WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ホヤが消えた!

2011年05月28日 | 今日の一枚(Y-Z)

●今日の一枚 315●

Zoot Sims

Zoot At Ease

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 私の住む三陸海岸は本来この季節となれば、かつおのシーズンの始まりであり、ホヤのシーズン真っ只中である。ところが、あの大津波の影響で、当然といえば当然なのだが、我々の地域からホヤが消えてしまった。どこの魚屋にいっても、スーパーに行っても、ホヤを見かけることはなくなってしまった。鰹や鮪は他の地域のものが若干入ってくるが、ホヤはほとんどこの地方でしかとれないものなので、きれいさっぱり店頭から消滅してしまったわけである。

 もともと大のホヤ好きの私、無くなってみると、ホヤへの思いは益々つのるばかりだ。先日、出張帰りに隣街の魚屋に立ち寄ってみると、何とホヤがあるではないか。ただし冷凍ものではあるが……。冷凍ものではあるがパッケージには「刺身用」と記されており、私は生唾を飲み込む有様だった。今夜、ホヤを肴に日本酒で一杯……、という映像が頭の中に浮かんだ。当然のことのように、買っちゃおうと手に取ると、何と値段が980円……。気の弱い私は気おくれし、躊躇してしまった。生であれば、200~300円程度のものである。私の脳裏に、妻から小言をいわれている映像が浮かび、5分ほどもどうしようかと迷ったあと、家庭の平和のために泣く泣くあきらめることにした。ああ、ホヤが食べたい。あの日からホヤへの思いはつのるばかりである。

     *     *     *     *

 今日の一枚は、ズート・シムズの1973年録音作品、『ズート・アット・イーズ』である。もともとテナー奏者のズートのソプラノ・サックスが聴ける一枚である。ずっと以前に取り上げた『プレイズ・ソプラノ・サックス』もそうなのであるが、ズートのソプラノは、例えばコルトレーンと比べて、音がふくよかであり、やさしい温かみがある。繊細でセンチメンタルな音の表情がたまらない。私はかなり好きな一枚だ。曲もなかなか魅惑的なものが並んでおり、ズートはその時々によってテナーとソプラノを使い分けている。

 ああ、このアルバムを聴きながら、ホヤを肴に地元の日本酒で一杯やりたい。


ジョン・ハートというギタリスト

2011年05月07日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 314●

John Hart

One Down

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 何度も同じ話をするが、3・11と4・7の地震によって、現在、私のCD棚はカテゴリーも演奏者もバラバラで、どこに何があるのか探すのがとても困難な状況である。したがって、最近はたまたま目についたものを取り出すようになっている。しかし、怪我の功名というべきか、普段あまり聴かない、「そういえばこれあったな」、という感じの作品に再びめぐりあうことがある。

 このCDもそうだ。ジョン・ハートの1988-1989録音作『ワン・ダウン』。レーベルはブルーノート、輸入盤である。確かに自分でこのアルバムを買った記憶はある。購入したのは、作品がリリースされた1990年ごろだと思う。しかし、どこで、またどんな経緯でこのアルバムを購入したのかどうしても思い出せない。そもそも私はこのジョン・ハートという人を知らなかったし、実のところ今でも知らないのだ。恐らくは、ショップで見て衝動買いしたのだと思うが、失礼ながら、ジャケ買いする程魅惑的なジャケットでもない。輸入盤なので、帯もついておらず、宣伝文句に惑わされた訳でもないと思う。謎だ。

 悪くない。ストレイトアヘッドなジャズである。爽快だ。奇をてらわない正統派のジャズギターが好ましい。シンプルなサウンドだが、疾走感がたまらなくいい。ギター・ソロも4曲あるが、なかなか雰囲気のあるギターを弾く。⑪ Ruby My Dear などジーンときてしまった。気持ちのいい一枚である。

    John Hart (g)

    Chuck Bergeron (b)

    John Riley (ds)

    Tim Hagans (tp)

    Rick Margitza (ts)

