WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

石井進著作集「解説」を立ち読みした

2006年05月23日 | 歴史

昨日、書店で石井進著作集①の本郷和人による「解説」を立ち読みした。

感動した。あの石井進が東大の中では孤独で、黙々と学際研究を続けていたことがよくわかった。学際研究に歩みだした石井の授業について、文献史学の基礎的授業をもとめる多くの東大の学生が否定的であり、離れていったこと。新しく赴任し、国文学の成果を駆使した五味文彦に学生たちが集まったこと。そのような中で、石井があの学際研究を続けていったこと。そして圧巻は、後年、自分たちが石井を見捨ててしまったとの自戒を語る筆者本郷に対して、某編集者が君たちが石井先生を見捨てたのじゃない、石井先生が君たちを見限ったのだ、と語ったくだり。

私は、石井先生の本に大きな影響を受けてきた。学生時代、ある先生がこういったのを忘れられない。

君たちは、理論的には永原さんや大山さんや河音さんの方が優れていると思っているでしょう。冗談じゃない。中世史の世界で本当にすごいのは、石井進ただひとりです。彼は考えていること、やっている仕事の100分の1もしゃべらない。

私が石井進を本当にすごい人だとわかったのは、ずっと後のことだ。

石井先生がなくなってから数年立つが、私はいまでもショックから立ち直れないでいる。


The Water Is Wide

2006年05月21日 | 音楽

786 Charles Lloydの The Water Is Wideについて、何か語りたい。言葉がでてこない。語れない。けれども、とにかくすごいアルバムだ。ことばが出てこないほどすごいアルバムだ。

Charles Lloydは、すごい奴だ。無名のキース・ジャレットを見出し、ミシェル・ペトルチアーニを見出した。このThe Water Is Wideでもまだ出始めのブラッド・メルドーを起用しているのだ。それだけでも凄いことじゃないか。おまけに、1960年代後半の名作『フォレスト・フラワー』の爆発的ヒットの後、「心の雑草を摘み取る庭師になろう」といって、音楽活動をやめてしまった。かっこいい。かっこいいではないか……。私はこういう話が好きだ(ちょっと恥ずかしいが……)。だから私は、ソニー・ロリンズも大好きだ(絶頂期に突然引退して橋の上で練習していたなんて、すごいじゃないか。かっこいい。)。

ところで、近年の傑作The Water Is Wide。深遠なアルバムだ。わりとポップで判り易い曲Georgiaからはじまるのだが、それ以降は豊饒で深遠な世界だ。哲学的雰囲気すら感じるが、全然小難しくない。

「静謐」……。私は、このアルバムを聞くといつもこのことばを思い起こす。神秘性すら感じさせる豊饒な音の世界を聞きながら、実は、音と音の間の無音の空間を感じている気がする。その世界は、まさしく「静謐」だ。そして、すべての演奏が終わった時、私はその静謐な余韻の中に、じっとたたずむことになる。そこには静寂だけがある。放心状態になり、いすから立ち上がれなくなってしまうこともある。しかし、それは至福の時間だ。解放された制約なき時間。

音楽を聞きながら感動し、聞き終わってからさらに感動する。まったく稀有なアルバムである。

CDの帯にはこう書かれている。「緩やかに流れる大河の如く」

その通りだ。

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↓↓加筆修正しました↓↓

http://watercolors.blog.ocn.ne.jp/watercolors/20068/index.html

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これからの人生

2006年05月20日 | 音楽

What are you doing the rest of your life (これからの人生)

僕の好きな曲の一つだ。「これからの人生」って訳がいいじゃないか。フランスを代表する作編曲家でピアニストでもあるミシェル・ルグランの作品だ。映画「ハッピー・エンディング」の主題歌で、アカデミー映画主題歌賞にもノミネートされた。

気に入っている演奏は、新しいCDだけれど、2001年に録音されたArchie SheppカルテットのDeja Vu収録のものだ。Archie Sheppの歌心のあ、るそれでいて奔放なブローにググッときますね。

それから、意外といいのがBill Evansのfrom left to right 収録のもの。Bill Evansがエレクトリックピアノを使ったやつで世間的には酷評を浴びたものらしいが、わたしは結構好きです。Volペダルを使ったのかペダルワウワウなのか判らないが、あの揺れる感じがとてもいいですね。

歌ものでは、Carmen Mcraeの名作The Great American Songbook 収録のものがいいですね、。

いい演奏は、きっともっとあったと思うのですが、ちょっと思い出せません。今、思いついたものをあげてみました。

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boseのウェイブミュージックシステムを買ってみた

2006年05月17日 | オーディオ

ボーズのウェイブミュージックシステムを買ってみた。

所詮「ラジカセ」なので、あまり期待はしていなかったが、雑誌記事などでは評判がいいようなので、ダイニング用にと思って購入した。

やはり、スピーカーが小さいので深い音が出るわけではないが、確かに雑誌記事どおりこのサイズにしては低音が豊かだ。中音域も深い音ではないがクリアである。何よりラジオの感度がいい。

