●今日の一枚 377●
Zoot Sims
Down Home
曇天の日々だ。私の住む街では晴れ間も多いのだが、やはり時折、ものすごい雷が鳴り、激しい雨が降りつける。西日本や北海道の一部ではとんでもない量の雨が降っているらしく、広島では大変なことが起きてしまったようだ。私の住む地方では、ああいうのを「山津波」というが、幼い頃、崖の下の粗末な家に住んでいた私にはその恐怖感は痛いほどよくわかる。帰省中の大学生の長男にボランティアにいくよう勧めてみたが、どう考えているのかちょっとわからない。
曇天の日々を吹き飛ばし、元気が出そうな作品を一枚。ズート・シムズの1960年録音作品『ダウン・ホーム』だ。ワンホーンによるアルバムである。音が強い。迷いのない明晰な音だ。バンド全体が飛び跳ねるようにスウィングし、溌剌とした躍動感に満ちている。デリカシーとか、ノスタルジアとはほとんど無縁に思える。たまには、こういうある意味能天気な、余計なことを考える必要のないサウンドの洪水に溺れるのも悪くない。それで広島の現実が変わるわけではないけれど・・・・。
大変な悲しみの中にいる人たちに対して不遜ないい方かもしれないが、どうか元気をだしてほしいと思う。痛みに共感しつつも、そう思わずにはいられない。世界は喜びだけで構成されているわけではない。けれども、救いのない哀しみや、醜悪な現実だけから成り立っているわけでもないのだ・・・・。けれどもやはり、今はきちんと悲しむべき時だとも思う。「復興」や「再起」はもちろん重要だが、悲しむべき時はきちんと悲しんだ方がいい。それが我々が大津波から学んだことだ。
●今日の一枚 315●
Zoot Sims
Zoot At Ease
私の住む三陸海岸は本来この季節となれば、かつおのシーズンの始まりであり、ホヤのシーズン真っ只中である。ところが、あの大津波の影響で、当然といえば当然なのだが、我々の地域からホヤが消えてしまった。どこの魚屋にいっても、スーパーに行っても、ホヤを見かけることはなくなってしまった。鰹や鮪は他の地域のものが若干入ってくるが、ホヤはほとんどこの地方でしかとれないものなので、きれいさっぱり店頭から消滅してしまったわけである。
もともと大のホヤ好きの私、無くなってみると、ホヤへの思いは益々つのるばかりだ。先日、出張帰りに隣街の魚屋に立ち寄ってみると、何とホヤがあるではないか。ただし冷凍ものではあるが……。冷凍ものではあるがパッケージには「刺身用」と記されており、私は生唾を飲み込む有様だった。今夜、ホヤを肴に日本酒で一杯……、という映像が頭の中に浮かんだ。当然のことのように、買っちゃおうと手に取ると、何と値段が980円……。気の弱い私は気おくれし、躊躇してしまった。生であれば、200~300円程度のものである。私の脳裏に、妻から小言をいわれている映像が浮かび、5分ほどもどうしようかと迷ったあと、家庭の平和のために泣く泣くあきらめることにした。ああ、ホヤが食べたい。あの日からホヤへの思いはつのるばかりである。
* * * *
今日の一枚は、ズート・シムズの1973年録音作品、『ズート・アット・イーズ』である。もともとテナー奏者のズートのソプラノ・サックスが聴ける一枚である。ずっと以前に取り上げた『プレイズ・ソプラノ・サックス』もそうなのであるが、ズートのソプラノは、例えばコルトレーンと比べて、音がふくよかであり、やさしい温かみがある。繊細でセンチメンタルな音の表情がたまらない。私はかなり好きな一枚だ。曲もなかなか魅惑的なものが並んでおり、ズートはその時々によってテナーとソプラノを使い分けている。
ああ、このアルバムを聴きながら、ホヤを肴に地元の日本酒で一杯やりたい。
●今日の一枚 284●
柳ジョージ & Rainywood
Y・O・K・O・H・A・M・A
邦楽である。懐メロである。柳ジョージ&レイニーウッドの1979年作品「Y・O・K・O・H・A・M・A」、彼らの3rdアルバムである。中高生の頃、耳にしたサウンドだ。カセットテープで繰り返し聴いていた。ちょっとしたことで当時を思い返す機会があり、思わず購入してしまった。
当時の柳ジョージがかなりエリック・クラプトンを意識していたことは、誰にでもかわるが、今、聴きかえしてみると、クラプトンというよりは、かなり日本的な、演歌テイストのブルースといった感じだ。しかし、ノスタルジアのなせるわざだろうか。けっして嫌ではない。むしろなかなか好ましい音楽だ。よくできたアルバムだとも思う。YOKOHAMAとは、やはり「横浜」ではなく、YOKOHAMAなのだということが、東北の田舎で育った私にもよくわかる気がする。その郷愁の感覚に共感して、思わず涙してしまう。グーロバリズムが進み、日本社会が均質化してしまった今日、多くの若者たちに果たしてYOKOHAMAのニュアンスがわかるだろうか。
「FENCEの向こうのアメリカ」。本当にいい曲だ。メロディーも、サウンドも、歌詞も、身体にしみ、心が躍る。どの曲も魅惑的であるが、アルバム最後のこの曲に、Y・O・K・O・H・A・M・Aのエッセンスのすべてが凝縮されているような気がする。
※ ※ ※ ※
購入したCDのジャケットは、発売当時のものを帯もふくめて復元したものだそうです。クリックすると、拡大されます。
●今日の一枚 281●
Zoot Sims
Cookin' !
