WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

サーフ・ライド

2007年08月31日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 198●

Art Pepper

Surf Ride

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 ずっと若い頃、サーフィンのまねごとをやっていたことがあった。それほどうまいわけではなかったが、当時流行しつつあったボディ・ボード(当時はまだブギ・ボードといっていたが……)も覚え、週末にはよく海に出かけたものだ。心の中のBGMは、もちろんビーチ・ボーイズだ。波乗りの面白いところは、とにかく気分がいいというところだ。波に乗る(というより波を滑る)快感もさることながら、太陽の下で波を待ちながら海を眺めるのもなかなかにたのしい時間だった。ボディ・ボードでテイク・オフして波を滑り降りるその瞬間、波の腹はほんの一瞬、鏡のようになめらかになり透きとおる。その一瞬を見るのがたまらなく好きだった。そして、波が崩れ、海に飲み込まれる時、髪の毛の一本一本の間を海水が通りすぎていく快感……。そのうち仕事で時間が取れなくなり、またポッコリとおなかが突き出たウェットスーツの自分のシルエットが苦痛で、波乗りに行くことも少なくなってしまったが、私にとってはかけがいのない日々だった。

 サーフィンということで、今日の一枚はアート・ペッハーの1952,54の録音作『サーフ・ライド』である。ジャズ的ではないとジャズファンからは不評なジャケットであるが、私は好きである。1950年代のポップなアメリカの風俗・文化がよく反映されていると思う。内容も、いつも哀愁で勝負するペッパーにしては、とても明るくポップな雰囲気が漂っている。まあ、こういうペッパーがあってもいいんじゃないだろうか。全編が《 波に乗る 》ということで満たされている。つまりノリのよさで勝負というところだ。「いーぐる」のマスター後藤雅洋氏も「ペッパーの入門編としては、正統的なこのアルバムから入ってほしい」として推薦している。ただ、私はジャズとして正統的ではあっても、ペッパーの作品として正統的だとは思わない。ペッパーはやはり、流れるようなアドリブに加え、どこか愁いのある哀愁の旋律こそが魅力だと思うのだ。けれど、気持ちがいいという一点において、この作品を推薦することに異論を挟むものではない。その意味で、この作品のジャケットは、誤りではない。


この素晴らしき世界

2007年08月30日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 197●

Louis Armstrong

Satchmo - What A Wonderful World

Watercolors0012_3  サッチモことルイ・アームストロングのベスト盤『サッチモ・ベスト/この素晴らしき世界』である。といっても、単なるベストではなく、かなり録音の悪いライブ演奏が数曲混じっている。タイトル名でもある「この素晴らしき世界」もどこかのラジオの実況録音である。録音は悪いが、なかなか趣があっていい。雑多な録音の寄せ集めのようなアルバムだが、私は結構気に入っている。

 サッチモを一時代前の音楽家だとして、博物館に陳列するようなことがあってはならない。確かに彼は黄金の1920年代から活躍し、ジャズ史上に不朽の足跡をのこした音楽家であり、そういう意味では博物館に展示される資格は十分にあるだろう。けれども、1971年になくなったサッチモは、今なお現役である。彼の音楽ほど人を勇気づけ、あるいは励まし、楽しい気分にする音楽があるだろうか。彼の音楽を聴くといつも、心がウキウキし、人生は素晴らしい、世界は素晴らしいと思いたくなる。私は、心が風邪をひいた時、ときどきサッチモを聴く。サッチモはいつでも私を勇気づけ、元気を与えてくれる。「この素晴らしき世界」と大きな声で叫びたくなるほどだ。

 このアルバムでは、①「この素晴らしき世界」と⑦「明るい通りで」が特に好きだ。いずれもどこかのライブで録音はかなり悪いが、曲の芯の部分がしっかりと伝わってくる。疲れた心を癒し、人生はすてたもんじゃない、もっと素敵なことがあるに違いないと思わせてくれる。月並みな言い方だが、それは明日への活力といってもいいかもしれない。サッチモは素晴らしい。ここういタイプの音楽家はそうはいない。不遜な言い方だが、その意味でサッチモは今でも「使える音楽家」なのだ。


