WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ニール・ヤング

2014年12月29日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 399●

Neil Young

Harvest

 

 ニール・ヤングを同時代に聴いたことはない。このニール・ヤングの古い代表作の『ハーベスト』は1972年作品だ。私は10歳だったことになる。もちろん、ニール・ヤングなんて知らなかった。私がニール・ヤングを聴きはじめたのはもっとずっと後のことだ。恐らくは、1980年代だと思う。そして年齢を重ねるにつれて、古い二ール・ヤングをますます好きになっていった。40代になってからは加速度的にその傾向が強まっていったように思う。不思議なことだ。ニール・ヤングの作品をそんなにたくさん持っているわけではない。代表作といわれるいくつかのアルバムが中心だ。50歳を過ぎた今、シンパシーを感じ、聴き続ける価値があると考えるロックミュージックはそんなに多くはない。けれども、ニール・ヤングの音楽は確実にその中のひとつだ。聴き続ける価値があると考える稀有なアーティストのひとりだ。

 大学生の頃だったろうか。それまでロック・フリークだった私は急速にロック・ミュージックへの興味を失っていった。ジャズに出合ってしまった私自身の問題も大きいと思うが、時代性、すなわちロック・ミュージック自体の質の変化の問題も大きかったのだと思う。そんな私にとって、ニール・ヤングとの出会いと、その後の興味の深まりは例外的なことだ。

 何というか、癒されるのだ。癒されて、心が落ち着く。そう、ずっと以前に書いたのだけれど、暖かい毛布で包み込まれたような心地よい感覚だ。同時代に聴いていたわけでもなく、それにまつわる特別の想い出があるわけでもないが、昔どこかで見た懐かしい風景のような、どこかで聴いた懐かしいメロディーのような、そんな思いが心に満ちてくるのだ。

 私は、時代から孤立して古いニール・ヤングを聴く。

 

 


Mercy, Mercy, Mercy

2014年12月21日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 394●

Cannonball Adderley

Mercy, Mercy, Mercy

 こういうのは、純粋に、単純に、好きだ。キャノンボール・アダレイの1966年録音盤、『マーシー、マーシー、マーシー』である。キャノンボールがジョー・ザヴィヌルと組んだ大ヒット盤だ。ヒットチャートで、アルバムは13位、同名のシングル曲は11位まで駆け上ったということだ。ロック全盛の時代であることを考えれば、とんでもないヒットだということになろう。アルバムジャケットには、"Live at The Club"と書かれており聴衆の歓喜の声もきこえるが、どうもスタジオライブのようである。

どの曲もファンキーでノリがよく、心も身体もウキウキ、ワクワクであるが、ジョー・ザヴィヌル作曲のタイトル曲、③Mercy, Mercy, Mercy のインパクトの強さとアレンジの妙は格別である。CDであることをいいことに、つい何度も繰り返してしまう。思わず、顔が微笑み、手足を動かして踊りだしてしまいそうになる。

 キャノンボール・アダレイを思うとき、いつも村上春樹の印象的な文章を思い出してしまう。ずっと以前のCannonball 's Bossa Nova についての記事にも書き込んだのだが、もう一度記しておきたい。

 キャノンボールという人は、最後にいたるまで、真にデーモニッシュな音楽を創り出すことはなかった。彼は自然児として地上に生まれ、そして自然児として生き抜いて、おおらかなままで消えていった。推敲や省察は、裏切りや解体や韜晦(とうかい)や眠れぬ夜は、この人の音楽の得意とするところではなかった。
 しかし、、おそらくそれ故に、そのアポロン的に広大な哀しみは、ときとして、ほかの誰にもまねできないようなとくべつなやり方で、予期もせぬ場所で、我々の心を打つことになる。優しく赦し、そして静かに打つ。
 (和田誠・村上春樹『ポートレート・イン・ジャズ』新潮文庫)


ナット・キング・コール

2014年12月04日 | 今日の一枚(M-N)

☆今日の一枚 387☆

Nat king Cole

The Very Best Of Nat King Cole

 

