アシナガバチは、ハチ目スズメバチ科アシナガバチ亜目に属する昆虫で、スズメバチに比べるとおとなしい性格だといわれています。ただし、毒性が強い種類もおり、刺されたときの痛みがスズメバチに勝るとも劣らないほどになることもあるので注意が必要です。
グランド・ファンク・レイルロードは、当時とても高い人気を得ていたアメリカのハードロック・バンドである。ツェッペリンの前座として登場し、本命のツェッペリンを食ってしまった事で有名である。ただ、人気はあっても音楽的水準は低いという事で、意識的なロック・ファンから嫌われ、グランド・ファンクをけなすことがロック・ファンの良心とさえ言われていた。
中大兄皇子、のちの天智天皇についてである。
中大兄皇子は、645年の大化の改新(乙巳の変)で蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼしたクーデターの首謀者・中心人物だったといわれる。少なくとも、その一人ではあったはずだ。当時、17歳と若かったが、父は舒明天皇、母は皇極天皇であり、血統は良かった。
ところが、この事件の後、中大兄は即位せず、叔父の孝徳天皇が天皇となった。中大兄は皇太子として政務をとったのだ。数年後、中大兄は孝徳天皇と対立し、群臣を引き連れて難波宮から飛鳥に帰ってしまう。孝徳天皇は、失意のうちに654年に難波宮で死去する。
しかし、中大兄はこのときも即位しなかった。即位したのは、中大兄の母だった。斉明天皇でである。中大兄の母はすでに天皇を経験していた(皇極天皇)。一度天皇になった人が再び天皇になることを「重祚」(ちょうそ)といいう。斉明天皇の即位は、女帝の重祚であり、これはまったく異例のことだった。中大兄は、またしても皇太子として政務にかかわることになる。
661年に母の斉明天皇が死去するが、何とまたしても、中大兄はすぐには即位しなかった。即位しないまま政務をとったのだ。即位しないまま政務をとることを「称制」というが、中大兄の「称制」は実に7年間(661年~667年)に及んだ。
668年、中大兄はやっと天皇となる。天智天皇である。大化の改新からカウントすると23年になる。しかし、即位の前年の667年に近江の大津に都を移したことが気にかかる。飛鳥の都が廃されたわけではないので、両都制だったというべきだろう。これは通常、白村江の戦いの敗北(663年)による対外危機が背景にあると理解されている。外敵を恐れ、海(瀬戸内海)から遠いところに都を移したという意味である。それは間違いではなかろう。しかし一方、大津宮が日本の中心を意味する「畿内」の外側であることを考えると、中大兄の即位の事情と何か関係がありそうでもある。
02. 人生のメリーゴーランド(『ハウルの動く城』より)
03. クラッチ(『カウボーイ・ビバップ』より)
04. 炎のたからもの(『ルパン三世 カリオストロの城』より)
05. 旅路(夢中飛行)(『風立ちぬ』より)
06. 愉快な音楽I~V(『ホーホケキョとなりの山田くん』より)
07. 風の伝説(『風の谷のナウシカ』より)
08. グラヴィティ(『ウルフズ・レイン』より)
09. 銀色の髪のアギトBGM(『銀色の髪のアギト』より)
10. さくらんぼの実る頃(『紅の豚』より)
●今日の一枚 426●
日向敏文
いたずら天使 Little Rascal
大学生の息子はスノーボードに夢中のようだ。青春を、学生生活を謳歌しているのだなと思う。ちょっと、うらやましい。もちろん、私だって青春を謳歌した。ただ、お金がなかった。貧しく、蹉跌とルサンチマンに満ちた青春時代だった。学生時代、スキーに誘われたことがある。是非やってみたかった。いくらぐらいかかるのか聞いてみると、用具は一式10万円ぐらいかな、あと交通費と宿泊費で2~3万ぐらいかなと真顔でいわれた。パックだから安いのだといわれた。・・・驚愕した。10万円とかのお金を普通に使う東京の人たちはお金持ちなのだなと思った。自分が貧乏学生であることを再認識した瞬間だった。
