WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

まるでクラプトンのようなクラプトン

2012年08月25日 | 今日の一枚(E-F)

☆今日の一枚 325☆

Eric Clapton

Just One Night

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 エリック・クラプトンの1979年12月3日の日本武道館でのライブ録音盤『ジァスト・ワン・ナイト』である。ずっと前にカー・オーディオのHDDに入れたのであるが、ここ数日なぜか毎日聴いている。結構いい・・・・。ホワイト・ブルースを基調にしたギター・フレイジングと、しゃがれ声の渋いボーカル。恐らくは、それが多くの日本のファンが、こうあってほしいと望んでいたようなクラプトンではなかったか。少なくとも、私が1970年代以降のクラプトンに勝手にもっいたイメージはこのアルバムの演奏のようなものだった。私が、あるいは日本人がクラプトンに持っているようなイメージを、クラプトンが演じたような作品である。まるでクラプトンのようなクラプトンの演奏だ。

 アルバム・ジャケットだってかっこいい。顔にはひげをたくわえ、ジーンズに、シャツにベスト(チョッキ)、そしてなんとギターは黒のストラトキャスター、「ブラッキー」だ。これぞクラプトンというジャケットじゃないか。アルバムの中にある次にあげる写真なんてもう最高。これぞ、高校生の頃の私が思い描いていた、かっこいいクラプトンの理想像といっていい。何度まねをしようしとたことか。ひげの薄い私には無理だったのだけれど・・・・。

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 とまあ、これでもかこれでもかと、「かくあるべきクラプトン像」が提示される。ちょっと、過剰サービス気味といえなくもないほどだ。その意味では、予定調和的でスタティックな、いかにも、というステレオタイプなアルバムといえるかもしれない。しかし、1960年代のクリーム時代と、1970年代初頭のサザンロックとの出合いを除けは、クラプトンとはそういう存在だったのではないか。人々がクラプトンに求めていたものは、ディオニソス的な、ある種の革命的な新しさではなく、むしろ、どこか懐かしい、静かで穏やかな安定だったように思われる。また、クラプトン自身もそのことを十分に理解し、演じてきたように見える。だから、そのことをもってクラプトンの演奏のロック・シーンにおける優劣を論ずるのは、正しい遇し方とは思われない。私は、といえば、そういうクラプトンが嫌いではない。


これからの人生

2012年08月19日 | 今日の一枚(G-H)

☆今日の一枚 324☆

Helge Lien Trio

What Are You Doing The Rest of your Life

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 中学時代の同級生たちが、かつて母校のあった被災地域にひまわりを植え、花でいっぱいにしようというプロジェクトを実施しており、先日そのひまわりを見る会と同級会があった。残念ながら私は、どうしても仕事の都合がつかず参加できなかったが、ひまわりを見る会についてはマスコミでも取り上げられ、出張先のでNHKテレビで見ることができた。映像は1分程度だったと思うが、同級生たちの集合した映像も放映され、ほんの一瞬だが、たくさんの懐かしい顔を見ることができた。頭髪や体型が大きく変化した同級生たちであるが、その顔には間違いなくかつての面影を確認することができる。思えば、50歳になった我々は、もう確実に人生の半分を終え、恐らくは3分の2を超えている者も多いはずだ。どうやら我々も、これまでの人生を振り返り、あるいは「これからの人生」について考える年齢になってしまったようだ。

 ノルウェーのピアニスト、ヘルゲ・リエンの2000年録音作品、『What Are You Doing The Rest of your Life』である。このタイトルを『これからの人生』と訳したセンスは素晴らしいと思う。今まで特に気にしなかったのであるが、よく見ると、ジャケット写真は枯れたひまわりであろうか。そう考えると、何か象徴的で印象的なジャケットではないか。ヘルゲ・リエンのピアノの、透明感のある、硬質な響きが好きだ。≪間≫を大切にしたタイム感覚が好ましい。情感豊かな感動的な演奏である。ミシェル・ルグラン作曲の「これからの人生」はもともと私の好きな曲であるが、このアルバムにおけるヘルゲ・リエンの演奏もよく聴くものの一つだ。思いを巡らし、考えるべきことがある時、ときどき取り出して聴いている。

 「これからの人生」の歌詞はこんな感じなのだそうだ。

これからの人生、何かご予定はおあり?
あなたの人生の東西南北、どんな風に過ごすつもり?
あなたの人生に、一つだけ注文があるの。
それは人生の全てを、私と一緒に過ごして欲しいということ。

