◎今日の一枚 363◎
Manhattan Trinity
Misty
夜中だ。もうすぐ午前3時だ。酒を喰らってはやく寝てしまい、こんな時間におきてしまった。年末休みの怠惰な生活というべきだろうか。こんな時間におきているのも、思えばしばらくぶりだ。書斎で、ひとり本を読み、音量をしぼってこのアルバムを聴いている。
マンハッタン・トリニティーの2002年録音作品、『ミスティー』だ。発売されてすぐに買った記憶がある。つい最近のことだと思っていたのだが、もう10年以上も前のことなのですね。
パーソネルは、サイラス・チェスナット(p)、ジョージ・ムラーツ(b)、ルイス・ナッシュ(ds)。CDの帯の宣伝文にはこうある。
冴えるヴァチュオーソーたちの "技" ! ジャズ界のゴールデン・トライアングル、渾身の最新作!!
その通りの内容である。もともと腕のある人たちなのであろうから、うまいのはもちろんだが、余裕を持ちながらも緊張感を切らさない演奏が続く。恥ずかしながら、ピアノのサイラス・チェスナットという人を、マンハッタン・トリニティー以外で聴いたことはないのだが、なかなかいいピアノを弾く人だ。音の輪郭がはっきりした、明快なピアノだ。
書斎の机上のBOSE125 West Borough で聴いているのだが、こういう時のこのスピーカーはいい。夜中にひとり音量をしぼって聴くには、本当に適したスピーカーである。サイラス・チェスナットのピアノの硬質な響きがうまく再現されているように思う。最近は、書斎で音楽を聴くことが多く、必然的にこのスピーカーを使うことが多い。小さなスピーカーながら、アルバムによっては思わぬ素晴らしい音をだすこともある。もう10年程使っているが、狭い書斎用スピーカーとしてはほとんど不満はない。
◎今日の一枚 362◎
Barney Wilen with Mal Waldron
French Story
冬休みである。年末である。といっても、HCを務める高校女子バスケットボール部の練習に付き合わねばならず、完全な休みとはならない。それでも、普段よりは圧倒的に時間的余裕はあるわけで、以前からぼんやり考えていた、太田裕美に関する文章をいくつか書いてアップしてみたのだが、日常生活でいつも太田裕美ばかり聴いているわけではもちろんなく、音楽に接する時間としては圧倒的にジャズの方が長い。
さて、しばらくぶりの今日の一枚は、バルネ・ウィランの1989年録音作品、『ふらんす物語』である。映画音楽集である。フランス映画、あるいはフランスに関係の深い映画の音楽が取り上げられている。映画音楽といっても、退屈なムード・ミュージックみたいな演奏ではもちろんなく、スリリングな純正ジャズ作品である。"French Story" をひらがなで『ふらんす物語』としたセンスは悪くない。永井荷風の『ふらんす物語』を下敷きにしたのだろうから、誰でも考えつくといわれればそうだろうが・・・。凡庸といえば凡庸なのかもしれない。けれども、私自身はこういう、大正モダニズムみたいなのは結構好きだ。ブックレットの裏表紙には、たばこをくわえたフランスの女性らしき人物の絵があるが、いかにも『ふらんす物語』をイメージさせ、ちょっと退廃的な感じでなかなかいいじゃないか。私が買ったときにはこちらがジャケットで、このジャケットに魅せられてこのアルバムを買ったように記憶しているのだが、webで検索するとどうも違うようだ。バルネの写真のやつがジャケットで、こちらは裏表紙のようだ。ブックレットの向きからいえば確かにフランス女性の絵が裏表紙だ。私の記憶違いなのだろうか。
