レコードやCDを何枚所有しているのかはっきりわからない。正確に数えようとExelに入力を試みたことがあったが、結局挫折してしまった。1000枚以上はあるとは思うが、Jazzファンとしては決して多い数字ではないだろう。学生時代以来、毎月2~5枚程度のペースで購入してきたが、ここ数年増加傾向である。考えるに、インターネット・ショップがいけない。私のように地方に住んでいるものにとっては、わざわざ都会にレコード・CD探しにいかなくとも良いとても助かるシステムである。何でも揃っているし、一部の視聴もでき、おまけに家までとどけてくれる。便利である。今月もすでに16枚も買ってしまった。雑誌の紹介記事で欲望を刺激され、HMVのホームページでウィッシュ・リストに登録して眺めているうちに、つい、購入ボタンを押してしまう。ああ、金がない。
数日後、宅配便でCDが届く。ジャケットを眺めて満足。別に後悔はしない。けれどもよく考えてみると、そんなに買っても聞く時間がないのだ。結局、BGMとして聞くことになる。演奏の質が耳に残らない。何となく耳ざわりのいいメロディーだけが残る。狂気や熱い鼓動や胸をかきむしられるようなあの感覚に出会うことがないのだ。いまもこの文章を書いているむこうでArt Pepperの「Modern Art」がスピーカーから流れている。……(かつては本当に感動した作品だ)……スピーカーから流れている、そう感じるのだ。
思えば最近、音楽をちゃんと聞かなくなっているような気がする。これは、何時ごろからだろうか。レコードやCDを大量に買うようになってからはもちろんだが、どうもCDというやつが出現してからそういう傾向が出てきたような気がする。簡単にトレイに乗せ、ボタンを押せば、曲が流れる。気に入らない曲はとばすこともできる。気に入った曲だけ編集することもできる。けれども、レコード時代のように面倒な作業をして聞かない分(ジャケットから袋を取り出し、袋からそっとレコードを取り出してターンテーブルにのせ、聞き終わったらクリーナーで埃をとって、慎重にジャケットに戻すという作業だ)、音楽に対する集中力が無くなったような気がする。気に入らない曲を飛ばすため、トータルアルバムとしての作品の価値を感じられなくなったような気がする。実際、当初気に入らなかった曲でも、アルバム全体を聴き続けるうちに、そのすばらしさがだんだんわかってきたという例もしばしばあったものだ。
大体にして、昔はお金がなかった。友達と違うLPを買いあって、それぞれカセットテープに録音したり、FMからエアチェックしたり(最近の若者はエアチェックという言葉を知らないということを知ったときは驚きであった)、あるいは出始めのレンタルレコード店で借りたものをカセットテープにおとしたりしたものだ。そうして聞いた音楽は、不思議に今でもアドリブのすみずみまで口ずさんだりできてしまうのだ。ラジカセや安いミニコンポのような装置で聴いた音楽の鼓動が今でも蘇ってくるのだ。
CDの出現で、音楽はわれわれの生活の一部として定着した。それはきっとすばらしいことなのだろう。けれども同時に、その作品がもつ狂気や胸を揺さぶるビートは、水で薄められてしまったのではないだろうか。音楽を頭でっかちにならず、より手軽に楽しむということと引き換えに(あるいはそのおかげでというべきなのだろうか)、われわれは、音楽によって人生を変えられることも、そして人生を狂わせられることもなくなったのだ。
多くの人は(特に若者は)、しばしばこのように語る。すなわち、「いいものはいい」「それでいいじゃないか」と。けれども、わたしはいつも思う。いいとはどのような現象なのか、そしてなぜ自分はそれをいいと感じているのか。
わたしは、それが知りたい。