 最近買った一枚だ。ナット・キング・コールのベスト盤である。廉価盤である。2枚組なのに1000円しなかった。特に音はよくないが、結構重宝している。深夜、家族が寝静まったあとに、ひとり食卓のBoseで聴くのだ。ナット・キング・コールの穏やかなピアノとボーカルが素晴らしいことはずっとわかっていたが、これまで積極的に聴くことはなかった。・・・顔が嫌いなのだ。たいへん失礼ないい方だが、爬虫類をイメージしてしまう。正直いって、気持ち悪い。ジャケット写真を愛でる気にはなれない。できれば手に取りたくもない。だから、ほとんどナット・キング・コールを聴いてこなかった。所有するアルバムも『愛こそすべて』一枚のみだった。

 amazonのページを見ていて、なぜ突然ナット・キング・コールを買う気になったのかよくわからない。本当に何となくなのだ。廉かったからかもしれない。けれど、このアルバムは悪くない。代表曲のほとんどが収録されている。何よりジャケットがいい。側面から撮った写真は爬虫類的なイメージを感じさせない。十分我慢できるレベルだ。穏やかで艶やかな彼の歌声を、邪念なく安心して楽しむことができる。・・・やはり・・・いい。

 これから寒くなりそうだ。日本海側ではすでに大雪のようだ。雪の、寒い風景を眺めながら、暖かい室内で、コーヒーでもすすりながら聴くにはうってつけの一枚のような気がする。今年の冬にはお世話になることが多い予感がする。


素足で海辺に

2014年08月14日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 373●

Michael Franks

Barefoot On The beach

 夏である。子どもたちが幼かった頃には毎日のように浜辺に連れて行ったものだ。駐車料金を払わなくて済む夕方を狙っていくのだ。私自身も、ショアブレイクでブギーボードで楽しんだ。子どもたちは成長し、ブギーボードはいつしかボディーボードと呼ばれるようになった。そして美しい砂浜はあの大津波で失われてしまった。今はもう、海岸線にはかつてのような砂浜はなく、砂利やコンクリートの破片と、土嚢と、そして巨大な工事現場があるだけだ。自宅から車で5分程のところには海が広がっているが、夏だというのにもう浜辺で戯れることもない。

 AORの推進者、マイケル・フランクスの1999年作品『ベアフット・オン・ザ・ビーチ』だ。夏に聴くにはもってこいの作品である。初期の頃のメランコリックな雰囲気は影を潜めたものの、ソフト&メローなサウンドはそのままに、よりジャージーでブルージーなテイストが加味されている。メランコリックな心の揺れは抑制され、対象から距離を置き、ある種の「諦観」の立場から風景を眺めた「大人のサウンド」だ。

裸足で海辺に
水に誘われるまま
青と緑がゆらめく 海のなかへ
なんという心地よさ

 そんな、かつてあった風景を夢想しながら、海に近い自室で、私はマイケル・フランクスを聴いている。

 

 


ミスティー

2013年12月31日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 363◎

Manhattan Trinity

Misty

 夜中だ。もうすぐ午前3時だ。酒を喰らってはやく寝てしまい、こんな時間におきてしまった。年末休みの怠惰な生活というべきだろうか。こんな時間におきているのも、思えばしばらくぶりだ。書斎で、ひとり本を読み、音量をしぼってこのアルバムを聴いている。

 マンハッタン・トリニティーの2002年録音作品、『ミスティー』だ。発売されてすぐに買った記憶がある。つい最近のことだと思っていたのだが、もう10年以上も前のことなのですね。

 パーソネルは、サイラス・チェスナット(p)、ジョージ・ムラーツ(b)、ルイス・ナッシュ(ds)。CDの帯の宣伝文にはこうある。

冴えるヴァチュオーソーたちの "技" ! ジャズ界のゴールデン・トライアングル、渾身の最新作!!

 その通りの内容である。もともと腕のある人たちなのであろうから、うまいのはもちろんだが、余裕を持ちながらも緊張感を切らさない演奏が続く。恥ずかしながら、ピアノのサイラス・チェスナットという人を、マンハッタン・トリニティー以外で聴いたことはないのだが、なかなかいいピアノを弾く人だ。音の輪郭がはっきりした、明快なピアノだ。

 書斎の机上のBOSE125 West Borough で聴いているのだが、こういう時のこのスピーカーはいい。夜中にひとり音量をしぼって聴くには、本当に適したスピーカーである。サイラス・チェスナットのピアノの硬質な響きがうまく再現されているように思う。最近は、書斎で音楽を聴くことが多く、必然的にこのスピーカーを使うことが多い。小さなスピーカーながら、アルバムによっては思わぬ素晴らしい音をだすこともある。もう10年程使っているが、狭い書斎用スピーカーとしてはほとんど不満はない。