フォー・クール・ワンズ

2007年08月30日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 196●

Carmen Mcrae

Carmen For Cool Ones

Watercolors0011_3 私の住む街でも、少しずつ秋の気配を感じるようになってきた。私の街の港は「東洋有数の漁港」ということになっているので、もともと海産物には事欠かないのだが、秋はとりあえず、さんまと戻りガツオということになる。子どもの頃からの習性だろうか、この季節になるとパブロフの犬のようにさんまやカツオが食べたくなってしまうのである。というわけで、私の家の食卓には近頃、さんまとカツオが交互に登場する有様である。山育ちの妻は、はっきり言って辟易しているが、仕事帰りに私が買ってしまうのだ。

 カツオとは客観的な関係はないが、今日の一枚はカーメン・マクレエの1958年録音作品『カーメン・フォー・クール・ワンズ』である。ジャケット写真のカーメンがカツオを連想させる。たいへん主観的な感想で恐縮だが、私はかねてより、カーメンの顔を見るとカツオを思いおこしてしまう。カツオを売っている魚屋の女将さんをイメージしてしまうのだ。この作品は、カーメンのデッカにおける第7作目で、初めてのウェストコースト録音だ。室内楽風のエレガンスな演奏をバックに、カーメンがクールに歌いまくるという趣向だ。当時カーメンは35歳、まさに彼女独自の世界が形成されようという時期である。

 カーメンが好きである。といっても、カーメンに開眼したのは比較的最近で、アルバムを収集しはじめたのもここ10年ぐらいである。以前は、ご多分にもれず、エラやサラのボーカルを、すごいすごいといいながら聴いていたものだ。カーメンの歌は何というか、身体にすっと入ってくるのだ。そして繰り返し聴くと、スルメのようにますます味わいがでてくる。サラやエラのように、仰天するようなすごさを感じる訳ではないが、最も身体にフィットする気がする。チャーリー・パーカーを基準にすべてのジャズを評価するというあの後藤雅洋氏も、カーメンを「僕の一番好きなジャズボーカリスト」といっており、何だかほほえましい気になる。恐らくカーメンは多くの人にとって「好きな」ボーカリストなのかもしれない。

 ⑫ I Remember Clifford がやはりすばらしい。私の所有するCDのジャケット帯には、「アイ・リメンバー・クリフォードのヴォーカル・ヴァージョンの決定版がここに!!」と大げさな表現で記されているが、それもまんざら出鱈目ではないと思わせるような歌唱である。ヴィブラートが身体に反響し、胸が、いや血液が共鳴して震えているのを感じる。

 ああ、切ない。胸が震える。やっぱり、秋だ。


マイ・フェイヴァリット・シングス

2007年08月27日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 195●

Don Friedman

My Favorite Things

Watercolors0010_4  トマトジュースが好きだ。素面の時はもちろんだが、酒を飲んで夜の街を彷徨い歩く時も、二軒目あるいは三軒目で駆けつけトマジュー1杯という具合だ。水のように一気に飲むのが好きだ。近頃流行の「無塩」のやつより、どちらかというと塩の入ったやつが好みだが、それにこだわるということはない。特定のブランドに固執することはないが、飲めばこれはうまいこれはイマイチだなどと判断できる程度に舌は肥えていると思う。今日飲んだトマトジュースが美味かった。今日生協から届いた、「北海道びらとり町 ニシパの恋人(食塩無添加)」というやつで、あの食用トマト「桃太郎」を搾ったものらしい。食塩無添加なのに甘さが引き立っており、トマトの味がしっかりしている。妻に、このトマトジュースは美味いじゃないか、というと、「北海道で飲んで、美味しいと言ってたやつと同じものよ」という答えが帰ってきた。ちょっと、うれしい気分だ。妻にはいつも怒られっ放しだが、そういうことを気に留めていてくれたことはとても嬉しいことだ。