 ジョン・ハートについて知っている人がいたら是非教えてください。


インタープレイ

2011年05月07日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 313●

Bill Evans

Interplay

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 有名なのに不思議にあまり聴くことのないアルバムというものがある。私にとって、ビル・エヴァンスの1962年録音作『インタープレイ』はそんなアルバムの一つだ。

  ビル・エヴァンス (p)

  フレディー・ハバード (tp)

  ジム・ホール (g)

  パーシー・ヒース (b)

  フィリー・ジョー・ジョーンズ (ds)

 ビル・エヴァンスが自らのリーダー・セッションに初めてホーン奏者を迎えたアルバムであり、お家芸のインタープレイを、ピアノトリオではなく、クインテット編成で追究しようとした作品といわれる。評論家筋の評価もそれなりに高い。バンドのメンバーも有名どころだ。けれども、私はビル・エヴァンスを聴こうと思ってこのアルバムを取り出すことはほとんどない。エヴァンスを考える場合、重要なアルバムなのかもしれないが、私の聴きたいエヴァンスがそこにはないからだ。結果、このアルバムは私のCD棚の片隅にもう恐らくは20年以上も放置されたままだった。プロデューサーのオリン・キープニューズの回想によれば、このアルバムが録音されたのは、スコット・ラファロの死後、エヴァンスが一層多用するようになった麻薬の購入資金を得るためだったようだ。だから、クインテット編成によるインタープレイというのも、どちらかというと、プロデューサー側の企画だったのかも知れない。もちろん、そのことが内容の価値を下げるものではないが……。

 その滅多に聴くことのないアルバムをなぜ今日取り出したのか。3・11と4・7の地震によって、現在、私のCD棚はカテゴリーも演奏者もバラバラで、どこに何があるのか探すのがとても困難な状況である。したがって、最近はたまたま目についたものを取り出すようになっている。怪我の功名というべきか、普段あまり聴かない、「そういえばこれあったな」、という感じの作品に再びめぐりあうようになったわけだ。

 さて、『インタープレイ』である。エヴァンスを聴くためにあえて取り出す作品ではない、という認識にかわりはないが、典型的なハードバップ作品という観点からはなかなか面白いのではないか。とてもスウィンギーでノリがよく、ミディアムテンポの演奏がうまいエヴァンスの特質が意外と生きているのではないだろうか。バラード演奏もしっとりとしてなかなかよい。若きフレディー・ハバードの瑞々しい演奏もいいし、ジム・ホールのギターはさすがに存在感がある。いいじゃないか。なんだか得をした気分だ。『インタープレイ』というタイトルだが、私にとっては鬼気迫るような緊張感を感じる演奏というよりは、リラックスして楽しめる良質のハードバップ作品だ。

 ところで、このアルバムのCDケースもひびや傷だらけである。CDケースを買い換えるには、破損したケースがあまりに多すぎる。CD棚の整理はいつやろうか。余震はまだまだおさまりそうもない。


アシンメトリクス

2011年05月07日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 312●

Helge Lien

Asymmetrics

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 最近、夜中に目が覚め、そのまま眠れなくなってしまうことが多い。妻はアルコールのせいだというが、それ程飲んでいる訳ではない。今日もそんな夜のようだ。仕方がないので、音量を絞って音楽を聴くことにした。 

 ノルウェイのピアニスト、ヘルゲ・リエンの2003年作品『アシンメトリクス』。写真でみるこの人物の風貌はあまり好きになれない。俗物に見えてしまう。けれども、彼が奏でるピアノは好きだ。ヘルゲのピアノの響きを聴いていると、私はいつも「端正」という言葉を思い浮かべる。とても繊細で、しかも何というか折り目正しい響きだ。しかし一方、アバンギャルドな演奏もこなす。この作品でもそういった彼の資質は存分に発揮されているようだ。やはり、才能のある人なのだろう。

 ① Spiral Circle 、夜の静寂の中に、ピアノの響きが溶けていく。こういう旋律を奏でるヘルゲ・リエンが本当に好きだ。


原発問題をめぐる言説

2011年05月05日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 311●

RC Succession

Covers

 