 


勇気あるご意見

2013年10月12日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 347◎

Miles Davis

Sorcerer

Scan

 ジャケット写真の女性は、のちにマイルスと結婚することになる女優、シシリー・タイソンである。マイルス・デイヴィスの1967年録音作品、『ソーサラー』だ。ウェイン・ショーター入りの、第2期クインテットの最高傑作とされる作品だ。先日取り上げた『ネフェルティティー』同様、すごくかっこいいサウンドである。決して取っつきやすいサウンドではないが、そのかっこよさに魅了される。非常に明快なサウンドでありながら、全編に漂う独特の浮遊感のようなものが心地いい。これが後の『イン・ア・サイレント・ウェイ』の超現実的な浮遊感覚へとつながっていくのであろうか。

 中山康樹『マイルス・ディヴィス』(講談社現代新書:2000)は、当時のマイルスが、非ジャズ的なものの追究、ジャズ的なものからどこまで遠くに行けるかという探究の中で、ロックに接近していったことを力説しているが、この浮遊感はその過程で生まれたものなのかも知れない。

 ところで、中山氏は前掲書の中で、このアルバムについて、次のように述べている。

マイルスの全アルバム中、どう考えても『ソーサラー』ほど不憫な一枚はない。傑作であるにもかかわらず、録音時期のまったく異なる、しかもボブ・ドローなるヴォーカリストの歌をフィーチャーした演奏が一曲入っており、そのたった一曲のために『ソーサラー』は" 無実の罪 "をきさせられつづけて今日にいたる。しかし、本来『ソーサラー』は『ネフェルティティー』と連作として聴かれるべきものなのであり、そのためにもボブ・ドローの一曲をカットすることが急がれる。

 確かに、他の曲が1967年録音なのに対して、件のボブ・ドロー入りの⑦Nothing Like You だけが1962年録音であり、編集の過程で「謎の追加」がなされたのかもしれない。サウンド的にも何か一つだけ場違いな感じは否めず、特に前の曲⑥Vonetta の持つ異次元的な浮遊感とのかい離は、あまりといえばあまりといいたくなるほど、はなはだしいものがある。

 私には、この「謎の追加」の本当のところを知る術はないが、「オリジナル盤の制作者の意図」にあえて疑義を投げかけ、この曲のカットを主張する中山氏のご意見は勇気のあるものだと思う。

 なお、ジャケット写真の女性、シシリー・タイソンは、当時マイルスと交際中だったようで、その後一旦関係は終わり、マイルスは他の女性と結婚したが、またよりを戻して、1981年に結婚、しかし1988年に離婚している。


かっこいい!

2013年10月06日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 345◎

Miles Davis

Nefertiti

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 しばらく更新をサボっていたが、数日前からまたぼちぼちはじめようかと思い立ち、過去のバックナンバーを一瞥してみたのだが、意外なことにマイルス・デイヴィスが少ない。LPやCDの棚には結構な枚数のマイルスが並んでいるのだけれど・・・・。大学生の頃、アート・ペッパーからジャズに入った私は、どういう経緯だったかマイルスにたどり着き、マイルスの共演者の音楽を聴くことによって、徐々に守備範囲を広げていったのだ。

 そんなことを思って、今日はマイルスと決め、ランダムにCDの棚から選んだのは、この1967年録音作品、『ネフェルティティー』だ。ウェイン・ショーター入りの、第2期クインテットの代表作のひとつであり、アコースティック・マイルスの最後の作品である。

 かっこいいの一言だ。私の持っているCDは妙に音がいい。非常に鮮明な音だ。全体的として、わりとけだるい曲想の中から、突然飛び出してくるような、トランペットやテナーやピアノの明快な音色が気持ちいい。実は、そんなに聴きこんだアルバムではないのだけれど、改めて聴いてみると、どの曲も個性的で好きだ。いまのところ、一番のお気に入りは、⑤Riot 。マイルスのはじけるような明快な音色のトランペットが全面にフィーチャーされた曲である。やや唐突に終わってしまうのも、なかなかセンスがあるじゃないか。夜中に家族が寝静まった後、音量を絞って聴くなんてのもいいんじゃないだろうか。

 1967年の録音であることに、改めて驚く。私はまだ5歳のこどもで、もちろん何もわからなかったのだが、このようなかっこいい演奏を生み出した、1960年代後半の雰囲気と時代精神に思いを巡らせてしまう。

 