さっきも、eddie higgins trio を聞いたのだが、jay leonhart のベースがズーンと響いてきて、「おっ」と思った。まあ、venusレーベルのCDなのでもともとそのようにつくられているのだろうが……。

まだ使いはじめで、音がなじんでいないが、今のところ結構気に入っていて、最近はオーディオ装置ではなく、家族が寝静まってからダイニングで音楽を聴いている。もちろん酒を飲みながらだ。

ダイニング用としてなら薦めます。

今夜は何を聞こう。

francois rabbath(フランソワ・ラバト)のベースなんかいいかもしれない(in a sentimental mood)。新しく出たサントリーのビール「ジャーマン・パール・ドライ」でも飲みながら……。

[関連記事]  BOSEはちょっとひどい!

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地区3位県大会へ

2006年05月14日 | 籠球

 顧問をつとめる女子バスケットボール部の地区予選があり、地区3位でなんとか県大会への出場権を獲得しました。

 とくに地区新人大会3位のS高校とのゲームは前半8点リードされていましたが、粘って何とかついていき、第4ピリオドで逆転しました。

 赴任後1ヶ月ということもあって、私のこだわるモーションオフェンスは定着しませんでしたが、部員10人に満たない弱小チームで何人かのけが人を抱えながら、「ディフェンス・リバウンド・ルーズボール」を合言葉に、強気のオフェンスと速攻、そしてリバウンドをがんばり、全員がぼろぼろになりながら戦いました。

 何でも創部以来、初の県大会出場ということで、生徒たちの笑顔が印象的でした。


ゴンザロ・ルバルカバ 

2006年05月12日 | 音楽

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美しい。なんて優しく美しいタッチなんだろう。胸がきゅんとしめつけられるようなピアノに出会ったのはしばらくぶりである。

ちょっと前、CHARLIE HADENのNOCTURNEを聞いていたら 一曲目から限りなくリリカルで美しいピアノが流れてきた。キューバ出身のピアニストGONZALO RUBALCABAだった。もちろん、名前は知っていたが、超絶技巧の新人テクニシャンなのかなと思い、聴いたことがなかった。ショックだった。キース・ジャレットをはじめて聞いたときに匹敵するといってもいいかも知れない。

数ヵ月後、GONZALOのINTER VOYAGE(タイトルがまたそれらしくていいではないか)という作品を入手した。これがまたいい。一曲目からリリカル。透き通った優しさを感じる曲だが、なんでもタイトルのYOLANDA ANASは自分の娘の名前らしい。最初の一音を聞いただけで、グッとくる演奏だ。

⑤⑦⑨などのバラードにおけるタッチはすばらしい。②④なども淡々とした独特の雰囲気をかもしだしていて好きだ。


sunrise

2006年05月12日 | 写真

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今朝、たまたまはやく起きてしまい、コーヒーを入れていたら、窓に朝日が差し込んできた。外に出てみると、あんまりきれいだったので写真をとってみました。(5/11)

そういえば、夜があける直前、空が神話的に美しい青色になることがある。かつて、村上龍は、これを「限りなく透明に近いブルー」と表現したが、この空の色については中上健次も「灰色のコカコーラ」という作品で書いている。

若いとき、夜明けまで飲み明かして家に帰る途中、よくその空を見たものだ。酔っ払って疲れきった身体には、その空はやたら美しく感じられるのだ。

最近は規則正しい生活のおかげでその空の色みることも少なくなった。おめにかかるには、もう少しはやく起きる必要がありそうだ。


アラバマに星落ちて

2006年05月07日 | 音楽

GW中は、仕事が忙しく、じっくり音楽を聴く余裕も、本を読む余裕もなかった。子どもの日だというのに温泉にも、レジャーランドにもつれていってあげられず、わずかに5/4に公共の森林公園に連れて行き、遊ばせたぐらいだった。

GW最後の日の夜(つまり今だ)、やっと音楽を聴いている。何気なく棚からcannonball adderleyのin chicagoを取り出し聞いてみた。かつて何度も聞いた作品だ。2曲目のstar fell on alabama、そういえば、昔この曲がすごく好きだったことを思い出した。ほかにどんなのがあったっけ……、と思い、ella and louis を棚から取り出し聴いてみる。最高だ。何か忘れていた感情を思い出したような気分だった。そういえば、billie holidayのやつもあったなと思い、探してみたがすぐには見つからなかった。

