3月。学校は卒業式シーズンです。子どもたちが健やかに育って次への一歩を踏み出すのは,親にとっても地域で見守る者にとってもうれしいもの。こころより祝福のことばを贈りたいと思います。
自分が以前教育現場で働いていたという経緯や今担当している地域のしごとの関係で,こうした式の案内状を度々いただきます。今月もそうでした。リタイアしてからは,単なる地域人として一切学校から離れて活動したいという思いから,敢えて学校からは距離を置いてきました。いわば学校の匂いと関係のない環境で,一地域人として自由に発想し,考えたいという気持ちがあったためです。この気持ちはこれからも変わらないだろうと思います。
学校の匂いは,ある意味“学校の臭い”です。それは,学校の内に身を置く者にしか感じられない“臭い”のような気がします。人によっては「うちの学校では……」と誇り高く(?),あるいは無意識的についつい口をついて出てしまうことばと,なんだか似通っています。
数年前の中学校の卒業式には止むを得ない事情があって,出かけました。お祝いの場にもかかわらず,わたしの目に異様に映ったのは祝福される側の卒業生たちがマスクを終始着けていたことでした。9割以上だったでしょう。理由については敢えて聞きませんでしたが,想像はできました。インフルエンザの流行が収まりきらない中,数日後の高校受験に影響がないよう親心的な学校の配慮・判断がはたらいていたのでしょう。
先に“終始”ということばを使いましたが,入退場はもちろん,歌を歌うときも,壇上で学校長から卒業証書を受け取る際も,ずっとずっとマスク着用です。わたしには過剰すぎる親心,判断としか思えませんでした。慮りとは程遠く見えて,「果たしてこれが儀式なのか」と首を傾げざるを得なかったのです。
今回の卒業式は誰一人としてマスクを着用している子どもはいませんでした。ホッとしました。インフルエンザの流行状況は異なっているのかもしれませんが,人生の区切りとしての儀式とはなにか,学校の内にいる者は常に整理しておかなくてはなりません。世間の常識からかけ離れないようにこころしておいてほしいものです。
もう1つの例。今月,ある学校で行われた儀式に招待を受けて出席しました。出席者は現・元教職員,地域の方,行政関係者でした。儀式の世話はすべてPTA関係者で,進行は一人の方がなされました。
問題はその進行係にあたった方の姿でした。なんと終始,マスクを着用しておられたのです。それに対して違和感を感じた人は多かったようです。わたしのすぐ隣りの人は,会が始まって間もなく「あの方のマスク姿,どう思われます? こんな場なのに,お取りになったらいいのにね」と同意を求めて来られました。もちろん,同感だと返しましたが。
「公的な場での司会者がマスク姿とは,どうもね」。わたしのそんな思いは式の間ずっと続きました。体調がよくないのなら,どうして交代なさらなかったのでしょうか。シナリオに沿って読み進めるスタイルだったので,急きょ交代できるはずなのです。もし交代できないのなら,最初にマスクを取って事情を説明し,その後着用して会を進行していったらよいのです。これもなしと来たので,わたしにはムードを壊す姿にしか見えませんでした。
敢えていえば,おとなとしての判断が鈍っていたのでしょう,たぶん。時と場をわきまえ,常識的な行動ができるおとなであってほしいと願います。そういう意味では,わたしもまた世間の一般人として自分を律していかなくてはなりません。閉じられた,内の世界で思考することに慣れっこになると,自分が独りよがりになっていることさえ気づかなくなります。
(注)写真は本文とは関係ありません。