おはようございます。
お元気になさっていますか。
久しぶりにお食事でもご一緒できればと思っているのですがお忙しいですか?
お忙しい中すみません。実は来週ちょうど連休が取れそうなんですよね。久しぶりにお会いしたいので予定だけでも教えてもらえますか?
返事がないけど何かありましたか?
もしかして体調不良とか・・・。心配なので返事だけでももらえませんか。
おはようございます。
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お忙しい中すみません。実は来週ちょうど連休が取れそうなんですよね。久しぶりにお会いしたいので予定だけでも教えてもらえますか?
返事がないけど何かありましたか?
もしかして体調不良とか・・・。心配なので返事だけでももらえませんか。
歳は庚子に在り八月某夜、金風浙瀝として露白く天高きの時、一星惚焉として堕ちて声あり。嗚呼自由党死す矣。而して其栄光ある歴史は全く抹殺されぬ。(中略)汝自由党が自由平等の為に戦ひ、文明進歩の為闘ふや、義を見て進み正を踏で懼れず、千座屈せず百折撓まず、凜乎たる意気精神、真に秋霜烈日の慨ありき。而して今安くに在る哉。(中略)見よ、今や諸君は退去令発布の総理伊藤侯、退去令発布の内相山県侯の忠実なる政友として、汝自由党の死を視る路人の如く、吾人は独り朝報の孤塁に拠って尚ほ自由平等文明進歩の為に奮闘しつつあることを。
議会主義を嘲笑するようなやり方で、立憲主義を踏みにじるような「安保法案」が衆議院で可決されたのを知り、なぜだか、幸徳秋水の「自由党を祭る文」を思い出してしまった。
大晦日に今年も紅白歌合戦をみた。全くつまらなかった。番組としての賞味期限切れだと思った。歴史的な役割を終えたのだとも思った。そうそろそろ紅白歌合戦の最終回を模索してもいいのではなかろうか。
視聴率が下がったと騒いでいるようだが、視聴率についてもかつてとは見方を変えなければならない。一世帯に何台もテレビがある時代なのだ。ビデオ録画もある。仮に、数字の上で視聴率が高いとしても、紅白歌合戦だけを視ている家庭はそう多くはないというべきだろう。国民の心に対する紅白歌合戦の占有率は、例えば私の子供の頃に比べて、極めて低いと考えられる。もちろん、NHKも紅白存続のために必死だ。若者の紅白離れをくいとめ、みんなが一緒にみれる紅白を再建しようと努力と妥協をしているようだ。よく批判される、ジャニーズによる紅白支配や、AKBのでしゃばり過ぎ問題、ヒット曲のない昔の歌手の出場問題などは、その結果だと考えていいだろう。結果的に、紅白全体がちぐはぐとした、寄せ集め的な番組になっている印象を受ける。
今回の紅白歌合戦についても様々な批判や問題点の指摘があるようだ。特に、中森明菜の出場はあまりに唐突で異質な印象を受けた。何かにおびえるかのような、おどおどした、病的な雰囲気だった。その出場はある種のサプライズなのかもしれないが、大晦日の家族だんらんの時間に、あのような中森明菜を登場させる意味が理解できない。サザンオールスターズや福山雅治、また「アナ雪」の外人の人が中継で出場したことは、紅白歌合戦の地位の低下を如実に物語っている。はっきりいって、やっつけ仕事だった。もはや、紅白歌合戦に出場することは特別なことなどではないのだ。
一方、本当に問題だと思うのは、演歌に対する扱いだ。かつて演歌歌手は独自の世界を構築したものだ。歌う前に精神を集中して独特の雰囲気を漂わせ、楽曲と歌唱力と舞台演出によってひとつの世界を形作った。その世界はものすごい吸引力だった。演歌が好きではない私も、しばしばその吸引力にひきつけられ魅了されたものだ。けれどどうだろう。森進一の「ダメよ、ダメダメ」発言に象徴的なように、時代の軽薄さと手を結ぶことによってしか、もはや演歌は存立しえないのだ。哀愁の曲を歌う演歌歌手の背後で、ジャニーズやAKBがへらへらした顔でダンスし、合いの手を入れ、生意気な声援を送る。もはや、独自の世界の構築などない。演歌はおちゃらけの道具に過ぎない。
