WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

幸せになる12の方法

2006年11月28日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 92●

Madeleine Peyroux

Half The Perfect World

5550008  昨日、届いたばかりのアルバム。今日はしばらくぶりのオフなので朝から早速聴いている。妻も子もいない家で、ひとりボリュームを上げて音楽を聴けるのは本当にしばらくぶりだ。書斎で聴き、リスニングルームで聴き、それに飽きるとダイニングのBoseで聴いた。

 ピーター・バラカンが「希望と切なさが入り混じった曲が多いこの新作で、マデリン・ペルーは聴き手を圧倒せずに感情を伝える粋な感性と、どの曲も自分のものにする優れた解釈力をまた見せます。抑制の魅力が満喫できるアルバムです」という通り、非常に興味深くかつ優れたアルバムである。

 マデリン・ペルーの歌唱は、他の多くのジャズ・シンガーとは明らかに違うように思える。シャンソンとポップスのテイストが加味され、いかにもジャズといった趣がないのだ。実際、ニューオーリンズで生まれた彼女は、13歳の時両親の離婚のため、母親とともにパリに移住し、22歳の時までそこで暮らした経歴をもっており、フランス文化の影響を強く受けているようだ。しかしかといって、ジャズ的な素養が弱いかといえばそうではない。それは例えは、⑫ Smile を聴けば納得できるはずだ。シャンソンとポップスを混ぜ合わせてソフィスティケイトしたものをジャズにふりかけたもの、それがマデリンの音楽だ。

 彼女に対しては、「21世紀のビリー・ホリディ」「ジャージーなノラ・ジョーンズ」「ポスト・ジョニ・ミッチェル」「女性版レナード・コーエン」などすでに最大限の期待と賛辞が送られているが、そんな過大な言葉とは無縁に彼女は彼女自身の音楽を生み出していくことだろう。なぜなら、13歳のころからストリート・ミュージシャンとして歌い始めた彼女のバックボーンは、放浪の音楽なのであり、それは現在の彼女の音楽にも色濃く浮き出している。エスタブリッシュメントをしなやかに回避しつつ、放浪のミュージシャンであり続けること、彼女にはそれを期待しているし、そう信じている。

 前作、『ケアレス・ラブ』に勝るとも劣らない秀作である。

Madeleine Peyroux   careless love


振り向けばイエスタディ……青春の太田裕美⑫

2006年11月28日 | 青春の太田裕美

 Photo 1978年発表のアルバム『海が泣いている』収録曲だ。私の不確かな記憶によれば、LA録音とかで、ギターを弾いているのはリー・リトナーだったような気がする。気がするだけだが……。

 ところで、あったはずのLPがない。確かにもっていたはずだ。あるはずのものが見当たらないのは、何かしら、人を不安で、落ち着きの悪い心持ちにさせるものだ。アルバムにはタイトル曲の「海が泣いている」や「栞の結婚」などの名曲が入っており、それをアナログ盤で聴けないのは残念である。 

 「振り向けばイエスタディ」というタイトルは、気持ちはわかるが、ちょっとダサい。当時はこういう言葉の使い方がお洒落だったのかも知れないが、今となっては恥ずかしい表現である。歌詞の中に「振りむけばイエスタディ」という言葉が登場せず、その意味では練られたタイトルだったのかもしれない。ただ、歌詞に関しては、ちょっと芝居じみた感もあるものの、情感溢れるノスタルジックなものであり、私自身、心に迫るものがある。 

 大人の歌である。過ぎ去ってしまったアドレッセンスを追憶する静かな寂しさが漂っている。我々は年をとっていく。金持ちも貧乏人も同じように時間を失っていくのだ。たからこそ、追憶の歌は多くの人の共感を呼ぶのだ。 

 歌を聴きながら、その情景がイメージされるような映像的な歌詞だ。「君とは一緒に一夜づけした ノートの隙間に朝が見えたね」とか「女は名前を何故変えるのか この次逢ったらなんて呼ぼうか」など多くの人が自分の体験とダブらせて、感慨に浸ることだろう。 