 今日の一枚は、ドン・フリードマンの2003年録音作品『マイ・フェイヴァリット・シングス』である。エヴァンス派といわれる中でも特にエヴァンス的なピアニストと評価され、まるでエヴァンスの忠実なフォロアーの如くいわれる観もある彼だが、近年になってよりオリジナリティーを主張するようなアルバムを連発している。これら近年のドン・フリードマンの作品については、さまざまな見解があろうが、私は基本的に好きである。美しい流れるようなアドリブのラインはそのままに、一音一音のタッチがより力強くなり、音が鮮明になった。やや攻撃的になったといってもよい。進歩した録音技術が、その新しいドンの演奏をよりリアルで鮮明に記録している。

 1935年生まれのドンはもう72歳だ。恐らくは人生の黄昏の時期ということになろう。いつまでも元気で活躍することを祈るのはもちろんだが、残された日々でエヴァンスの追随者ではない、独自の評価を確立してもらいたいものだ。


ユートピア

2007年08月26日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 194●

Eric Gale

Utopia

Watercolors0009_5  残暑厳しい日曜日、午後からコーチを務める高校女子バスケットボール・チームの練習に付き合い、夕方から自宅のテラスで冷たいビールを飲んだ。ちょっとしたリゾート気分だ。夏休みの最終日で残った宿題の始末に追われる我が子どもたちには気の毒だが、幸福な時間だ。程よい疲れが、脱力感をともない、かえって気持ちがいい。こんなリゾート気分にフィットする音楽はないものかと考え、頭に浮かんだのは、脅威のワンパターン・ギタリスト、エリック・ゲイルの"ISLAND BREEZE"だったのだが、レコード棚を探してもなかなか見つからない。確かにあったはずなのに、一体どこにいったのだろう。

 あきらめて、かわりに取り出したCDがこのアルバムだ。エリック・ゲイルの1991年録音作品『ユートピア』、エリック・ゲイルのラスト・レコーディングである。周知のように、エリック・ゲイルは、1970年代にフュージョン・ミュージックのパイオニア的グループとして活躍した"スタッフ"のギタリストだったわけだが、私はソロになってからのエリック・ゲイルの方が好きだ。何というか、人間的な温かみがあるのだ。思えば、エリック・ゲイルは卓越したテクニックをもちながら、超絶技巧に走らず、最後までフィーリングを大切にしたプレイヤーだったように思う。彼のギターからはその人の良さと、他者に対する温かさを感じることが出来る。聴衆の度肝をぬく超絶技巧も素晴らしいが、演奏から人柄を感じることが出来るというのも素晴らしい表現力なのではなかろうか。

 雑誌『ADLIB』の編集長、松下佳男氏はこのアルバムについて、「ヒューマンであったかいムードが心にしみるエリックのギター!今の時代がうしなっている音楽が、このアルバムには確実にある」と、絶賛している。今の時代が、ヒューマンな音楽を失っているかどうかは別として、人間味のある穏やかで温かなフィーリングが伝わってくるのは確かだ。加えていうなら、今日聴いてみて、このアルバムでも十分リゾート気分を味わうことができた。

 暑い日中の後の涼しい夕べ、心地よい脱力感と冷たいビール、秋を感じさせる虫の声と遠くを走る自動車たちの明かり、心温まるエリック・ゲイルの『ユートピア』、……、気分が良い。幸福だ、と思う。およそ一時間の幸福……。

