WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

けれども今は悲しむべき時だ

2014年08月25日 | 今日の一枚(Y-Z)

●今日の一枚 377●

Zoot Sims

Down Home

 

 曇天の日々だ。私の住む街では晴れ間も多いのだが、やはり時折、ものすごい雷が鳴り、激しい雨が降りつける。西日本や北海道の一部ではとんでもない量の雨が降っているらしく、広島では大変なことが起きてしまったようだ。私の住む地方では、ああいうのを「山津波」というが、幼い頃、崖の下の粗末な家に住んでいた私にはその恐怖感は痛いほどよくわかる。帰省中の大学生の長男にボランティアにいくよう勧めてみたが、どう考えているのかちょっとわからない。

 曇天の日々を吹き飛ばし、元気が出そうな作品を一枚。ズート・シムズの1960年録音作品『ダウン・ホーム』だ。ワンホーンによるアルバムである。音が強い。迷いのない明晰な音だ。バンド全体が飛び跳ねるようにスウィングし、溌剌とした躍動感に満ちている。デリカシーとか、ノスタルジアとはほとんど無縁に思える。たまには、こういうある意味能天気な、余計なことを考える必要のないサウンドの洪水に溺れるのも悪くない。それで広島の現実が変わるわけではないけれど・・・・。

 大変な悲しみの中にいる人たちに対して不遜ないい方かもしれないが、どうか元気をだしてほしいと思う。痛みに共感しつつも、そう思わずにはいられない。世界は喜びだけで構成されているわけではない。けれども、救いのない哀しみや、醜悪な現実だけから成り立っているわけでもないのだ・・・・。けれどもやはり、今はきちんと悲しむべき時だとも思う。「復興」や「再起」はもちろん重要だが、悲しむべき時はきちんと悲しんだ方がいい。それが我々が大津波から学んだことだ。

 

 


1961年6月25日、ヴィレッジ・ヴァンガード

2014年08月18日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 376●

Bill Evans

The Complete Live
    At The Village Vanguard 1961

 お盆休みももう終わりだ。といっても、バスケットボールの練習につきあわねばならず、完全な休みなどほとんどなかったのだが・・・・。お盆には古い友人と飲みに行くのがここ数年の慣例だったが、今年は体調を崩してキャンセルせざるを得なかった。というわけで、私と妻の実家のお墓参り以外は、ほんんど何もしないお盆休みになってしまった。完全な休みがないとはいっても、通常よりは自由になる時間があったわけで、何かやればよかったと後になって後悔している。例えば、このBOXセットを通して聴くこととか・・・・。

 ビル・エヴァンス、1961年6月25日の伝説のヴィレッジ・ヴァンガード・ライブの実況録音コンプリート盤だ。「Afternoon Set 1~2」と「Evening Set 1~3」の計5つのライブが3枚のCDに収録されている。周知のように、このライブは「Waltz For Debby」と「Sunday At The Village Vanguard」という2枚の名盤となっており、これについては改めて論評することなど不要なほどに素晴らしい演奏であるが、このコンプリート盤では2つの名盤に収録されなかった演奏も含めて、ライブの演奏順に配列されている。また、ミックスダウンによるためだろうか、2つの名盤とコンプリート盤は、若干、音像が異なるようである。

 数年前に発売されてすぐに購入しつまみ食い的に聴いてきたのだが、いつか全編を通して、できれば、各セットが行われたのおおよその時間と同じ時間に、じっくりと腰を据えて聴いてみたいものだ、などとマニアックで子どもじみたことを考えたりしていた。残念ながら未だ遂行できていないが・・・・。

 「Waltz For Debby」及び「Sunday At The Village Vanguard」の方が聴きなれているせいか耳にフィットし、ミックスダウン自体も洗練されているように思うが、このコンプリート盤には生の臨場感のようなものがあり、1961年6月25日のヴィレッジ・ヴァンガードの雰囲気を感じることができる。このわずか10日後にスコット・ラファロが交通事故で死亡することを思うと、やはり非常に感慨深いものがある。


