WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

いつからか、音楽をちゃんと聞かなくなったような気がする

2006年04月30日 | エッセイ

 レコードやCDを何枚所有しているのかはっきりわからない。正確に数えようとExelに入力を試みたことがあったが、結局挫折してしまった。1000枚以上はあるとは思うが、Jazzファンとしては決して多い数字ではないだろう。学生時代以来、毎月2~5枚程度のペースで購入してきたが、ここ数年増加傾向である。考えるに、インターネット・ショップがいけない。私のように地方に住んでいるものにとっては、わざわざ都会にレコード・CD探しにいかなくとも良いとても助かるシステムである。何でも揃っているし、一部の視聴もでき、おまけに家までとどけてくれる。便利である。今月もすでに16枚も買ってしまった。雑誌の紹介記事で欲望を刺激され、HMVのホームページでウィッシュ・リストに登録して眺めているうちに、つい、購入ボタンを押してしまう。ああ、金がない。

 数日後、宅配便でCDが届く。ジャケットを眺めて満足。別に後悔はしない。けれどもよく考えてみると、そんなに買っても聞く時間がないのだ。結局、BGMとして聞くことになる。演奏の質が耳に残らない。何となく耳ざわりのいいメロディーだけが残る。狂気や熱い鼓動や胸をかきむしられるようなあの感覚に出会うことがないのだ。いまもこの文章を書いているむこうでArt Pepperの「Modern Art」がスピーカーから流れている。……(かつては本当に感動した作品だ)……スピーカーから流れている、そう感じるのだ。

 思えば最近、音楽をちゃんと聞かなくなっているような気がする。これは、何時ごろからだろうか。レコードやCDを大量に買うようになってからはもちろんだが、どうもCDというやつが出現してからそういう傾向が出てきたような気がする。簡単にトレイに乗せ、ボタンを押せば、曲が流れる。気に入らない曲はとばすこともできる。気に入った曲だけ編集することもできる。けれども、レコード時代のように面倒な作業をして聞かない分(ジャケットから袋を取り出し、袋からそっとレコードを取り出してターンテーブルにのせ、聞き終わったらクリーナーで埃をとって、慎重にジャケットに戻すという作業だ)、音楽に対する集中力が無くなったような気がする。気に入らない曲を飛ばすため、トータルアルバムとしての作品の価値を感じられなくなったような気がする。実際、当初気に入らなかった曲でも、アルバム全体を聴き続けるうちに、そのすばらしさがだんだんわかってきたという例もしばしばあったものだ。

  大体にして、昔はお金がなかった。友達と違うLPを買いあって、それぞれカセットテープに録音したり、FMからエアチェックしたり(最近の若者はエアチェックという言葉を知らないということを知ったときは驚きであった)、あるいは出始めのレンタルレコード店で借りたものをカセットテープにおとしたりしたものだ。そうして聞いた音楽は、不思議に今でもアドリブのすみずみまで口ずさんだりできてしまうのだ。ラジカセや安いミニコンポのような装置で聴いた音楽の鼓動が今でも蘇ってくるのだ。

 CDの出現で、音楽はわれわれの生活の一部として定着した。それはきっとすばらしいことなのだろう。けれども同時に、その作品がもつ狂気や胸を揺さぶるビートは、水で薄められてしまったのではないだろうか。音楽を頭でっかちにならず、より手軽に楽しむということと引き換えに(あるいはそのおかげでというべきなのだろうか)、われわれは、音楽によって人生を変えられることも、そして人生を狂わせられることもなくなったのだ。

 多くの人は(特に若者は)、しばしばこのように語る。すなわち、「いいものはいい」「それでいいじゃないか」と。けれども、わたしはいつも思う。いいとはどのような現象なのか、そしてなぜ自分はそれをいいと感じているのか。

わたしは、それが知りたい。


名前を忘れた先輩のこと

2006年04月30日 | やや感傷的な随筆

ジャズが好きだ。ジャズと出会ったのはもう20年以上も前だ。大学の同じ学科に通う先輩によくジャズ喫茶に誘われた。その先輩がなぜ僕を選んだのかはわからない。彼は週に2,3度は僕を誘った。大学は渋谷にあり、「音楽館」や「ジニアス」、「ジニアスⅡ」という店がわれわれの目的とする場所だった。嫌ではなかった。大学からジャズ喫茶までの道を歩きながら聞く彼の話は、僕にとってとても興味深いものだったし、僕は基本的にその先輩が嫌いではなかった。日本中世史についてのいろいろな知識(僕は日本中世史を学んでいた)、最近読んだ論文や史料のこと、学界の動向などが彼の話の内容だった。きっと僕はまじめなタイプだったのだろう。

けれどもジャズ喫茶というところはいただけなかった。耳にダメージを与えるほどに不必要な大きな音、アドリブという名の意味不明の旋律、自分だけがそれを理解しているといった鼻持ちならない客たちの雰囲気。僕にはまったく理解不能だった。ジャズ喫茶というものが存立しているということ自体が大きな疑問に感じられた程だ。僕は先輩の手前、まるで修行僧のようにじっとそれに耐え続けた。じっと、じっとだ。帰りの扉を開けたときの解放感と静寂はたまらないものだった。

ジャズは突然わかる。ある10月の昼さがり、神保町の古本屋街を歩き疲れ、僕は「響」というジャズ喫茶に入った。ぐったりとした気持ちだった。女の子のことや学問のこと、経済的なこと、僕はいくつかの精神的なトラブルを抱えていた。よくある話だ。この世界のあらゆる重石が乗りかかってきたような気がした。僕は硬いソファーに腰掛け、煙草をつけ、ビールを注文した。ビールが冷たかった。音楽が聞こえてきた。ART PEPPERGEORGE CABLESの『GOIN’HOME』。涙があふれてきた。なぜだか涙がとまらなかった。僕は周りの客に覚られないように涙をぬぐい、じっとそれを聴いた。優しくすべてを赦し、包み込むようなアルトやクラリネットの音色を、PEPPERCABLESが互いに会話するような旋律を、そしてその息づかいを。すべてが手に取るようにわかるような気がした。

それがジャズがわかったということなのかどうかはわからない。けれど、以来、ずっとジャズを聴き続けている。結構なお金と時間を費やしてきたように思う。そういう意味ではジャズという音楽を知ったことが良かったのかどうか疑問の余地はある。20年後、僕はジャズを聴き続けているだろうか。わからない。でもたぶん聞き続けているだろう。そのためのお金と時間を浪費しながら。大切なものを得るためには、何かを犠牲にしなければならない。

ところで、僕はその先輩の名前をどうしても思い出せない。僕にジャズを教えてくれた先輩。彼はある日突然、キャンパスから消え去ってしまった。噂では父親の町工場の経営が悪化し、大学を辞めたのだという。それ以来彼とはずっと会っていない。彼を探し出す方法もあったのかもしれないが、僕はそうはしなかった。そんな自分を、そして彼の名さえ思い出せない自分を、僕はときどき嫌な奴だと思うこともある。けれども、大切なことをどうしても思い出せないこともあるのだ、と今は思う。