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 ほとんど毎日のように更新されていた《よく読むブログ》の 「JAZZを聴きながら」が、4月5日の「嘆きの鰹」という記事以来更新されていない。恐らくは福島の原発の問題と関係があるのだろう。心配だ。

 RCサクセションの1988年リリース作品『カヴァーズ』である。全篇ロック/ポップの名曲に日本語の歌詞をつけたカヴァーアルバムだ。反原発・反核の曲を含むことが問題となり、東芝EMIからの発売が中止されたことを憶えている。日本の原子炉サプライヤーでもある親会社の東芝から圧力がかかったためだ。この”汚い”話を知り、自分の住むこの日本社会に本当にがっかりしたものだ。もちろん、20代後半だった当時の私は、世の中がきれい事だけで成立していると考えるほどピュアではなかったが、現実にそのことを突きつけられてみると、やはりショックは大きかった。

 実際、この類の”汚い”話は他にもたくさんあるようだ。例えば、京都大学には「熊取6人組」と呼ばれる反原発の立場から今回のような大事故を警告し続けた学者たちがいたようだが、彼らは学会では冷や飯を食わされ続け、昇進や研究費などでもあからさまな差別を受けてきたらしい。優れた研究者でありながら万年助手に甘んじた彼らは、政府はもちろん新聞やテレビなどからも無視されづづけ、原発問題に関するマジョリティーは政府や電力会社と癒着した推進派の学者たちによって形成されてきたという。(詳しくは→こちら

     *     *     *

 ところで、思い返してみると、少なくともこの『カヴァーズ』がリリースされた1988年頃までは、社会の一部に、少数派ではあれ反原発を主張する人々が確かにあるポジションを占めていたのだということに妙な感慨をもつ。その後、バブル期を通して、我々の社会は豊かでポップな生活を求めるようになり、反原発の声はほとんどかき消され、「なんとなく賛成派」や「あえて触れない派」や「仕方ないんじゃない派」が多数を占めていった。原発をめぐる論争は留保され、人々は原発問題を考えることを回避するようになったように思う。「なんとなく反対派」だった私も、恐らくは、そのうちの一人だ。

 福島の原発問題で、我々は再びきちんと考えなければならない場所に立たされた。けれども、そうしようとするたび、これまでの原発をめぐる言説に違和感を感じてしまうのはどうしたことだろう。違和感とは、例えばこういうことだ。