 たった一つの不安、"ISLAND BREEZE"のLPはどこにいってしまったのだろうか。


エムパシー

2007年08月26日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 193●

Bill Evans

Empathy

Watercolors0007_5  今もやっているのだろうか。毎週土曜日の夕方のFMラジオで「SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI 」という番組をやっていた(調べたら今でもやっているようだ)。レストランの仮想ウェイティングバーを舞台に、毎週幾人かのゲストを招き、含蓄のあるお話をうかがうという趣向の番組だが、そのオープニング・テーマとして使われていた「ダニー・ボーイ」がたいへん魅惑的だった。端正でリリカルなタッチで奏でられるその曲は、ジャズなどという音楽を普段聴かない人が耳にしても心に残るらしく、実際何人かの知人からこの演奏について質問を受けたことがある。

 この「ダニー・ボーイ」は、ビル・エヴァンスの1962年録音盤『エムパシー』に収録されているものだったように思う。verveとの契約第一弾のこの作品は、シェリー・マン(ds)、モンティ・バドウィック(b)という西海岸のプレイヤーとの競演であるという点でも異色の作品だ。はっきり言えば、エヴァンスのデリケートなピアノには、シェリー・マンのカラフルで多少自己顕示の強いドラム演奏はミスマッチだと思わなくもないのだが、よく聴いてみると、これはこれで面白いのではないかと思ったりもする。私自身、② Danny Boy がお気に入りなので、CDの二曲目からかける場合が多く、これまで一曲目をあまり聴かなかった。今回しばらくぶりに ① The Washington twist を聴いてみたが、エヴァンスらしからぬブルース・フレージングがほほえましく、シェリー・マンのカラフルなドラムがいい意味で自己主張しており、なかなか気持ちよかった。

 思えば、エヴァンスのような偉大なプレイヤーになればなるほど、我々は「エヴァンス的」という固定観念をもち、それを基準に遡及的に評価したりする傾向があるようだ。気負った色眼鏡をはずしてみると、意外に新鮮な風景が見えてくることも多い。いろんな色眼鏡をはずしたりかけたりしながらジャズを聴くのもまたジャズを聴く楽しみの一つではなかろうか。


スウィート・レイン

2007年08月25日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 192●

Stan Getz

Sweet Rain

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 まだまだ残暑は厳しいが、さすがに夕方になると過ごしやすくなってきた。私の家の周りでは、朝には蝉の、薄暗くなると秋の虫たちの鳴き声が聞こえてくる。こんな時には、去り行く夏を思いながら、爽やかなサウンドを聴きたいものだ。

 そう思って取り出したのは、スタン・ゲッツの1967年録音盤『スウィート・レイン』だ。いつものごとく情感豊かで流麗なゲッツのテナーもさることながら、やはり新進気鋭のチック・コリアの優雅で軽やかなピアノが耳をひく。チックはこのアルバムで初めて広くファンに知られるようになったのだ。私は若い頃、結構熱心なチックのリスナーだったのだが、年をとるにしたがってあまり聴かなくなってしまった。なぜだかよくわからない。チックの演奏技術が優れていることはもちろん否定すべくもないし、チックの演奏がよりダイナミックに進化していることも理解できるのだが、いつの頃からかその作品をターンテーブルやCDトレイにのせることが極端に少なくなってしまったのだ。不遜な言い方だが、しいて言えば、私にとって「退屈」な音楽になってしまったといったらいいだろうか。しかし、このアルバムの時代のチックは、今聴いても素直に感動できる。才気に溢れるその優雅な指さばきからは、きらきらと光る水滴が滴り落ち、まぶしく弾けるようである。

 アルバム全体に優しく、瑞々しい雰囲気が漂っている。私見によれば、優しさはゲッツが、瑞々しさはチックが担当している。

 気分の良いアルバムだ。


ウィー・フリー・キングス

2007年08月21日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 191●

Roland Kirk

We Free Kings

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  年のせいか、近頃、叙情的なものを聴く頻度が増えてきたような気がするのだが、それでも時々(というかしばしば)ハードなものを聴きたいという欲望が身体の奥のほうから湧き上がってくるのはなぜだろうか。ローランド・カークはそんな時に聴く演奏家の1人だ。そして、彼のサウンドを聴くと、必ずといっていいほど、いつも癒される。癒し系サウンドなどではない。やや大上段に構えて大げさにいえば、魂が癒されるのだ。はっきり言おう。もう、20年以上も前に熱狂的にはまったこの演奏家の音楽に、たまにしか聴かなくなった今も、身体のずっと奥のほうで細胞が熱狂している。