芸能人は与えられた仕事をこなさなければならないのはよくわかる。次の仕事を得るためにテレビ局と良好な関係を築く必要のあることもよくわかる。個人的なわがままや仕事のえり好みなどすべきでないことも当然だろう。けれど、この演歌のおかれた状況を放置していては結局、ファンは離れ、演歌はますます衰退していくほかなかろう。時には、反乱を起こしてはどうだろう。番組に対して意見をいい、必要があれば出演拒否する。ひとりでやるのが大変なら、演歌歌手で対紅白の労働組合を結成し、団体交渉やストライキを行うなんていうのはどうだろう。
近年の紅白歌合戦は、ジャニーズやAKBなど若者への譲歩・妥協と、演歌歌手ら大人への軽視・冷遇をその特徴としている。紅白存続のためにはある意味仕方のないことなのかもしれない。しかし、そういったNHKの姿勢が、結果的に紅白歌合戦を蹂躙する結果になっているように思える。かつて阿久悠は、「歌謡曲」というものを、老若男女が共感できる音楽であると規定した。けれど、近年の紅白歌合戦が映し出したのは、皮肉にもその歌謡曲の解体と不可能性である。もはや、老若男女がともに紅白歌合戦を楽しむのは不可能な時代なのだと思う。そこで提案だが、前半をジャニーズやAKB中心の構成にして若者たちに大いに盛り上がってもらい、後半は大人の歌手が真剣にそれぞれの世界観をもった歌で勝負するコーナーにするというのはどうだろう。若者たちは前半のコーナーが終わったら除夜の鐘でも聞きに行けばよい。もちろん、紅白歌合戦を存続する必要はない。解体してまったく別の番組に編成してもよい。国民的番組である紅白歌合戦にどうしてもこだわるのなら、国民の代表による「紅白歌合戦再建委員会」を組織するというのもあろうが、そこまでして延命する必要もないと思う。もうそういう時代なのだ。
紅白歌合戦は最終回を迎えても一向にかまわないが、「ゆく年くる年」は続けてほしい。真の国民的番組だ。できれば、バージョンアップも考えてほしいぐらいだ。
ずっとOCNのBlogzineでブログを運営してきましたが、残念ながら、11月いっぱいでBlogzineサービスが終了となることになり、OCNが推奨するgooブログに移籍してきました。
よろしくお願いします。
あめましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
写真の神社は私の家の近くなのですが、周りが津波で壊滅したにもかかわらず、陸の孤島のように被害のなかった神社です。本当に海のすぐそばで、高い場所にあるわけもありません。ほんの数メートル先からは壊滅的状態なのです。周囲が江戸時代の入浜式塩田跡で低い土地だったので、相対的に高い場所だったわけです。文字通り、「水は低きに流れる」ということでしょうか。津波から奇跡的に被害を受けなかったということで、神様の力でだと、小さな神社にもかかわらず、参拝者は増えているようです。
この神社の近くはいまでもこんな状態です。津波前は民宿が密集していた地域です。
今年の1~2日はほとんど家から出ずに過ごしました。こんなにゆっくりしたのはしばらくぶりです。
元日は、朝から晩まで石原千秋『「こころ」で読みなおす漱石文学~大人になれなかった先生』(朝日文庫)という本を読みました。かつての小森陽一さんなどの説を援用しつつ、著者独自に『こころ』のテクスト読解を試みた作品ですが、結構面白かったですね。2日は、ちょっと思うところがあって、若い頃読んだ、ジャック・ラカンに関する本をあっちこっちひっくり返しているうちに終わってしまいました。ほとんど読書しかしない2日間でしたが、ぐだぐだして結局なにもせずに終わってしまう例年の正月より、自己満足的な充実感はありました。
今日3日の午後になって、今年大学受験の長男のために、実力不足を補うためにも神様の力をお借りしようかと思い立ち、近くの神社にお参りしてきました。ひいたおみくじは「末吉」でした。
今年もよろしくお願いします。
家や仕事を失ったわけではないのだが、震災後、仕事や生活がいろいろな意味であわただしくなり、そのあわただしさにかまけて、ずっとブログの更新を怠ってきた。大方は、もうやめてしまったのだろうと、思われているに違いない。
