WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

光の中で

2021年02月28日 | 今日の一枚(Q-R)
◎今日の一枚 473◎
Roxy Music
Avalon

 2週間ぶりに堤防ウォーキングをした。コースはこの前と同じ、三陸復興国立公園の岩井崎~お伊勢浜海水浴場~大谷海水浴場の手前まで、この往復だ。いい天気だった。風もそんなに強くはない。気持ちのいい午後だ。陽光が海に反射してきらきらと輝き、光の中を歩いているようだった。
 帰りは堤防を降りて、海のすぐそばの砂利浜や砂浜を歩いてみた。このエリアは、大津波でめちゃめちゃになった場所だ。震災後の数年間は海辺というより工事現場といった様相だった。以前より狭い気はするが、それでも何とか砂浜は復活した。本当は昨年の夏に海開きをするはずだったが、コロナ禍で中止となってしまった。今年はどうなるのだろう。
 東京で働く長男から贈られた靴で、手つかずの砂浜に足跡を付けた。

 今日の一枚は、ロキシー・ミュージックが1982年に発表したラストアルバム、『アヴァロン』である。歩きながら聴いたうちの一枚である。リュックサックのネットポケットに入れたAnkerのBluetoothスピーカーにiPhoneをつないで、Apple Musicで聴いた。
 この浮遊感覚がたまらなくいい。今聴いても本当に新鮮なサウンドである。まったく意外なことだったが、クールで人工的で都会的なデカダンスを感じるロキシーの音楽が、陽光に満ちた海辺を歩くのに本当にマッチしていた。気が付くと、ビートに合わせて、大きな歩幅で光の中を歩いていた。

出雲と大和

2021年02月27日 | 今日の一枚(Y-Z)
◎今日の一枚 472◎
Yaron Herman
Piano Solo Variations
 日本史を学ぶ学徒だった頃、専門書の「あとがき」を読むのが好きだった。今はどうなのか知らないが、当時はみな修行時代や恩師とのエピソードなどを書いたものだ。そんな「あとがき」の中で私が白眉だと思うのは、村井康彦さんの『古代国家解体過程の研究』(岩波書店:1965)である。研究への焦りと重圧から逃れるためにカメラに興味をもち、ついにはカメラを作ってしまったという話だったと記憶している。そのカメラには「テレカ」と命名したが、理由はテレくさいからテレカだと記されていたと思う。
 その村井さんの『出雲と大和』(岩波新書:2013)を少し前に読んだ。衝撃的な結論だった。邪馬台国は大和にあったと畿内説を唱える一方、邪馬台国とヤマト政権に連続性はなく、ヤマト政権が権力を奪ったと主張した。しかも、邪馬台国は出雲勢力が中心となってが作った権力体(邪馬台国連合)であったといから驚きである。しかし、村井さんの説は古代史学界ではほとんど無視されているという。それは、村井さんがもともと平安時代史の専門であり、当該の時代については素人だということもあるが、考古学の成果の援用はいいとして、記紀神話の深読み、地名、神社の祭神や由緒をもとに論じられていることが原因かと考えられる。文献史学の側からキワモノ的に見られているのだと思う。
 けれども、もともと厳密な史料批判と緻密な史料分析に定評のある村井さんが、あえてこの分野に手を出し、批判を覚悟でチャレンジした勇気を、私は称賛したい。いや、それだけでなく、その構想は十分に検討に値するものだし、一定の説得力があるものだと考えている。私は古代史の専門ではないが、なぜ日本書紀に邪馬台国が登場しないのか。なぜ記紀神話では出雲のことに多くの紙数を割き重視しているのか。また、大和の神社の祭神に出雲系の神々が多いのはなぜか。とくに最重要である三輪山に祀られた神が出雲系であるのはなぜかなど、以前から気になっていた疑問を説明してくれる構想なのである。中世史の保立道久さんもwebページの中で村井さんの構想の重要性に言及している。
 この問題が今後研究が深化し、どのように展開していくのか楽しみである。すこしでも長生きしたいものだ。

 今日の一枚は、イスラエルのピアニスト、ヤロン・ヘルマンの2009年作品『ヴァリエーションズ』である。ピアノソロ作品だ。この作品を取り上げるのは初めてかと思っていたら、以前にも取り上げていたようだ(→こちら)。決して寡黙なピアニストではない。音数も少なくはない。けれども、静謐さを感じる。硬質で音の輪郭が明快なタッチだ。こういうタッチで美しい旋律を奏でられるともうだめだ。心が武装解除されてしまう。あまあまの"きれい系ピアニスト"ではないので、ご安心を。

