先日、なにげなくインターネットをみていたら、「巣立つ日まで」という言葉に出会った。なつかしい、「巣立つ日まで」というば、NHK少年ドラマシリーズとして1976年の9月10日~10/1にかけて放映された名作ドラマである。確かに見ていた記憶はあるのだが、内容が思い出せない。しかし、その感動的な主題歌のメロディーと詩ははっきりと覚えている。作曲はあの三枝成章である。にやけた奴だと思っていたが、こんな素敵な曲を書くなんてすごい。
巣立つ日まで
作詞・立原あゆむ 作曲・三枝成章
きらめく風を追いかけて
どこまで君と駆けただろう
陽ざしの中に微笑んだ
淡いかおりの あこがれよ
幼い翼ひろげて
巣立つ小鳥のように
空の広さを 雲の行方を 知りたい
まぶしくゆれる木もれ陽は
青い季節の始めだろう
心を告げることもなく
みつめあう この時よ
幼い翼ひろげて
巣立つ小鳥のように
空の広さを 雲の行方を 知りたい
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●今日の一枚 146●
Barney Wilen
Passione
1996年に59歳で急逝したバルネ・ウィランの遺作『パッショーネ』。死の一年前の1995年に吹き込んだ作品だ。
晩年のバルネ・ウィランの作品は、どれも好きだ。うまく表現できないが、何というか《 余裕 》のようなものが感じられるのだ。どんな曲を演奏する時も、一歩ひいた醒めた視線を感じる。音楽を対象化しているといってもいいかもしれない。それを《 成熟 》とか《 枯淡の境地 》とか呼ぶこともあろうし、《 ジャズとしての緊張感の喪失 》ということもあるのだろう。しかしいずれにしても、私は晩年のバルネの音楽をとても好ましいと感じている。大人の音楽として安心して聴くことができるのだ。
このアルバムもそうだ。地中海の明るい日差しを感じる一方、哀感漂う演奏が素晴らしい。しかも、その哀しみの中に決して没入することがない。バルネは、その哀しみに共感を込めつつも、対象化して眺めているようだ。あまりにうがった観念的な感想だろうか。
イタリアのトランペッター、エンリコ・ラヴァ。本当は好きなプレーヤーではないのだが、このアルバムでの演奏は別だ。④ エスターテ のミュート・プレイに脱帽だ。痺れる。
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●今日の一枚 145●
Sonny Clark Trio (BlueNote盤)
同じタイトルのアルバムの聴き比べ。昨日、記したように、ソニー・クラークには『ソニー・クラーク・トリオ』と題する作品が2つあり、タイム盤が全曲ソニー・クラークのオリジナル曲からなるのに対して、この1957年録音のブルーノート盤はスタンダード曲中心の構成である。ベースがポール・チェンバース、ドラムスがフィリー・ジョー・ジョーンズとマイルスバンドのリズムセクションということも興味深い。
この印象的なジャケットのBlueNote盤は一応名盤ということになっていて、Jazz解説本には必ずといってよいほど登場する作品である。特に「朝日のようにさわやかに」の評価は高く、多くのJazz解説本は口をそろえて名演の評価を与えている。実際、私のもっているCDの帯にも、《 人気天才ピアニストがマイルスバンドのリズムセクションと残したピアノ・トリオの金字塔!これなしにジャズ・ピアノは語れない 》などと書かれている。しかし、ちょっと言い過ぎではなかろうか。いい演奏であることに異存はないが、いつも一方で、それ程だろうか、などと考えてしまう。Time盤に比べて、心にあるいは身体にじわじわと迫ってくるものがないのだ。「朝日のようにさわやかに」にしても、普通の意味で良い演奏であるが、他のミュージシャンの演奏にくらべてどこがすごいのかという点については、いまひとつピンとこない。高名な批評家の後藤雅洋氏は、その著書『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)の中で、《 パウエル派ピアニストの平均的fハードバップ・ピアノ・トリオという印象が強い 》と勇気のある発言をされているが、基本的にはその通りなのだと思う。
後藤氏にならって勇気をもっていってしまえば、私にってはやはり、まあまあの作品である。しかし、名盤とは呼べないが、その悪くはない内容と、飾るべき価値のある印象的で素敵なジャケットによって、記憶に残る一枚だとは思っている。