またぼちぼち更新していこうかと考えている。きっかけは、人間ドックでメタボリックシンドロームとそれに起因する狭心症予備軍と診断され、その「罪」で≪積極的支援を要する者≫に指定されて、体重を落とさなければならなくなったことに関連している。まったく余計なお世話だと思うのだが、例の健康増進法に基づいて、これから半年間、定期的に保健師さんの指導を受けなければならないというのだ。本当に余計なお世話だと思いつつも、従順な私は減量目標をとりあえずマイナス4キロと設定してしまった。平均すると、一日に155カロリー減らさなければならないのだそうだ。震災前に運動していたスイミングクラブが津波であとかたもなく流されてしまい、そのためもあって慢性的な運動不足だ。とりあえず、市の体育館のジムを利用しようかと考えているが、戸外を走ることも考えねばならないかもしれない。
運動だけでは体重は落ちないことは経験済みだ。やはり食事制限が必要なのだ。けれども、これがなかなか難しい。とりあえず、酒を飲みながら、肴を喰らい、テレビに興じていた怠惰な生活をなんとかせねばならない。そこで、ブログ記事を書くことで、怠惰な時間を減らし、なんとか生活を立て直せないだろうかと考えたわけだ。
というわけで、少しずつになると思いますが、ブログを再開します。
Starting Over。
LaLa-TV放映で先日最終回を迎えた韓国ドラマ『大王世宗』に数か月間はまっていた。何と、86話もある長編ドラマで、私がたまたま視聴しはじめたのはちょうど真ん中あたりからだが、そのめくるめくプロットの展開に、毎週土曜日9:00~14:00までの4話連続放送にもかかわらず、ビデオ録画によって律儀にずっと見続ける有様だった。
ともすると、最終回が唐突に、しかも取ってつけたように終わってしまう傾向の強い韓国ドラマの中にあって、この作品の最終回は感動的であった。静かにじわじわと身体に沁み込んでくるような種類の感動である。
大王世宗は李氏朝鮮の第4代国王であるが、「訓民正音」=ハングルを創製した国王として名高い。86話もあるドラマなので要約するのは不可能だが、その最後の数話は朝鮮文字、すなわち「訓民正音」創製をめぐる物語だ。大王世宗は朝鮮民衆が自らの意思を表明する手段の必要性を痛感し、漢字ではないより平易な文字の創製をめざして研究に没頭するが、漢字の使用を文明国のあかしとする当時の風潮の中で、表音文字を野蛮人の文字として排斥しようとする反対派の様々な妨害工作に直面する。その中心が「集賢殿」の副堤学であるチェ・マルリである。また、朝鮮を属国扱いする中国も、朝鮮国内の反対派と結んで圧力をかけてくる。大王世宗とその協力者たちは、様々な困難を乗り越え、多くの犠牲者を出しながらも、秘密裏に文字の研究を続け、ついに朝鮮文字を完成する。しかし、大王世宗は研究に没頭する余り健康を害し、失明してしまう。最終話では、大王世宗のもとを訪れた反対派の中心人物チェ・マルリが、国王が失明していることを知り、その熱意に打たれて文字創製を容認するのだが、その帰り道、彼が空を見上げ、涙を流しながら心でつぶやく言葉が、筆舌に尽くしがたいほどに感動的である。
※ ※ ※
この時代は常に乱世。
王様と私は各々のやり方でその乱世をわたってきました。
しかし、私はどうしても王様が作られた文字を認めることができません。
ただ、あなたが注いだ心血は認めざるを得ません。
たとえ、後世の歴史が私を称え、あなたが間違っていたと判断しても、今日の私はあなたに敗れます。
肉体が衰え、視力を失うことになっても、決して歩みを止めなかった祖国朝鮮を思うあなたの、その熱意に敗れるのです。
昨日の選抜高校野球開会式での選手宣誓、21世紀枠出場の石巻工業、阿部主将の言葉がなかなか良かった。というか、年甲斐もなく涙が出てきた。あるいは資料的価値もあろうから一応全文をあげておく。
※ ※ ※
「東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には苦しくて心の整理が付かず、今も当時のことや亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくて、つらいことです。しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして、笑顔。見せましょう、日本の底力、絆を。われわれ高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないことです。今野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々プレーすることを誓います」