気分が良い。空はちょっとくもりがちだが、過ごしやすい気候だ。家族は帰省中で、家にひとりだ。昨夜の食べ残しのレタスサラダとごはんを使って、朝からレタスチャーハンをつくり、読みかけの本をゆっくりと時間をかけて読んでいる。レタスチャーハンを作りながら大音響で聴いた一枚を紹介……。
ズート・シムズの1961年録音作品、『クッキン』。LP時代は幻の名盤などと呼ばれたアルバムであるが、CD時代になってそれも今は昔だ。単身でロンドンを訪れたズートが現地のジャズメンとロニー・スコット・クラブで競演したライブ作品である。ズートの作品の中では特に評価の高い、『ダウン・ホーム』と『イン・パリ』の間に録音された作品でもあり、まあいつものことだがズートは好調である。
なんといってもズートは元気がいい。フレーズもよどみなくスムーズに流れる。「スウィンガー」の異名をとるズートらしく、爽快なスウィング感である。とにかくズートは楽しげである。このウキウキするアルバムにほかにどういう説明を加えればいいのだろう。
●今日の一枚 278●
Yaron Herman
Piano Solo Variations
話題のピアニストのピアノ・ソロ・アルバムだ。1000円也、安い。イスラエル出身のピアニスト、ヤロン・ヘルマンの2009年作品、『ヴァリエーションズ』である。
1981年7月12日、テル・アビブ生まれ。彼のピアノ歴のスタートは極めて遅く、なんと、16歳の時だった。それまでは、バスケットボールのナショナル・チームの一員として将来を期待される存在であったが、致命的な足の負傷により競技生活を断念したそうである。ピアノの師であったOpher Brayerは、哲学、数学、心理学などを基本としたユニークな教授法で知られる人であったが、その薫陶を受けたヤロンは、わずか2年後、権威のある賞として知られる、Rimon賞の「若き才能部門」に輝いた。この事はイスラエルの音楽界、ピアノ界の歴史においても極めてユニークな出来事だ。
ヤロン・へルマンのバイオグラフィーである。本当だろうか。ちょっと、信じがたい話だ。カリスマ的な神話をつくろうとしているのでは、と疑いたくなる。
確かに、素晴らしい演奏技術と豊かな表現力をもったピアニストである。「新しいピアニズムとの出会い」というシールが貼られていたのも頷ける程である。ただ、ちょっと生真面目すぎはしないだろうか。うがった見方をしてしまうと、知識人特有のスノビッシュないやらしさを感じてしまう。美しく理想的な音楽を希求する姿勢、例えればプラトンのいうイデアへの憧れのイメージを強烈に感じるのだが、音楽を演奏する悦びがいまひとつダイレクトに感じられない。「エロス」とは、イデアを希求する心であると同時に悦びでもあるのだ。
とまあ、余計なことを記してしまったが、好きか嫌いかと問われれば、すごく好きだ。線は細いが、美しく、狂おしい感じがとてもいい。ユダヤ系の曲を数曲取り上げたり、ヴァリエーションズの名のとおり、いろいろの曲解釈を実験したりと、やりたい事がたくさんあるようだ。やはり、才能がある人なのだろう。他のアルバムも聴いてみたいと思わせるピアニストである。
[追記]この記事を書いてから一週間ほど、ほとんど毎日このアルバムをかけている。真剣に聴くというより日常生活のBGMとしてかけているのだが、とてもいい気分だ。心が穏やかになる。そして時折、ドキッとするフレーズがある。やはり、好きか嫌いかと問われれば、すごく好きだ、ということになろう。すばらしい。
●今日の一枚 102●
"Zoot" Sims
ズート・シムズがフランスのレーベル「デュクレテ・トムソン」からだした1956年録音盤。ズートの最高傑作のひとつに間違いなく入るといわれる作品だ。
ズートのテナーは、いつものことながら、歌心に溢れ、よどむことなくながれる。温かい音色はわれわれをリラックスさせてくれ、安心して聴くことができる。私はズートが好きで、実際結構多くの作品を所有している。けれども、なぜだが、気が狂ったようにハマッタことがない。トレーンやペッパーやゲッツのように、本当に寝食を忘れてのめり込んだことがないのだ。
ジャズに造詣が深く、自らもジャズ喫茶を経営していたことのある作家、村上春樹さんは、ズートのこの作品を絶賛した後で次のように続ける。