 太田裕美は、自分自身が年齢を重ねながら、同世代が思いを分かち合えるような歌を歌っていく。「青春の太田裕美」の所以である。 

※   ※   ※   ※   ※   ※ 

英語のカードを片手にかざし  ラケット抱えた少女がとおる 

もうじき期末のテストなんだよ  あれから何年たったんだろう 

今でも時々夢を見るんだ  白紙の答案にらんでる夢 

君とは一緒に一夜づけした  ノートの隙間に朝が見えたね

愛って何?さって何?  小首かしげて君は聞くけど

答えがないから青春だった  答えがないから・・・woo  woo woo

              ※             ※

化粧を変えてもすれ違うとき  不思議に一目で君とわかった

お茶でもどうって誘う言葉に  うなづく仕草は昔の君

結婚するってうわさ聞いたよ  相手がやさしい人ならいいさ

女は名前を何故変えるのか  この次逢ったらなんて呼ぼうか

愛って何?若さって何?  小首かしげて君は聞くけど

答えがないから青春だった  時ってでっかい河みたいだよ

想い出はなつかしい友達なんだね


楽しくなければジャズじゃない

2006年11月27日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 91●

Horece silver    

Jazz Has A Sence Of Humor

5550007_2  『ジャズ・ハズ・ア・センス・オブ・ユーモア』。ホレス・シルヴァーの1998年録音作品だ。爽快だ。のりのりだ。気持ちいい。何て粋でかっこいいサウンドなのだろう。ホレス・シルヴァーは1928年生まれなので、当時70歳ということになる。何というファンキーな爺なんだ。

 「楽しくなければジャズじゃない」とは、CDの帯に記されていた文句だが、まったく、その言葉通りのサウンドである。単純に、掛け値なしに、楽しいサウンドである。リズムが飛び跳ね、身が躍り、心が躍る。今をときめくライアン・カイザーのtpとジミー・グリーンのtsのフロント陣は、小細工なしにまっすぐに音を出す。ドライブするジョン・ウェバーのb。サウンドにアクセントをつけるホレス得意のブロックコード。

 大体、昨今は難しすぎJazzが多すぎる。深刻な顔つきでいかにも芸術やってますといったサウンドだ(ウイントン・マルサリスとか面白みにかける奴ね)。個人的にはそんなサウンドも嫌いではないが、久しぶりにホレス・シルヴァーなどを聴くと原点にかえって、ジャズのシンプルな楽しさを思いだす気がする。

 ちょっとはやいが、ビールを飲もう。今日は大きな音でこの心躍る音楽を聴いて、酔いがまわったら、しばらくぶりにバーボンにでも切り替えようか。

Blowin' The Blues Away


いじめた生徒は出席停止に??

2006年11月26日 | つまらない雑談

 ニュースによれば、「教育再生会議」がいじめた生徒は出席停止にという提言をしたということだ。まったく何もわかっていない人たちだ。大衆の支持を得るためのポピュリズムと揶揄されても仕方がない。実際そうなのだろうが……。

 いじめ問題に心を痛めている傍観的人々にとっては、加害者を厳しく処分することは気持ちのよいことだろう。もちろん、いじめがはっきりしているのであれば、それでよいのだが、かつてこのブログで論じたように、多くの場合、いじめはいじめとして認定・立件するまでが困難だというところに現実的な問題がある。平気で嘘をつく加害生徒や皮相な人権意識をたてに屁理屈をいう保護者、それらとのトラブルを避けたい校長や教委など多くの障害が考えられるわけだ。

 問題生徒を「出席停止」にすること自体はかつてから可能なことであったので、この提言は別段新しいことをいっているわけではないが、それを再び強調してマスコミを使って流すことによって、いじめがさらに地下にもぐり、立件が困難になることも考えられる。

 政治権力が為すべきは、いじめを立件するマニュアル、すなわちいじめの可能性が考えられる場合に嘘をつく生徒や人権をたてにとる保護者に対して、先生方がどうすればよいのか、あるいはどういう権限が与えられるのかをはっきりと示すことであろう。

過去の記事

いじめ問題に一言

いじめは、「なれ合い型」学級で発生し易い


ファンキーという感覚

2006年11月26日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 90●

Blowin' The Blues Away    

Horece Silver

5550006_1  50年代ファンキージャズの推進者のひとりホレス・シルバーの『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ』。気持ちいい。かっこいい。音楽にただ酔いしれるのみである。