with Mal Waldron となっている通り、マル・ウォルドロンの存在感が際立っている。硬質な音色のピアノだ。力強くメリハリのあるピアノがサウンドにアクセントをつけている。バルネ・ウィランのテナーも情感たっぷりで好ましいが、それが甘く流れ過ぎないよう、マルのピアノが抑制している感じだ。マル・ウォルドロンのピアノが、音楽に深さと重さをもたらしている。ずっと以前の記事に書いたように、マル・ウォルドロンのソロ演奏を生で、しかも至近距離で見たことがある。1.5m~2mぐらいの距離だったろうか。私の住む街の小さなジャズ喫茶のライブで、最前列の席だったのだ。マルはたったひとりで、タバコをくわえながら、自分のペースでゆっくりと味のあるピアノを奏でた。このアルバムのブックレットには、バルネとマルが演奏する写真があるが、この写真のマル・ウォルドロンはその時私が見たイメージそのままだ。懐かしい。そのジャズ喫茶は、それから数年後にあの津波で大きな被害をうけた。人間の背の高さ以上も浸水して、多くのものが流されてしまった。現在はなんとか復活しているが、かつてこの店で聴いた多くの演奏は随分前のことのように感じる。
私のもっているCDは1990年に発売されたもののようだが、発売されてすぐに買ったように記憶している。買ったばかりの頃は繰り返し聴いたものだが、なぜかそのうち聴くことがなくなってしまった。悪い内容ではないし、アルバムの存在を忘れたわけではないが、なぜだか20年以上かけてみることはなかった。先日、なぜか突然、このアルバムのことが頭に浮かび聴いてみたくなった。きっかけらしいきっかけは思い当たらない。本当に、突然、なぜだか頭に浮かんだのだ。人間の脳のしくみとは不思議なものだ。
20数年ぶりの『ふらんす物語』は、私を裏切らなかった。
太田裕美の1978年作品『海が泣いている』のタイトル曲「海が泣いている」である。
穏やかだが、スケールの大きなサウンドである。聴きこむほどに味わい深い曲だ。低い声で、言葉をかみしめ、語りかけるような出だしがたまらなくいい。さびの高音は往年ののびやかさはないものの、むしろその訥々とした歌い方が、曲の魅力を引き出している。
私はこの「海が泣いている」という曲を絶賛したい。素晴らしい。本当に素晴らしい。先日の記事で、アルバム『こけてぃっしゆ』のシティー・ポップ路線について、「もっと違う方向性があったのではないか」と疑問を呈したが、選択すべき方向性とは例えばこの曲であるといいたくなるほどだ。市場的なセールスは下降期に入っており、このアルバム自体もすべてが素晴らしいというわけではない。喉の状態も決して快調とはいえないようだ。けれども、太田裕美の表現力がそれを補っている。この曲に現れたような表現力を太田裕美が獲得したことに敬服するとともに、このようなトーンの曲をもっともっと聴いてみたかったとも思う。
趣味のいい、映画の1シーンのような映像的な歌詞である。秀逸な歌詞だ。多くを語る必要はあるまい。冬の海岸に無言でたたずむ男女。ふたりの前には荒れる海が広がっている。男性の葛藤が、彼によりそう女性の言葉でつづられ、女性は「いいのよそんなに苦しまないで、そんなに自分を責めないで」と、男性を優しく見守る。「君を抱きたいとそう聞こえるわ」と女性の言葉で語られるのは、そのことを女性が望んでいるということの裏返しだ。しかし、歌詞は多くを語らず、背景の描写によってその無言の空間のふたりの心の葛藤を描き出している。演奏も、波が打ち寄せる海岸をイメージさせ、二人のたたずむ空間を映像的に構成している。見事だ。ただひとつ残念なのは、CDでこの曲の次に来る「ナイーブ」のちょっとおちゃらけたサウンドが、深い余韻を壊してしまうことだ。
「海が泣いている」を聴きながら、私は世阿弥『風姿花伝』の有名な一節を思い出してしまう。
秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず
※ ※ ※ ※
「海が泣いている」
海が泣いている 生きもののように
黒馬のように走る波
潮風にしめる煙草を放ると
振り向くあなたのこわい顔
黙りこくった冬の浜辺を
黙りこくった時が横切る
あなたが言えない言葉が聞こえる
「君を抱きたい」とそう聞こえるわ
いいのよ そんなに苦しまないで
そんな自分を責めないで プラトニック
風が荒れている 油絵のように
黒雲は空に渦を巻く
口先の愛で器用に遊べる
人ではないから苦しそう
そっぽ向いた腕の透き間を
そっぽ向いた小鳥が飛び立つ
あんまり真面目に悩んでいるから
わざと惨酷に いま知らん顔
いいのよ そんなに苦しまないで
そんなに自分を責めないで プラトニック
心それだけで 人は愛せるの?
