WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

クリスタルの恋人たち

2012年09月30日 | 今日の一枚(G-H)

☆今日の一枚 336☆

Grover Washington Jr.

Winelight

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 今日も、”僕らの時代のBGM” グローヴァー・ワシントンJrだ。1980年作品の『ワインライト』、よくできたアルバムである。というか、かつてよほどよく聴いたのだろう。どの曲も身体的にフィットして、現在でもまったく違和感がない。①Winelight、②Let it flow、③In the name of love と続くA面の流れは本当にすばらしい。穏やかかつエモーショナルな曲④Take me thereから、大ヒット曲⑤Jast the two of us への流れもなかなかなよい。そして、エリック・ゲイルの穏やかなギターからはじまる最後の⑥Make me a memoryの寂寥感がたまらない。

 今日もカセットテープで聴いているのだが、私のテープラックにはTDKのADに録音されたものと、AXIAのSD-Masterに録音されたものの2つがあり、このことからも相当聴きこんでいたアルバムであることがわかる。音はやはりクロームテープ(Cro2)の方がいいようだ。このアルバムについてはやはりCDを買っておこうかという気持ちもなくはないのだが、一方で同じ時代をともに生きたこのカセットテープのままで不足ないような気もする。ただ、もう一度LPレコードで聴いてみたいという思いはある。

 音楽的なクオリティーはもちろん素晴らしいものがあるが、都会的なお洒落さを感じるAOR的なテイストもなかなかいい。女の子と素敵な時間を過ごすツール、”恋のBGM”として重宝な作品だったわけだ。1980年代の前半、女の子とのデートで、ドライブのBGMとしてこのアルバムを使えば、女の子もメロメロ、イチコロだった。そうだったに違いない、と私は夢想するのだが、貧乏学生の私には、もちろんクルマなどなく、それどころか運転免許すらなく、まったく実現不可能だったのが口惜しい。

 ⑤Jast the two of us のお洒落な邦訳タイトル「クリスタルの恋人たち」は、やはり田中康夫の『なんとなく、クリスタル』から売れ線をねらってつけられたものなのだろうか。確かに、歌詞の中にI see the crystal raindrops fall. とか、I hear the crystal raindrops fall. とか、「クリスタル」という言葉は登場するが、「クリスタルの恋人たち」というタイトルはいかにも唐突だ。お洒落なタイトルではあるが、はっきりいって何が何だかわからない。アルバム『ワインライト』が発表されたのは1980年だが、田中康夫『なんとなく、クリスタル』の発表が1981年1月で(雑誌「文藝」に掲載されたのは1980年12月だったようだ)、Jast the two of usがシングルカットされたのが1981年?月であることを考えると『なんとなく、クリスタル』が下敷きになっていた可能性は十分にある。ただ、曲そのもののイメージからいうと、Jast the two of usをそのまま使った方がよかったのではないか、と今は思う。

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「訪れ」

2012年09月29日 | 今日の一枚(G-H)

☆今日の一枚 335☆

Grover Washington jr.

The Best Is Yet To Come

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 ちよっとしたきっかけがあって古いカセットテープを引っ張り出してしたら、”僕らの時代のBGM” グローヴァー・ワシントンJrのものを数本発見。『ワインライト』と、『ストロベリー・ムーン』、『カム・モーニン』、『スカイラーキン』、そして『訪れ』だ。懐かしくて懐かしくて、ここ2~3日それらのテープを聴きっぱなした。

 グローヴァー・ワシントンJrは”スムース・ジャズの父”などといわれるらしい。スムース・ジャズというのは、フュージョンのスタイルのひとつで、フュージョンにR&Bの要素を混ぜたものらしい。まあ、そういわれれば確かにそんな感じがするが、私自身、そんな感じで聴いたことはなかったし、スムース・ジャズなどという言葉も知らなかった。私は熱いフュージョンというか、パースペクティヴとしてはジャズの範疇にひきつけて聴いていたような気がする。