●今日の一枚 144●
Sonny Clark Trio (Time盤)
麻薬中毒から心臓発作をおこし、1963年に31歳で死んだピアニスト、ソニー・クラーク。彼のレコードはアメリカではほとんど売れなかったらしい。後藤雅洋『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)には、人に聞いた話として、あるアメリカのジャズ関係者が来日した際、日本のジャズ喫茶ではウエイトレスの女の子がソニー・クラークの名前を知っているといって驚いたという話がのっているが、ソニー・クラークは本国アメリカより日本で人気のでたピアニストの代表といえるかもしれない。
『ソニー・クラーク・トリオ』……、ソニー・クラークには、この同じタイトルの作品が2つある。1957年録音のブルーノート盤と、1959年録音の本作タイム盤だ。ブルーノート盤がスタンダード中心であったのに対して、タイム盤は全曲ソニー・クラークのオリジナル・ナンバーからなる。後藤雅洋氏は前掲書において、ブルーノート盤とタイム盤のどちらを好むかによって、微妙なファンの気質があらわれるとしているが、私としてはどちらかというとタイム盤である。彼独特のブルージーでよく歌うフレージングがより際立っているからである。
ひとつ不満をいえば、録音の古さもあるのだろうが、ピアノの音の明快さに比して、ベースの音がこもっているように聴こえることである。もごもごと口ごもり、肝心なことをはっきりいわないようなベースには、ちょっとフラストレーションがたまる。
●今日の一枚 143●
Keith Jarrett
My Song
キース・ジャレットの『マイ・ソング』(ECM)。全曲がキースのオリジナル曲からなる、ヨーロピアン・カルテットによる演奏である。
録音されたのは1977年だったのですね。30年も前のレコードだ何て信じられない程、今聴いても新鮮である。録音だって悪くない。しかし、逆説的な言い方だが、このようなポップでしかも斬新な作品というのは、現代にはむしろ少ないのではなかろうか。キースは、その音楽の中で自己の世界を構築し、更なる何ものかを探究しているかのようである。ポップだが、その世界が完結的でなく、聴くたびに生成・進化を繰り返すような作品である。
久々にこの作品を聴いたが、聴きながら読んだ、若き日の小野好恵によるライナーノーツが興味深かった。いかにも文学者然とした過剰な思い入れが感じられる文章だ。結論として何が言いたいのかいまひとつ不明な文章であるが、随所に印象的な表現が登場する。それらを紹介することはしないが、若き日の小野好恵はその文章を次のように結んでいる。
《 いずれにしても、帰るべき故郷などどこにもないジプシーの子キース・ジャレットは、"亡命者の時代"である20世紀が生んだ宿命の子であり、彼の音楽が有している優しさと悲しみが多くの人の心を打つのは、こういったこと決して無縁ではないだろう 》
「こういったこと」とは、キースに黒人の血が流れておらず、ブルース、ゴスペル、ニグロ・スピリチュアルなどの要素が内在的なものではない、ということをさしている。
知識人特有の《 俗物性 》を感じさせる表現ではあるが、キースの一側面を考える上で示唆的ではなかろうか。
●今日の一枚 142●
New York Trio
Thou Swell
素敵なジャケットだ。雑誌の広告で見て以来、すっとそう思っている。顔は見えないが、きっとチャーミングな女性に違いない。何より気品がある。
ビル・チャーラップは器用なピアニストだ。うまいピアニストといってもいい。スウィンギーな曲はほんとうに強烈にスイングし、しっとりとした曲は情感豊かに表現する。しかも、高度なテクニックをもっていながら、テクニックをひけらかすことをしない。その演奏にはいつだって歌心が溢れている。
ニューヨーク・トリオの新作『君はすてき』、2006年の録音盤だ。アメリカの作曲家、リチャード・ロジャースの名曲集である。どれもこれも素晴らしい演奏ばかりで、チャーラップに「君はすてき」といいたくなるほどだ。
それにしても、② My Funny Valentine の印象深さは何なのだろう。超有名曲で星の数ほどの演奏があるが、このMy Funny Valentine は出色である。あまりに繊細で美しすぎるほどに美しい演奏に心惹かれる。指の先に神経を集中して、注意深く鍵盤にタッチしている姿が頭に浮かぶ。デリケートなピアノの響きと、その余韻としての空白の間が胸にジーンとしみいる。