たよりなく揺れる心でも
今そっと肩を抱きしめられたら
心は身体に溶けるのに
何事もなく海は静まり
何事もなく二人帰るの
自然の流れに小舟を浮かべて
きっといつの日か そうその日に
いいのよそんなに苦しまないで
そんなに自分を責めないで プラトニック
清楚だ・・・。いいなあ・・・。騙されやすい私は、いい年をしてうっとりしてしまう。1977年録音の、太田裕美のアルバム『こけてぃっしゆ』のジャケットのことである。ファンの間では非常に評価の高いジャケットである。もちろん私も異存はない。あろうはずがない。
評価に困るのは、その内容の方である。『こけてぃっしゆ』を太田裕美の最高傑作と絶賛するファンがいる反面、一方に酷評も少なからず存在するのだ。私自身、決して悪い作品ではないと思う反面、最高傑作とはいくらなんでもいい過ぎだと思ってしまう。しばらくぶりに通して聴いてみたが、退屈な印象が免れないと思う一方で、聴きこむほど身体に優しくフィットしてくるのもまた事実である。結局、太田裕美という存在をどうとらえるのか、その音楽に何を求めるのかという、聴き手側のスタンスによって評価が分かれるということだろう。
maj7を多用した、いわゆるシティー・ポップ風味のサウンドである。エンディングが基音で終わらない曲や、フェードアウトで終わる曲が多く、1970年代後半からはじまった「洋楽」におけるAORのムーブメントの影響を強く受けていることがわかる。太田裕美がそれまでのノスタルジー路線から脱皮しつつ、新しい、おしゃれで都会的な、大人のサウンドへの転換を図ろうとしたということなのだろう。実際、当時はセンシティブで一歩進んだ音楽に聴こえたものだ。AORが、カウンター・カルチャーのある種の生々しさから脱皮して、音楽それ自体が価値を持つような、あるいは生活のクオリティーを上げるツールとしての音楽への転換をめざしたように、太田裕美も「青春」のある種の生々しさから脱皮し、新しい音楽をめざしたということなのだろう。したがって、太田裕美の楽曲に自らの青春を投影し、青春のノスタルジアを共有しようとする立場からは、積極的な評価は得られないことになる。実際、太田裕美の市場でのセールスは、これ以降下降線をたどることになる。
シティー・ポップとしては、決して悪いアルバムではなかろう。失敗作などでは断じてない。今日的視点からはやや「模倣」が透けて見えるが、それもほほえましいという程度だ。身体にやさしく、気分がいい。生活のクオリティーを上げ、素敵な時間を過ごすためのツールとして優れたアルバムである。聴きこむほどに、ゆっくりと少しずつ沁み込んでくる曲もある。しかし、やはり歌が訴えてこないと思ってしまう。時代や思いを共有できるようなメッセージ性が伝わってこない。そもそも「大人のサウンド」の「大人の」とは、対象に深くコミットせず、一定の距離をおいた「諦観」の立場から「風景」を眺める仕方ではなかったか。エコー処理が施され、心に突き刺さることを回避したサウンドに、自己の青春の「物語」を投影することができないのは当然のことなのかもしれない。もちろん、太田裕美の年齢や、時代状況の変化もあり、路線の転換は必要だったのであろう。ただ、シティー・ポップ作品なら、他にもっと良質なものがすでにいくつかあった。太田裕美がそれをやらなければならないという必然性はあまり感じられない。もっと違う方向性があったのではないか、と今は思う。
さて、「九月の雨」である。このアルバムのラストに収められた曲だ。ソフト&メローなこのアルバムの中で、誰がどう考えても異質な曲である。『こけてぃっしゆ』を絶賛するファンの中にも、このアルバムにこの曲が収録されていることに疑問を呈する人は少なくないようだ。「九月の雨」については、かつてこのブログの中で否定的な見解を述べたことがある。青春の日のノスタルジアの偶像としての太田裕美が、女の生臭さを表出してしまったことを糾弾する、ややヒステリックな物言いの記事だった。ところがである。まったく意外なことであるが、『こけてぃっしゆ』を聴いていると、最後の「九月の雨」を待っている自分を発見する。ソフト&メローなこのアルバムの中で、生々しい「九月の雨」を待ち望む私がいるのだ。wikipediaによれば、『こけてぃっしゆ』のA面はGirl Side、B面はLady Sideと称されるのだという。であれば、大人の恋のつらさ、生々しい女の嫉妬と情念を表出したこの曲がLady Sideのラストにあることは理由のあることなのであろう。「九月の雨」は、アルバムが発表された後にシングルカットされた曲であり、その意味ではアルバムのコンセプトとしてラストに配置されたものと考えられる。