 1982年作品の『The Best Is Yet To Come』。邦訳タイトルは『訪れ』だ。『訪れ』ってなんか古風でいいじゃないか。洗練された言葉だ。私は、直訳するともっとスケベな言葉になるのかと思っていたのだが、「未来はもっとよくなる」とか、「輝かしい時はまだ訪れていない」とか、あるいは「お楽しみはこれからよ」とかの意味があるらしい。印象的な美しいジャケットである。しかしこのジャケットをみると、The Best Is Yet To Comeはやはりスケベな意味なのではないだろうかなどとあらぬことを想像してしまう。サウンドは今聴くと、若干甘すぎるかなと思う部分もあるが、展開に起伏があり、情感のこもったブローもあるなど、基本的に嫌いではないし、よい演奏だと思う。フュージョンは聴き飽きすることが多いといわれるが、グローヴァー・ワシントンJrに関しては、そう感じたことはあまりない。タイトル曲のThe Best Is Yet To Comeなんて本当にいい曲で、ずっとグロヴァーを聴かない時代にあっても、たまに頭の中に思い浮かんで鳴り響いていた曲なのだ。

 『訪れ』は、sonyのHF-ES46というテープに収録されていた。nomalテープということもありややダイナミックさに欠ける気もするが、まあカセットテープだと思えばストレスなく聴ける。CDはでているのだろうか。ちょっとwebで検索したらどうも廃盤のようでもある。ただ私は、一緒に1980年代を生きたこのカセットテープで不足ないと思っている。

 カセットテープはいったい何本あるかわからないのだが、ざっと見て500本以上はありそうだ。半分がジャズ系、もう半分がロック系といった感じだろうか。震災でバラバラに崩れ落ち、とりあえず無造作にラックに入れた状態のままなので、どこに何があるかわからない。その不自由が幸いしてか、思わぬものに出合うこともしばしばである。メインのステレオにつないでいたテープデッキを書斎に持ち込み、BOSEの小型スピーカー125で聴いている。


シークレット・ポリスマン・コンサート

2012年09月23日 | 今日の一枚(various artist)

☆今日の一枚 334☆

The Secret Policeman's Concert

 昨日、Book Off でスティングの『ソウル・ゲージ』の中古CDを、何と300円で買ったのだが、そういえばスティングのアルバムはカセットテープでたくさんあったよなと思って探してみると、すっかり忘れていた面白いアルバムを発見した。1981年の『シークレット・ポリスマン・コンサート』のライブ録音だ。AXIA GT-Ⅰx(nomal position)というテープに録音されており、やや音の広がりが劣る気はするものの、それほど音質が悪いとは感じない。針のノイズの存在から音源はLPだと思われるが、webで調べてみるとLPの曲順は下の通り。私のカセットテープとは若干曲順が異なっているようだ。あるいは、テープに収まるように編集したのかもしれない。

SIDE 1
1.ROXANNE/スティング
2.MESSAGE IN A BOTTLE 孤独のメッセージ/スティング
3.CAUSE WE'VE ENDED ASLOVERS 哀しみの恋人たち
  /ジェフ・ベック&エリック・クラプトン
4.FARTHER UP THE ROAD/ 〃
5.CROSSROADS/ 〃
6.I DON'T LIKE MONDAYS 哀愁のマンディ
  /ボブ・ゲルドフ&ジョニー・フィンガーズ
SIDE 2
1.IN THE AIR TONIGHT 夜の囁き/フィル・コリンズ
2.THE ROOF IS LEAKING 天を仰いで/ 〃
3.THE UNIVERSAL SOLDIER/ドノバン
4.CATCH THE WIND/ 〃
5.I SHALL BE RELEASED/シークレット・ポリスマン

 『シークレット・ポリスマン・コンサート』は、1981年にアムネスティ・インターナショナルに賛同するアーチスト達によって、ロンドンのシアター・ロイヤルで数回にわたり開かれたコンサートである。アムネスティ・インターナショナルは、政治犯として不当に投獄されている人々、いわゆる「良心の囚人」の解放と人権の擁護を訴える組織だが、当時大学生だった私は、教育学の先生が南アフリカのアパルトヘイトに反対する立場から、投獄されていたネルソン・マンデーラの救済活動をやっていた影響を受け、アムネスティーには特に関心があった。実際、南アフリカに行くことを勧められ、その気になったこともあったのだ。結局、日本中世史の勉強のため断念・挫折したのだが・・・・。