あなたの日々の全ての季節も、全ての時間も、
あなたの日々の、こまごましたありきたりの事々も、
あなたの日々の、生きている意味や理由も、
全て、私と共に始め、私と共に終えて欲しいの。

私はありとあらゆる種類の光の中にいるあなたの顔を見ていたいの。
夜明けの野辺でも、夜の森の中でも。
そしてあなたがバースデー・ケーキの上のキャンドルの前で祈る時、
心の中で願いごとを言う声を聞ける、たった一人の人間でいさせて欲しいの。

そんな日々は、あなたの目の奥深くで目覚めるのを待っている。
あなたの目の中にしまわれている愛の世界の中で、今はまだ眠っているものを、
私はきっと目覚めさせてみせるわ。
ひとつかふたつキスをすれば、きっとそれは目覚めるわ。
私の生涯をふり返った時、
私の人生の春夏秋冬、全ての季節をふり返った時、
「いつもあなたと一緒だった人生」を、私に思い出させて欲しいの。

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「モーニン」というタイトルじゃなかったのですね

2012年08月15日 | 今日の一枚(A-B)

☆今日の一枚 323☆

Art Blakey and The Jazz Messengers

Blue Note 4003

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 人間ドックでいくつかの項目がひっかって再検査を勧告されたのだが、たまたまオフだった今日、地元の市立病院がお盆にもかかわらずやっているというので、人間ドック医師の分厚い紹介状を持参して病院に行ってみた。さっそく、いくつかの検査を行われ、24時間心電図装置を装着されてしまった。じめじめして暑いというのに、ああ、わずらわしい・・・・。暑いときには、熱い音楽をと思って取り出したのがこの一枚だ。

 アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの1958年録音作品、『モーニン』。ジャズ入門書には必ずとっいいいほど登場する、ジャズファンを自称する者としては、好きですなどというのが気恥ずかしくなるほどの超有名盤である。けれども近年の私は、聴くたびに、ああやはりこういうのは好きなのだなと再確認させられてしまう。黒っぽい、ブルージーでファンキーなサウンドが好ましいのはもちろんなのだが、よく聴いていると、リー・モーガンとベニー・ゴルソンの2管フロント隊が音色に絶妙の変化をつけ、意外にデリケートな演奏をしているところがいいじゃないか。若いころはこの作品が好きだなどとはまったく感じなかったのだが、最近そう思うのは「老化」なのだろうか、「成熟」なのだろうか。

 ところで、中山康樹氏の『ジャズの名盤』(講談社現代新書2005)によって気づかされたのだが、このアルバムのタイトルは『モーニン』ではなかったのですね。確かに、ジャケットのどこを見ても『モーニン』とは書かれておらず、ただ≪Art Blakey and The Jazz Messengers Blue Note 4003≫とあるのみである。このアルバムが『モーニン』と呼ばれるのは、もちろん、1曲目に配置された「モーニン」がそれだけインパクトのある曲であり、世界的なヒットをしたという事情によるものだろうが、恥ずかしながら私は、中山氏のこの本を読むまでこのことに気づきもしなかった。

 なお、中山氏はこの著書の中で、マイルス・デイヴィスの「ソー・ホワット」が、この「モーニン」をヒントに書かれたのではないかと推測しているが、改めて聴いてみると確かに似ている。そういえば、中学生のジャズ好きの二男も似ている旨を指摘したことがあったような・・・・。なるほど、と考え込ませられるのみである。


ローランド・カークの遺作

2012年08月14日 | 今日の一枚(Q-R)

☆今日の一枚 322☆

Rahsaan Roland Kirk

Boogie-Woogie String Along For Real

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 いやー、最高だ。心はウキウキ、ワクワク、ドキドキだ。なぜだか、頬が自然に微笑んでいるのが自分でもわかる。こういう作品は、私は手放しで「絶賛」してしまう。何の文句も不平もない。盲目のマルチリード奏者、ローランド・カークの「遺作」、『ブギ・ウギ・ストリング・アロング・フォー・リアル』、1977年の録音作品だ。

 私が持っているCDの帯の宣伝文句は、実に的確にこの作品を紹介しているのでここに掲載しよう。

「天才ローランド・カークの遺作。半身不随になりながらも、ブルース、ブギウギ、ホンキー・トンクといったトラディショナルなスタイルを基調に人間愛に満ちたスピリチュアルな世界を表現。愛と感動の大名盤。」