いい歳をして恥ずかしいが、じっくりと聴けば聴くほど、涙がこぼれそうになる演奏である。
これはすごい!You Tube でドラマ「やあ!カモメ」(TBS)を発見。同名の主題歌は、太田裕美が歌っていた。「ドール」のB面であるが、透き通った、しかも温かみを感じる声は、まさしく太田裕美だ。
このドラマを確かに見ていた記憶はあるのだが、内容が思い出せない。画面をみると、坂上味和・岡まゆみといった懐かしい名前もでてくる。坂上味和、ほんとうにかわいかった……。
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●今日の一枚 141●
Ken Peplowski
Memories Of You
クラリネット奏者ケン・ぺプロフスキーの2005年録音盤『メモリーズ・オブ・ユー』……。ぺプロフスキーの作品を聴くのは初めてだった。Swing Journal 主催第40回(2006年度)ジャズディスク大賞最優秀録音賞(ニューレコーディング部門)を受賞したとかで、最近雑誌等にやたらと広告が載っている。けれども、私はそんなことでCDを購入したりはしない。そもそも私はSwing Journal 選定ディスクというものにかなり懐疑的であり、批判的な意見をもっている。私の心を動かしたのはジャケット写真と宣伝文句である。
何というジャケット写真だ。一見何の変哲もないバロック風の落ち着いた写真だが、よく見ると写真の女性たちが裸あるいは裸同然の姿でではないか。(見えにくければ、画像をクリックして拡大してください)一体、何を考えているのだろう。おかげでドレスを着て座っている可憐な少女にまでいかがわしいことを考えてしまうではないか。豪華な装飾のほどこされた部屋はそういった想像をことさらに掻き立てる。ブルジョワジーの倒錯した生活のイメージだ。両脇の毛皮をまとった女性たちなどから想起されるのは、マゾッホの作品の『毛皮を着たヴィーナス』というタイトルであり、可憐な少女から想起されるのはさしずめナボコフの『ロリータ』といったところだろうか。そうすると中央の3人は何だろう。まさか、マルキド・サドの『悪徳の栄え』……?
そんなジャケット写真をもつこの作品につれられた宣伝文句は、「19世紀末的デンダンの香りがいっぱいのジャズを聴かせてくれる、後世に残る大傑作アルバム!!」というものだ。どうです、興味がわいてきたでしょう。私はこういうのに弱い。とくに、「デカダン」(退廃)などという言葉をつかわれるともう駄目だ。いちころだ。私はこれで買ってしまった。
余計なことを記してしまったが、内容はどうか。いかがわしい何ものかを期待して聴いたら失望するかもしれない。少なくとも私には、「19世紀末的デカダンの香り」はどこからも感じられない。ジャケット写真のイメージとの関係も不明である。宣伝文句やジャケット写真と音楽の内容が大きく乖離している。けれども、音楽自体が失望するものかといえば、そうではない。実に良質のサウンドである。穏やかで、繊細で、美しい音楽だ。原曲の曲想を十分に生かしながら、優しく温かい音色で演奏されるのが好ましい。
ぺプロフスキーは、クラリネット奏者だが、この作品ではクラリネット演奏は12曲中4曲のみで、8曲はテナー・サックスによる演奏である。しかし、彼のテナー・サックスも十分すばらしい。タイトル曲の「メモリーズ・オブ・ユー」は1曲目と12曲目(つまり最初と最後)にそれぞれテナー・バージョンとクラリネット・バージョンが収録されているが、そのテイストの違いを楽しむのもなかなかに面白い。
これから、しばしば再生装置のトレイにのりそうな一枚である。
●今日の一枚 140●
Miles Davis
Someday My Prince Will Come
昨夜、ウイントン・ケリーをしばらくぶりに聴いたら、くせになってしまったようだ。身体にゆっくりとしみわたるようなケリーのサウンドが耳について離れない。
そこで、ウイントン・ケリー入りのマイルス・デイヴィス、『Someday My Prince Will Come』、1961年録音作品。ジャケットの女性はマイルスの二番目の奥さんらしい。モード手法による名演のひとつと言われる作品だが、実にリラックスした雰囲気のマイルスだ。金字塔『カインド・オブ・ブルー』の二年後の録音ということで、モード演奏もこなれてきたということだろうか。
