WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

かつおが揚がらない

2019年06月30日 | 今日の一枚(G-H)
◉今日の一枚 429◉
日野皓正
Blue Smiles


 西日本は大雨で大変なようだ。私の街でもこの土日はずっと雨だ。泊りがけの同級会で妻が不在なので、釜石のジャズ喫茶「タウンホール」あたりに行ってみようかなどと目論んでいたのだか、この雨のためかどうも気持ちが乗らない。昨日、近所の風呂屋に行ったことと、今日、市立図書館に行ったこと以外は、ほとんど戸外で活動していない有様である。

 ところで、6月ともなれば、私の住む街ではかつおのシーズンに突入するはずなのだが、今年はどうも様子が違う。スーパーに行っても、売っているかつおは千葉産とか静岡産のものばかりだ。地物を置かないなんてナメてんのかなどと思っていたら、今年は地元にかつおが揚がらないのだという。海流や水温の影響で、かつおの群れが千葉あたりで停滞し、北上して来ないのだそうだ。カツオ船が水揚げしたのも数度だけのようだ。もちろん、千葉産とか静岡産のかつおだってまずいわけではないのだが、やはり節のものは地物がいい。そんなこだわりみたいなものがあり、地元に揚がったカツオじゃないとどうも心を開いて酒が飲めない。

 一日中雨だった今日の一枚は、日野皓正の1992年録音作品「ブルー・スマイルズ」である。哀愁のバラード集だ。このころの日野皓正は、「ブルー」の付く哀愁のブルーシリーズを連発しており、いかにもという感じで、ちょっとキザな奴だななどと考えていたが、時を隔てて聴いてみると、これはこれで一つの芸の形なのだと感じられるようになった。余計なことは考えず、哀愁のトランペットは哀愁のトランペットとして聴くのが流儀というものだろう。①blue smiles から②you are so beautiful への流れが好きだ。

 日野皓正の哀愁のトランペットの傍らで光を放っているのは、シダー・ウォルトンのピアノである。固い音だが、音に芯があり流麗な演奏だ。シダー・ウォルトンを初めて知ったのはどのアルバムだったろうか。ロン・カーターとのデュオ「Heart & Soul」だったような気がするが、よく覚えていない。ずっと嫌いではないピアニストだった。そんなに自己主張しないピアノだが、その流麗な演奏に自然と耳が引き付けられていく。村上春樹が、彼を「真摯で誠実な、気骨のあるマイナーポエト」と称したのは、なかなか核心をついているような気がする。(村上春樹『意味がなければスウィングはない』)

発達障害に関する覚書(3)

2019年06月29日 | 発達障害について
自閉症スペクトラム障害(3)
 ~社会性の障害について~

 自閉症スペクトラム障害は、「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力の障害(こだわり)」が中心的症状であるとされ、これらは「三つ組」などといわれている。「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」を1つにまとめて考えてもよかろう。実際、DSM-5(アメリカ精神医学会の「精神疾患の診断・統計マニュアル第5版」)では1つにまとめて考えられているようだ。ここでは、参考文献を参照しつつ、「三つ組」について、それぞれの具体的様相をまとめておきたい。まずは、対人関係の特異性を特徴とする「社会性の障害」である。

相手の気持ちや状況を考えない言動
太っている友だちに対して「太っているね」といってしまうなど。
●マイペースで、一方的な言動
周りの友だちが皆で遊んでいても仲間に入らず、一人で遊び続けることが多く、一緒に遊んだ場合でも、その場を仕切って自分のペースに引き込もうとする。思い通りにいかないと癇癪をおこす。
●場の雰囲気が読めない
相手が困惑し、迷惑がっているのに気づかない。静かにすべき場所か、騒いでいい場所か判断できない。
●人に対する共感性が弱い(他者への関心が薄い)
初対面の人に次々と不躾な質問をしたり、自分が関心のある話題を一方的に話し続けたりする。自分が関心あることは、相手も関心があると思ってしまう。
●人と関わることが苦手
視線を合わせたり、手をつなぐなどの身体的接触が苦手

[参考文献]
田淵俊彦ほか『発達障害と少年犯罪』新潮新書2018
平岩幹男『自閉症スペクトラム障害』岩波新書2012
岩波明『発達障害』文春新書2017
杉山登志郎『発達障害の子どもたち』講談社現代新書2007