ファンキー・ジャズとは何だろう。例えば、ウィキペディアはこう説明する。

「ハードバップのうち、プルースのフィーリングを強調し、ファンクの要素が加わった形態。黒人的要素がより強く、ビー・バップやハード・バップに共通した要素である、コードを分解し、旋律を再構成する際に、ペンタトニック(五音階)や黒人音楽を意識したスケールを意図的に用いたものも多い」。

 よくわからない。当然だ。ファンキーとは概念ではなく、感覚だからだ。ファンキーという理論や概念が先にあって、それに基づいて音楽が成立しているのではなく、ある一群の音楽傾向をたまたまファンキーと呼んでいるに過ぎないからだ。無理に説明すれば、黒人的な、ゴスペル風味のあるブルース感覚溢れる音楽とでもなるのだろうが、結局聴いてみなければわからない。

 ところで、日本人はファンキーが好きなようだ。なぜだかわからないが、そこに加味されているブルースの感覚が日本人好みなのかもしれない。ずっと昔聴いたレコードだが、ベン・シドランに『ラヴァー・マン』というアルバムがあって、日本人ビジネスマンを皮肉った「ミツビシ・ボーイ」という曲が収録されているが、その中で「ブルースは好きですか」というセリフが日本語で登場する。「ブルースは好きですか」といってアメリカ人の気を引こうとするワンパターンな日本人を揶揄しているわけである。しかし、これは単に日本人ビジネスマンがアメリカ人に取り入ろうとする手段というだけでなく(それもあるだろうが)、実際ブルースの感覚が好きな人は多いのではないだろうか。ブルースを聴いていて演歌的な部分を感じることもよくあるが、私などもかつてギターでブルース曲をアドリブで弾いていると、あまりの気持ちよさに2,3時間があっという間に過ぎていることがよくあった。意外に、もともと労働歌であるブルースと日本のネイティブな音楽はつながりがあるのだろうか。

 世界の音楽を理論的に解析して、気持ちよさの構造を探ってみるのも面白いかもしれない。


バークリー・スクウェアーのナイチンゲール

2006年11月25日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 89●

Anita O' Day     This is Anita

5550005_1  アニタ・オディが亡くなったらしい。2006年11月23日、アニタ・オディ死去。なんと、87歳だった。よく考えて見れはそうだ。1940年代から活躍していた人なのだ。いつも、レコードやCDで若々しい歌声ばかり聴いているものだから、87歳だなんて考えもしなかった。

 傑作は数多あれど、このアルバムが一番好きだ。若々しいアニタの声が、ときにしっとりと、ときにスウィンギーにダイレクトに伝わってくる。それにしても、② 「バークリー・スクウェアーのナイチンゲール」の美しさは何だ。繊細でキュートでリリカル……。筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。他の曲も良い出来なのだが、私にとってはこの曲を聴くための一枚といっても過言ではない。アニタの可憐な歌を聴いていると、バークリー・スクウェアーのナイチンゲールとはアニタその人のことのようだなどとわけのわからぬことを思ってしまう。1955年録音。Verve。


一つの朝……青春の太田裕美⑪

2006年11月24日 | 青春の太田裕美

 Photo_2  極私的名盤『十二ページの詩集』のB面2曲目。何ということのない詩である。恐らくは、新しい恋に出会ったばかりの少女の何気ない日常の風景を素描したに過ぎない詩である。けれども、そこがまたいい。今風にいえば、癒されるのである。佐藤健作曲のおだやかで浮遊感覚のある旋律が、70年代の女の子の何気ない日常を際立たせている。よく読んでみると、詩も何か特別のことを語っているわけではないが、少女の心象風景をよく表しているではないか。「道ばたの石ころを何気なく投げたら 幸せの影がキラリとのぞいたよ」というところが、何ともいえず乙女チックでいい。

 このブログの「青春の太田裕美」シリーズではすでに何度も論じたことであるが、70年代的な内向、すなわち「自閉」という時代の空気が生んだ作品の一つといえよう。 

     ※            ※ 

  「好きだよ」といわないで    不確かな言葉です 

  生まれたばかりの恋なんて  決まり文句では語れない 

  朝焼けを見る人は淋しがりだという 

  その横顔を私は信じたい 

    ※            ※ 

  散歩して出逢っても    挨拶は抜きにして 

  ただつないだ手のぬくもりで 本当の優しさ伝えてよ 

  道ばたの石ころを何気なく投げたら 

  幸せの影がキラリとのぞいたよ

 