というわけで、今ella and louis を繰り返して聞いている。すばらしい。メロディーが、かけあいが、ハーモニーが……そして、限りなくやさしい歌声だ。年がいもなくなく、胸がきゅんと締めつけられた。

われわれは、しぱしぱ、音楽を通して大切なことを思い出すことがある。

もう寝なくっちゃ……


WATERCOLORS

2006年05月04日 | 写真

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  Cimg1429_2                                                                                                   

 

                                                                 2006/5/4 am7:00撮影

                                                                                                                                      

僕の住む町にある海です。

20年ほど前、遠い街に住んでいました。よく名神高速道路を一時間ほど車を走らせ、湖の見える街にいったものです。

ある晴れた日曜日、いつものようにカーステレオを聞きながらドライブしていると、遠くに銀色に光.る塊が見えてきました。近づくとそれは、琵琶湖でした。いぶし銀のように輝くとはこういうことをいうのでしょうか。吸い込まれそうになるほど透き通ったブルーの水面に銀色の光が反射していました。それは、この世界には苦悩などなく、光に溢れている。すべてをゆだねればいいのだ。そんなことを連想させるような風景でした。

カーステレオでは、パット・メセニーがWATERCOLORSを演奏していました。

それ以来、美しい水辺の光景を見ると、WATERCOLORSということばがあたまに浮かぶよあになりました。それは20年たったいまでも変わりません。

村上龍は何かのエッセイで書いています。

       歌は、革命を起こせない。

       しかし、歌は、自殺を止める力を持っている。

今朝のわたしの街の海は、20年前の琵琶湖とは違うけれど、それはそれで素敵でした。

晴れた休日の解放的な海・・・・・・・・・・・・・・。


とよまのおばあちゃんちにいくとね

2006年05月01日 | 

私の子どもが小学一年生の時の詩です。

よくわかりませんが、何かの賞を取ったらしい。

親馬鹿だが、自分の息子にしては良く書けているように思う。

先生の指導の後がぷんぷんにおうのが、やや気にかかるが……

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とよまの おばあちゃんちに いくとね

            ○○○○○

日ようびに なると、ときどき いくんだ、

とよまの おばあちゃんち。

おばあちゃんちの ちかくのね

なんでもとれる まほうの川

ぼくの 大はっけん なんだよ。

このあいだの 日ようび、

まほうの川に いってみたらね、

めだかが たくさんいたよ。

あみで スイッと すくったら、

はいっていたよ、三びきの めだかくん。

やったあ。

うれしいな。

ぼく、はじめて とったよ、めだか。

あみのなかで ぴんぴん はねたよ。

めだかくんと いっしょに

たにしくんも はいっていた。

もじもじ からに とじこもって、

なかなか かおが てでてこない。

かえろうと したら、

また だいはっけん。

ざりがにの はさみ、まっかな はさみ、

いぼいぼ、ぎざぎざ、とんがり はさみ。

はさまれたら いたいよなあ。

だれが おとして いったかな。

つよい てきに もがれたんだな。

とよまの おばあちゃんちの ちかくの川、

なんでも みつかる まほうの川。

またいきたいな。


クレメンタインを飲みたいな

2006年05月01日 | 

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若い頃、よく通っていたバーがあった。当時の田舎の飲み屋としてはめずらしく、カラオケを一切かけず、ジャズだけを静かにかける店だった。

媽媽」という名の店だ。とてもいい店だった。話題の豊富なママとの会話を楽しみに多くの客が通った。映画や音楽や思想やそして大杉栄の話……。私も若かった。20代後半か、30代はじめ……。

その店は、ある日突然消えた。いろいろなことがあったらしい。

その店には、やはり田舎の飲み屋にはめずらしく、数多くのバーボンが置いてあった。そこのママが一番好きだといって紹介してくれたのがこの「クレメンタイン」。以来、私もクレメンタインのファンになった。

1849年、ゴールドラッシュで沸くアメリカのある町に、美しくもはかなく消えていった娘がいたそうだが、これは、悲しい逸話を残したその娘「クレメンタイン」にちなんで名付けられた酒だそうだ。

眠れぬ夜に、クレメンタインをロックで飲みながら、ときどきあの頃を思いだす。


私がモーション・オフェンスにこだわる理由

2006年05月01日 | 籠球

 今年転勤した高校で女子バスケットボール部の顧問をしている。部員が10人にも満たない弱小チームだ。3月まで勤務していた高校でも男子バスケットボール部の顧問を、また、10年程前にいた高校でも男子の顧問をしていたので、通算すると、バスケットボールの顧問歴は10年以上になる。もともとバスケットボールの経験はなかったが、若い頃は結構一生懸命だったので、本を読んだり、東北大会やインターハイなどを見学に行って勉強した。有名な高校の練習を見せてもらったり、監督さんからいろいろ教えられたりもした。そのせいかどうか、そのころのチームは、ほんの少しだが強くなった。現在のチームはあまり強くはない、というより弱い。けれども選手たちはみなバスケットボールが好きであり、彼女たちなりに一生懸命なので、何とか県大会ぐらいにはつれて行ってやりたいと思っている。無理だろうか……?