※ ※ ※
まず、「復興」「がんぱ゛ろう〇〇〇」をかけ声にした、いけいけどんどんの風潮の中で、まだ悲しみから抜け出られずにいる人が大勢いるのだということに触れてくれたことがなかなかいい。現実の被災地にはそういう人がたくさんいるし、一方「がんばろう」というバイタリティーにもうついていけないという人だってたくさんいるのだ。そういう人たちに、寄り添おうとするような言葉がいい。
それから、「日本中に届けます」というところがいい。最近、スポーツ選手や芸能人、ミュージシャンらが、自分たちのプレーや音楽で「元気を与えたい」などというのをよく耳にする。「お前、何様なんだ」と思ってしまう。単なるボキャブラリーの貧困ではあるまい。どこかでそう思っているのではないか。実際、被災地では、「支援してやっているんだ」というような高飛車な態度をとる「支援者」の人々に出会うことがよくある。「元気を与えたい」などというのは、東日本大震災後の自粛ムードの中で、自分たちの音楽やスポーツをやるための口実なのではないかと意地悪く考えてしまう。その意味からも、「日本中に届けます」というのは、やや抑制がきいていてよかった。
残念だが、石巻工業は、先ほど、神村学園に9-5で敗れたようだ。
[豆知識]地元では石巻工業を「いしこう」と呼ぶ。「せきこう」という場合は石巻高校を指す。
楽天イーグルスの渡辺直人選手がトレードされることになった。本当に残念だ。契約更改の記者会見で、鉄平も、草野も、嶋も泣いていた。渡辺直人は、社会人から入団して野村監督のもとで鍛えられ、頭角をあらわした楽天生え抜きの選手のひとりだ。楽天にはそういう選手が何人もいる。他入団で芽がでなかった選手、社会人野球からチャンスを得た選手、そして育成枠からのし上がってきた選手、そういう選手たちが野村監督の下で鍛えられて成長し、活躍できるようになった。渡辺直人は、その中心、象徴的な選手なのだ。彼らが成長するのを見ながら、彼らに声援を送り、そして我々もファンとして成長してきた。これが弱くても仙台のファンがイーグルスを見捨てない理由だ。
星野監督は何か違う。岩村・松井(稼)など大型トレードで外部から補強し、勝つことを考える。もちろん、勝つことは大事だし、最優先だ。しかし、やり方が美しくない。プロは勝てばいいのではない。美しく勝たなければダメだ。これでは、経済力にものをいわせ、他球団のスター選手を金でかき集めて、強くなった巨人と同じではないか。かつて、巨人ファンだった私は、そういうやり方に嫌気が差し、巨人が嫌いになった。
野村監督は間違いなく人を育てた。星野監督は人を育てられるだろうか。地元の球団なのでイーグルスを応援し続けたい気持ちはある。しかし、心が何か冷めてきている。
もう、素直にイーグルスを応援できないかも知れない。
ずっと以前にアップした「ジョン・レノン死亡記事とコメント」という記事に、最近、異常ともいえるほど集中的にアクセスがあり、何かあったのかなと思っていたら、今年はジョン・レノンが死んでから30年目にあたり、おまけに生誕70周年、ビートルズ結成50周年、解散40周年のメモリアル・イヤーなのだという。ビートルズ結成については、まだリンゴ・スターは加入しておらず、ドラマーはまだピート・ベストだったはずだが、それ以外は計算してみれば確かにその通りだ。昨年までは、ジョンの命日前後にこれほどアクセスが集中することはなかったので、世の中ではやはり関心が高いということなのだろう。
先日、BS-Japan で放映された「ザ・ラストディ~誰がジョン・レノンを殺したか」という番組をたまたま視た。なかなか興味深い番組だった。基本的にはジョン・レノン殺害陰謀説に基づく推論を中心とした番組だったが、TVというメディアでこの種のテーマで長時間番組を放映することは余りなかったような気がする。
内容の大筋はこうだ。
ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンは、当時ジョン・レノンの熱狂的なファンといわれ、事件はこの「熱狂的ファン」による凶行と全世界に報じられたが、その後の検証ではチャップマンは、ジョンのファンはなく、レコードを収集していた事実もなかったことがわかった(彼はトッド・ラングレンのファンだった)。また、事件後も現場から逃げようとはせず、警察が駆けつけるまでその場に座り込んでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読み続けるという異常な行動をとっていた。警察の取調べにもジョン・レノン殺害の動機について、「『ライ麦畑でつかまえて』を読めばすぐわかるよ」などと意味不明なことをいい、警察官もまるで何ものかにコントロールされているようだという印象をもったという。