いじめは、「なれ合い型」学級で発生しやすい

2006年11月24日 | つまらない雑談

毎日新聞』によると、河村茂雄・都留文科大教授(心理学)の調査で、教師が教え子に友だち感覚で接する「なれ合い型」の学級でいじめが生まれやすいことが分かったとのことだ。《管理型》と《なれ合い型》に分けた場合、集団的秩序のない《なれ合い型》の方が圧倒的にいじめの温床になりやすいというのだ。現実の学校では、単純に《管理型》と《なれ合い型》とに分けられないのだろうが、《なれ合い型》先生が急増しているのも事実のようだ。特に、「運動や勉強が得意だったり、けんかの強い子供が学級をまとめ、教師が頼りにするケースも多いが、その子供や取り巻きが特定の子供をいじめの標的にし、学級全体が同調した場合、なれ合ってきた教師が止めるのは困難で、助長や加担の恐れもある」という指摘は重要である。

《なれ合い型》先生が急増している背景には、「生徒に好かれたい」「生徒と同じ目線で接してあげたい」などというピュアでイノセントだが短絡的な思考も多いと思うが、「人権」をたてに学校を批判する保護者やマスコミ、それらとのトラブルを避けたがる校長・教頭や教委の前で、先生方は尻込みし思い切った指導、厳しい指導ができていないという面も多いのではないか。

とかく極端に走りやすい日本の社会では、自由主義と管理主義が対立的に捉えられることが多く、とくにそれが政治や市民運動のテーマになった場合には、二者択一的な議論となる。しかし、現実の学校教育の現場では、自由主義教育など有り得ないし、必要でもないのであり、考えるべきは「自由主義的な管理教育」か「閉塞的な管理教育」かという選択なのである。教育基本法改悪問題で、管理か自由かという短絡的議論が浮上してきそうであるが、市民運動やリベラル派と目されるいくつかのブログをみてもこの辺のところが全くわかっていないものが多い。机の上だけの自由をいくら論じても何の解決にもならないし、むしろ「現実」と格闘している先生方がリベラル派から離れていくだけではないだろうか。事実、教育基本法が改悪されれば、生徒指導がしやすくなると考えている先生方も多いようである。確かに、教育基本法が改悪され、「公のため」に「人権」や「自由」に一定の制限が加えられれば、生徒指導は現在よりはやりやすくなる可能性はあるだろう。ただし、その代償は大きいが……。1980年代から1990年代にかけて、「プロ教師の会」と名のる人たちによって、「正当な管理教育」の必要性が唱えられたが、さきのリベラル派と目される人たちのブログにはそういった重要な提言がふまえられておらず、はっきりいえば敗戦直後と同じ議論をしている。残念である。

安倍極右政権がねらう教育基本法とそれに続く憲法の改悪は、いうまでもなく現代史における大切な局面である。だからこそ、特にリベラル派の人たちには丁寧で「現実」を踏まえた議論を展開してほしい。机上で空転する「自由主義」の言葉だけでは、例えば石原慎太郎大先生の杜撰な教育論には勝てないであろう。例え歪んではいても「現実」を踏まえている分だけ、石原の方が説得力をもつからである。

先の河村教授らの「なれ合い型では、当初は教師と子供が良好な関係を保つかに見えるが、最低限のルールを示さないため学級はまとまりを欠き、子供同士の関係は不安定でけんかやいじめが生じやすい。」という指摘を、リベラル派はもう一度噛み締めるべきであろう。

→以前の関連記事「いじめ問題に一言


こんなバラードが聴きたかった……

2006年11月19日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 88●

Michael Brecker

Nearness Of You     The Ballad Book

5550004_1  マイケル・ブレッカーの『ニアネス・オブ・ユー ~ ザ・バラード・ブック』。2000年録音の大ヒット盤である。大ヒット盤は普通、硬派を自認するジャズファンには評判が悪い。このアルバムも然りである。これがジャズの作品といえるのか、といった批判的言説が数多く出された。まあよい。私はそんなことでビクともしない。私は好きだと大声で言いたい。ジャズとはジャンルではなく、音楽のレベルであると考えているからだ。