露天風呂で聴きたい音楽

2014年08月17日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 375●

Ella Fitzgerald & Joe Pass

Easy Living

 近所にスーパー銭湯のような施設ができた。津波で被災して鉄骨だけになった建物を利用してつくられたものだ。しばしば隣町の日帰り温泉までいっていた温泉好きの私にとっては、待望の施設だ。本物の温泉ではないが、「ナノ水」&「炭酸水」を使っているとのことであり、お湯の肌触りは悪くない。お湯がぬるいのがやや不満ではあるが、サウナはしっかり熱くて気持ちいいし、何より家から近いのがいい。なにしろ、入浴の後、車で5分我慢すれば、自宅でビールが飲めるのだ。開店して1か月程だが、もう7~8回も利用している。昨日も、露天風呂で空を見上げながら脱力してしまった。気分はもう最高だ。ただ、小さなスピーカーから流れてくるシャカシャカしたJ-popが耳障りだった。穏やかなジャズでも流れていれば「超」最高なのにと思い、頭に浮かんだのがこのアルバムだった。

 エラ・フィッツジェラルドとジョー・パスのデュオ作『イージー・リヴィング』である。1983年及び1986年の録音作品だ。1970年代後半から80年代にかけて、この2人のデュオ・シリーズは何作か制作されたが、学生時代に、結構はまって聴いていたように思う。ほとんどの作品をレコードレンタル&ダビングのカセットテープで聴いていたが、現在所有しているCDはこの一枚のみである。緊密で質の高いデュオでありながら、リラックスした「脱力系」のサウンドであるのが好ましい。歌に寄り添いながらしっかりとしたアクセントをつけるジョー・パスのギターは本当に素晴らしい。エラは歌詞の意味をかみしめるようにはっきりとした発音で歌っていく。英語の歌詞の意味をリアルタイムでは理解できない私は、歌詞の解釈がどうのこうのではなく、エラの歌唱をサウンドとして好きだと感じる。

 サウナで熱く火照った身体をウッドデッキに寝転んで冷やしながら、あるいは露天風呂で空を見上げながらこのアルバムを聴きたい。そう思う。

 

 


いまを生きる

2014年08月15日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 374●

Pat metheny

Watercolors

 

訃報に接した。俳優のロビン・ウィリアムスが亡くなった。自殺だったらしい。好きな役者だった。

 若い頃、「いまを生きる」(1989)に魅了された。全寮制の名門校に赴任した教師の話だ。厳格な規則に縛られて生活する生徒たちに対して、ロビン・ウィリアムス扮する教師は、詩の素晴らしさや、生きることの素晴らしさについて教えようとし、生徒たちも次第に目覚めていく。印象的だったのは、授業中に突然教卓の上に立って「私はこの机の上に立ち、思い出す。つねに物事は別の視点で見なければならないことを。ほら、ここからは世界がまったく違って見える」と語り、生徒たちを同じように教壇に立たせるシーンだ。

 私も、そのような教師になりたいと思っていたのだ。生徒を教卓の上に立たせる教師にではない。物事を別の視点から考えさせることのできる教師にだ。1980年代の後半、私は愛知県の定時制高校に新任教師として赴任した。荒れた学校だった。学校を立て直すべく、教師たちが奮闘している最中だった。私はまだ、授業技術も、生徒指導技術もなかったが、心優しき先輩教師たちの力を借りながら、文字通り身体を張って頑張った。傲慢ないい方だか、学校を、そして生徒たちを自分の力で立て直したいと思った。独りよがりで力まかせだったが、情念のようなものだけはあったのだ。いろいろな経験をした。うまくいったことも、いかなかったことも、そして失敗も含めて、その後の教師生活で経験しないようないろいろなことだ。教師たちの努力の甲斐もあって、数年で学校は落ち着いた。私の力など微々たるものにすぎなかったが、そのような教員集団の中にかかわれたことは大きな経験となった。ステレオタイプで固定的にものを考える傾向のある暴走族出身の「不良生徒」たちにとって、別の視点で物事をみるスタンスは意表をつかれるものだったらしく、しばしば生徒たちと対立し、そして和解した。議論はしばしば白熱し、あるいは時に混乱した。思考をぐるぐるかき回すことはできたと思う。私の原点である。

 パット・メセニーの1977年録音作品『ウォーターカラーズ』は、そのころよく聴いたアルバムだ。日々の仕事に疲れた心身を補正するため、よく琵琶湖までドライブしたものだ。晴れ渡った青空をうけていぶし銀のように輝く琵琶湖の湖面はほんとうにきれいだった。中古のシティーターボの、あまり音の良くないカーステレオからは、BGMのようにこのアルバムが流れていた。水面を音が飛び跳ねるような、瑞々しいサウンドだ。今聴いても新鮮である。⑤ River Quay に心がウキウキする。メロディーを口ずさみながら、湖岸を走る情景がよみがえるようだ。

 以後の私が、十分にロビン・ウィリアムス扮する教師のようであったかどうかは自信がない。けれども、50歳を過ぎたいまでもそうありたいと思っている。退職までもうそう多くの時間があるわけではないが、まだできることはあると思っている。