カフェ・コロポックル

2019年06月29日 | ジャズ喫茶


 2016年にオープンしたという宮城・栗原市若柳の「カフェ・コロポックル」である。ラムサール条約指定の白鳥の飛来地、伊豆沼のほとりにあるジャズ喫茶だ。半年ほど前、知人に紹介されて行ってみた。最初の訪問ですっかり気に入ってしまった。自宅からは三陸道を車でとばしても1時間20分程度かかるが、3,4度は足を運んだだろうか。

 スピーカーはJBLのDD67000、その他の機材はマスターの自作だそうだ。14時以降は大音量タイムで、結構な音量だが不思議なことに聴き疲れしない。全体的に柔らかく繊細な音で、曲の終わりの余韻がたまらなくいい。

 アナログレコードだけでなく、CDやハイレゾ音源をいい音で聴くのがコンセプトとのことで、実際、かけられる音楽もほとんどがデジタル音源だ。しかし、そんなことなど全く知らなかった私は、初めて訪問した時、生意気にもアナログ盤をかけるようリクエストしてしまった。以来、マスターがそのことを覚えているのか、あるいはたまたまなのかわからないが、私が訪問すると必ずアナログ盤がかけられる。うれしいやら、恥ずかしいやら、アンビバレントな気持ちだ。

 昔のジャズ喫茶と違ってコーヒーがすごくおいしい。また、高台にあるため、テラス席から見る伊豆沼の景色は本当に素晴らしい。気分よく、ゆったりとした穏やかな時間を過ごせる空間である。自宅からは遠いが、時間があれば何度も行ってみたいジャズ喫茶だ。




堤防に思う ~命が一番大切なのか~

2019年06月29日 | 大津波の現場から


 私の住む街の堤防の上からの写真である。大津波のあと,海岸線には何キロにもわたってこのような堤防が築かれた。先日、私はジョギングコースに使ってみた。空は曇っており,私以外に人は見当たらなかったが、海を見ながらのジョギングはなかなか快適だった。
 
 
ところで、私の住む街には、いまでも堤防建設そのものに反対する人々が多数いる。堤防建設を渋々容認しつつも、できるだけ低いものにするよう訴えている人たちも多数いる。

 堤防は、「人の命が一番大切」という国や県の主張のもと次々建設され、既成事実が積み重ねられていった。説明や話し合いを十分に行ったということになってはいるが、結論ありきの国や県のやり方は、反対派の人たちの立場から見れば、暴力的ともいえるものだったろう。
 
 それにしても、本当に「人の命が一番大切」なのだろうか。「人の命が一番大切」という言い方は、一見もっともで批判できない言葉のように思える。けれど、そもそも「人の命が一番大切」というからには、「命」とは何かが問われなければならない。震災直後には、そのことが問われる可能性があった。社会の中で議論が深められる可能性があった。震災の後、復興を論じるテレビ番組の中で「人の命が一番大切なのではない」と喝破した評論家がいた。勇気ある発言だった。私は共感を禁じ得なかった。しかし、多くの犠牲者を出した震災後の風潮とテレビ局の自粛(自己防衛)のためか、その主張はかき消され、その評論家がテレビに出ることはなくなった。「命」についての思考は停止し、「命」の語は奥行きのない漠然とした記号として流布するようになった。

 「生命」とはあるいは「生きる」とは何なのだろう。生きるとは、どのように生きるかという問題と表裏である。脳死の問題ともリンクすることだが、心臓が動いて、食べて排せつして寝るだけで生きているといえるだろうか。生命あるいは生きるということは、人間が何かを感じ、考え、そして生活するということと大きく関係しているように思える。人間の尊厳の問題といってもいいだろう。堤防は生活の場と海とを遮断し、視界から海を消し去ってしまう。漁師や海辺に生活する人々にとって、海の見えない生活は、彼らの生きる意味や人間としての尊厳と大きく関係しているのだ。

 縄文時代以来、海辺に住む人たちは津波と戦ってきた。家を流されるたびに街を再建し、生活してきた。もちろん命を守ることは必要である。けれども、彼らが長い歴史の中で海を離れることはなかった。それが自然とともに生きるということなのであり、自然に敬意を払うということだろう。堤防は、海と人々の生活を隔ててしまったが、自然と我々をもべててしまったように思う。





発達障害に関する覚書(2)

