WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ファースト・ソング

2008年01月22日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 211●

Charlie Haden

First Song

Watercolors0007 プログレッシブ・ロックグループ、イエスの名盤『危機』によく似たジャケットである。私自身、間違えて手に取ることがしばしばだ。チャーリー・ヘイデン、ビリー・ヒギンズ、エンリコ・ピエラヌンツィの1990年録音作品、『ファースト・ソング』。最近購入したアルバムである。パット・メセニーの『ミズリーの空高く』やスタン・ゲッツの『ピープル・タイム』で演奏された美しいアルバムタイトル曲を聴くためだ。う~ん、美しい、切ない、いい曲だ、と悦に入っていたのだが、聴いているうちに何か足りないような気がしてきた。

 --「このピアニストに懐疑的だ。ヨーロッパ人にありがちだか、ジャズへの熱い乗りが感じられない。薄汚れたところもない。この作品はヘイデンの①のような物凄く旋律的なオリジナルを聴く一枚なのに、そうした美曲を弾くうれしさに乏しい。ヘイデンの何気ないベースの爪弾きがぐーんと沈む悦楽の一瞬を聴くべし。」(寺島靖国『辛口!JAZZ名盤1001』講談社+α文庫1993)--

 物足りない何かの正体が私にはうまく説明できないのだが、寺島氏の意見もあながち的外れではないような気がする。やはり、エンリコは優等生過ぎるのだろうか。ただし、何かが足りないような気はするが、決して悪い作品ではない。録音はいいし、ピアノ、ベース、ドラムスの絡みもいい。バランスもいい。第一、曲がいい。しばらく、繰り返し聴いてみたい一枚ではある。


ローディング・ゾーン

2008年01月21日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 210●

Roy Buchanan

Roading Zone

 

 1970年代のロックファンなら周知のように、ジェフ・ベックの『ギター殺人者の凱旋(Blow By Blow)』収録の名曲・名演「哀しみの恋人たち」は、《ロイ・ブキャナンに捧ぐ》とクレジットされている。中学生だった私が、ロイ・ブキャナンなどという凡そ中学生にとってはマイナーなミュージシャンを知ったのはそのためだ。

 ロイ・ブキャナンの1977作品『ローディング・ゾーン』。ロイ・ブキャナンの作品では、一番好きな作品であり、カセットテープが擦り切れる程聴いたアルバムである。輸入盤のCDを購入したのは最近のことだ。

 まったく、うまいロックギタリストである。味もある。ジェフ・ベックが影響を受けたのももっともだ。このアルバムを聴いて感じるのは、ベックのサウンドとの親近性である。ベックが影響を受けたのだから当然ともいえるが、しかしよく考えると、例えばベックの『Blow By Blow』は1975年の作品なのに対して、ロイのこのアルバムは1977年のものである。しかもサイドメンをよく見ると、ヤン・ハマーやスタンリー・クラークというクロスオーバー時代のベックと関係の深いミュージシャンの名前が記されている。えっ、まさか……。もしかして、このアルバムは、ジェフ・ベックに影響を与えたロイ・ブキャナンが、そのベックに触発されて制作したアルバムなのでは……?。

 ポップで軽快なテイストの③ The Circle が好きだ。ロイのギターが十分に表現された曲ではないが、曲の爽快なスピード感に魅了される。若い頃、自分で編集した高速道路運転用のカセットテープにも収録した記憶がある。作品の素晴らしさ、演奏の素晴らしさに感嘆しつつも、若い頃聴いたこの作品に接して脳裏を駆け巡るのは、ずっと昔の、このアルバムを繰り返し聴いた時代の情景ばかりだ。人間とは、あるいは音楽とはそのようなものなのだろうか……。

 

 

 


ヴィレッジ・ゲイトのニーナ・シモン

2008年01月20日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 209●

Nina Simone

At The Village Gate

Watercolors0005  久々の完全オフだった。妻は持ち帰りの仕事で四苦八苦していたので、子どもたちをつれて外出した。スキーにでも連れて行こうとも考えたが、長男の希望で、隣町の(といっても他県だが……)バッティングセンターへいった。バッティングセンターで、私と長男と次男の3人で5000円分打ち、焼肉屋でたらふく食べ、その近くの公園でキャッチボールをした。太平洋を一望する公共の日帰り温泉で身体を温めて帰宅したのは、PM6:00過ぎだ。思えば、子どもたちとこころおきなく遊ぶのもしばらくぶりのことだった。長男がスキー場ではなく、キャッチボールを希望したのも、私とのかかわりを求めていたのかもしれない。子どもたちは、満足したのか、遊びつかれたのか、8:00には眠ってしまった。