マイケル・フランクスが無性に聴きたくなることがある

2010年11月22日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 289●

Michael Franks

Passionfruit

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 ほんの時々なのだが、昔よく聴いたマイケル・フランクスが無性に聴きたくなるのはどうしてだろう。今日は朝からずっとそう思っていた。AORの推進者マイケル・フランクス。ハードロックに心酔し、コルトレーンのような理数系ハードコアジャズにのめりこんでいた私が、「軟弱な」AORを聴くようになったきっかけが何だったのかよくおぼえていない。友人たちの影響だったような気もするし、女の子と素敵な時間を過ごすための実用的なツールだったような気もする。いずれにせよ、青春時代の一時期、私はマイケル・フランクスにのめりこんだ。彼のアルバムをカセットテープに録音してセカンドバックに入れて持ち歩き、居酒屋や音楽酒場でよくかけてもらったものだ。1980年代前半、私が大学生の頃のことだ。

 マイケル・フランクス。私の所有する彼のアルバムも十数枚になった。wikipediaの彼の項目には、「独特の囁くようなヴォーカルスタイルと、ジャジーで都会的な音楽性は高く評価されている」、「デビュー当時からジャズ・フュージョン・ソウル界からの人気ミュージシャンを起用して楽曲を製作し、浮き沈みの激しいAOR界において、現在まで一貫した音楽性でコンスタントに作品を発表し続けている稀有なアーティストである」と記されている。自分の好きなアーティストをそういう風に評価してもらえるのはうれしいことだ。

 マイケル・フランクスの1983年作品、『パッションフルーツ』。恐らくは、当時私が最もよく聴いたアルバムだったかもしれない。いつものように、ソフトでメロウなサウンドにのせて、ささやくように歌うボーカルはまさしくマイケル・フランクスの世界だ。私がこのアルバムを特に気に入っているのは、そのメランコリックな雰囲気の故だ。じっと目をつぶって聴いていると、理由のわからない哀しみに襲われて、いい歳をして、涙が溢れ出てくることもある。若い頃のような直截的で刺激的な涙ではなく、もっとじわじわとした静かで、しかしどうしようもないような種類の哀しみだ。そしてこのような体験は年齢を重ねるごとに深まっていくような気がする。失ってしまったかけがえのない時間たちへの思いなのだろうか。あるいは、残された短くなっていく時間への思いなのだろうか。CD- ⑥ Never Say Die 、哀しみに満ちたイントロを聴いただけで、ああ、自分の心が制御できなくなる……。


ラスト・コンサート

2010年11月22日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 288●

The Modern Jazz Quartet

The Last Concert

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 他のCDを聴こうと思っていたのだけれど、昨夜、持ち帰りの仕事をしながら《ながら聞き》したCDがまだプレーヤーに入っていたのでちょっとかけてみたら、聴き入ってしまった。うーん、やはりいい演奏だ。

 MJQの『ラスト・コンサート』、1974年のリンカーンセンターでのライブ盤である。今となっては「最初の解散」に際してのラストコンサートの記録ということになる。その後、活動再会と解散を何度かおこなう彼らだが、もちろんこの時は本当に「解散」するつもりだったのだろう。演奏からは溢れんばかりの熱気と哀惜の念が感じられる。油井正一氏は著書の中で「MJQの解散は70年代ジャズ界の最大の事件だった」と語っているが、MJQの存在ってそんなに大きかったのですね。聴衆の方も相当の思い入れがあったのだと思う。

 ミルト・ジャクソンは、学生時代によく聴いた人であり、今でも愛着がある(最近、あまり聴かないが……)。ジョンルイスは、もう十数年前になるが、仙台で秋吉敏子とのピアノ・デュオを生で見たことがある。なかなか興味深いライブだった。それ以来、ジョン・ルイスの作品を結構聴いたものだ。

 私は思うのだけれど、MJQの面白さというのは、奔放さと抑制の緊張感なのではなかろうか。奔放に自在なソロを展開しようとするミルト・ジャクソンのヴァイブをジョン・ルイスの「端正」なピアノが抑制し、音楽の骨格をつくっていく。しかし、それにおさまりきらないミルトのヴァイブが溢れ出ていく。私のもつイメージはそんな感じだ。そういう意味では、この『ラスト・コンサート』はMJQの音楽をよく表しているように思う。さらに、この作品では、パーシー・ヒースのベースが本当によく「歌って」おり、演奏全体にグルーヴ感を付け加えている。