 さて、ギターの2大ヒーロー、ジェフ・ベックとエリック・クラプトンの初競演ということで話題となったこのコンサートだが、今聴いて私の心をとらえるのはスティングがギターの弾き語りで歌う「ロクサーヌ」と「孤独のメッセージ」の美しさである。原曲の芯の部分をこれだけ純粋に抽出されると、感動、万感胸にせまるものがある。ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフがピアノの弾き語りで歌う「哀愁のマンディ」もなかなかいい。何か心が熱くなる。

 ちょっと前のバングラディシュ救済コンサートはもちろんだか、USA for Africa といい、バンド・エイドといい、少なくともこのころまでは、批判精神をもって社会的活動を行うロック・ミュージシャンは確かに存在したのだな、と改めて思う。最近の若いミュージシャンはどうなのだろう。

 スティングについては、この前取り上げた『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録されている「孤独のダンス」も、チリのピノチェト軍事独裁政権下の人権抑圧を批判したもので、反体制者として逮捕され行方不明となった配偶者・息子の解放を訴える女性たちが、路上で形見の衣服を抱き一人一人踊るさまを歌ったものだった。また、ブラジルの先住民カイヤポ族らとともに熱帯雨林保護活動も行っているらしい。最近では、プーチン政権を批判して逮捕されたロシアのパンク・ロックバンド「プッシー・ライオネット」を擁護し、ロシア政府を批判する発言をして注目されたようだ。この発言をモスクワで行ったことがすごい。さすがに、アムネスティー・インターナショナルの支持者、スティングだ。

「プッシー・ライオットのメンバーが7年も刑務所に入るというのは、あまりにひどい。自分の意見を言うのは、民主主義では合法で最も基本的な権利です。政治家は異なる意見に寛容でないといけない。このバランス感覚やユーモアのセンスは、強さの表れであって、弱さを示すものではありません。ロシア政府は、この誤った起訴を取り下げ、3人のアーティストを普通の生活に戻し、子どもたちの元に帰すべきです。」

 迂闊にも私は、この問題を今日まで知らなかった。アムネスティーは今後もプッシー・ライオットのメンバーの釈放を求めるキャンペーンを続けていくということであり、注目していかねばならない。


スティングの作品におけるブランフォード・マルサリス

2012年09月23日 | 今日の一枚(S-T)

☆今日の一枚 333☆

Sting

Nothing Like The Sun

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 スティングは、1980年代後半にジャズ風味のクォリティーの高いアルバムを連発した。かくいう私もこのころのスティングはよく聴いたし、現在でもたまに聴くことがある。現在という地点から見ても、決して古びていない作品だと思う。しかしどういうわけか、現在私がCDで所有しているアルバムはこの一枚のみである。これ以外のものはほとんどカセットテープである。何枚かLPを所有していた記憶があるがちょっと見当たらない。(実は、昨日、Book Offで『ソウル・ゲージ』の中古CDを買ったので、本当は持っているCDは2枚になった。だから突然スティングの記事を書こうとなどと思ったわけであるが・・・・。『ソウル・ゲージ』の中古CDは、なんと300円だった。)

 スティングの1987年作品『ナッシング・ライク・ザ・サン』。もはや、スティングの名を元ポリスのベーシストなどと修飾する必要はあるまい。それほどまでに彼が切り開いてきた独自の音楽世界は質の高いものであったし、実際それによって、ポリスと同等かあるいはそれ以上の高い評価と大きな名声を獲得してきたからである。スティングは、1984年頃から、ジャズ・サックス奏者のブランフォード・マルサリスや、キーボード奏者のケニー・カークランドらと独自の音楽活動を開始したが、このアルバムはそれらの活動の最もソフィスティケートされた成果といってもいいだろう。例えば、ライブ・アルバムの『ブリング・オン・ザ・ナイト』などと比べると、荒々しさや生々しさ、ジャズ的な面白さは影をひそめるが、彼らの音楽をより整った形で楽しむことができる。スティングのしゃがれ声のボーカルもなかなか味わい深いものであるが、やはりサウンドに特別の風味を加味しているのはブランフォード・マルサリスのサックスであろう。