「九月の雨」に対する私の考えが根本から変わったわけではないが、アルバム『こけてぃっしゆ』のラストとしての「九月の雨」は、自分が太田裕美に求めているものを改めて認識させてくれる。
1977年リリースの名曲、「しあわせ未満」のB面、「初恋ノスタルジー」である。アルバムには収録されておらず、一般的にはほとんど知られていない曲だろう。もしかしたら太田裕美ファンにも印象の薄い曲かもしれない。ただ、「しあわせ未満」のB面ということで、もしかしたらメロディーが頭にこびりついているファンも意外と多いかもしれないなどとも一方で思う。かくいう私もその一人である。
マイナーフォーク調の旋律が好ましい。イントロのアコースティック・ギターの不協和音が妙に耳に残る。ノスタルジックで印象的なギターだ。唐突におわるようなエンディングも余分なものを省いたようで悪くない。秀逸なアレンジだと思う。太田裕美の声も非常にのびやかである。半音を多用した難曲にもかかわらず、音程も非常に正確だ。ファンにとって不朽の名曲である「しあわせ未満」のB面として、まことにふさわしい曲だ。太田裕美的名唱といってもいいだろう。
過去を追憶する歌である。過ぎ去ってしまった時間に対する哀しみや切なさが表現されている。その意味では太田裕美的青春、太田裕美的ノスタルジアを表しているといっていい。しかし、この救いのない切なさは何なのだろう。あまりにシビアすぎはしないか。「病的」なものを感じるのは私だけだろうか。大切な想い出を、手つかずの美しいままに、まるで冷凍保存でもするかのように記憶しようとするところが、どうしようもなく切ない。
語り手の女性は、短大を卒業しても「この街」にとどまり続けているのだ。「この街」とはもちろん「あなた」がいる街であり、高校時代を「あなた」とともに過ごした街のことである。それは、「別れた時から時間の止まったあなたが心にいる」ためなのだ。ところが一方で、クラス会の通知の欠席を丸で囲んでしまったりするのだ。それは恐らくは、「少女の面影失くした私をあなたに見せたくないんです」という理由からだけではない。変わってしまったであろう今の「あなた」に会いたくないためでもあるのだ。「私が死ぬまで少年のままの、あなたが心にいるんです」というフレーズがそれを物語る。まさに、過去の冷凍保存だ。「私が死ぬまで」という言葉に、とても唐突な印象をうける。何かを思いつめた、深刻な心の状態を感じさせる。短大卒業以上の年齢の女性が、「少年のままのあなた」を死ぬまで心に保持しようと決意しているのだ。あまりに深刻過ぎはしないだろうか。語り手の女性は、もはや過去の世界の住人といってもいい。「別れた時から時間の止まったあなたが心にいるんです」というほど過去に執着し、その遠いはずの過去を「遠い日はあざやかな色」といっているのだ。「あなた」と別れて以来ずっと、女性は美しい過去の世界にとどまり、そこに自閉しているようだ。
これほどまでに過去の世界の住人であることに固執し、その美しい想い出の世界にとどまり続けようとするのはなぜなのだろう。そう考えると、「想い出は 想い出は遠きにありて 哀しみは 哀しみは近きにありて」という部分が、妙にリアリティーを持つ。「哀しみは近きにありて」といってしまう語り手の人生とは何なのだろうか。ここでいう「哀しみ」とは、もはや、過ぎ去ってしまった過去へのノスタルジーだけではあるまい。語り手の現在の≪生≫が不遇なものであることを思い描いてしまうのは、私だけだろうか。そう考えてしまうと、もう曲は聴けない。気の毒になってしまう。たいへん素晴らしい曲だが、穏やかな心では聴けない。
語り手の女性がこの不遇を乗り越え、生き生きとした≪今≫を生きていることを祈るばかりである。
極私的名盤『手作りの画集』に収められた楽曲については、これまでにいくつか取り上げてきたが、「都忘れ」の記事でも指摘したように、多くの楽曲が都会と田舎、都市と農村の対立という社会構造を背景として成立しており、それがアルバムのコンセプトとなっているようだ。今となっては、あまりにシンプルすぎてステレオタイプな印象を受けるが、都会と田舎の違いが現在よりはっきりしていた当時の時代背景の中では、そのような認識は必然性のあることだったのであろう。