 1974年、私はまだジャズという音楽を知らない、ロックを聴き始めたばかりの「ガキ」だった。


アート・オブ・ティー

2010年06月27日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 275●

Michael Franks

The Art Of Tea

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 忙しい1週間だった。仕事は山積み、その上、出張が重なって首が回らない状態だったくせに、World Cup サッカーなどを見てしまったため、生活のリズムもちょっと崩壊気味になってしまった。最近通いつめていたスポーツジムにも一度もいけず、やっと昨日の夜、何とか時間をつくって汗を流した。しばらくぶりのジムではりきりすぎて筋肉全体がまだ熱をもっている有様である。

 忙しさのあまり、CDをとりかえることもせず、持ち帰りの仕事をしながら、1週間ずっと同じアルバムを聴き続けていた。AORの推進者、マイケル・フランクスのデビュー作、1975年録音の『アート・オブ・ティー』である。クルセイダーズの面々やデヴィッド・サンボーンなど今考えれば豪華ミュージシャンをバックに展開されるマイケル・フランクスのシティ感覚溢れるクールでジャジーな世界が好ましい。

 私がこの作品を今でも聴き続けている理由は、そのセンチメンタルな雰囲気にある。都会的で洗練されたサウンドでありながら、アルバム全体に漂う静かな哀しみがたまらなくいい。マイケル・フランクスの弱々しい声がそれを絶妙なテイストに味付けしている。

 都会とは、目くるめくような非日常的な喧騒の世界であるが、1970年代には「都会的」という言葉の中に、このようなセンチメンタルな語感が確かにあったような気がする。


星へのきざはし

2010年06月02日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 272●

New York Trio

Stairway To The Stars

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 晴れだ。太陽が輝いている。そよ風がここちよい。周囲からは田んぼの蛙の鳴き声と小鳥たちのさえずりが聞こえる。気持ちのよい朝だ。こういう朝には音楽は必要ない。自然の音にただ身をゆだねていれば良い。至福の時だ。ただ、昨夜の楽天イーグルスの逆転劇に興奮してちょっと飲みすぎたため頭が痛い。また、その後音楽を聴きすぎたようで、まだ耳の中で鳴り響いている。Swing Journal 誌の休刊の報に接して感慨深く、同誌が協力にプッシュしていたvenusレーベルの作品のいくつかを聴きなおしてみたのである。

     *     *     *     *     *

 一昨日につづいて、ニューヨーク・トリオ。2004年録音作品の『星へのきざはし』である。Swing Journal 誌の読者リクエストに応えた企画盤であり、スタンダード曲中心の構成だ。企画盤だがなかなかよいできだ。ジャケットもロマンティックでいい。ビル・チャーラップのピアノは、時に繊細で趣のある響きを聴かせ、時にスウィンギンによく歌うピアノを披露する。気分が良い。

 ビル・チャーラップという人はやはりうまいひとだ。職人タイプの人といってもいいかもしれない。魂を揺さぶるような「呪われた」演奏を聴いたことはないが、どの曲も合格点というか、楽しくあるいはしみじみと聴くことができる。何というか、芥川賞タイプというより直木賞タイプなのだろう。けれども、私はいつかこのピアニストが魂を揺さぶる真の傑作を創り出すことを期待している。それは例えば、『Love You Madly』収録の「Star Crossed Lovers」などを聴いてからそう思うようになった。静寂で深遠な響き……。

 ところで、最近のニューヨーク・トリオはどんな感じなのだろう。Swing Journal 誌の購読をやめてから、venusレーベル盤との距離が遠くなってしまったようだ。今月発売の「最後」のSwing Journal は買ってみようかと思う。

 


夜のブルース

2010年05月31日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 271●

New York Trio

Blues In The Night

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 遅ればせながらだが、かのSwing Journal 誌が6月17日発売の2010年7月号をもって休刊するらしい。Swing Journal 誌の編集姿勢については賛否のあるところであろうが、やはり寂しい。当然のことながら、私がjazzを聴きはじめるずっと以前から存在していた雑誌であり、私にとっては空気のようにずっとそこにあることが当然のような雑誌だった。実際、私自身も定期購読していた時期があった。1990年代の末から2000年代前半だったろうか。ちょうど、venus レーベルが宣伝攻勢を強めた時期でもあり、おかげで私のCDコレクションには結構な枚数のvenus盤が含まれることになった。Swing Journal 誌のバックナンバーコレクションも一時は寝室の書棚を圧迫する程たまったのであるが、これは数年前に思い切って処分した。結局、あまりの広告の多さに辟易し、また広告掲載作品の論評での評価が妙に高いことや選定ゴールドディスクの不可解さなどに疑問を感じて定期購読はやめにしたのであるが、今思えばそういう我々一人一人がSwing Journal 誌のようなJazzジャーナリズムを支えていた訳だった。編集長の三森隆文氏は「何とか復刊を目指し、努力したい」と話しているらしいが、がんばってもらいたい。復刊の折には、是非また購読したい。