 ローランド・カークの1961年録音作品『ウィー・フリー・キングス』。決してハードな演奏ではない。カークとしてはかなり普通のジャズである。けれども、身体が熱くなる。身体の鼓動がビートに共鳴し、同化していくのがわかるのだ。いわゆる「スピリチュアル」な演奏などではないが、深いブルース・スピリットに裏打ちされたサウンドは、確かに心の奥底に響くものがある。いつものお得意の複数のリード楽器を同時に吹く奏法も全開である。むしろ、わかりやすい形で最良の効果を発揮しているといってもいいかもしれない。

 私は、ときどき、自分を回復したい時に、1人静かにローランド・カークを聴く。そのサウンドには、「過剰な」、そしてそれゆえに根源的な何かがある。精神のあるいは身体の奥底からドライブをかけてやってくるような何かがだ。俗物的な言い方をすれば、ローランド・カークは、私にとって、ジョルジュ・バタイユのいう「呪われた部分」に属する演奏家である。

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想い出の夏

2007年08月20日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 190●

Art Farmer

The Summer Knows

Watercolors_18  数日前までの猛暑も嘘のように、今日は涼しい日だった。こうやって暑さと涼しさを繰り返ながら夏は終わっていくのだろう。夏の終わりは何かしら人をセンチメンタルな気持ちにさせる。それは「熱狂」や「開放」の終わりであり、うがった見方をすれば、「より自然的なもの」から「文化」への回帰なのであろう。肌を露出した服装が人間を開放的にし、より自然的なものへと誘うのであれば、肌を隠すファッションが人々を「文化」へと導く。文化は自然的なものを覆い隠す装置であり、さまざまな「規制」や「規律」をともなう。夏の終わりは、人々に過ぎ去ってしまった「開放的」な日々への郷愁を感じさせ、ノスタルジーの感情を抱かせるのだ。

 アート・ファーマーの1976年録音盤『想い出の夏』、日本制作作品である。アートー・ファーマーに熱狂したことはないが、好きか嫌いかといわれれば、いつだって好きだった。彼のフリューゲルホーンの響きが好きだ。トランペットでは決して出せない、フリューゲルホーンの響きが素晴らしい。この『想い出の夏』にしてもそうである。フリューゲルホーンの優しい音色が全編にわたってタイトルの「想い出の夏」の情景を描き出している。やはり、これは表現力というべきなのだろう。後藤雅洋氏をして「少女趣味」と言わしめたジャケットそのままに感傷的な演奏であるが、過ぎ去っていく夏への感傷を、ファーマーはあくまでも硬質なリリシズムで表現していく。それは乾いた感傷だ。感傷的ではあるが、それに流されず、対象化する視線が、かえって去り行くもののかけがえのなさを際立たせるのだ。


A Long Vacation

2007年08月19日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 189●

大瀧詠一  

A Long Vacation

 家族にせがまれて、急遽、3日間北海道に行ってきた。本当に「急遽」のことで旅行社のパックにも入れず、金額的にはちょっと高くついてしまった。リスツ・リゾートはあいにく小雨続きで、付属の施設を十分に楽しむにはいたらなかったが、それでもいつもよりはリラックスした時間を楽しむことができた。自宅から空港までの2時間半、クルマを運転しながら、たまたまそこにあった古いカセット・テープを聴いた。レコードの針飛びの音がするそのカセットテープはかなり古いもので、いつからその場所にあったか不明であるが、サウンドは鮮明だった。いい作品だと改めて思った。そして、そのサウンドは、旅行中、頭の中でずっと鳴り響くことになった。