「スピリチュアル」などというと、最近では超常現象や神秘主義、またジャズ業界では歌心のない理解不能のフリージャズを意味するが、そんなことはまったくないのでご安心を・・・・。大変聴きやすく、実に楽しい、歌心溢れるアルバムである。「スピリチュアル」は「歌心」ぐらいに考えておくのが適当ではないか・・・・。

 CDの帯の裏側にはさらに具体的にこのアルバムを紹介した一文があるが、その中の一部には

「古いジャズの伝統的なスタイルをカークなりに再現してみせたタイトル曲をはじめ、カークならではの深いブルース・フィーリング、どす黒いソウルや、彼のユーモアセンスといったものがまるで玩具箱をひっくり返したように、さまざまに飛び出してくる大傑作盤。」

とある。実に的確な文章だ。


ソング・フォー・マイ・ファザー

2012年08月12日 | 今日の一枚(G-H)

☆今日の一枚 321☆

Horace Silver

Song For My Father

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 ホレス・シルヴァーの1963年録音作品『ソング・フォー・マイ・ファザー』。ホレス・シルヴァーを聴くようになったのはここ10年ぐらいなのだけれど、こういうのは結構好きだ。若いころのように、熱狂的に聴きまくり、ハマったわけではないのだけれど、知らず知らずのうちにCDやLPが少しずつ増えている始末だ。

 たまたま手元にある、ちょっと古い雑誌の村上春樹のインタビュー記事が、どうということのない内容なのだけれど、妙に記憶に残っている。(『Sound & Life』2005年6月25日発行)

 当時、レコードは貴重品でしたから、食べるものも食べないでお小遣いを貯めてやっと一枚買う。ブルーノート・レーベルのホレス・シルヴァー「ソング・フォー・マイ・ファザー」なんて、2800円も出してオリジナル盤を買いました。40年前の2800円っていったら高校生にとってはとんでもない大金です。だから買ったレコードは実によく聴いた。レコードって大事に扱えば長持ちしますよね。いまでもそのころに買ったレコードをよくターンテーブルに載せますよ。

 ジャズ・ファンなら(あるいはロックやクラッシックファンでも)、多かれ少なかれ同じような経験や思いがあることと思う。予定調和的な感想ではあるが、まったく共感するのみだ。村上氏はこのインタビュー記事で次のようなこともいっている。

さっきもいったように、2800円のブルーノートのレコードって高校生の僕にとってはものすごく大きな出費だったんだけど、だからこそ大事に丁寧に聴いたし、音楽の隅々まで覚えてしまったし、そのことは僕にとっての知的財産みたいになっています。無理して買ったけど、それだけの値打ちはあったなあと。活字がない時代、昔の人が写本してまで本を読んだように、音楽が聴きたくて聴きたくて苦労してレコードを買った、あるいはコンサートに行った。そうしたら人は文字通り全身を耳にして音楽を聴きますよね。そうやって得られた感動ってとくべつなんです。

 私とはひとまわりも歳の違う村上氏だが、まったく同じような思いである。


畠山美由紀の無料LIVEに行ってきました。

2012年08月12日 | 音楽

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 数日前の記事で取り上げた畠山美由紀の無料LIVEに行ってきました。会場の小さなジャズ喫茶は超満員で中に入れず、入口前の路上でのテレビモニター観覧かと思いきや、LIVEが始まって数分、興味がなかったのでしょうか、会場から出てきた人が10人ほどおり、後ろからの立ち見ではありましたが、何とか中に入って演奏を聴くことができました。角度が悪くて、ピアノとギターは見れなかったけど・・・・。

 当日はお祭りのため、すぐそばの仮設商店街の広場で打ち囃子をやっていたり、熊谷育美らの無料野外LIVEがあったりで、その音が聴こえてあまりいい条件ではありませんでした。Liveは途中、親友の音楽教室の先生や、弟さんの友達だという男性が飛び入り出演して、自作のカラオケトラックをバックに「守ってあげたい」を歌ったりするなど、全体的にアットホームなものでした。

 感想は・・・・、「普通」でした。演奏は悪くないし、歌はやはりうまいのだろうなと思うのですが、全体のトーンに変化が乏しく、正直いえば、やや冗長で退屈に感じたのも事実です。まあ、無料なのでがたがたいうのも失礼というもの・・・・。

 今度は、お金を払ってもいいから、集中力のあるLIVEを見てみたい。是非また来てほしいものです。


ウィ・ウィル・ミート・アゲイン

2012年08月11日 | 今日の一枚(A-B)