   ところで、バスケットボールをやる上で、私がいくつかこだわっていることがある。その1つが「モーション・オフェンス」である。モーションとは文字通り「動く」という意味であり、5人が立ち止まることなく、常に動きながらチャンスをねらっていくオフェンスである。現在のバスケットボールの主流であり、基本とされるものだ。そのことを裏付けるように「バスケットボール・マガジン」3月号と5月号では特集が組まれている。しかし、(私が所属するような)ローカルな高校の大会では、このオフェンスをチームの動きのオプションの1つとしているところはもちろんあるが、それをチームの中心的なしかも唯一のシステムとしているところには、あまり出会わない。実際、「バスケットボール・マガジン」5月号で國學院久我山の手塚政則先生が書いているように、このシステムの重要性をみとめつつも、得点するための中心的なシステムとしては採用しないという指導者は多いのではなかろうか。

 しかし、私は、これまで指導してきたチームでこのことにこだわり、しつこく指導してきた。わたしのチームにおいては「モーション・オフェンス」は中心的で唯一のシステムである。素人の浅知恵である。というわけで、私のチームの選手は、5人が立ち止まることなく、常に動きながらチャンスをねらっていくことを要求されることになる。

例えばこういうことだ。今、トップのプレーヤーが45度付近にいるプレーヤーにパスしたとしよう。パスを終えたトップのプレーヤーは立ち止まることなく動かなければならないが、動く選択肢は、

①ゴールにカットする

②逆サイドのスクリーンに行く

③ボール保持者のスクリーンに行く(2対2のプレー 、ピックアンドロール)

3つである。このうち、③はできるだけ行わないよう指導している。理由は、フロアバランスが乱れる上、安易に行いがちなプレーであり、コート全体を見渡す広い視野を育成できないからである。したがって、選手は①か②を選択することになるが、私のチームの選手は常にこの選択と動きを繰り返すことになる。

私はとくに①のプレー(パス・アンド・ランとかギブ・アンド・ゴーとか呼ばれる)をできるだけ多く行うよう指導しているが、それは1つにはパスを終えたプレーヤーがリターンパスをもらってゴールをめざすという積極性を持ってほしいということからであり、もう1つにはパスがもらえなかった場合でも、そのプレーヤがゴールに向ってカットしクリアする(その場をよける)ことによって、ボール保持者の11のドライブインやセカンドカッターの侵入のためのスペースができることである。つまり、他のプレーヤーのためにその場をよけ、スペースをつくるわけだ。

 このことにこだわるのは、それが選手の心と行動を育てる上でとりわけ重要であると考えるからである。つまり、私はバスケットボールを通じて、自信をもって積極的に行動する勇気と、他者のために自分が犠牲的に行動することの重要性とを選手たちに伝えたいわけだ。私がこれまでバスケットボールの顧問をつとめた学校の生徒たちは、心の発達が未熟で、自分に自信がなく、その裏返しとして他者のことを考えられないという傾向が多かったように思う。バスケットボールという競技を通じて何とかそのことをわかってもらいたかったのだ。実際、この2つのことが理解できたとき、チームは本当に強くなる。

 部活動を通じて生徒を育てていく。プロを育成するのでなければ、この視点なしに指導者が部活動に多くの時間を割く意味はない。

とくに他者のために自分が犠牲的に行動するという点は重要だ。よくチームワークというが、チームワークとは何だろう。みんな仲良しなのがチームワークだろうか。そうではないはずだ。バスケットボールにおけるチームワークとはきれい事ではない。それは他者のために具体的に犠牲になることだと私は考える。どんな個人能力のある選手でも、チームメイトが彼にスペースを作ってあげることなしに活躍はできない。したがって、逆に言えば、ある選手がどんなに活躍したとしても、それは彼ひとりの力によるものではない。誰かの犠牲と協力なくしては得点は生まれないわけだ。その意味でいかなる得点もみんなのものだ。そして、それができないとき、チームはみじめな敗北を続ける。

 繰り返すが、バスケットボールにおけるチームワークとは、きれい事ではない。それは具体的な自己犠牲と協力の精神であり、それが勝敗に大きくかかわってくる。選手はそのことを身をもって学ぶのであり、それにはっきり結びつくのが「モーション・オフェンス」の考えである。私がいつまでバスケットボール部の顧問を続けるのかわからないが、「モーション・オフェンス」の発想を捨てることはないであろう。

 バスケットボールは、思想である。