 大瀧詠一の1981年作品『ロング・バケーション』である。周知のように、日本のポップスの金字塔といわれることもある名盤である。「はっぴいえんど」の一員として一世を風靡したものの、以後のマニアックな音楽が市場には受け入れられず、商業的には不遇の1970年代を過ごした大瀧だったが、この作品のミリオン・ヒットにより以後の日本のポップスに決定的な影響を与えることとなった。wikipediaによると、このアルバムは、発売1年で100万枚を突破し、これは2006年の音楽市場規模に換算すると400万枚に該当する、ということだ。

 一体何年ぶりに聴いたか記憶にさえないが、まったくもってすごいアルバムである。感動的だといってもよい。全編にわたって弱点がない。どの曲も個性的で瑞々しく、25年以上経過した現在もまったく色褪せることはない。それは、この作品がアメリカンポップスの歴史と伝統をきちんとふまえた正統的で高水準のポップスだからかもしれない。『ロング・バケーション』以後の日本のポップスにどれほどこれと肩を並べる作品があっただろうか、などと権力的なことを言ってしまいたくなるほどだ。けれども、『ロング・バケーション』は、そういった大げさで権力的な物言いからは最も遠くに位置する作品だというべきだろう。なぜなら、ポップスとはもともと権力的な言説や感覚とは異質ないわば「非権力」的な音楽であり、『ロング・バケーション』はそのような意味で真のポップスであると思うからだ。『ロング・バケーション』には、日本の音楽が良くも悪くももっているあのじめじめした感じが一切感じられない。「貧乏」やそのルサンチマンの形態である「情念」というイメージが完全に払拭されている。そこにあるのは、シンプルな気持ちよさと乾いた感傷である。

 村上龍はかつてサザンオールスターズに関する文章の中で、ポップスについて次のように書いた。

《 「喉が乾いた、ビールを飲む、うまい!」「横に女がいる、きれいだ、やりたい!」「すてきなワンピース、買った、うれしい!」それらのシンプルなことがポップスの本質である。そしてポップスは人間の苦悩とか思想よりも、つまり「生きる目的は?」とか、「私は誰? ここはどこ?」よりも大切な感覚について表現されるものだ。 》

 この文章は、『ロング・バケーション』にもまったくあてはまるのであり、むしろその完成度の高さから、この作品こそ日本が戦後の貧しさから真に文化的な意味で脱出した記念碑なのではないかと私は思う。

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アフィニティー

2007年08月15日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 188●

Bill Evans

Affinity

Watercolors0009_4  子どもたちは夏休みだというのにどこにも連れて行ってあげられず申し訳ないなどと思い、少しぐらいは夏の想い出を作ってあげようと、数日前、仕事をがたまたま早く終わったこともあって、夕方から次男を近所の海水浴場に連れて行った。思えば、子どもたちがもっと小さな時は、夕方からしばしば一緒に近所の海を訪れたものだった。夕方の海水浴場はいい。多くの客が帰った後の本当に広々とした開放感とどこか感傷的な雰囲気が何ともいえない。そして何より、駐車場が無料なのだ(4時5時を過ぎると駐車場のおじさんも、顔見知りということもあってまけてくれるのだ)。

 次男に教えようと、倉庫から古いボディー・ボード(昔はブギー・ボードといっただが……)を引っ張り出し、得意げに講釈を加えつつ車を運転し、自宅から5分ほどの海水浴場に到着したのだが、何と遊泳禁止だった。波は穏やか、天気は最高なのにどうして、とレスキューの人に尋ねてみると、何とすぐ側で船が座礁し、油が流出したとのことだった。ずっと沖を眺めてみると、確かに白い船が傾いていた。こんなに暑くて天気のいい日に遊泳禁止だなんて、海水浴場関係者も気の毒だなどと考え、日光浴だけをして素直に戻って来たわけだが、おかげで少しは日に焼けて「健康的っぽく」なった。