☆今日の一枚 320☆

Bill Evans

We Will Meet Again

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 すがすがしい朝だ。今日は完全オフだ。思えば本当に忙しい一週間だった。ああ、疲れた。このアルバムジャケットのように穏やかな海を見るとちょっと癒される。海のすぐそばに住んでいながら、しばらく心が癒されるような海をみていない。大津波で海岸線は破壊されてしまった。夏なのに海水浴場もない。サーフィンにいくこともない(歳のせいだが・・・)。まあ、心の問題もあるのだろうが、私の住む街の海岸の多くは、がれき置き場と工事現場になってしまった。愚痴をいってもしょうがない。それが現実なのだから。今日はしばらくぶりに近くの海にいってみようか。

 すがすがしい朝に選んだ一枚。ビル・エヴァンスの1979年録音、『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』、ビル・エヴァンス最後のスタジオ録音作品だ。一曲のみピアノ独奏で他はクインテット編成からなるこのアルバムは、ビル・エヴァンスが死期を悟って吹き込んだものともいわれる。アルバムタイトルにもなっている『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』という曲名はこのアルバムの中でもピアノソロで演奏された「フォー・オール・ウィ・ノウ」の歌詞にある "for all we know.we may never meet again" という部分からきているらしい。兄の自殺に大きなショックを受けたエヴァンスは、心に残っていた先の言葉をヒントに、兄にささげたこの曲に「We will meet again」と名付けたのだそうだ。エヴァンスはこの曲名についてインタヴューで、「なぜって、そう信じるからね」、と語っている。エヴァンスに親しい人々たちは、彼が最後まで入院を拒否したのは死の願望を抱いていたのではないか、と推測しているほどだ。

 私はこのアルバムが好きだ。魅惑的な語感のアルバムタイトルといい、詩情を感じるジャケットといい、さわやかで情感あふれる演奏といい、いい作品だと思っている。けれど、世の中にはこの作品を高く評価しない評論家先生もいるようで、例えばちょっと古いが大村幸則氏と高木宏真氏の対談(『ジャズ批評別冊/ビル・エヴァンス』1988)

(高木) 79年の『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』でまた無意味       な使い方をしている。リズム+二管という典型的なハード・バップ・スタイルだけど、コトもあろうにエバンスがリダーとしてつくるとは・・・・。

(大村) あんまり、面白いレコードじゃないね。そして、これが最後になってしまうとは・・・・。

 意味がわからない。どうやら、アコーステック・ピアノとエレクトリック・ピアノの使い方に関するやり取りのようであるが、論旨が不明確で、文脈から判断してもここまで酷評する理由がわからない。

 一方、小川隆夫氏は、「ラストトリオの到達点」というエッセイの中でこの作品に対して次のような高い評価を与えている(『ビル・エバンス/あなたと夜と音楽と』講談社1989)。

 たしかにそれまでにないほどリリシズムに磨きをかけ、ことさら内省的な演奏に終始している。それは紛れもなく、彼の最良の演奏の一つに数えられ、ここで示したエモーションからは近寄り難い孤高なものを感じさせられよう。スタジオ録音という彼の音楽活動のある部分において、この作品はピークを記録したものとして、またエバンスの持つピアニスティックな魅力を研ぎ澄まされた形で残したものとして、永遠不滅な崇高さに輝いている。

 首肯すべきことも多く、基本的には異存はないのだが、反面、ちょっと言い過ぎではないかとも思う。過剰な修飾が多すぎて論旨も不明確である。

 確かに、内省的でリリシズムに満ちた演奏であるが、私にとっては、さわやかですがすがしい、特に好きな作品のひとつ、ということになりそうである。


クール・ストラッティン

2012年08月06日 | 今日の一枚(S-T)

☆今日の一枚319☆ 

Sonny Clark

Cool Struttin'

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 Blue Note 1500番台の超有名盤である。印象的なジャケットは、アートとしての評価も高く、ジャズ喫茶全盛の時代には、ジャズ喫茶で毎日頻繁に流されたという伝説的作品である。現在でも、日本で最も売れるジャズアルバムのひとつらしい。私の持っているCDの帯にも「不滅の人気盤」、「ハードバップの聖典」、という言葉が書き記されている。しかし、日本では超人気盤でありながら、本国アメリカではまったくヒットせず、ソニー・クラークの名前すらほとんど知られていなかったようだ。ブルーノートの創設者アルフレッド・ライオンは、日本からこのアルバムの注文が殺到したことを不思議に思ったという程だ。