 ハイレベルな演奏とサウンドである。凡百の「いかにもジャズ」など足元にも及ばない。サイドメンがすごい。パット・メセニー、ハービー・ハンコック、チャーリー・ヘイデン、ジャック・ディジョネット、そして、ジェームス・テイラー。こんな有名どころが、自分の腕をひけらかすようなことをせず、音楽を生み出すという行為のために、一つになっている。批判者の多くは、ジェームス・テーラーの歌が気に入らないようだ。けれども、はっきり言っておこう。本作は、ジェームス・テーラーの歌があるからこそ素晴らしい。優しく包み込み、心に共感と落ち着きを与える歌だ。声量がないとか、スウィングしていないとか、いかにもジャズっぽいフィーリングがないとかの的はずれの批判は、この際、軽蔑して無視すべきであろう。ヒャクショーは、低レベルな音楽でも聴いていなさいといっておこう(農業従事者を軽蔑しているわけではありません。念のため……)。私は、この作品でジェームス・テーラーを再評価・再認識したほどである。もう一度繰り返すが、ジャズとはジャンルではなく、音楽の質であり、レベルなのだ。

 唯一、難点を探せば、マイケルのセンチメンタルでノスタルジックなサックスがちょっと行き過ぎて、感情に流されすぎているように感じてしまうことがあるということだろうか。サックスのプレイ自体は本当に素晴らしいものだ。ただ、他者が自己の感情の世界に浸りきって、悦に入っているのを見るのはあまり気持ちのいいものではない。しかし、そんなことを差し引いても、素晴らしい作品であることを明記しておきたい。マイケルは、自己の世界に没入し、ゆっくりと、ゆっくりと、自分の音楽をつむいでゆく。Nearness of You とは、たんに曲の題名ではなく、アルバム全体のイメージでもあるのではないかと思える程である。

 ところで、このCDの帯には「こんなバラードが聴きたかった……」という宣伝文句が記されている。安易でセンスのない言葉である。はっきりいって、恥ずかしくて口に出すのが憚られるほどだ。けれども、偉そうなことを言った後でいいにくいことだが、その言葉は聴き終わった私の気持ちでもあったのだ。結局、私もミーハーだったということなのだろうか……。


悲しき若者たちのバラード

2006年11月19日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 87●

Keith Jarrett     Tribute

                                5550003_1       

 今日の2枚目。またもキース・ジャレットだ。1989年のケルンでの2枚組ライブ盤で、キースが10人のジャズ・ジャイアンツに曲を捧げるという趣向だ。

 80年代に入ってからのキースは、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットとスタンダーズ・トリオを結成し、スタンダード曲の斬新な解釈による演奏を繰り広げるようになった。このアルバムもそのひとつ。どの曲も緊密なインタープレイによって密度の濃い演奏である。しかし、私がこのアルバムを極私的名盤に数える理由はただ1つ、Disk-2-④ Ballad of The Sad Young Men の存在によってである。すばらしい。何といえばよいのだろう。かつて、こんな素敵な曲がこんな美しいタッチで奏でられたことがあっただろうか。壊れ易いガラス細工を優しく扱うかのように、キースは繊細なタッチで注意深く弾きはじめる。音と音の間の絶妙な空白。途中からキースに寄り添うように入ってくるゲイリーの温かい音色のベース。ジャックはともに歌うかのように静かなブラッシュ・ワークを展開しつつ、時折絶妙のシンバル・ワークでアクセントをつける。次第に3人の演奏はインタープレイとなっていっていくが、決して美しさを損なうことはない。そして、最後のテーマでキースは、再びリリカルなタッチでピアノを奏でる。

 私の知っているバラードプレイの中で、どんなことがあろうと間違いなく、10本の指に数えられる演奏だ。たまたま手元にある『ジャズ・バラード・ブック』(別冊Swing journal)に、「このかすかな悲哀にぬれたメロディーの美しさこそ真のバラードというものだ。ピーコックのベース・ソロも素晴らしいの一語。キースのバラードのうちで最高のプレイだと思う。」とあった。その通り。付け加えるべき言葉はない。