番組はいくつかの検証をおこない、結果としてCIA陰謀説を主張する。5年間音楽活動を休止して子育てに専念していたジョンが復帰したことについて、タカ派のレーガン政権はその反戦運動の政治的影響力に危機意識をもっていた。実際、CIAがジョン・レノンの活動を調査し続けていたことは、ジョン・レノン・ファイルの存在によって広く知られている。1981年にはジョンがアメリカ国籍を正式に取得することが可能となる予定だったのだ。
マーク・チャップマンとCIAの関係については、YMCAの介在をあげている。チャプマンはかつてYMCAに加入してその一員として活動していたが、YMCAはCIAの活動の拠点となることが多いらしく、両者は密接な関係にあるようだ。このことは、元CIAのフランク・チャーチーという人が『CIA・ダイアリー』 という暴露本に書いているのだそうだ。ところで、チャップマンは、犯行の数日前、住んでいたハワイから、シカゴへ飛び、そこで3日間を過ごしていたはずなのだが、シカゴ到着後すぐニューヨークへ飛んだようにみせる旅券によって、シカゴでの3日間の消息がな何者かによって隠蔽されている。シカゴで一体何があったのだろうか。誰が虚偽の旅券を用意したのだろうか。ここでもCIAの存在が疑われることになる。
ジョン・レノンの殺害については、CIAによるマインドコントロール説が主張される。『ライ麦畑でつかまえて』はマインドコントロールのキーワードなのであり、相手をあやつる引き金となるものだったのではないかということだ。実際、この当時、CIAは、「MK・ウルトラ計画」 「アーティーチョーク・プロジェクト」 という、催眠・洗脳・暗殺などの実験を行っていたようであり、事件後にチャップマンを精神鑑定を行った医師、ジョリー・ウエストは、その「MK・ウルトラ計画」 に従事していたのではないかとの疑惑がある。 ウエストは、ロバート・ケネディー暗殺の犯人サーハン・サーハンや、J.Fケネディ殺害犯のオズワルドを殺したジャック・ルピーの精神鑑定もしているというのだから、疑惑はさらに深まる。
最後に新事実が提示される。チャップマンが使ったのは5連発のリボルバーだったはずだが、銃弾は7発あったというのだ。 しかも、銃痕はチャップマンが撃った方向からのものではなかった。 ジョン・レノンを撃った人物として、レノン夫妻が住んでいた 「ダコタハウス」 の門番が疑われる。そしてこの 門番のホセ・ベルドーモもまた、CIAと関係が深い人物だというのである。
この番組の主張に直接的な証拠はもちろんない。主張に都合のよい証言や状況証拠だけを集めて立論してしまうということは学問の世界ですらよくあることなので、それだけをもってこの番組の結論を是とすることはもちろんできないが、少なくとも、事件当時にはジョン・レノンの熱狂的ファンといわれたチャップマンが実はそうではなかったのだということは本当らしく、その意味では検討に値する問題なのだろう。これまで多くの反権力的あるいは非WASP的な要人が暗殺されているアメリカだけに、こうした推論は後を絶たないだろう。私自身は、ありうることだ、と思っている。
* * *
関連記事→「ジョン・レノンのイマジン」、「ジョン・レノン死亡記事とコメント」
ipod shuffle を買ってみた。何だかんだいって、もう半年以上も続いているジムでのトレーニングの時、音楽を聴くためだ。マシーンで30分も40分も走るのはやはり退屈なのだ。ジムで使うだけだから、最も安い、最低のもので十分だと思い、この4,800円也の「ipod shuffle」なるものを買ったわけだ。
特に音がいいわけではない。そんなことははじめから期待していないので、不満はない。むしろこの小ささがいい。クリップがついていてどこにでも付けることができ便利である。しかし、それにしてもである。考えようによっては、凄い製品である。思い切った製品だといった方がいいかもしれない。日本人にはできない発想ではないか。思い切った発想だ。事実、ソニーのウォークマンにはこの手の製品はないようだ。
