ短調の曲が、いっそう暗さ・重さを増しているのです。

Tさんの演奏を聴いて いきなり私の心に浮かんだイメージ。
それは、明治時代の小説家・尾崎紅葉の「金色夜叉」!
ダイヤの指輪に目がくらみ、自分を捨てて金持ちの男へと寝返った婚約者、宮を熱海の海岸で蹴り倒し、「今月今夜のこの月を、来年の今月今夜のこの月を、十年後の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせよう」と叫んだ 貧乏学生 寛一。
貧しさに負けた。いいえ、世間に負けた。薄情な世間への恨みつらみ。冷酷非情な守銭奴と化す寛一。
うわあ・・・「月光」・・・「金色夜叉」にしか聞こえなくなってきた。

Tさんご本人は、もちろん「金色夜叉」なんて知る由もありません。
Tさんがイメージした「苦悩」。
その実体は、作曲者であるベートーヴェンの報われない人生に思いを馳せたものだったのです。
作曲家なのに耳が聞こえなくなって。
偏屈者で。
大切に想ってくれる人とてなく。

そう、確かにベートーヴェンの人生は、苦悩に満ちたものであったでしょう。
しかし、彼の最晩年の作品「交響曲第9番」は、その第4楽章に「フロイデ(歓喜の歌)」を含む、歓びに満ち満ちた壮大なものでした。
それは作曲家・ベートーヴェンにとっての最大の「歓び」とは言えないでしょうか。
彼自身、自分の人生のことを「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と言っていたそうです。
私はTさんに、「第九」初演時、耳の聞こえないベートーヴェンが聴衆の大喝采とアンコールに気づかず、ソリストの女性歌手が手を取って振り向かせ、やっと演奏の大成功を知ったこと、そしてそのアンコールが5回も続いたエピソードを教えてあげました。
このとき、ベートーヴェンは間違いなく報われたのではないでしょうか。
彼の遺した音楽は、今に至るまで世界中の人が愛し、演奏しています。
私たちは、その作品を通して、彼と、そしてその他多くの 今は亡き作曲家たちとも心を通わせることができます。
彼らの作品の中にこめられた思いを、私たちが心をこめて読み取り、演奏して音にすることが、彼らの心に報いることになるのではないでしょうか。
時空を超えて。


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