 後藤雅洋氏の『ジャズ喫茶 四谷「いーぐる」の100枚』(集英社新書)は、1960年代から現在まで、後藤氏が経営するジャズ喫茶「いーぐる」を彩った名演&名曲を紹介した本であり、後藤氏自身もいつになくリラックスした語り口で興味深い。後藤氏は、この本の中でスティングの『ブリング・オン・ザ・ナイト』を取り上げているのだが、ブランフォード・マルサリスとケニー・カークランドの演奏について、「傑作に勘定していい演奏である」と高い評価を与えている。特に、ブランフォード・マルサリスについては多くの紙数が費やされており、次のような記述がなされている。

「デビュー当時、ブランフォードはウィントンの兄としての立場しかなかったが、次第に独自性を発揮するようになった。」

「ジャズ・アルバムとして受け取られることのない作品で、リーダーでもないとなれば、よい意味での自由奔放さが発揮できる。その気ままさがジャズマンとしてのブランフォードに火をつけた。リーダー作では弟のやることに対する対抗意識か、ちょっとばかりコンセプト先行の堅苦しい部分があったが、単なるプレーヤーに徹することのできる場面では、ホンネ出しまくりの、”ブリブリ”テナーマンに変身だ。」

 私も基本的に同感である。

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青空にまっすぐに伸びるサウンド

2012年09月22日 | 今日の一枚(W-X)

☆今日の一枚 332☆

Wayne Shorter

Native Dancer

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 なぜか、今週はずっと通勤のクルマの中でこのアルバムを聴いた。CD-Rに焼いたクルマ用のものがたまたまあったのだ。長かった今年の夏。その夏もようやく終わりそうな今日このころであるが、この夏を追想しつつ聴くのになかなかマッチした作品ではないか。水平線まで広がる海とずっと向こうまで続く砂浜、青い空と白い雲の情景がそこに浮かぶようだ。

 ウェイン・ショーターの1974年録音作品、『ネイティブ・ダンサー』。ヒット作である。ハービー・ハンコックやミルトン・ナシメントを迎えて作り出されたポップで気持ちの良いサウンドもさることながら、やはりこのアルバムでの聴きものはウェイン・ショーターのソプラノ・サックスの音だ。

 優しい音だ。感傷やノスタルジアを感じさせるような内省的な音ではない。音は内側ではなく、外に向かっている。ソプラノ・サックスの響きが、青いく広い空に向かってどこまでもどこまでもまっすぐに伸びていくようだ。ただただすがすがしく、気持ちの良い、さわやかな音だ。僕は思うのだけれど、サックス奏者あまたあれど、ウェイン・ショーターはその音の個性において、完全に傑出している。どんな初心者が聴いても、その違いが明確にわかるほどにだ。このアルバムは、その音の個性が最良の形で表現された作品のひとつといえようか。

 今日は秋分の日、高校生の長男はバスケットボールの練習だが、私はこれから、私の実家と妻の実家の墓参りに行かねばならない。今日も、クルマでこのアルバムを聴いていこうか。


大船渡「h.イマジン」に行ってみた!

2012年09月15日 | 今日の一枚(S-T)

☆今日の一枚 331☆

Thelonious Monk

Thelonious himself


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 午後から時間が取れて、懸案の、岩手は大船渡のジャズ喫茶「h.イマジン」に行ってみたのは、今週の水曜日9月12日のことだった。この日は陸前高田の「奇跡の一本松」が切断・解体される日で、行く途中はまだ半分ほど木が残っていたのだが、帰りにみると、もうすでに木はなかった。