 熱い夏の午後だった。古いアパートの一室で、私は買ってきたばかりの『トリビュート』の封を切り、再生装置にのせた。Ballad of The Sad Young Men がはじまった時、あけていた窓から風が入ってきた。本当に気持ちの良い、涼しい風だった。いまでも、この曲を聴くと、その風の涼しさを想いだす。特にドラマチックな背景があるわけでもないのに、その風の涼しさだけを想いだすのは一体どうしてなのだろう。


ケルン・コンサート

2006年11月19日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 86●

Keith Jarrett

The Koln Concert

5550002_1  「ケルン・コンサート」が好きだなどというと、硬派のジャズファンとはみなされない傾向があるのは困ったものだが、そんなことはどうでもよく、私は大甘メロディー満載のこの作品が大好きである。とはいっても、やはり大甘メロディーなので毎日聴き続けると飽きるという欠点をもっている。実際、このアルバムを聴いたのは数年ぶりである。しかし、数年ぶりに通して聴いて、この作品が傑作であり、真の名盤であることの確信を強くした。

 1975年1月24日のケルンでのライブ録音盤である。1960年代後半にチャールズ・ロイドのグループで衝撃的なデビューを果たし、その後マイルス・デイヴィスのグループで腕を磨き、マイルスをして「俺のバンドではあいつのピアノが生涯最高だ」といわしめた天才が新しい音楽の方向性のひとつとして考えたのは、アコースティク・ピアノによるソロだった。ハービー・ハンコックチック・コリアがエレクトリック音楽の道を模索したのに対して好対照だ。内藤遊人はじめてのジャズ』(講談社現代新書)には、マイルス・スクールの生徒会長ハービー・ハンコックに対して、キース・ジャレットをマイルス・スクールの「首席」とする文章があるが、なかなかどうして言いえている。

 キース・ジャレットがピアノに向う時、もちろんある程度の構想やイメージを持っているのだろうが、これほどの長い時間、美しく刺激的なメロディーを滞ることなくスムーズに、しかも自己満足に陥ることなく、聴衆に飽きさせずに聴かせるのは、当然のことながら並大抵のことではない。事実、キース以後同じような試みをしたピアニストは何人かおり、確かに作品として素晴らしいものもいくつかはあるが、彼ほど聴衆をひきつける演奏をしたものはほとんどいないのではなかろうか。

 出だしから魅惑的なメロディーではじまり、5分03秒で悩殺フレーズが登場するPartⅠはもちろん大好きだが、今回聴き返してみて、ピアノ・ソロにそろそろ飽きるかなというところで登場するPartⅡ-c ののりのりメロディーは素晴らしいと思った。それにしても、LPにあったPartⅢがCDでは時間の関係でカットされているのは残念だ。新しいCDでは収録されていないのだろうか。


つづれおり

2006年11月18日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 85●

Carole King     Tapestry

5550001_6  私のこれまでの人生の中で、一体このアルバムを何度聴いたことだろう。ずっと、若い頃の一時期、本当に毎日のように聴いていた。ときにLPで、ときにカセットテープで、そしてときにCDで、冬も春も夏も秋もだ。いまでも時々取り出してかけてみれば、胸が熱くなっていくのがわかる。1972年の作品であることが信じられないほど、私にとっては現在でもリアリティーのあるアルバムだ。

 あまりに聴きすぎたせいか、どの曲が好きだということがない。すべての曲が素晴らしい。不思議なことだが、このアルバムを聴くときは必ず、はじめからおわりまで通してだ。途中から聴いたり飛ばしたりすることがない。まったく稀有なアルバムというべきだろう。

 ところで、最近はやりのYou Tube でキャロル・キング関係のビデオがいくつか流されている。先日、それらを見てみたのだがどれも興味深いものだった。特に、ライブの You've Got A Friend (君の友だち)の最後の部分を聴衆がみんなで歌っているのを見て、目頭が熱くなった。中には涙を流しながら歌っている人もいて、本当に感動的だった。キャロル・キングはアメリカではそういった存在なのだろう。ともに歌いながら、ともに年をとっていく、人生の大切な友だちといった存在のことだ。恐らくは私も、これからもつらい時も気分の良いときも、この「つづれおり」を聴いていくのかもしれない。これまでがそうだったように……。