 ニーナ・シモンの1961年録音盤、『アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト』だ。ニーナ・シモンがジャズではないといわれればそれでもいい。それでも私はニーナの世界が好きだ。好きだというよりも、引きずりこまれ魅了されるといったほうがいいだろうか。どうすることもできないような吸引力を感じるのだ。私をひきつけるのは、歌やサウンドではなく、その表現の全体性としての「世界」とでもいうべきものだ。その世界は、あまりにも私にフィットしているため、まるで自分のために用意されたものであるかのようだ。世間知らずで内向的な中学生が太宰治を読みふけるように、私はニーナ・シモンに熱中したものだ。それほど遠い昔のことではない。その余韻は今も続いているのだ。ニーナ・シモンの世界から感じるのは、「静謐さ」だ。バラードはもちろんだが、どんなアップテンポの曲を歌う時も、どんな激しい歌い回しをしているときも、その背後には不思議な「静謐さ」が漂っている。

 子どもたちが寝静まった後の書斎で、私は安ウイスキーをすすりながら、まるで母親の子宮の中の胎児のように、心穏やかに、ニーナ・シモンの歌とピアノが創り出す世界にどっぷりとつかっている。

[過去の記事] ニーナ・シモン 『ニーナとピアノ』


リトル・ジャイアント

2008年01月19日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 208●

Johnny Griffin

The Little Giant

Watercolors0004  何という迫力、何というパワーだ。ジョニー・グリフィン(ts)、ブルー・ミッチェル(tp)、ジュリアン・プリースター(tb) の3管フロントが、圧倒的な重厚感で迫ってくる。音質も良い。ちょっとエコーがかかったようなアコースティック感が強調されたサウンドだ。グリフィンの伸びやかなブローがなめらかに響く。さほど高価ではない自宅のステレオ装置であるが、まるで、ジャズ喫茶にいるようだ。ウイントン・ケリーのピアノもよく昔ジャズ喫茶で聴いたような音色だ。私はただ、その音の洪水の中にみをまかせるのみだ。

 小柄な身体で大きなプレイをするリトル・ジャイアント、ジョニー・グリフィンの1959年録音作、『リトル・ジャイアント』(Riverside)だ。仕事の忙しさで頭が混乱して整理がつかない時、私はよくこのような音の洪水アルバムを大音響で聴く。脳みそをいったんぐちゃぐちゃにかき回してリセットしするのだ。不要な思い込みや先入観、思考のパターンから解放され、意外といいアイディアが思いつくことがあるものだ。

 ④ 「63丁目のテーマ」が好きだ。かっこいい。これぞ、ハード・バップ。ハードバップとはもともとこういうかっこいい音楽をいうのだ。いつしか私は、身をよじり、クビをくねらせ、手足でリズムを取り、昔ジャズ喫茶によくいた、「自分の世界に入っちゃったオヤジ」になっている。


クロージング・タイム

2008年01月14日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 207●

Tom Waits

Closing Time

Watercolors0003  女手ひとつで田舎の小さな酒店を経営してきた妻の母親が、昨年末をもって店じまいをした。今夜はその慰労のため、妻たちはささやかな温泉旅行に出かけており、私は自宅にひとりだ。久しぶりに大音響で音楽を聴くチャンスだったのだが、初売りで購入した大型テレビで、日中に録画しておいた女子バスケットボールのAll Japan 決勝(富士通 vs JOMO)を繰り返し見たため、深夜のいまになって自室でひとり静かに音楽を聴いている。 

 《酔いどれ詩人》、トム・ウエイツの1973年作品『クロージング・タイム』、彼のデビュー作だ。シンプルなサウンドが歌の芯の部分を際立たせている。《酔いどれ詩人》というけれど、今聴くと、このころのトム・ウエイツはまだそれほどの《酔いどれ》感はなく、詩と歌を愛する素朴な男といった感じだ。しかし、だからこそ時々、歌心溢れるこのアルバムを無性に聴きたくなるのかもしれない。シンプルなサウンドだが、いやそれゆえに、メロディーの輪郭が際立ち、トム・ウエイツはひとつひとつの言葉を噛み締めて歌っているようだ。多くのミュージシャンがカヴァーした名曲ぞろいのアルバムであるが、私はやはり「グレープフルーツ・ムーン」の詩と旋律が心に響く。

 物悲しく美しい旋律を聴いていたら、若くして伴侶を亡くし、女手ひとつで娘たちを育ててきた妻の母の哀しみを思い、人の生きる証について考えて込んでしまった。我々は誰でも人生というキャンバスにそれぞれの絵を描き、それを時代に残す。妻の母がいま振り返る、彼女の描いた生きた証の絵とはどのようなものなのだろうか。

 『クロージング・タイム』(閉店時間)……。まったく偶然なのだが、今夜聴いている音楽は、妻の母へ捧げる歌のようだ。


パリ・コンサート

2008年01月13日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 206●

Keith Jarrett

Paris Concert

Watercolors0002  「キースのソロ物が出るたびに、ちょっと迷いつつ必ず買う。あの『ケルン・コンサート』のすさまじく美しい旋律は出ないだろうと思いながら、やはり期待せざるを得ない。」と語ったのは、寺島靖国さんだったが、その気持ちはよくわかる。

 キース・ジャレットの1988年録音作品『パリ・コンサート』。キースファンを自認する私であるが、雑誌『Soung & Life』(2006-No.4)の特集「いまを潤す10枚~私の愛蔵盤コレクション」で藤森益弘さんが推薦している記事を読んでこのアルバムを購入したのは一年ほど前のことだった。