 ところで、私がジャズ喫茶に通っていた1980年代には、もうその神話的な時代はとうに過ぎ去っており、実際、私はジャズ喫茶で一度もこのアルバムを聴いたことはない。私がその偉大な伝説を知っているのは、あくまで書物や伝聞による知識としてに過ぎない。だからわたしは、基本的にニュートラルな状態でこのアルバムに出合ったのであり、このアルバムに対してフェテッシュ(物神的)な何ものかを感じるわけでもはない。

 このアルバムとはもちろん、ソニー・クラーク(p)の1958年録音作品、『クール・ストラッティン』である。アート・ファーマー(tp)、ジャッキー・マクリーン(as)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)といった有名どころがサイドメンとして参加している点からも注目すべき作品である。私も、好きか嫌いかと聞かれれば、ちょっと迷った後で、好きだと答えるだろう。ブルージーでファンキーなサウンドは基本的に好きだ。フレーズもかっこいいと思う。サイドメンたちの演奏も悪くない。では、このアルバムをよく聴くかと問われれば、残念ながらそれほどよく聴くわけではない。ブルージーで、ファンキーで、かっこいいサウンドでありながら、例えば表題曲(①Cool Struttin')を鈍臭く感じてしまうのはなぜだろう。すごく鈍臭く、凡庸に感じてしまう。恐らくは時代の制約なのだろう。「ちょっと迷った後で」といったのはそういう意味だ。私が好きなのは② Blue Minor 、出だしの疾走感がいい。途中でピアノソロのあたりから、失速してしまうのだか・・・・・。とても好きなテイストなのだが、今ひとつのれないことがある、というのが正直なところだ。どうやら、このアルバムは私にとって「普通のいい作品」のひとつということになりそうだ。

 家族が寝静まった深夜に、仕事をしながら、あるいはウイスキーを片手に本を読みながら、音量をしぼって聴くのがいい。私にとってはそういうアルバムである。


スティル・ライフ

2012年08月04日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 318☆

Pat Metheny Group

Still Life (talking)

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 昨日の『レター・フロム・ホーム』に続いて、今日の一枚もパット・メセニー・グループ(PMG)。1987年作品の『スティル・ライフ』である。PMGのものとしては、『レター・フロム・ホーム』のひとつ前の作品にあたり、『レター・フロム・ホーム』同様、グラミー賞受賞作である。昨日も記したように、私は長らく曲名もチェックせずにカセットテープで聴いていたこともあって、同じサウンド的傾向のこの『スティル・ライフ』と、『レター・フロム・ホーム』が頭の中ではごちゃごちゃであった。今回改めてCDで聴きなおしてみて感じるのは、『スティル・ライフ』のほうが若干、サウンドの陰影感が際立っているのではないかということと、爽快な疾走感が特徴的だということだ。シンセサイザーを駆使した変幻自在のギターと、細かなリズムを刻み続けるドラムスは特に印象的だ。どの曲も魅惑的でサウンド的にも安定しているが、お気に入りは美しいメロディーをもつ③ Last Train Home と、⑦ In Her Family だ。特に、穏やかで奥行きのある⑦ In Her Family がアルバムの最後に配されていることによって、サウンドの余韻が残り、アルバムをより感動的なものにしている。

 ところで、『スティル・ライフ』というタイトルで思い出すのは、1988年に出版された池澤夏樹の小説である。私と同世代にはそういう人も多いのではなかろうか。この作品が雑誌「中央公論」に発表されたのは1987年の10月号であるが、もちろん作品はそれ以前に完成していたはずである。パット・メセニー・グループの『スティル・ライフ』が録音されたのは1987年の3月~4月であり、両者はほぼ同時期のものということになる。何かつながりがあるのだろうか。

 池澤夏樹氏の『スティル・ライフ』は、その詩的な表現や、独特の世界観を表出したストーリーの魅力もさることながら、忘れがたいのはやはり冒頭の次の一文である。

       ※          ※          ※

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。

 世界ときみは、2本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

 でも、外に立つ世界とは別に、君の中にも、1つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることもできる。君の意識は2つの世界の境界の上にいる。