キャロル・キングの You've Got A Friend ↓↓↓ 

※ 画面をダブル・クリックすると、You Tubeにジャンプします。「carole king」で他の曲も検索してみてください。

※ You Tube には、本家ジェームス・テーラーのYou've Got A Friend もあるが、こちらもなかなか感動的である。↓↓↓

http://www.youtube.com/watch?v=aVZNXtJs7c8


愛国心について一言

2006年11月17日 | つまらない雑談

 教育基本法改正論議で、愛国心が注目を浴びつつある。ところで、愛国心論議のとき、よく国家権力が心の中に入り込めるのかということがテーマになる。それももちろん重要だが、私がいつも素朴に感じるのは、世間でいうところの愛国心というものが実体がない空虚なことばなのではないかということだ。それは、① そのばあいの国とはどういうものかということが不明であることと、② どのような条件の中で国を愛するべきなのかがいまひとつ不明であるという2点においてである。

 愛国心の国とは、「天皇が治める神の国」なのか「自由・平等・博愛の国」なのか。青臭いことをいうようだが、やはりその点が漠然としている。対象が漠然としているかぎり、国を愛する心も漠然とせざるを得ないだろう。「周辺事態法」の「周辺」概念と同じでどのようにでも解釈できることばである。

①と関連するが、神様でもない限り、ある対象を無条件に愛することはできない。愛する対象である《国》がどのようなものであるかによって、愛し方や愛せるかどうかは変ってくるだろう。私に即していえば、安倍極右政権の支配する日本など愛したくはないし、愛するにも値しないと思う。あるいは、その安倍首相が70%もの支持率があるのであれば(私はこの数字にはかなりの疑問があると考えているが)、なおさらそのような国は愛するに値しない。

  政府関係者は「国を愛する心」を牧歌的ニュアンスで説明するが、明確でない対象をいかなる場合も愛することを教え込もうというのであれば、改正教育基本法は、近頃はやりの洗脳/マインド・コントロールをめざした法であり、その意味で明確なファッショ法典といわねばならない。

 その意味では、教育基本法改正によって「愛国心」を奪われる人たちも大勢いるのだろう。そのような人たちにとっては、教育基本法の改正される日は「国恥記念日」というべきであろう。


鳥になることのベクトル

2006年11月14日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 84●

Eric Dolphy     Last Date

555_1  「音楽は聴いたとたんに空気の中に消えてゆき、もう二度とつかまえることはできない。」( When you hear music after it's over , it's gone in the air . You can never capture it again )という有名なことばで終わる伝説的アルバムだ。エリック・ドルフィーは、1964年6月29日、ベルリンで客死したが、その直前の6月2日にオランダで録音されたアルバムだ。

 先の言葉はあまりにも有名で、ジャズ・ファンの中では言い古され、それに敢えて触れることさえ憚られるほどだが、この言葉が有名になったのはやはり、その音楽をよく表しているからなのだと思う。かつて、浅田彰はこのアルバム収録の⑤ You Don't Know What Lave Is を論じた文章の中で「鳥になることのベクトル」(『名演!Modern Jazz』講談社)という表現を使った。80年代ポスト・モダン・ブーム時代のあまりにスノッビシュな表現で、今となってはちょっと口にするのが恥ずかしい面もあるが、よく考えてみる、ドルフィーの音楽をとなかなかよく表した言葉のようにも思える。浅田の言葉は、ジル・ドゥルーズとフィリックス・ガタリの『ミル・プラトー』の中の「音楽というのは、ジャヌカンからメシアンにいたるまで、ありとあらゆる仕方で鳥の歌に貫かれている」という表現を引いたものだが、「鳥の歌」とはドルフィーの音楽については、至言というべきではなかろうか。

 ラジオの放送用に録音されたものであり、リズム・セクションが弱いとの批評もあるようだが、むしろそれだからこそ、ドルフィーがより自由に自分のプレイをしているように思える。じっくり聴くと、ドルフィーは本当に鳥になろうとしているようだ。


いじめ問題に一言

2006年11月13日 | つまらない雑談

 いじめ自殺が社会問題化している。いじめ問題がマスコミで取り上げられる場合、先生方や学校の対応のまずさが指摘される。糾弾されているといってもよい。もしそのことが原因でいじめが拡大し、自殺に追い込まれたのであれば、まったく不幸なことだ。弁解の余地もあるまい。

 ただ、私は少し異なる見解をもっている。恐らく、多くの先生方はそこで「本当に」「明らかな」いじめが行われていれば、それを放置してはおくまい。にもかかわらず、適切な対応がなされないのは、そこにいじめ問題への対応の難しさが存在するからである。