 『ケルン・コンサート』のような《大甘の美旋律》は登場しないが、いつもながらのキースの静謐なピアノの響きはさすがだ。思うに、キースのピアノソロ作品といっても、しだいに変化してきており、ピアノの響きのクラシック的ニュアンスが強まってきているように思う。ジャズとクラシックではピアノのタッチの仕方が違うらしく、例えば小曽根慎がクラシックの奏法を学んで新境地を開きつつあるというのを、最近テレビの特集番組で見た。きっとキースもそうだったのだろう。小曽根に先駆けてだ。キースのピアノに即していえば、硬質で胸を締め付けられるほど繊細な響きが、随所に登場するようになっている。このアルバムの② The Wind の冒頭の響きはどうだろう。あまりの静謐な繊細さに、私は自分を見失い、息が詰まって気が狂いそうである。

 こういうキースが好きではないという人は多いだろう。その気持ちを頭で理解することはできる。しかし、やはり私は時々ソロのキースをどうしようもなく聴きたくなる。それは、キースの静謐なサウンドの中に、私を狂気へと導く《呪われた部分》があるからだ。私はそう考えている。


アート・ペッバー・カルテット

2008年01月12日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 205●

Art Pepper

Art Pepper Quartet

Watercolors0001  東北地方上空には寒気団が到来しているということで、本当に寒い一日だった。ヘットコーチを務める高校女子バスケットボールチームの練習ゲームに付き合い、一日中、暖房のない、底冷えのする体育館にいたおかげで、身体の芯から冷え切ってしまった。その冷え切った身体と敗戦で傷ついた心を癒すべく、ひとり自室にこもり、酒をすすっている。今日、BK1から届いた村上春樹・和田誠『村上ソングス』のページをめくりながらだ。

 アート・ペッバーの1956年録音作品『アート・ペッバー・カルテット』。このような傷心の夜にふさわしい、夜、ひとりで聴く音楽だ。独り言を言うかのような、あるいは密やかな鼻歌のような、訥々とした語り口が好ましい。久しぶりのペッパーだが、こういう音楽を聴くと、「やはり、僕はペッパーが好きです」といいたくなる。私がジャズにのめり込むきっかけは、ペッパーだったのだ。

 《ロンリー・ペッパー》などと語ったのは誰だっただろうか。この作品を語るには適切な表現ではあるが、私としては日本語で《孤独》とか《感傷》とかいった方が、フィットする気がする。カタカナ言葉を使うと妙に尻軽なイメージを抱いてしまうのは私だけだろうか。伴侶として連れ添った女性に捧げたというオリジナル曲、③Diane の醸し出す物悲しさは、筆舌に尽くしがたい。

 酒を飲みすぎるのはいつものことではあるが、今夜はいつになく深酒しそうだ。たったひとり、自室で、ペッパーを聴きながら……。

 


彼女の名はジュリー

2008年01月07日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 204●

Julie London

Julie Is Her Name Vol.1

 12/29~1/3の年末・年始の休みは、例年になくゆっくりできたように思う。ここ数ヶ月、この拙いブログの更新さえ困難な程忙しかったからそう感じたのかもしれないが、実際、大掃除などの雑事をこなしいつつも、物理的にも精神的にもゆったりとした時間を過ごせたように感じる。そういう心持ちで聴く音楽は格別であり、心にゆっくりと染みわたってくるものだ。

 ジュリー・ロンドンの1955年録音作品、『彼女の名はジュリー(Vol.1)』。年末に聴いたものの中で、私の心と身体に最も沁みた作品である。ジュリー・ロンドンを初めて聴いたのは昨年のことだったが、以来ずっと関心をもっている。どの収録曲も独特の雰囲気をもち素晴らしいが、やはり世評の高い「クライ・ミー・ア・リヴァー」は出色である。プレーボーイに悩ませられる女性のブルーバラードであり、原曲の狂おしい雰囲気を見事に表出した名唱である。1955年に全米ポピュラー・チャート9位になったヒット曲だ。

 ジュリー・ロンドンの歌唱は、そのハスキーなヴォイスから、《セクシー》とか《妖艶》とか《官能的》ということばで修飾されることが多いが、むしろ私はハスキーなヴォイスにもかかわらず不思議な透明感を感じる。それは、ベタベタしない質感であり、理知的ななにものかであるように思う。ややうがった見方をすれば、ある種の誠実さといっていいかも知れない。ジュリーは、同時代のセックスシンボル、マリリン=モンローと比較されることにある種の反発心をもち、「モンローと私は正反対のタイプ。モンローはセックスシンボル、私は主婦母親タイプよ」と語ったというが、そこにジュリーの理知的な側面を垣間見ることができると思うのは、考え過ぎだろうか。(良妻賢母が理知的だといっているわけではありません。念のため。)

 バックを務めるのは、バニー・ケッセル(g)とレイ・レザーウット(b)だ。名手バニー・ケッセルのアクセントのあるギターが見事だが、個人的には以前取り上げた『ロンリー・ガール』のアル・ヴィオラの方がジュリーにはよりマッチしているような気がする。