 さて、「h.イマジン」である。大変お洒落でこぎれいな店である。震災後、このような店を復活・開店されたマスターの苦労がしのばれる。どこかの企業から寄贈されたというJBLのスピーカーが鎮座し、なかなかにしっかりとした店だった。私が行った時、音はやや小さめで、お洒落でソフト&メロウな女性ボーカルがかけられていた。女性ボーカルは誰だったのだろう。サリナ・ジョーンズのような気もするが、サウンド的にもう少し最近のものかもしれない。小一時間ほど滞在したが、しばらくぶりにゆったりと落ち着いた、気分の良い時間を過ごすことができた。私の家からはクルマで約1時間ほどなのでそうしばしば訪れることもできないだろうが、是非ともまた来てみたいと思わせる店だった。ただ、お洒落な音楽を聴き、気分が良いと感じながら、このJBLでセロニアス・モンクを大音響で聴きたいと痛切に思ってしまったのはなぜだろう。私の身体にもまだ多少はJazz極道の血が流れているということだろうか。あるいは単なる生来のへそ曲がりの故だろうか。

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 というわけで、今日の一枚はセロニアス・モンクの1957年録音作品『セロニアス・ヒムセルフ』である。モンクのような個性の強いプレーヤーはソロがその音楽性を知るのに最も適している、と言われるが、確かにそこに展開されているのはまぎれもなくモンクの世界である。不協和音の響きを確かめるように、ゆっくりと奏でるそのタイム感覚がたまらなく心地よい。予定調和的な演奏を拒絶するかのように、時折繰り出される奇怪なタッチの不協和音が、平穏な空間を歪ませるようでなかなかに小気味よい。「h.イマジン」で痛切に聴きたいと思ったモンク。帰宅後、書斎机上のブックシェル型スピーカー、BOSE125で大音響で聴いてしまった。

 そういえば、最近ジャズ喫茶にいっていない。昔、通っていたジャズ喫茶はどうなったのだろうか。若いころに通った東京や名古屋のジャズ喫茶は多くは店をたたんだらしく、また遠くて確認するすべもない。比較的近隣のジャズ喫茶はどうなのだろう。聖地・一関の「ベイシー」にもしばらくいっていない。佐沼の「エルヴィン」や若柳の「ジャキ」、石巻の「クルーザー」は震災後一度もいっていない。どうなったのだろう。仙台の「カウント」や「カーボ」もよく通ったジャズ喫茶だ。同じく仙台の「アヴァン」はとても気に入っていたジャズ喫茶だった。もう店を閉めたとも噂で聞くが、本当のところはどうなのだろう。また、それぞれ数度しか行ったことはないのだけれど、古川の「花の館」、釜石の「タウンホール」、秋田の「ロンド」も思い出深いジャズ喫茶だ。いまでもかわらずやっているのだろうか。私の住む街にもかつてジャズ喫茶がいくつかあったのだが、今はもう一軒のみである。震災後は数度しか訪れていないが、もう少し顔をだしてみようか。

 昔よく通ったジャズ喫茶。どこももう一度訪れて確認してみたい店ばかりである。それは恐らくは自分自身を確認する作業でもあるのだろう。私も、そういう年齢になったのだということか。


大津波の現場に立つ(5)~「復興」の度合い~

2012年09月12日 | 大津波の現場から

 9.11は震災1年半ということで、TV等のメディアでもいくつか特集番組があったようだ。私の住む街は、「建築制限」の影響で、他の街、特に岩手県などと比べて産業の「復興」が遅れているといわれているが、それでも幹線道路の復旧や仮設商店街の開設などで外見的には確かに変わってきてはいる。

 私の住む街は、海があってすぐに山があるという地理的な背景もあり、津波の直接的な被害を受けた人と、そうでない人との「格差」の問題が大きくなってきているように思う。私のように、家が流されず仕事もある人間はもう通常の生活に戻っているわけであるが、一方でいまだに仮設住宅で不自由な生活を強いられている人、仕事を失って生活がままならない人などがまだまだ大勢いる。また、経済力のある人は、家が流されてもすぐに新しい家を作ることができるようで、実際私の家の周囲にはここ1年ぐらいで次々に立派な新しい家ができている。