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 今日の一枚は、ビル・チャーラップ率いるニューヨーク・トリオの2001年作品『夜のブルース』である。venus レーベルの一枚だ。なかなかいい作品だ。ジャケットよし、選曲よし、演奏よし、録音もかなりよしだ。ただ、へそ曲がりな私は、venus レーベルの作品を聴くといつも一関「ベイシー」のマスター菅原昭二(正二)さんの次のことばを思い出してしまう。「何時の頃からか、ジャズの録音を物凄く"オン・マイク"で録るようになった。各楽器間の音がカブらないように、ということらしいが、もともとハーモニーというものは、そのカブり合った音のことをいうのではなかったか!?」(『ジャズ喫茶「ベイシーの選択』講談社1993)

 まあしかし、そんな偏屈なことを考えなくとも十分気分良く楽しむことのできる作品である。今夜の酒もすすみそうである。今日の酒は、土佐『酔鯨中取り純米酒』、つまみは情熱工房ねの吉の「情熱クリームチーズ」である。仙台で親戚がつくっているチーズなのだが、これがなかなかうまい。「夜のブルース」と「酔鯨」と「情熱クリームチーズ」のせいで、今夜も飲みすぎそうである。


アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ

2009年02月11日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 229◎

Neil Young

After The Gold Rush

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 今日は古いロックを聴いてみようと決め、CD棚から偶然手に取ったのがこの作品だった。そういえば、最近、二ール・ヤングはどうしているのかなと思いwebを検索してみると、Wikipediaには、1990年のの湾岸戦争の際には、コンサート会場でボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌い、2001年の「9月11日事件」直後には、放送が自粛されていたジョン・レノンの「イマジン」を敢えて歌い、そしてイラク戦争後は、ブッシュ政権打倒の姿勢を鮮明にするなど、アメリカ国内の保守化や右傾化に対して「異議申し立て」の姿勢を貫いている、とあった。すごい人だ。さすがニール・ヤングだ。

 ニール・ヤングの1970年作品『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、初期の傑作というべきだろう。二ール・ヤングの最大の魅力は、例えば渋谷陽一氏が「率直な表現と粗ずりな曲構成」「ゴツゴツとした洗いざらしのジーンズみたいなものに例えられる」(『ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫:1988)というように、その素朴さ、シンプルさ、直截さにあるのだと思う。実際曲を聴いていると、メロディーの展開が「えっ、ほんとうにそっちへ行っちゃうの」「それではあんまりシンプルすぎるんじゃ……」と思うことがよくある。歌詞にしても、例えば南部の黒人差別を唄ったSouthern man の「南部の人よ、落ち着いたほうがいいよ 聖書の教えを忘れちゃだめだ 南部もとうとう変わるんだ あんたの十字架も凄い勢いで燃え落ちて行く 南部の人よ」という具合に直球勝負だ。

 しかし、私が今ニール・ヤングを聴いて感じるのは心地よさだ。暖かい毛布で包み込まれたような心地よい感覚だ。社会的なメッセージを直截的な言葉で歌うニール・ヤングを聴く姿勢としては正しいものではないのかもしれない。私は二ール・ヤングの良い聴き手ではないのだろう。私がこのアルバムをはじめて聴いたのは、アルバムが発表されてから10年程経過した1980年代の初頭だった。この心地よい感覚は当時からあり、その後ますます強まっていくように思う。時代がかわってしまったということなのだろうか。過ぎ去ってしまった時代へのノスタルジーなのだろうか。けれど、この心地よさはどうしようもないのだ。天気の良い休日の午後、私は陽のあたるテラスで、コーヒーを淹れ、古い小説を読みながらニール・ヤングを聴く。