どこが凄いのか。最低の、本当に最小限の機能しかついていないのである。基本機能は、再生・一時停止・音量・一曲飛ばしのみである。再生も、「録音順再生」と「シャッフル再生」のみである。特定の曲を選んで再生することも、特定のアルバムを探し出して再生することもできない。まさに、"shuffle"である。本音をいえば、いくらジムでのトレーニング用といっても、できればアルバム検索機能ぐらいは欲しかった。ただ、私の場合は、用途が限定されているので、4,800円という価格を考えて納得することにしている。どこかのwebに書いてあったが、これから買おうとする人は、オーディオ機器とは考えず、パソコンの周辺機器と考えた方がいいかもしれない。すなわち、パソコンに音楽を音楽をためておき、外出の際、ちょっと持ちだすといった感覚での使い方である。パソコンに音楽をためておくなど(確かに便利そうではあるが)、考えもしない保守的な私には、ジムでのトレーニングがなければ、本来無縁の製品だったようだ。
今日も夕方から時間が空く。ipod shuffleをつけてトレーニングにいこうか。
暇だったわけではないのですが、何となくやってみようかと思い立ち、「今日の一枚」のカテゴリーをアーティストのアルファベット順にしてみました。
しかし、こんなことに1時間半も費やすなど、やはり私は暇なのでしょうか。
[凡例] John coltrane → J
穐吉敏子→ A
オムニバス盤など → various artists
出張のついでに、宮城・石巻にあるジャズジャズダイニングバー「クルーザー」にいってきた。この店は2度目なのだが、ずいぶん前のことだったので、どこにあるのか薄ぼんやりの状態った。けれども人間の記憶というかフィーリングというものもそこそこ信頼できることもあるようで、なんとなく、この辺だったと思う辺りを歩いてみると、すぐに発見。それほど寒いおもいをせずにすんだ。
夕食を終えていたので、サラダを注文し(てんこ盛りだった)、日本酒を3杯飲んだ。スピーカーは天井に埋め込まれもので、残念ながらいい音ではなかったが、船の中をイメージした店の雰囲気はなかなかよく、十分に気分の良い時間を過ごすことができた。店にあったジャズ関係の書籍を読みながら、レコード(CD?)を3枚聴いてきた。
7~8年前のことだが、みやにしたつやさんという方の『おとうさんはウルトラマン』という絵本に出会い、毎日のようにページをめくったことがあった。お父さんとしてのウルトラマンを題材に、お父さんの子どもへの想いをテーマにしたものだが、当時まだ息子たちが小さかった私は、あまりの感動で涙なくしては読めなかった。特別のことではない、普通のおとうさんの普通の親としての想いをただ綴っただけの本だが、万人に共通する想いであるだけに、多くの人の共感を得たのであろう。 実際、この絵本はかなりヒットした作品だったようで、その後、『おとうさんはウルトラセブン』『帰ってきたおとうさんはウルトラマン』『おとうさんはウルトラマン/おとうさんの休日』などのシリーズ本が次々と発表された。私は、それらを次々に買い求め、やはりページをめくるたびに涙、涙であった。
いつしか、私の息子たちも成長し、憎たらしい一面を身につけるにつれ、次第にその絵本をひらくことも少なくなっていった。先日、本棚の整理をしていてその絵本を見つけページをめくってみたが、やはりいい本だと思った。
著者のみやにしたつやさんは、『おとうさんはウルトラマン』の序に次のような言葉を記している。たいへんシンプルであるが、長らく忘れていたものを思い出させるような文章である。
ぼくが小さかったころ、
人は、目に見えるものにとらわれ始め、
それを追いかけるようになっていた。
お金や物や地位や学歴……
人は、無くなっていくものを、
朽ちるものを必死で求めた。
しかし、ウルトラマンはちがった。
ウルトラマンは、目に見えないけれど
確かなものをいつも追いかけていた。
勇気と希望を、優しさや思いやりを、
そして愛を……。
ウルトラマンは決して色あせない、
朽ちることのないものをぼくに見せてくれた。
そしていま、ぼくはお父さんになった。