バランス的に大きな音で明確な輪郭をもったマイルスのミュートプレイが好ましい。『カインド・オブ・ブルー』とは一味違った魅力がある。グループサウンドを聴く作品である『カインド・オブ・ブルー』に対して、マイルスのトランペットを聴くのであればこちらの方がいいともいえる。
② Old Forks にジーンとくる。左チャンネルから聞こえてくるウイントン・ケリーのピアノはなかなかに瑞々しい。例えば、後藤雅洋氏が「マイルスコンボの前任ピアニスト、レッド・ガーランドと比べてみても、音色の輝き、タッチの切れ、リズム感において、明らかにケリーの方が優れていることが納得できよう」と過大な評価ををあたえるのもちょっとは理解できる。
しかし、私の耳はやはり右チャンネルから聞こえてくるジョン・コルトレーンのテナーに釘ずけだ。フレーズが、音が、かっこいいのだ。ライナーノーツの岩浪洋三氏が「コルトレーンが加わるだけで、演奏がいかに引き締まるかを実証してしまった」と記すように、コルトレーンの印象は非常に強い。そしてその印象は、アルバム後半に行けば行くほど強まってくる。マイルスとコルトレーンのかけあいの世界になってくるのだ。⑤ Teo などはその真骨頂といってもいいかもしれない。
当時コルトレーンは独立していたが、たまたまニューヨーク市内で演奏していたのをマイルスが口説いて、ゲスト出演を実現させたということらしい。そして、コルトレーンとマイルスとのセッションはこの作品が最後となった。
●今日の一枚 139●
Wynton Kelly It's All Right
斬新なジャケットである。何かしら楽しげな雰囲気のあるジャケットだ。ウイントン・ケリーの1964年録音作品『イッツ・オール・ライト』……。
ウイントン・ケリーを「ひたすらハッピーな脳天気節と、哀調をおびたフレーズが違和感なく同居する独自のメロディー感覚で、完全にオリジナリティーを確立させたピアニスト」と評したのは、後藤雅洋氏であるが(『新・ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、このアルバムを聴く限り、後藤氏の言は至言というべきだろう。心躍るような楽しげな演奏からノスタルジックな曲まで、トレードマークのシングルトーンがゆったりと響く。ケニー・バレルのブルージーなギターが絶妙のアクセントをつけているのもたまらない。なかなかにいい気分だ。
ケリーは若い頃(ジャズを聴きはじめの頃)よく聴いた。アルバムもそこそこ所有している。しかしよく考えてみると、ここしばらくはケリーの音楽に接してこなかったように思うのだ。なぜだろう。たぶん、刺激が少なかったのだ。ケリーのような穏やかで趣味のよい音楽は、ジャズに過剰な何かを求めて聴いてしまうとつまらなく感じてしまうのではなかろうか。
しばらくぶりにケリーの音楽に接したが、これがなかなかいいではないか。若い頃のように性急に何かを求めるのではなく、気持ちに余裕をもって、ゆったりとした気分で聴いてみると、その演奏がじわじわと身体にしみてくる。それは、突き刺すような刺激ではないが、ゆっくりとゆっくりと細胞の隅々までしみわたるようだ。
当然のことかもしれないが、音楽は聴くもののスタンスによって、まったく違って聞こえてくるものだ。
●今日の一枚 138●
酒井俊 四丁目の犬
たまにおじゃまするプログkenyama's blogに最近「ジャズと新書ブーム」というエッセイが載っており、興味深く読ませていただいた。その中で紹介されていた岩浪洋三『ジャズCD必聴盤! わが生涯の200枚』(講談社+α新書)という本を先日たまたま書店で見つけぱらぱらとめくってみたところ、私の大好きなシンガー酒井俊の『四丁目の犬』のレビューを発見し、たいへん嬉しい気持ちになった。