邪馬台国について

2021年02月27日 | 今日の一枚(S-T)
◎今日の一枚 471◎
富樫雅彦
Spiritual Nature
 邪馬台国に興味をもったのは,1999年の歴史教育者協議会奈良大会で、当時橿原考古学研究所にいた寺沢薫さんの、纏向遺跡についての話を聞いてからだった。纏向遺跡についての当時の最新の研究成果を知り、おそらく邪馬台国九州説はもう成り立たなくなるだろうという感想をもったものだ。その後の考古学研究の進展と文献史学の深化により、学界の大勢はもはや完全に畿内説となったようだ。それは、例えば吉村武彦『ヤマト政権』(岩波新書:2010)の次のような記述からもわかる。
日本列島が倭国として統合されたプロセスとしては、1世紀末の段階では九州が進んでいたが、2世紀後半になると近畿地方が優位に立った。こうしたなかで、卑弥呼が存在した3世紀初頭には邪馬台国が倭国の盟主となっていったのである。
 古墳などの墳墓や副葬品などの遺物の、緻密な分析と編年研究が進展したことが大きかったようだ。
 同書は、位置論争のポイントの一つだった『「魏志」倭人伝』の邪馬台国への道程の記述についても、15世紀に朝鮮で作られた次の地図(中国元代の地図をもとにしているものらしい)を提示する。
 すなわち、古代・中世の大陸の人々は、日本列島は南にのびていると認識していたのではないかということである。『「魏志」倭人伝』の記述に従えば、邪馬台国は九州の遥か南方の海の上ということになる。簡単に言えば九州説は方角を重視したものであり、畿内説は距離を重視したものだ。しかし、これは近代科学主義的な地図を念頭に置いたものである。この地図のような地理認識を念頭に置けば、話は全く変わってくる。「魏志」の記述と畿内説は矛盾しないことになる。当時の人々の生活世界の視点から論を進めるやり方は、非常に納得のいくものだ。
 もはや、邪馬台国畿内説はほとんど通説であり、問題意識は邪馬台国とヤマト政権がつながっているのか、いないのか、あるいは卑弥呼の墓との伝承のある箸墓古墳を邪馬台国に引き付けて理解するのか、ヤマト政権に引き付けて理解するのかにシフトチェンジしているようである。
 かつて学生時代に、邪馬台国論争は正統な学問が手を出すところではないといわれていたことを考えれば、隔世の感である。

 今日の一枚は、富樫雅彦の「スピリチュアル・ネイチャー」である。1975年の東京新宿厚生年金小ホールでのライブ録音(④のみスタジオ録音)である。帯の宣伝文句には「聴衆を釘付けにした伝説的コンサート」とある。パーソネルは、富樫雅彦(per, celesta)、渡辺貞夫(fl, ss, as)、鈴木重男(fl, as)、中川昌三(fl)、佐藤充彦(p, marimba, glocken-spiel)、翠川敬基(b, cello)、池田芳夫(b)、中山正治(per)、豊住芳三郎(per)、田中昇(per)、である。
 日本のフリージャズである。フリージャズだが、私には非常に叙情的に感じられる。演奏を聴いていると、何か映像が目の前に浮かんでくるようだ。それは例えば、卑弥呼も見ていたかもしれない、弥生時代の穏やかな日常の風景だ。そういう、ある種の「古代」を感じる。演奏者は何をイメージしていたのだろうか。

板垣退助来たる!