① まず、何がいじめかという問題である。もちろん被害者側に苦痛が伴えば、それはいじめなのであろうが、実際の教育現場では加害者側がシラをきるという問題があり、いじめの立件には困難が伴うだろう。現代の子供たちは、自分のマイナスになる加害行為を素直に認めるほどには素直ではないからだ。むしろ、皮相な権利意識をもった加害生徒らは、教師に疑われていることに対して人権を盾に抵抗することが考えられる。過度に疑った場合、保護者がやはり人権侵害を盾に騒ぎ立てることもあるだろう。恐らくはいじめがあったことは間違いないが、本人がシラをきっているという状況で、何らかの処分や指導ができるのかという問題がある。疑わしいというだけでは停学や出校停止にできないという学校のジレンマがここにあるのだ。この場合、もちろん加害者の保護者が人権を盾に騒ぎ立てることは容易に想像できる。

② 何らかのいじめ行為が発覚しても、加害者には被害者の痛みがわからず、いじめの認識が薄いことが問題だ。この場合、加害者側の保護者についても同様である。なぜこんなことぐらいでという意識は、加害者の保護者について回るだろう。この場合も何がいじめかということが問題になる。特に、権利意識だけが強く、自分のこどもを甘やかしているような家庭については、なぜうちの子だけ叱られるのか。先生方はうち子を差別しているのではないかという意識を持つだろう。

③ 最近のいじめの形態が、メールやweb掲示板を使った匿名性の強いものが多いことも問題だ。メールやweb掲示板によって被害者本人が知らぬ間に包囲網が築かれ、仲間はずれや諸々の攻撃がはじまるのだ。匿名の発言のため、加害者側の言葉は残虐性を極め、言いたい放題の場合も多い。被害者本人がそれに気づいたときのショックは並大抵ではなかろう。また、このような場合、学校側が状況を把握するのが難しいという問題もある。

④ 問題が発覚した場合、加害生徒をどうするかということにも大きな問題が付きまとう。停学や出校停止にするのがよいだろうが、この場合も、加害者本人や保護者が皮相な人権意識を盾に騒ぎ立てることは想像に難くない。校長もいじめ問題については教委に報告したがらない傾向があるだろう。昇進にも響くことも考えられるし、加害者側・被害者側双方の保護者とのトラブルは避けたいからだ。

 結局、いじめを立件するまでには被害者側・加害者側・それぞれの保護者・人権問題など多くのハードルがあるわけだ。もちろん、それでもその困難なハードルを乗り越えていくべきなのだが、現実には被害・加害の対立する主張や人権問題という聖域の前で先生方は板ばさみになっているのが現状ではないか。

 マスコミ報道をみると、先生方が無能で、あるいは腹黒く、また事なかれ主義で、それがいじめを容認しているといった勧善懲悪的なニュアンスが伝わってくる。しかし、当然のことながら事態はそれほど単純ではない。むしろ、多くの先生方はいじめに対しては「ゆるせない」というピュアな気持ちをもっているのではないか。ピュアな気持ちを持っているが故に、「人権」とか「差別」とかのことばに弱いのだ。当然のことなかせら、先生方は人間である。魔法使いでもスーパーマンではない。「人権」や「保護者の異議申し立て」や「上からの管理」の前に、武器も権限も取り上げられてしまった現代の先生方にそれを期待するのは無理である。酷であるといってもよい。

 文部科学省や教委は、上記のようないじめ認定の諸局面での対応のマニュアルと学校や先生方に与えられるべき権限を明示するべきである。はっきりいうなら、いじめ防止やその他の学校秩序を維持するため、学校に特別の権限でも与えない限り、いじめ摘発は無理な話であり、学校秩序の維持も困難であろう。文部科学省や教委は、自らは安全な地帯に居りながら、何の権限も方策も持たずにいじめと直面し、疲れ果てている先生方に責任を押し付けているように見える。丸腰の学校を諸悪の根源のように糾弾しても何の解決にもならないだろう。

 まさか、だから教育基本法を改正すべきだとでもいうのだろうか。

 ※ 尚、念のために記しておくが、上記のことは教員を擁護するために書かれたものではない。