WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

立原正秋箴言集(11)

2013年11月11日 | 立原正秋箴言集

ものがいっぱいあり、それを思うままに使いはたしてしまう敏江の内面が、彼にはこわかった。ものがなくなったらどうするのか・・・・・。いや、ものはなくならなくとも、それを使う精神が疲れてきたらどうするか・・・・・。(『春のいそぎ』)

 思うところがあり、数十年ぶりに『春のいそぎ』を読み返しています。上の文章にハッとさせられました。数十年間、ずっと頭の隅にあった言葉です。宮本憲一『昭和の歴史⑩経済大国』(小学館)は、経済大国の光と影が投影された文学として、司馬遼太郎とともに立原正秋を取り上げています。すなわち、「司馬文学は、日本文化のもつ進歩への希求をえがくことによって、経済成長のもつ英雄的な躍動感と共鳴する。他方、立原文学は日本文化のもつ滅びへの共感をえがくことによって、経済大国の影の部分と共鳴しているのである。」上記の文章などはよくそれを表しているのではないでしょうか。


立原正秋箴言集(9)

2013年10月30日 | 立原正秋箴言集

午後の静かなひととき、陽のさす部屋で編物をしていると、波の音がきこえてくる日があった。風のない日であった。痴呆になったような幸福感を味わうこともあった。(『はましぎ』)

道太郎と結婚した信子の思いです。何という静寂感と安らぎの感覚なのでしょう。すごい表現だと思います。この部分を何度も読み返して感じ入ったものです。


立原正秋箴言集(7)

2011年05月04日 | 立原正秋箴言集

 どこの家の庭でも花が開いていた。だが、なんと暗い春だろう、と彼は全身に痛みを感じながら歩いた。(『暗い春』)

 『暗い春』の最後の文章です。大津波に襲われた私の街でも桜の花が咲いています。私の家の庭にも花桃や花海棠が咲き始めています。息子を失った職場の仲間が、どんな思いで咲く花をみるのだろう、と思うと胸が締めつけられます。

Pic_0163_2 Pic_0164 


立原正秋箴言集(6)

2010年11月04日 | 立原正秋箴言集

六は、聖堂の中で、欲望や時流に支配され、まわりの者に阿諛し、自分の誠実さを保持しなかった者は、社会にでても使いものにならない人間だった、と語った。節操は第一義的なモラルであり、私的契機をどこまでも守って全体者の意志を自分の中で具現した者だけが立派だった、とつけ加えた。(『はましぎ』)

六とは主人公の生き別れの弟、六太郎のこと。「聖堂」とは、刑務所のことです。なかなかに含蓄のあることばです。


立原正秋箴言集(5)

2010年08月19日 | 立原正秋箴言集

この世の現象に恒常性がなく、すべてが空であるにしても、私はあの小さな存在を守ってやらねばならなかった。(『冬のかたみに』)

自伝的作品『冬のかたみに』の最後の方の、「百メートルほど前に、日傘をさして乳母車をおして歩いている妻の後姿があった。それは小さな存在だった。」という文に続いてでてくる言葉です。誠実な人間の強さと優しさを感じ、共感できます。


立原正秋箴言集(4)

2010年08月17日 | 立原正秋箴言集

人間というのは不思議なもので、自分達のやっていることが、ひとつの力となって高められてくると、前後が見えなくなり、わけもなくその坩堝のなかに入りこんでしまうものです。そんなときに、これは危ない、と感じる人はごくまれです。それがわかる人は、やがて、人間のまいにちのごく平凡な生活に目を戻し、あの坩堝は危なかった、と歩いてきた道を振り返るものです。(『きぬた』)

 『きぬた』の終りの方にでてくる言葉です。ほとんど人生訓ですが、それでもなかなかに含蓄のある言葉であり、私などはときどき思い出します。


立原正秋箴言集(2)