2021年02月23日 | 今日の一枚(G-H)
◎今日の一枚 470◎
Gary Burton
Like Minds
 『市史』の資料編を読むのがマイブームである。学究的に詳細に読み込むわけではない。手元に置いて、暇なときにパラパラめくって眺めるのである。手軽に読める、近代の新聞記事がお勧めである。近代史の専攻ではなかったが、学生時代に近代史の演習で明治期の新聞記事を読んだ経験もあり、抵抗感はあまりまい。パラパラめくって、不明な言葉を調べる程度だ。もともと高校日本史教師なので、時代背景は大体わかる。もちろん、日本史年表や日本史辞典で調べることもある。
 先日、板垣退助が私の住む街を来訪したという記事に出会った(『東北新聞』)。明治29(1896)年のことである。同年発生した明治三陸地震津波による被害の視察に来たようだ。1896年といえば、第二次伊藤博文内閣の時代である。この内閣は日清戦争を遂行し勝利したが、戦後の三国干渉でいったん獲得した遼東半島を返還することになってしまった。その悔しさから、日本全体が「臥薪嘗胆」を合言葉にロシアへの敵愾心を強めていた時期である。伊藤博文は、軍費増強の予算案を通すために政党勢力に接近し、政党勢力もまた世論の支持を得るために軍備増強に反対しずらくなった。こうして日清戦争後、伊藤は自由党の板垣退助を内務大臣に迎えたのである。だから、『市史』にも板垣「内相」とある。
 板垣内相がこの町に着いたのは7月1日、翌2日の午前6時から各所を一通り巡視したようだ。「板垣内相には老体の事とて非常に疲労」とあるように、板垣はとても疲れていたようだ。鉄道も道路網も整備されていない時代に、三陸地方を訪れるのは大変なことだったのかもしれない。板垣は1837年生まれだから、当時59歳ということになる。当時の59歳は、結構「老体」なのだろう。
 新聞記事には、「各所を巡視されしが、一通りの視察に止まりて親しく見舞はるることはなかりき」とあり、形式的な、型通りの視察をしただけだったようだ。「唐桑村」からこっちも巡察してくれという要望があったが、帰京を急ぐとの理由で断られたことも記されている。実際、板垣は疲れていたのだと思うが、新聞記事からはもっとしっかり見舞って支援を考えてほしいという地元側の批判的なニュアンスも感じられる。板垣はその日のうちに、志津川(現南三陸町)に去りそこで一泊したが、声も出さず物音もたてずに、疲れてぐったりと横になっていたようだと新聞記事は伝えている。
 
 今日の一枚は、ゲイリー・バートンの1997年録音盤『ライク・マインズ』である。チック・コリア(p)、パット・メセニー(g)、ロイ・ヘインズ(ds)、デイブ・ホランド(b) と当時のジャズシーンのトップスター達の共演である。チック・コリアの訃報に接して(→こちら)、チックのLPやCDの整理をし、しばらくぶりに手に取った。非常に耳触りの良い、お洒落な演奏である。ヴィブラホーンの響きが心地よい。明治の新聞記事を読みながら聴くのにうってつけだ。しかし、美しいフレーズや演奏の緊密さに、時折はっとして顔を上げ、耳を傾けてしまう。パット・メセニーの名曲① Question and Answer は聴きものである。

そうか、チック・コリアが亡くなったのか

2021年02月23日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 469◎
Chick Corea
Now He Sings , Now He Sobs
 ちょっと前の新聞記事で、チック・コリアの訃報に接した。79歳。癌で闘病中だったとのことだ。驚いたし、少なからずショックだ。若い頃、そう、1980年代の学生時代、熱狂的に聴いたものだ。
"Return To Forever"、
"Crystal Silence"、
"In Concert"、
"Akoustic Band"、
"Like Minds"、
"Now He Sings , Now He Sobs"、
"Elektric Band"、
"Duet"、
"Three Quartets"、
"A.R.C"、
"Children's Songs"、
"Touchstone"、
棚やラックを見ると、結構な数のLPやCDがある。他にも、貸しレコード屋で借りて聴いたものもたくさんあったはずだ。ところが、いつの頃からか、チック・コリアを聴かなくなってしまった。嫌いになったわけではない。気付いたらそうなってしまっていたのだ。
 しばらくぶりに、チックを聴いてみると、そこには生き生きとした演奏があった。本当に新鮮な音だった。何故、チックの歩んだ音楽の旅をフォローし続けなかったのだろうか。今となっては悔やまれるばかりだ。けれども、それもまた人生というものだろう。
 今日の一枚は、1968年録音の『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス』である。チック・コリアのデビュー作かと思っていたら,2枚目のリーダー作のようだ。攻撃的なピアノである。攻撃的だが、流麗で美しい旋律だ。今聴いてもすごく新鮮である。同時代に聴いた人は、おそらく衝撃を受けたことだろう。ジャズが変わろうとしていた時代、フリージャズを消化した上で構築された新しいスタイルのジャズだ。① Steps-What Was はすごい演奏である。攻撃的に、挑戦的に、ものすごい速さで奏でられるピアノなのに、その旋律は本当に美しい。
 2021年2月9日、チック・コリアが亡くなった。