《 しかしこのレコードを聴いていると、ズート・シムズという人は本当に良くも悪くも性格の良さが出てしまう人だなと思う。スタン・ゲッツみたいな、いったい腹の底で何を考えているんだかというような、ひやっとした不気味さはかけらもない。》《 これほどの才能のある人が結局最後までジャンル小説的予定調和の世界の中ですらっと完結してしまったのは、惜しいという気がしないでもない。》 (ビル・クロウ『さよならバードランド』新潮文庫の私的レコード・ガイド)
ズートの音楽は、我々に安らぎを与えを安心させてくれるが、突然どこか知らない場所へ連れて行ってくれるようなものではないようだ。結局、我々は音楽の中に、音楽以外の過剰な何かを求めてしまうということだろうか。
そうは思いながらも、私はこれからも、家族の寝静まった夜、ウイスキー・グラスを片手に、ズート・シムズの音楽をときどき取り出してみるに違いない。
[Zoot Sims に関する記事]
●今日の一枚 65●
Zoot Sims Meets Jimmy Rowles
If I'm Lucky
私の持っている盤は輸入盤でオリジナルのものとは少し違う。新しいのを購入しようかとも考えたこともあるが、いまのところ満足しているのでこのままでよい。
結構多く所有しているズートのアルバムの中でも好きな作品である。ズートはもともと駄作のない男だが、このアルバムは全体的に落ち着いた(地に足の着いた)雰囲気があるので、特に安心してしかもリラックスして聴ける。
後藤雅洋さんはその著書『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)の中で、「ズートは大好きなプレイヤーなのだけれど、聴いていて気持ちがよいだけみたいなところがちょっと不満の種でもあった。そんな僕の気持ちを見透かすように、さりげなく出たこのアルバムで、僕のズート熱は再燃した。音にしみじみとした味わい、場合によっては、翳りや愁いの気分といってよいようなものまで漂わせているのだ。特に、アナログ盤B面「ユー・アー・エブリシング」以下のトラックは何度繰り返し聴いたことか。『肩の力を抜いた好演』というようなセリフはよく聴くが、それが本当の名演にまでなっている数少ない例がこれである。」と語っているが、自分の本当に好きな作品をこのように評価している人がいるということは、本当にうれしいものである。
しかし一方、異なる評価もあるようで、例えばかの村上春樹さんは、自身が訳したビル・クロウ著『さよならバードランド』(新潮文庫)の巻末の「私的レコード・ガイド」の中で、このアルバムについて、「パプロ時代のズートは健康を害していたためかどうかは知らないけれど、目に見えて老け込んで、演奏に微妙なしまりを欠くようになってしまった。音色はいいのに、音がすっと前にでてこない。昔はホームランになったはずの打球が、塀の手前で落ちるという感じだ。そこに質のいい寝言みたいなロウルズのピアノが絡んでくるわけで、正直なところこれはちょっときつい。枯淡の味わいと呼んで呼べなくはないだろうけれど、僕はあえて呼ばない。」と書いている。
なるほど、そういう見方もあるものかと思ったが、私はやはりズートの中では好きな作品である。
●今日の一枚 54●
Zoot Sims Soprano Sax
熱狂的にハマったことがあるわけでもないのに、何故かCDの数が増えてゆくミュージシャンがいる。
ズート・シムズは私にとってそんなプレーヤーだ。実際、名手であることは間違いないし、コンスタントに質の高い作品を発表するが、「深みがない」とか「鬼気迫るものがない」とかいうのが大方の評論家たちの意見のようだ。
にもかかわらず、私はズートの作品を買ってしまう。確かに彼は「呪われた部分」のミュージシャンではないかもしれないが、彼の音楽からはもっと身近な何かを感じるのだ。それはアット・ホームな何かであり、ウォームな何かだ。
1976年録音のこのプレイズ・ソプラノ・サックスは、そんなズートの資質をよく表している。同じソプラノ・サックスを使っても例えばコルトレーンとはまったく違って、温かくデリケートで優しい音が我々の心を包み込む。②のバーモントの月を聴いてもらいたい。優しく美しいこの曲の心を大切にしながら、ズートはリリカルで感銘深い演奏を繰り広げる。ソプラノ・サックスがか細く伸びる響きは、筆舌に尽くしがたいほど美しく、胸をしめつけられるようだ。
忙しかった一週間を終えた土曜日の夜、天窓から見える黄色い月を眺めながら、私はこのアルバムを聴く。バーモントの月はどんなものなのだろうかと考えながら……。