  • 今朝も、被害者たちが東電社長に罵詈雑言を浴びせ、土下座させた映像がTVに映し出された。何か違う気がする。原発のために生活の場を奪われた被害者たちの気持ちは痛いほどわかる。しかし、原発誘致に賛成し、巨額の補助金の恩恵にあずかってきたのもまた、現在の被害者の人たちではなかったか。絶対安全といわれ騙されたのだという言い分もあろう。けれども、絶対安全なものに巨額の補助金を交付することはあろうはずもなく、そのことは地域の人たちも薄々認識していたはずだ。もちろん中には反対した人たちも少なからずいただろうが、地域社会全体としてはやはり賛成したのである。その意味では、特定の地域に原発を押しつけることを黙認してきた我々にも、日本国民として重い責任がある。それが民主主義というものだ。だから、「我々は誤った選択をし、大きな失敗をしてしまった。だからもう一度考え直そう。」、というスタンスが必要ではないか。
  • 原発論争がイデオロギー的な言説で語られてきたことも違和感を感じる原因のひとつだ。右=推進派、左=反対派という単純な図式が成り立ってしまう。私などは、純正右翼や保守派は、古き良き日本の自然と文化を守るため、原発には反対すべきだと思うのだが、現実にはそうではなかったようである。イデオロギーが先にあったため、推進/反対という結論が先にあり、具体的な議論・検討が十分になされなかった可能性がある。推進派が提示するデータも、耐震対策や災害時の復旧・賠償も含めたコスト計算をせず、原発は安全であるという前提で、その低コストを主張するものに過ぎなかった。きちんと議論する前提がなかったのである。また、政治イデオロギーと推進派/反対派がリンクしていたため、マルタ以降の冷戦終結後、論争そのものが「メルトダウン」していき、原発はすでにあるという”現実”だけが残ってしまったのではないか。原発を導入推進することで、日本社会がどう変わっていくのか/あるいはいかないのか、という真摯な議論が必要だった。
  • 東京都の石原知事は、それでもやはり原発は必要だと発言した。福島問題以降のアンチ原発の”ファシズム”の中、ある意味で勇気ある発言だと思う。しかし、やはり違和感を感じる。リスクを誰が負うのかという問題が欠落しているのだ。多くの論者が述べるように、現在の原発問題の大きなポイントは受益者とリスクを負う人々が食い違う点にある。「今回の事故にもかかわらず、原発は必要なのだ」という主張は十分ありうると思う。ただ、リスクを他に負わせ、安全な場所から発せられる言説は無効である。そういった議論は不毛だ。どんな言説にも責任というものが必要なのだ。このことこそ、都市の人々がこの問題をちゃんと考えてこなかった原因ではなかったか。石原都知事は、「原発は必要だ。だから東京につくる。」と語るべきだ。その時こそ、東京の人々も、自分の問題として真剣に考えはじめるだろう。リスクを負った上で、都市の人々が「それでも原発は必要だ」と主張するなら、少なくともひとつの意見として傾聴に値するのではなかろうか。多額の補助金を交付して地方も潤っているからいいのだ、などという言説はもう成り立たない。人間の命を金で買っているのと同様であり、石原氏も嫌悪する「我欲」の最たるものであろう。

 我々は、少なくとも、これまでとは別の観点から、もっと別のスタンスで、この原発をめぐる諸問題を考えなくてはならないのではなかろうか。

 


立原正秋箴言集(7)

2011年05月04日 | 立原正秋箴言集

 どこの家の庭でも花が開いていた。だが、なんと暗い春だろう、と彼は全身に痛みを感じながら歩いた。(『暗い春』)

 『暗い春』の最後の文章です。大津波に襲われた私の街でも桜の花が咲いています。私の家の庭にも花桃や花海棠が咲き始めています。息子を失った職場の仲間が、どんな思いで咲く花をみるのだろう、と思うと胸が締めつけられます。

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ジャズ来るべきもの

2011年05月04日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 310●

Ornette Coleman

The Shape Of Jazz To Come

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 最近、また悪臭がひどい日がある。家のドア、あるいはクルマのドアををあけると、絶えられない悪臭が入り込んでくる。私などは家のドアからクルマまで息を止めて走って移動する始末だ。数日前、隣町に家族で買い物にいったのだが、私たちの髪の毛や衣服にこの臭いが染み付き、周りの人に臭うんじゃないかと心配してしまうほどだった。その帰り道、妻がしみじみと、「またあの臭い街に帰るのね」といったのが、印象的だった。

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 フリージャズの先駆者といわれるオーネット・コールマンの1959年作品『ジャズ来るべきもの』である。The Shape Of Jazz To Come を「ジャズ来るべきもの」と訳したセンスに熱烈な賛意を示したい。かっこいい……。

 当時はジャズ界に一大スキャンダルを巻き起こした問題作だったようだが、今聴くと、嘘のように聴き易い作品である。私などは全体に漂う叙情性と音の背後に広がる静けさに魅了される。メロディーやハーモニーの感覚もたまらなく好きだ。スピーカーの前に座り込み、じっと耳を傾けるような求道的な聴き方はしない。音量は必要以上に大きくしない。むしろ絞り気味だ。珈琲を飲みながら、あるいは書物や雑誌を読みながらBGMのように聴く。フリージャズの問題作といわれたオーネットの音楽が、とても好ましい穏やかな空間を作ってくれる。気分がいい。それでも、本から目を上げ、じっと聴き入ってしまう瞬間がある。それが音楽のもつ力なのだろう。