 下の写真は私が子供の頃まで過ごした地区のもので、つい先日まで中学の同級生たちがこの街にひまわりを植える活動をしていた。上の2枚の写真は、以前アップした記事のもので、震災後1か月程度たってからのものである。一方、下の2枚はほぼ同じ場所を撮影した現在(2012-9-9)のものだ。これが「復興の度合い」である。瓦礫が片づけられ、幹線道路もかさ上げしてなんとか復旧されたが、何もないことには変わりない。地盤が沈下していたるところに水たまりがあるのがわかる。このあたりは、新しい都市計画のための建築制限がかかっており、勝手に工場や住宅を建てられないことになっている。けれども、当の「新しい都市づくり」は一向に進んでいないのが現状である。

 3枚目の写真の幹線道路の奥の方に、仮設商店街「復幸マルシェ」が見える。中学・高校の同級生のひとりはここに店を構えて頑張っている。

(写真をクリックすると拡大されます)

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再開! 再会! 陸前高田「ジョニー」に行ってきた!

2012年09月08日 | 今日の一枚(A-B)

☆今日の一枚 330☆

Coleman Hawkins & Ben Webster

Encounters

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 リンクさせていただいているブログ「日々の糧と回心の契機」のgoldenblueさんが、私の住む街の近隣の陸前高田(岩手)にボランティアに来ていただいているというので、先日、僭越ながらブログ記事にコメントさせていただき、「かつては日本ジャズが喫茶「ジョニー」があり、秋吉敏子が何度も訪れてくれたものです」などと記したところ、「ジャズ喫茶「ジョニー」さんは340号線沿い竹駒町のあたりで、仮設コンテナで再開されていますよ! 」と、逆に教えていただいた。これは行ってみなければと考えていたのだが、本日たまたま午後から時間があいたので、ジャズ好きの中学生の次男を伴って、遅ればせながらちょっと行ってみようということになった。

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 あった、あった、ありました。「ジャズ・タイム・ジョニー」。仮設のプレハブではありましたが、割としっかりした店内でした。もともと日本ジャズ専門店でしたが、津波ですべてを失い、多くの支援によって集められたCD、LPによる営業のため、今日もかかっていたのは洋物でした。私はその方がよかったのですがね・・・・。ご本人たちがwebで書いているのでいってもいいんだろうけれど、ご夫婦は2004年に 離婚され、高田の「ジョニー」は奥さんが引き継いでいるのですね。ちなみに、元旦那さんのジョニー照井氏は盛岡でジャズ喫茶「開運橋のジョニー」をやっています。仮設店舗ということもあって音量はやや控えめでしたが、店内は以前より明るく、アットホームでとてもいい雰囲気でしたね。応援したい、などというと高飛車ですが、また以前のように時々訪れてみたいと心から思いました。来週か再来週もし時間があいたなら、また「ジョニー」へいってみようか。ついでに、これまた大船渡で再開したらしい「h.イマジン」もハシゴしちゃおうかなどと、目論んでしまった始末です。

 今日の一枚は、陸前高田への道中、クルマで聴いた、コールマン・ホーキンス & ベン・ウェブスターの1957年録音、『エンカウンターズ』である。この2人にはクールもモードも関係ない。原曲を損なわず、雰囲気たっぷりに、ただただ朗々と吹きまくる。その潔さとまっすぐな響きに、何だかとても気分が明るくなった。再開した「ジョニー」を初めて訪れる、まるでしばらくぶりに昔の恋人に会いに行くような、ちよっとドキドキした気持ちとうまくマッチして、心晴れやかだった。帰りのクルマでも聴き、この記事を書いている深夜の今も、このアルバムを聴いている。

 たまにはスウィング系の演奏もいいものだ。


寺島靖国 プレゼンツ

2012年09月08日 | 今日の一枚(various artist)