酒井俊の『四丁目の犬』、2000年のライブの録音盤である。しかし、何というジャケットなのだろう。買うものを拒絶するような写真である。コアなファンでなければ手に取ることさえためらうかもしれない。凡そジャズにまつわる作品だとは誰も思わないだろう(酒井本人はそんなことはどうでもいいだろうか……)。しかし、内容は充実している。名曲「満月の夕べ」をはじめとして、名曲・名唱と呼びたくなる楽曲が満載である。ジャズファンはともすれば、頭でっかちの教養主義やそれへの反動としての偏狭なマニアになりがちであるが、酒井の歌は本来的に音楽がもっている喜びを思い起こさせてくれる。特に、近年の酒井俊は、ジャズというジャンルに閉じこもることなく、音楽の原初的な喜びを希求して、積極的に外へ外へと自らを開いているようにみえる。実際、彼女のライブを何度か見たことがあるが、そのレパートリーはジャズのスタンダードはもちろん、映画音楽からトム・ウエイツやジョン・レノン、果ては童謡や美空ひばり・越路吹雪にまで及び、特定のジャンルに自閉することがない。演歌であろうが民謡であろうが、自らが表現の必然性を感じたものは積極的に取り上げるといったスタンスである。気分がのれば、マイクをつかわずに本物の生の声を披露してくれるのも好ましい。声が空気を伝わって聞こえてくる感覚にはたまらないものがある。酒井が《歌を歌う》ということを真摯に追い求めていることの証であろう。
私は、酒井俊を現代の日本を代表するシンガーのひとりだと認識しているのだが、『四丁目の犬』は、今のところ酒井の最高傑作だと考えている。とくに、名曲「満月の夕べ」はいくつかのバージョンがあるが、このアルバム収録のものはその白眉といってもいいのではなかろうか。いつ聴いても引き込まれ、感動を余儀なくされる演奏である。
酒井俊や「満月の夕べ」については、以前記事にしたことがあるので、そちらを参照されたい。
[関連記事]
●今日の一枚 137●
Tom Waits Swordfishtrombones
私の住む街では今日一日雪だった。といっても、そんなに積もったわけではないが……。毎年思うのだけれど、雪の日には暖かい部屋で、雪景色でも見ながら、一杯やるに限る。そう考えて飲んでいたら、やや深酒してしまった(いつもだが……)。おまけに、CSの日本映画専門チャンネルでたまたまやっていた映画『トニー滝谷』を見て、妙にしんみりした気分になり、もう少し酔いたい気分になってしまった。そんな心持ちでしばらくぶりに取り出したのが、酔いどれ詩人トム・ウエイツだ。
トム・ウエイツの1983年リリース作品『ソードフィシュ・トロンボーン』。数あるトム・ウエイツの作品の中でも私が最も好きな、かつ印象深く忘れ難いアルバムである。考えてみれば、このアルバムが真にリアルタイムで聴いたトム・ウエイツの最初の作品である。全編が素晴らしい。ただ、そのメロディーと詩に酔いしれるのみである。しかしやはり、⑥活気のない町、⑦イン・ザ・ネバーフット、⑫兵士の持ち物、などは格別である。メロディーが琴線に触れ、卒倒しそうである。そして、物悲しく美しいインストロメンタル曲⑮レインバーズで終わる構成は秀逸である。伝えたいこと、伝えるべきことをインストロメンタルで暗示して作品は唐突に終わる。
1980年代前半、貧乏学生の私はこのアルバムを何十回聴いたことだろう。アルバイトで稼いだ小銭をもとでに、この作品を録音したテープをポケットに入れ、よくバーにいったものだ。安酒をなめながら、青臭い議論をした。背後にはいつも持参のこのアルバムが流れていた。
1983年……、我らが時代……。
●今日の一枚 136●
Keith Jarrett Somewhere before
若き日のキース・ジャレット、1968年の録音作品『サムフォエア・ビフォー』。私がもっているのは、ずっと以前に買った輸入盤で、ジャケットがオリジナル盤とは全然違うものだ。この作品については、私の持っているCD以外にじっくり聴いたことがないので比較できないのだが、音質について不満をもったことはない。左チャンネルにキースのピアノ、右チャンネルにポール・モチアンのドラムスとセパレートしているところが、意外と新鮮で気に入っている。ぱらぱらとした会場の拍手の音もほほえましい。何より、若き日のキースの溌剌とした天才ぶりが記録されていることが興味深い。繊細でセンシティブな側面、ポップな側面、ちょっとアバンギャルドな側面、そして流れるような自由で美しいメロディラインなど、これ以降に展開されていくキースの諸側面がすでにはっきりと現れているのだ。
ザ・バーズやボブ・ディランの曲として有名な① My Back Page を聴くと、いつも心が躍り一緒に歌い出してしまう。カラオケ状態である。もちろん最高のカラオケだが……。
チャーリー・ヘイデンのベースが、あまりに重厚すぎてちょっと浮いている、と感じるのは私だけだろうか。