 さて、暑い夏の日に涼しげな一枚。ビル・エヴァンスの1978年録音作品『アフィニティー』。エヴァンス・トリオ最後のベーシストとなるマーク・ジョンソンとの初の競演盤だ。なんといっても、トゥース・シールマンスのハーモニカが絶品である。ハーモニカの親しみ易い音色はどこか涼しげで、暑い夏に窓からやってくる爽やかな風のようだ。カシオペアの野呂一生はかつてこのアルバムを、「エヴァンスの一枚」として推薦していたが(『別冊ジャズ批評』)、世間的には傑作とか名盤とかの評価を受けているわけではないようだ。けれども、大衆的でわかりやすい作品ながら(というのも変だが)、十二分に聴くに値する作品だと思う。私は好きだ。金属的な印象を受けるジャケットが、エヴァンスのピアノの趣を十分に伝えず、まるでフュージョン的なサウンドのようなイメージを与えてしまい、その点損をしているように思う。

 その点、岩田靖弘氏がこのアルバムについて、「一聴するとあまりに感傷的で、しかも誰の耳にも違和感のない大衆性を感じさせるこの作品の背後には、『修練をもって処理されたロマンチシズムは最も美しいたぐいの美だ』と語ったエヴァンスの理想の表現が脈打っていることを見逃してはならない」(『ビル・エバンス あなたと夜と音楽と』講談社1989)と述べたことは傾聴に値する。

 名曲 Blue in Green (なぜか Blue and Green というタイトルになっているが)のリリカルな響きに、夏の暑さも忘れてしまう。


ザ・サウンド・オブ・サマー・ランニング

2007年08月05日 | 今日の一枚(M-N)

今日の一枚 187●

Marc Johnson

The sound Of Summer Running

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 暑い日である。真夏だ。今日は私の街の夏祭りである。みなとまつりだ。子どもの頃はすすんで打ち囃しなどに参加しお祭り小僧だった私も、近頃は喧騒の街の中心部まで出るのが億劫であり、むしろクーラーの効いた部屋であるいは風の涼しいテラスで、ビールでも飲みながら静かな時間を過ごすのを好むようになった。今日も息子はみこしかつぎに出かけて行ったが、私は日曜大工をして、一日中家で過ごした。さすがに、家族の不満もあり、夜からの花火大会には行かねばなるまい。

 暑い夏ということで、夏らしいアルバムを一枚。マーク・ジョンソンの『ザ・サウンド・オブ・サマー・ランニング』、1997年の録音作品(verve)だ。、ビル・フリーセルとパット・メセニーという二人のギタリストを起用したことで話題になったアルバムである。マーク・ジョンソンといえば、ベース通の間ではビッグ・ネームなのだと思うが、私などはビル・エヴァンス・トリオ最後のベーへシストという印象が強い。ライナーノーツのインタビュー記事によると、「80年代の初め、ビルが亡くなった後、その素晴らしい思い出を再現したいと試みたことがあったけれど、そんなこと絶対に不可能なことがわかったんだ。ビルはもう、いないんだから。そこから、ピアノトリオとはサウンド的にまったくかけ離れたことをやってみようと思い始めた。要するに、ピアノ・トリオとは違う可能性を探ることが、僕の進むべき道に見えたからだ。」と、マークは語り、ストレートなジャズではない分野に足を踏み入れて行ったようだ。

 題名の通り、夏のアルバムである。夏のイメージ満載だ。ただ、ギラギラと太陽が照りつけるだけの夏ではなく、暑い中にも何か涼しい風のような清涼感のある。あるいはカラフルなサウンドではあるが、どこかノスタルジックなイメージのある作品である。アメリカン・ポップの最も良質な部分を、ジャズ的なテイストで料理したということになるのだろうか。

 それにしても、あのビル・エヴァンス・トリオ最後のベーへシストが、こういう地点に到達したことに、改めて驚かされる。