さて、『手作りの画集』収録の有名曲「赤いハイヒール」である。実をいうと、私自身あまり好みの楽曲ではないのだが、「語り」のような部分から始まる斬新な構成や、アコーディオンを駆使した卓越した編曲やサウンドからも、太田裕美を語るうえで重要な作品であることは間違いなかろう。また、太田裕美にとって「木綿のハンカチーフ」に次ぐミリオンセラーのヒット曲であり、作曲者筒美京平をして「これ以上の良い曲は書けない」と言わしめたらしいことからも注目すべき作品である。
田舎から「胸ポケットにふくらむ夢で」都会にでてきたものの、「故郷なまり」が原因で無口になり、「タイプライターひとつうつたび夢なくしたわ」「死ぬまで踊るああ赤い靴」と嘆くほど、意味のない、単調な仕事に追われて自己を見失い、人間性を喪失していく少女の話である。
すごい。初期マルクスの疎外論を思わずにはいられないような展開である。今となっては、都市=悪、農村=善、という単純な図式が鼻につくかもしれないが、例えば見田宗介(真木悠介)が人間疎外や自己疎外からの脱却を唱え、コミューンを夢想したように、1970年代には確かに都市での労働に対してそのようなイメージは存在したのだ。
「おとぎ話の人魚姫はね」などとあるが、「赤いハイヒール」が、アンデルセンの「赤い靴」をモチーフとしているのは明らかであろう。赤い靴に執着する少女が呪いをかけられ、靴を脱ぐこともできず、足が勝手に踊り続けてしまうという話だ。アンデルセンの童話では、少女は両足首を切断し、教会でボランティアに励むことになるのだが、この曲においては、「そばかすお嬢さん」と呼びかける青年の登場によって、この少女が救済される道すじが示される。青年は「故郷ゆきの切符」を買って少女をさらい、「緑の草原」で裸足になることを夢想する。そして、「倖せそれで掴めるだろう」と、パッピーエンドへの道を予告するのである。このアルバム全体が都会と田舎の対立という社会構造を背景にしていることを考えると、都市での疎外された労働からの救済の手段として、「故郷」の存在が提示されたことはとりわけ重要である。
この青年の立ち位置、視線がどうもよくわからない。一応、男女の対話形式、かけあい形式ということになっているが、少女と青年の視線や状況認識が食い違いすぎている。それが「曲がりくねった二人の愛」ということなのだろうか。少女の、自己の困難を吐露する言葉のリアリティーに対して、青年が「そばかすお嬢さん」と呼びかける部分は、あまりに空疎で直接少女と会話しているとは考えられない程だ。このことが青年の立ち位置を不明確にしている。むしろ、「ねえ、友だちなら聞いてくださる」という冒頭のフレーズを聴き手に対する呼びかけととらえ、この青年を架空の、形而上学的な「神の視線」から少女を見守っている存在と位置づけた方がいいのではないか。もしそうなのであれば、≪救済の物語≫として構造的に非常に興味深い歌詞だ。
しかしまあ、「アラン・ドロンと僕をくらべて陽気に笑う君が好きだよ」という部分などの世俗的な言葉を考慮すれば、やはりテクストの解釈としては、青年を現実の世界の中の存在と位置づけた方がよさそうである。それではこの青年は、同郷の幼なじみなのだろうか、あるいは都会に来てから知り合ったのだろうか。おそらくは、「僕の愛した澄んだ瞳はどこに消えたの」や、「アラン・ドロンと僕をくらべて陽気に笑う君が好きだよ」などの部分から、この青年は東京に来る前の、「澄んだ瞳」の「陽気」だった少女を知っている、同郷の人物だと考える方が自然なのだろう。交際相手だったかどうかは不明であるが、全体の流れから、少女に思いを寄せていたことは確かであろう。「曲がりくねった二人の愛」とは、恐らくは青年の片思いをも含むものと考えられるが、かつて何らかの形で交際していた可能性も完全には否定できない。
いずれにしても、この青年によって少女が救われる道すじが示されるのである。青年の、少女を故郷へ連れ戻すという行為が、疎外された労働から少女を救済する方法なのだ。けれども、と私は考えてしまう。この少女は、本当に青年に従って「故郷」に戻ったのだろうか。「赤いハイヒール」の歌詞は、そのことについては何も語らない。