素足で海辺に

2014年08月14日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 373●

Michael Franks

Barefoot On The beach

 夏である。子どもたちが幼かった頃には毎日のように浜辺に連れて行ったものだ。駐車料金を払わなくて済む夕方を狙っていくのだ。私自身も、ショアブレイクでブギーボードで楽しんだ。子どもたちは成長し、ブギーボードはいつしかボディーボードと呼ばれるようになった。そして美しい砂浜はあの大津波で失われてしまった。今はもう、海岸線にはかつてのような砂浜はなく、砂利やコンクリートの破片と、土嚢と、そして巨大な工事現場があるだけだ。自宅から車で5分程のところには海が広がっているが、夏だというのにもう浜辺で戯れることもない。

 AORの推進者、マイケル・フランクスの1999年作品『ベアフット・オン・ザ・ビーチ』だ。夏に聴くにはもってこいの作品である。初期の頃のメランコリックな雰囲気は影を潜めたものの、ソフト&メローなサウンドはそのままに、よりジャージーでブルージーなテイストが加味されている。メランコリックな心の揺れは抑制され、対象から距離を置き、ある種の「諦観」の立場から風景を眺めた「大人のサウンド」だ。

裸足で海辺に
水に誘われるまま
青と緑がゆらめく 海のなかへ
なんという心地よさ

 そんな、かつてあった風景を夢想しながら、海に近い自室で、私はマイケル・フランクスを聴いている。

 

 


これはいい!

2014年08月03日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 372●

Joe Henderson

Lush Life

 

 いやあ、これはいい。最近手に入れたばかりの、ジョー・ヘンダーソン晩年の一枚、『ラッシュ・ライフ』だ。1991年の録音。デューク・エリントンの片腕だった作編曲家、ビリー・ストレイホーンの作品集である。

 情感豊かなテナーだ。全編を漂う、静寂な雰囲気が好きだ。もごもごと口ごもっているようでいながら、伝えるべき正確な言葉をさがしている。しかし、そのうち自分の本当に伝えたかったことや、伝えるべき言葉を探し当て、ちょっと恥ずかしながらもきっぱりとした口調で語りはじめる。その言葉を探し求める過程がひとつの作品になっている。このアルバムのジョーヘンの演奏には何となくそんなことを感じる。

 ジョーヘンの演奏を聴きながら、プレゼンテーション能力の名のもとに、内容が浅薄な、他者をおしのけるためだけの、声が大きい主張が評価されつつある教育現場や社会のことを考え込んでしまった。

 


Our Favourite Shop

2014年08月02日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 371●

The Style Council

Our favourite Shop

 

 この土日は、私の住む街のみなと祭りだ。震災後の経済的状況が厳しいらしく、かつては2時間近くやっていた花火大会もわずか30分間のみだが、復興支援のボランティア団体などの参加もあって、それなりに盛況のようだ。かつてはお祭り男だった私だが、年齢とともに喧騒と人間関係がわずらわしくなり、現在ではほとんど祭りには参加しない「非国民」になってしまった。地元ケーブルテレビでの実況放映もほとんど視ず、会場へ足を運ぶこともないが、明日は次男が打囃子に出演するので送り迎えぐらいはしなければなるまいと思っている。

 スタイル・カウンシルの1985年作品、『Our Favourite Shop』である。私はどちらかというと、前作の『Cafe Bleu』の方が好きなのだが、もちろんこのアルバムも悪くはない。ジャージーな部分は影を潜めたが、サウンド的にはソフィスティケートされてよりポップでスタイリッシュになった。ちょっと前にクルマのHDDに入れてから、よく聴くようになった。20数年ぶりだ。非常に洗練されたサウンドであるにもかかわらず、どこかに荒々しさの痕跡を残し、サッチャー政権へのアンチを隠そうとしなかった彼らのスタイルに私は好感をもつ。

 スタイル・カウンシルが活躍した1980年代以降、世界も日本もその根幹が大きく変わってしまったようにみえる。例えば、経済における格差の拡大と、政治・社会における「右」へのシフトてある。50歳を過ぎて、そのことの意味をきちんと理解したいと思うようになった。昨年の秋ごろから、ミルトン・フリードマンを中心とする市場原理主義者と、それらを批判した書物を時間をみつけては読み続けている。仕事のために作業は遅々として進まず、また経済学素人の私にどれだけの理解ができるのか心もとないが、自分が生きてきた時代と自分の人生を確認する作業のひとつだと考えている。