 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ2つの世界の呼応と調和をはかることだ。

 たとえば、星を見るとかして。

「たとえば、星を見るとかして」というところが、なかなかによい。構造主義に接近していた当時の私はやや違和感を感じたものだが、いまは素直に読むことができる。

 魅力的な文章だ。

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畠山美由紀

2012年08月04日 | 音楽

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 8月11日に私の住む街のジャズ喫茶で畠山美由紀のコンサートがあるらしい。

 しばらくぶりにいってみようか。しかし、無料ということなので、多くの人が集まる可能性がある。入れないかもしれない。11日は震災で亡くなった人たちの月命日であり、港まつりの花火大会も実施される日だ。畠山美由紀さんは地元出身の人なので、そういうことも意図しての「無料」なのだろう。個人的には、お金を払ってもいいから、じっくり聴きたいのだが・・・・。

 畠山美由紀を教えたという、高校の先生を定年退職した知人によれば、彼女は高校時代からほかの生徒とは段違いに、別次元といってもいいほどに歌がうまかったという話だ。ちょっと前にやった、BS-japanの「ミュージック・トラベル」の特集もなかなかよかった。

 会場に入れれば、是非聴いてみたい。


レター・フロム・ホーム

2012年08月03日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚317☆

Pat Metheny Group

Letter From Home

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 この夏は車で古いパット・メセニーを聴いて過ごそうと決めた。1か月ほど前、なぜだかわからないが(天の啓示のようにだ)、パット・メセニーを聴いていた懐かしい20代の頃の情景が思い出され、そう決めてしまったのだ。パット・メセニーのサウンドとともにの、スライドショーのように様様な場面が思い出され、アスファルトに反射する太陽の暑さや、汗のじめじめした感じや、風の涼しさなどの皮膚感覚さえよみがえってくる。不毛な日々だったが、私にとってはやはり、かけがえのない時間だった。 

 今日の一枚は、パット・メセニー・グループ(PMG)の1989年録音作品、『レター・フロム・ホーム』だ。同時代に聴いた作品だ。私は27歳だったことになる。PMGとしては快作『スティル・ライフ』(1987)の 次に来る作品なのだが、私はずっとカセットテープで聴いていて、曲名をきちんとチェックしなかったこともあり、私の中では『スティル・ライフ』と『レター・フロム・ホーム』がごちゃごちゃになっている。傾向の類似した両作であるが、今回CDで聴きかえしてみて、『レター・フロム・ホーム』のほうが溌剌とした明快なサウンドだという印象を受けた。サウンドの陰影感という点では一歩譲るが、本当に元気で明快なサウンドである。柔らかいが低く存在感のあるベースが好ましい。印象的な① Have You Heardももちろんいいが、やはり私は、メロディーの美しい⑧ Dream of The Return、⑪ Slip Away、⑫ Letter From Home、あたりがお気に入りである。あまりの美しさに、感動の余韻が細胞のひとつひとつにゆっくりと沁み込んでくるようだ。


再開のご挨拶 ~Starting Over ~

2012年08月03日 | つまらない雑談

 家や仕事を失ったわけではないのだが、震災後、仕事や生活がいろいろな意味であわただしくなり、そのあわただしさにかまけて、ずっとブログの更新を怠ってきた。大方は、もうやめてしまったのだろうと、思われているに違いない。

 またぼちぼち更新していこうかと考えている。きっかけは、人間ドックでメタボリックシンドロームとそれに起因する狭心症予備軍と診断され、その「罪」で≪積極的支援を要する者≫に指定されて、体重を落とさなければならなくなったことに関連している。まったく余計なお世話だと思うのだが、例の健康増進法に基づいて、これから半年間、定期的に保健師さんの指導を受けなければならないというのだ。本当に余計なお世話だと思いつつも、従順な私は減量目標をとりあえずマイナス4キロと設定してしまった。平均すると、一日に155カロリー減らさなければならないのだそうだ。震災前に運動していたスイミングクラブが津波であとかたもなく流されてしまい、そのためもあって慢性的な運動不足だ。とりあえず、市の体育館のジムを利用しようかと考えているが、戸外を走ることも考えねばならないかもしれない。

 運動だけでは体重は落ちないことは経験済みだ。やはり食事制限が必要なのだ。けれども、これがなかなか難しい。とりあえず、酒を飲みながら、肴を喰らい、テレビに興じていた怠惰な生活をなんとかせねばならない。そこで、ブログ記事を書くことで、怠惰な時間を減らし、なんとか生活を立て直せないだろうかと考えたわけだ。

 というわけで、少しずつになると思いますが、ブログを再開します。

 Starting Over。

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