☆今日の一枚 329☆

寺島靖国 presents

Jazz bar 2002

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 コンピレーションアルバムである。『寺島靖国プレゼンツ Jazz bar 2002』。2002というぐらいだから、2002年の発売なのだろう。いわずと知れた吉祥寺のジャズ喫茶『メグ』の店主・寺島靖国さんが、近年の作品の中から隠れた名演をチョイスしてコンピレーション・アルバムにまとめるという趣向である。寺島靖国プレゼンツ・シリーズで所有しているのは、現在のところこの一枚のみだ。

 当時、付き合いで買った。だからあまり期待感もなく、しばらく放置していたのだが、少しして聴いてみるとこれがなかなかいいではないか。さすがに寺島氏、帯のコピーに「八面玲瓏70分の快楽メロディー」とある如く、歌心のある、比較的わかりやすい、メロディーを損なわない演奏が並んでいる。評論家としての寺島氏の論説には賛否両論があろうが、長年ジャズにかかわる仕事をしてきた人だけあって、それなりの一家言をもち、自らの視点できちんと演奏を見極め、仕分けする力をもっている。私などは、たまたま食卓に置きっぱなしにしていこともあるのだが、食卓のBOSEでときどき聴く、生活の中の一枚になっている。このシリーズ、他にも買ってみようかと思っているのだが、機を逸し未だにこの一枚のみである。そろそろ、古いやつは値段も下がってきただろうから、そろそろ買ってみようか。

 ⑤ モンセフ・ジェノー・トリオ「ウィ・ウィル・ミート・アゲイン」、知らない人だったけど、とてもいい演奏だ。


夏にお世話になるアルバム

2012年09月06日 | 今日の一枚(various artist)

☆今日の一枚 328☆

Bossa Nova Millennium

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 我が東北地方もまだまだ暑い日が続いているけれど、それでも少しずつ涼しくはなっているようだ。今夜はしばらくぶりに、エアコンなしで、自然の風で眠りにつけそうだ。今年の夏は暑かった。そしてやはり、ボサ・ノヴァを聴く機会は多かった。

 今日取り上げるのはコンピレーション・アルバム。2001年発売の『ボサ・ノヴァ・ミレニアム』だ。もう10年以上前のものだが、当時は大宣伝攻勢で、かなり売れたアルバムだったはずだ。私もその当時買ったと記憶しているが、以来かなりお世話になっているアルバムである。

 本当に重宝なアルバムなのだ。何しろ、とりあえず聴きたい有名どころの曲はすべて入っているという感じなのだ。もちろんボサ・ノヴァには、以前にこのブログで取り上げた、キャノンボール・アダレイの『キャノンボールズ・ボサ・ノヴァ』や、ポール・デズモンドの『ボッサ・アンティグア』、あるいはジーン・アモンズの『バット!ボサ・ノヴァ』や、アイク・ケベック『ソウル・サンバ』などの大好きな隠れた名盤(?)もあるが、夏にとりあえず生活のBGMとして聴きたいという点では十分だ。私などは、このアルバムとハリー・アレンの『アイ・キャン・シーフォーエヴァー』があれば、何とか夏を乗り切れるなどと思っているほどだ。部屋のステレオで、食卓のBOSEで、はたまたクルマのHDDで、この十年ほど、夏の生活のBGMとして、このアルバムには本当にお世話になっている。

 ゲッツ&ジルベルト「オ・グランジ・アモール」、いいなあ・・・・。

 収録曲は以下の通り。(クリックすると拡大されます)Scan10023_3


原子心母

2012年09月02日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 327☆

Pink Floyd

Atom Heart Mother

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 印象的なジャケットである。文字が書かれていないところがよい。ピンク・フロイドの1970年作品『原子心母』である。もちろん、プログレッシブ・ロックの名盤のひとつと評価されるアルバムだ。Atom Heart Motherを『原子心母』と「直訳」したのは、東芝音楽工業のデレクターだった石坂敬一氏なのだそうだが、今考えると、これはこれでよかったという気がする。あえて訳さないという選択もあったのだろうが、日本人の心にはこの方がすんなり入ってくるという気もする。高校生の私はこの耳慣れない日本語のアルバムタイトルに当惑し、「母なるもの」、ユングいうの原型、「マザー」のようなものかと考えたりしたが、心臓にペースメーカーを埋め込んで、生きながらえている妊婦のことを書いた新聞記事の見出しからヒントを得たものなのだそうだ。

