若い頃、立原正秋という作家にはまったことがあった。もう二十数年も前の話だ。文学表現的に、あるいはテーマ的にはどうということはない作家だと思うが、そのあまりにもできすぎたストーリーテーリングにはまったのだ。当時文庫本で入手し得る作品は、すべて読んだという感じだ。
立原にはあまた秀作はあるが、ストーリーテーリングという点ではこの『恋人たち』とその続編にあたる『はましぎ』がなかなかいい。主人公の道太郎の一見無軌道だが軸のある生き方もさることながら、その妻となる信子の静かでひかえめだが芯の強いキャラクターが何とも好ましく思えた。大和撫子とはこのような女性をいうのであろうか。
ところで、この『恋人たち』はテレビドラマとして放映され(それは上の文庫本表紙の写真からもわかる)、私もなんとなく見た記憶があるのだが、はっきりとは憶えていない。ただ、一つだけ頭に焼きついているシーンがある。信子が初めて道太郎のアパートを訪ねるさい、前を歩く道太郎を見かける場面である。このあと、道太郎は信子のためにコーヒーをいれ、信子から「告白」されるわけであるが、その温かなコーヒーの香り立つような描写が忘れられないのである。
このシーンは小説でも重要な場面であり、テレビドラマとしてはなかなかよくできたものだったような気がする。とはいっても、このテレビドラマについては、前述のようにほとんど記憶になく、今一度みてみたいという想いがつのるばかりである。
近年、CS放送の普及で過去のドラマを見られるようになったことはありがたいことではある。どこかのチャンネルで『恋人たち』の再放送はないものだろうかと思うのであるが、かかる思い出は胸の奥にしまっておいたほうがやはり幸せだろうか。
なお、立原にはこの『恋人たち』と『はましぎ』を下敷きに書き直した『海岸道路』という作品があるが、プロット、登場人物、舞台設定がほとんど同じで、それらを水でうすめたような作品だ。解説によれは、川端康成はこの作品について「小遣い稼ぎに書いたような作品は全集に入れるべきではない」という旨の発言をしたらしいが、確かに深みのないストーリーの骨組みだけのような作品であり、ちょっと失望である。