そのコンプレックスだったのだろうか。就職してから、特に宮城に帰ってきてからはスキー三昧だった。若さに任せて滑りまくった。鬼首・鳴子(花渕山)・えぼし・夏油・雫石・安比・網張・田沢湖、それ以外にもいろいろなスキー場に行った。北海道のキロロやニセコやルスツにも何度か足を運んだ。特に鬼首は覚えたての頃、よくいったスキー場だ。週に数度、部活動指導をちょっと早めにきりあげ、夕方に出発してクルマで1時間半~2時間かけていくのだ。ナイターで滑ってアパートに帰ってくるのは12時を回ったころだった。休日には、雫石や安比あたりに遠出した。こんなふうにして、1シーズンに40回~50回程滑ったことも何度かあった。
滑るのも効率を重視した。遅いリフトはあまり利用しなかった。いちいちスキーを外さなければならないゴンドラもあまり好きではなかった。よく使ったのは高速のクワットだ。高速リフトで何本も何本も本数を稼ぐのだ。雫石のレディース・ダウンヒルや安比のザイラーはのように、比較的空いている長いコースがお気に入りだった。リフト待ちの時間の短い、長いコースでのびのびと効率的に滑るのだ。ハードバーンにも果敢に挑戦した。鬼首のスネークロードはよく滑った。「馬の背」といわれる鳴子の花渕の壁や、1シーズンに数度しか開かない鬼首のディアロードに挑戦したこともある。リフトの上ではおにぎりを食べ、よく煙草を吸った。雪山を見ながら吸うたばこは本当に美味かった。リフトの上でヒット曲を聴くのも悪くなかった。広瀬香美やZooなど、スキー場のテーマソングもバッチリ揃っていた。時代はいまだバブルの余韻を残していたのだ。
結婚をして子どもができると、次第にスキー場から足が遠のいていった。仕事もそれなりに責任のある部署を担当するようになり、忙しくなったこともあった。もう、10年以上もまともに滑っていない。結婚前、最後の抵抗にと、板だけで10万以上もする上級者向きのスキーを買ったのだが、それもいまでは庭の花壇の土どめに使われている。だから、息子がスノーボードに夢中なのがすごくうらやましく思える。青春のまぶしさを感じることもある。再びスキー場で滑ってみたい。息子のスノーボードの話を聞くたびにそう思う。身体がついてこれるかどうか心配なところではあるが、初心者の息子などにはまだまだ負けないという気概はある。華麗な滑りを見せつけてやりたいとも思う。ただ、おそらくはもう、高速リフトは使わないだろう。遅いリフトで十分な休養をとりながら、美しい雪山の景色を眺めよう。アバンギャルドな滑り方はしない。安定したパラレルターンで気持ちよく風を切り、滑った後は温かい温泉に入ろう。湖に落ちていくように滑る、田沢湖の国体コースや、自然豊かな八幡平の山々の風景をもう一度眺めたい。そう夢想しただけで心は躍る。20歳の若者のように胸が高鳴る。
今日の一枚は、日本の作曲家・編曲家である、日向敏文の1994年作品『きまぐれ天使』である。1980年代に貸しレコード屋で彼の『夏の猫』というアルバムに出合い、ダビングしたテープでずっと聴いていた。その頃のお気に入りの作品になった。その後、大貫妙子のピュア・アコースティック作品で再び彼の名を目にし、いくつかの作品を聴いてみた。才能のある人だと思う。ヨーロッパの香りのするこの『気まぐれ天使』もなかなかいい作品だ。サウンド全体の印象を重視した、映像的な音づくりである。おだやかに、ゆったりと時間が流れるような独自の世界観だ。音楽を聴いていると、ぼんやりとした映像のようなものが脳裏に現出し、古い映画を見ているような錯覚に陥る。しばらくぶりに聴いたが、映画音楽のようでもあり、ポップスのようでもあり、またジャズのようでもある、その音楽世界にすっかり魅了された。悪くないアルバムだ。
今度スキー場に行ったら、遅いリフトの上で雪山を眺めながら、ひとり、このアルバムを聴きたい。その穏やかで趣のあるサウンドが、雪山の風景には意外とあいそうだ。