 ピンク・フロイドの音楽、あるいはプログレッシブ・ロック全体を考える場合に絶対にはずせない作品であり、内容も悪くはないが、正直にいえば、今日という地点から見ると、ブラスやコーラスの使い方にやや時代性を感じてしまう。その意味では、私の中では例えば『狂気』に比べて一段落ちる。けれども、決して嫌いな作品ではない。現在でも折にふれて取り出し、CDトレイにのせるアルバムである。

 ここ数年、40代の後半になったあたりから、プログレを時々聴くようになった。思えば、若い頃の聴き方は頭でっかちだったと今は思う。作品の位置づけとか、ロック史上における意義とかが、頭のどこかに、というかかなりの部分を占めて聴いていたように思う。今私がプログレを聴くのは、その革新性からでも実験性からでもない。なんというか、癒されるのである。作品の持つ、素朴な抒情性ゆえに、癒され、そのまま眠ってしまうこともしばしばだ。もはや、プログレという範疇も私にはどうでもよい。ただ、どういうわけか、いわゆるプログレ作品には癒される音楽が多い。不思議だ。


空気を伝わってくる音楽

2012年09月01日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 326☆

大貫妙子

Boucles d'oreilles

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 今日は中学3年生の次男の運動会だった。中学校の校庭は仮設住宅で使えないため、近くの小学校の校庭を借りての開催だ。普段仕事にかまけてかまってやれない罪滅ぼしにと、朝から精力的にビデオ撮影を行い、応援した。今日は高校生の長男の文化祭もあり、妻は午後からはそちらに行くと張り切っていたが、私は疲れてしまって、運動会終了後、自宅に戻った。どうやら、リビングで横になり、そのまま眠ってしまったようだ。目が覚めたばかりの、ぼやけた私の頭は、何か穏やかで静かな、抒情的あるいは牧歌的な音楽を求めているようだった。そう思ってしばらくぶりに引っ張り出したのがこのCDである。

 大貫妙子の2007年作品、『ブックル・ドレイユ』である。大貫妙子が1987年から取り組んでいるピュア・アコースティク・サウンドのひとつの集大成のような作品である。弦楽四重奏+ピアノ+ベースをバックに繰り広げられるサウンドは、疑いなく「独自の美意識に基づく繊細で透明な歌世界」(CD帯)といってよいと思う。大貫妙子の声もいつになくかわいい感じで、ちょっと新鮮ではないか。

 大貫妙子のアコースティック・サウンドの魅力はその空気感にある。彼女自身が何かのインタヴューで語っていたが、音が空気を伝わって聴衆に届く、そのある種の生々しさが面白いのだという。生々しいといっても、それは決して汗臭い生々しさではない。それは何というかやはり、「ピュア」とでもいうしかないような種類の生々しさだ。とにかく、音が伝わってくるその空気感がたまらなくいいのだ。

 このアルバムは何といっても選曲が良い。「彼と彼女のソネット」、「若き日の望楼」、「風の道」、「黒のクレール」、「横顔」、「新しいシャツ」、そして「突然の贈りもの」と、ピュア・アコースティック・サウンドで聴きたいと思うような曲が数多く収録されている。願ったりかなったりである。ただ正直にいえば、このアルバムの演奏についてはほんの少しだけ違和感がある。否定的な意味ではない。演奏のスピードや音と音の隙間の余韻が、私の細胞の呼吸みたいなものと若干ずれている気がするのだ。例えば、以前取り上げた『Pure acoustic plus』や『UTAU』のそれと若干異なり、いまひとつサウンドに同化・没入できない感じがするのだ。もちろん、これは個人的な感覚、生理的リズムの問題であり、この作品の価値をなんら貶めるものではない。

 お昼寝の後の、ぼんやりした頭で大貫妙子のアコースティック・サウンドを聴く。しばらくぶりの休日の、ちょっと贅沢な時間だったような気がする。