2006年09月27日 | 立原正秋箴言集

組織と制度に真っ向からぶつかっていくほど愚劣なことはなかった。それは悲惨のリアリズムに終わるだけであった。人間の情念をあんな風に粗末にあつかってはいけない……。(『はましぎ』)

組織と制度は愚劣だったが、人間の情念が生み出した掟は美しかった。(『はましぎ』)

多くの人が社会秩序に縋って生きていると同じく、あの女衒は自分の苛酷な正義に縋って生きていけるだろう、……(『恋人たち』)

 何というか、アウトローのあり方、反権力ではなく、非権力的な生き方のしなやかさを教えてくれる言葉です。

                                         


立原正秋箴言集(1)

2006年09月25日 | 立原正秋箴言集

 先日、このブログで立原正秋の『恋人たち』及び『はましぎ』を話題にしたが、立原の作品にはところどころに意味ありげな箴言がちりばめられている。一時期熱心な読者だった私は、少なからず影響を受けたものだ。今となっては、その多くを忘れてしまったが、かつて熟読した文庫本をひっくり返し、いくつか紹介してみたい。

キリスト教では、希望のつぎには、つまり希望が達成された後は、愛が一切となる、ということになっているらしいが、冗談じゃない、それでは人間は窒息してしまう。(『はましぎ』角川文庫)

 この言葉は、F・ニーチェの『道徳の系譜』『善悪の彼岸』とならんで、私がキリスト教に関心をもちつつも、それを相対化できる根拠のひとつとなっている。簡明な言葉だが、意味は多岐にわたって解釈することが可能であり、その意味で「深い」。


立原正秋の『恋人たち』

2006年09月23日 | 立原正秋箴言集

Scan10017 Scan10018

 若い頃、立原正秋という作家にはまったことがあった。もう二十数年も前の話だ。文学表現的に、あるいはテーマ的にはどうということはない作家だと思うが、そのあまりにもできすぎたストーリーテーリングにはまったのだ。当時文庫本で入手し得る作品は、すべて読んだという感じだ。

 立原にはあまた秀作はあるが、ストーリーテーリングという点ではこの『恋人たち』とその続編にあたる『はましぎ』がなかなかいい。主人公の道太郎の一見無軌道だが軸のある生き方もさることながら、その妻となる信子の静かでひかえめだが芯の強いキャラクターが何とも好ましく思えた。大和撫子とはこのような女性をいうのであろうか。

 ところで、この『恋人たち』はテレビドラマとして放映され(それは上の文庫本表紙の写真からもわかる)、私もなんとなく見た記憶があるのだが、はっきりとは憶えていない。ただ、一つだけ頭に焼きついているシーンがある。信子が初めて道太郎のアパートを訪ねるさい、前を歩く道太郎を見かける場面である。このあと、道太郎は信子のためにコーヒーをいれ、信子から「告白」されるわけであるが、その温かなコーヒーの香り立つような描写が忘れられないのである。

 このシーンは小説でも重要な場面であり、テレビドラマとしてはなかなかよくできたものだったような気がする。とはいっても、このテレビドラマについては、前述のようにほとんど記憶になく、今一度みてみたいという想いがつのるばかりである。

 近年、CS放送の普及で過去のドラマを見られるようになったことはありがたいことではある。どこかのチャンネルで『恋人たち』の再放送はないものだろうかと思うのであるが、かかる思い出は胸の奥にしまっておいたほうがやはり幸せだろうか。

1 2_8 

 なお、立原にはこの『恋人たち』と『はましぎ』を下敷きに書き直した『海岸道路』という作品があるが、プロット、登場人物、舞台設定がほとんど同じで、それらを水でうすめたような作品だ。解説によれは、川端康成はこの作品について「小遣い稼ぎに書いたような作品は全集に入れるべきではない」という旨の発言をしたらしいが、確かに深みのないストーリーの骨組みだけのような作品であり、ちょっと失望である。