明治時代にテキトーに作られた「歴史」

2021年02月11日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 468◎
Art Pepper
Modern Art
 「建国記念の日」である。戦前の「紀元節」である。紀元とは年数を数える元となった始点である。始点とは、もちろん初代とされる神武天皇の即位年である。今年はそれから2681年、すなわち皇紀2681年なのだそうだ。もちろん、神武天皇が記紀神話上の架空の人物であることは多くの人が知っている。「建国記念"の"日」の"の"がそうした批判への苦肉の対応であることも知られている。それにしても、なぜ2681年前なのか。別に記紀神話に書かれているわけではない。とてもテキトーな理由なのだ。
 60年周期の十干十二支というものがある。十干と十二支を組み合わせたものだ。60歳を「還暦」と呼ぶのは、もちろんこれに由来している。「還暦」とは《暦が還る》ことをいうのだ。その58番目の組み合わせである「辛酉(かのととり)」は革命の年とされている。中国由来の考え方である。60年に一度の辛酉の年にはなにかしら革命がおこる。さらに、21回目の辛酉の年、すなわち60年×21回で、1260年に一回のペースで大革命の年があるとされる。その説に基づいて、明治の初めの歴史学者たちは、前回の大革命があった辛酉の年を聖徳太子の時代とした。明治には、聖徳太子は国の形を整えたとても偉い人とされていたのである(現在では聖徳太子の名の存在も否定され、高校教科書でも厩戸王と記載されている)。それでは聖徳太子の時代の21回前の辛酉の年はいつか。国の形を整えた聖徳太子に匹敵するとなれば、初代天皇である神武天皇の即位しかあるまいということで、紀元前660年1月1日を紀元節としたのだそうだ。史料的裏付けは全くない。この太陰暦の1月1日を、太陽暦に直すと2月11日になる。「紀元節」が制定されたのは明治6(1873)年である。その後、アジア太平洋戦争の敗北後、GHQの意向もあって「紀元節」は廃止されたが、日本の国力が回復するにしたがって保守層を中心に紀元節復活が主張されるようになり、1966年の佐藤栄作政権のもとで「建国記念の日」が制定されたのである。

 さて、今日の一枚はアート・ペッパーの『モダン・アート』である。1956~57録音の、全盛期のペッパーのプレイだ。不思議なことに、この有名盤をこのブログで今まで取り上げたことがなかった。哀愁の、孤独を感じさせるペッパーのアルトにどっぷりと浸ることができる。手元にある『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社+α文庫)の見出しに、
やや大袈裟にいえば、全盛期のペッパーには死の臭いがあった・・・
とあるのも首肯できる。メインの再生装置で大音響で聴くのもいいが、家族が寝静まった後、机上のブックシェル型スピーカーで音量をしぼって聴くのもまたいい。ペッパーのアルトが、すっと前に出てきて、まるで自分に対して話しかけてくれているような錯覚を覚える。最初と最後に配されたブルースは筆舌に尽くしがたい。

しばらくぶりに堤防ウォーク

2021年02月07日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 467◎
Bill Evans & Jim Hall
Undercurrent
 本当にしばらくぶりに堤防ウォーキングをやってみた。新しいコースだ。私の住む街の三陸復興国立公園岩井崎から御伊勢浜海水浴場を経て、大谷海水浴場の手前までのコースだ。往復で6kmちょっとだ。残念ながら風が強く、コンディションがいいとはいえなかったが、堤防から見る外洋の眺望は、筆舌に尽くしがたいものだった。それは、これまでの歩いていたコースから見る内海とは全くちがった趣だった。リュックサックのネットポケットに入れたAnkerのBluetoothスピーカーにiPhoneをつないで、音楽を聴きながら歩いたが、途中でiPhoneのバッテリー切れで音楽は消え去ってしまった。残念だ。

 今日の一枚は、ビル・エヴァンスとジム・ホールのデュオ作品、1962年録音の『アンダーカレント』である。ウォーキングしながら聴いた一枚だ。バッテリーの切れのため途中で途絶えてしまったので、その後入浴しながら風呂場で聴いた。以前記したように(→こちら)、私の所有するCDは深い青色のもので、タイトルが記されているものだ。通常は黒い色でタイトルが記されているものといないものとあるようだ。オリジナル盤がどうなのかはわからない。私のものは、色が褪せているわけではむなく、もともとそのようなものらしい。いつか巷に出回っている黒いものを買おうと思ってはいるが、音に問題はなく、まだ購入するに至っていない。
 名演といわれる「マイ・ファニー・バレンタイン」は確かにすごい演奏なのだろう。けれども、私の耳には感動的な印象としては残っていない。私が聴くのは、「ローメイン」である。ビル・エヴァンスとジム・ホールの呼吸が手に取るようにわかり、しかも美しく感動的である。ピアノからギターのストローク演奏に変化するところは何度聴いてもぞくぞくする感じを禁止得ない。
 新しい堤防ウォーキングコースは、これから何度も歩くことになりそうだ。来週の土日もコンディションがよければ、歩きたいと思っている。