2019年06月26日 | 発達障害について
自閉症スペクトラム障害(2)

 自閉症スペクトラム障害(ASD)の原因については、詳しいことは解明されていないようだが、現在では脳機能の障害によるものとされている。遺伝子上の染色体などに何らかの先天的な異常があり、それが原因で脳機能に障害が生じて、認知や感覚の偏りが引き起こされる、という説明である。

 ところで、自閉症スペクトラム障害の中心的な症状は、「社会性・コミュニケーションの障害」と「同一性へのこだわり(常同性)」とされているが、これらを統一的に理解するにはどのように考えればいいだろう。同一性にこだわるということは、それ以外の多様なものを排除するということであり、社会や他者への関心が薄くなる、ということにとりあえずはなるだろう。最近、この「社会性・コミュニケーションの障害」と「同一性へのこだわり(常同性)」の関係について、感覚過敏の視点から考える、興味深い説明に接したので記しておく。

 自閉症スペクトラム障害をもつ人は、聴覚過敏をともなう人が多いようだ。普通の人(定型発達の人)は、聴覚について選択的注意という機能が働き、必要なものに耳を傾け、その音を選択的に聞き分けることができる。ところが、自閉症スペクトラム障害をもつ人は、この選択的注意という機能か働かず、周りのすべての音が押し寄せてくるというのだ。自分を取り巻く音が等価になるということは、すべてがノイズになるということであり、世界から意味が消滅するということでもある。とても耐えられることではなかろう。

 同じことが視覚にも起こっているというのだ。目の前にいる人も、テーブルの上の物体も、その背景にあるものも、目で見る視覚的世界が意味を失った等価なものとして押し寄せてくる。そうした視覚的なノイズの洪水から身を守るために、自閉症スペクトラム障害をもつ人は自分の興味あるものだけに注意を払うのだという。その結果、「同一性へのこだわり」と「社会性・コミュニケーションの障害」という2つの症状(特性)が生じるという訳だ。この考え方の医学的、学問的な成否は私には判断する能力はないが、文系的には理解しやすい魅惑的な考え方に思える。

 ところで、「同一性へのこだわり」と「社会性・コミュニケーションの障害」という2つの症状のうち、診断する上でより重要なのは「同一性へのこだわり」の方だという。「社会性・コミュニケーションの障害」を基準にすると、ADHD(注意欠如多動性障害)との判別が難しいのだという。ADHDは本来対人関係は良好であることが多いが、その衝動的な行動によって対人関係の失敗を繰り返すうちに、自信を失って他者と交流することを避け、孤立してしまう傾向がある。この場合、「社会性・コミュニケーションの障害」という観点で見ると、ASDとADHDを区別することが困難になるのだという。

岩波明『発達障害』文春新書2017
平岩幹男『自閉症スペクトラム障害』岩波新書2012
田淵俊彦他『発達障害と少年犯罪』新潮新書2018

発達障害に関する覚書(1)

2019年06月26日 | 発達障害について
自閉症スペクトラム障害(1)

 自閉症スペクトラム障害(ASD)は、「コミュニケーション、対人関係の持続的な欠陥」と「限定された反復的な行動、興味、活動」を主要な症状とする、「発達障害」の1つである。従来は三つ組などといわれ、「社会性の障害」「コミュニケーション(言語・非言語)の障害」「想像力の障害(こだわり)」の3つが基準とされてきたが、「社会性の障害」と「コミュニケーションの障害」は1つにまとめて考えてもよかろう。

 自閉症スペクトラム障害(ASD)という言葉は、アメリカ精神医学会が2013年に発表した「精神疾患の診断・統計マニュアル(第5版)」(DSM-5)による診断名である。従来の自閉症やアスペルガー症候群を包括する概念であり、DSM-4の診断基準で用いられた「広汎性発達障害」とほぼ同義であるといってよい。

 スペクトラムとは、「連続体」という意味であり、軽症の人から重症の人まで、様々なレベル・状態の人が広汎に分布していることを表している。

 なお、「発達障害」とは、単一の障害名ではなく、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」のほか、「注意欠如多動性障害(ADHD)」「学習障害(LD)」などを含む大雑把で包括的な概念である。

[参考文献]
岩波明『発達障害』文春新書2017
平岩幹男『自閉症スペクトラム障害』岩波新書2012