ファイアー・ワルツが耳から離れない

2009年01月10日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 214◎

Mal Waldron

The Quest

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 今日は休日であるが、HCを務める高校女子バスケットボール部の練習につきあった。出かける前にたまたま聴いたマル・ウォルドロン『ザ・クエスト』の最後の曲「ファイアー・ワルツ」が耳から離れず、練習を見ていてもずっとあの独特のリズムと節回しが頭の中で鳴り響いている有様だった。

 1961年録音の『ザ・クエスト』。好きなアルバムである。1週間後にファイブスポットであの歴史的な録音を残すことになるマル・ウォルドロンとエリック・ドルフィーが、それに先駆けて行ったセッションである。マルについては、ずっと以前に書いたように、その晩年の演奏を至近距離で体験したことがある。本当にかっこよかった。以来、マルの作品を聴くと、そのときの情景が頭に浮かんでどうしようもない。恐らくは、一生そのイメージを背負って生きていくことになりそうだ。実際、若い時代のこの作品においても、そのソロパートにおいてマルのピアノの個性は十分に表れており、目をつぶると、私が見たライブの情景が今でもありありと浮かんでくる。

 ところで、何といってもドルフィーである。この作品においても彼の存在感はとてつもなく大きい。彼のヘンテコな音楽の何が私を惹きつけるのか、うまく説明できないのだが、とにかく私はなんとなく好きなのである。しいて言えば、そのヘンテコな雰囲気に惹きつけられるとでもいおうか。難しい理論上のことや彼がjazz史にもたらした革新的なことがらなどは書物で読んだこと以外は正直よくわからないのだが、彼が創り出す音楽世界の雰囲気がすごく好きなのだ。ドルフィーの音楽の何が自分を惹きつけるのか。少々理屈っぽい私は、それをきちんと説明したいという欲望を抑えきれない。しかし、今は「説明できない」ということに耐え続けよう。人は心をゆすぶられるような不安定な状態を抜け出すべく、言葉によって説明し、心を安定させようとするのだから……。ドルフィーの音楽を言葉で説明した時、その音楽がもたらす「感動」ももしかしたら消え去ってしまうのかも知れない。

 ドルフィーを熱狂的に聴いたことはない。しかし、どんな時でもずっと好きだった。なんとなく好きなのだが、それは確かなものだ。

 


ヴィレッジ・ゲイトのニーナ・シモン

2008年01月20日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 209●

Nina Simone

At The Village Gate

Watercolors0005  久々の完全オフだった。妻は持ち帰りの仕事で四苦八苦していたので、子どもたちをつれて外出した。スキーにでも連れて行こうとも考えたが、長男の希望で、隣町の(といっても他県だが……)バッティングセンターへいった。バッティングセンターで、私と長男と次男の3人で5000円分打ち、焼肉屋でたらふく食べ、その近くの公園でキャッチボールをした。太平洋を一望する公共の日帰り温泉で身体を温めて帰宅したのは、PM6:00過ぎだ。思えば、子どもたちとこころおきなく遊ぶのもしばらくぶりのことだった。長男がスキー場ではなく、キャッチボールを希望したのも、私とのかかわりを求めていたのかもしれない。子どもたちは、満足したのか、遊びつかれたのか、8:00には眠ってしまった。

 ニーナ・シモンの1961年録音盤、『アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト』だ。ニーナ・シモンがジャズではないといわれればそれでもいい。それでも私はニーナの世界が好きだ。好きだというよりも、引きずりこまれ魅了されるといったほうがいいだろうか。どうすることもできないような吸引力を感じるのだ。私をひきつけるのは、歌やサウンドではなく、その表現の全体性としての「世界」とでもいうべきものだ。その世界は、あまりにも私にフィットしているため、まるで自分のために用意されたものであるかのようだ。世間知らずで内向的な中学生が太宰治を読みふけるように、私はニーナ・シモンに熱中したものだ。それほど遠い昔のことではない。その余韻は今も続いているのだ。ニーナ・シモンの世界から感じるのは、「静謐さ」だ。バラードはもちろんだが、どんなアップテンポの曲を歌う時も、どんな激しい歌い回しをしているときも、その背後には不思議な「静謐さ」が漂っている。

 子どもたちが寝静まった後の書斎で、私は安ウイスキーをすすりながら、まるで母親の子宮の中の胎児のように、心穏やかに、ニーナ・シモンの歌とピアノが創り出す世界にどっぷりとつかっている。

[過去の記事] ニーナ・シモン 『ニーナとピアノ』