今回は、アメリカには勝てなかったようだ。オリンピックの女子バスケ決勝の話である。
Mal Waldron (p)
Richard Davis (b)
Ed Blackwell (ds)
●今日の一枚 423●
Eagles
Desperado
HCを務める女子バスケットボール部の3年生を送る焼肉の会があった。女子のクラブ活動にはお楽しみのイベントが必要だと考えて、私が赴任してからはじめてずっと続けている行事のひとつだ。いつの頃からか、3年生の分と全員のアイスクリーム代は、私のおごりということになってしまった。女子高校生は焼肉が好きだ。信じられない勢いで食べる。90分食べ放題、飲み放題のプランなのだが、わずか6人で牛カルビ・豚カルビ、鳥せせりを10回以上もお変わりした。ご飯と飲み物も次々と数限りなくおかわりしていく。絶句である。
3年生はプレーヤー2人とマネージャー1人のわずか3人だ。可哀そうな3年生たちだった。下級生が5人入部して士気は上がっていた。長身プレイヤーや能力のある選手もおり、練習しだいでは地区優勝や県レベルでの上位進出も狙うことができたはずだった。地区新人大会が迫った、10月だっただろうか。家庭の事情や、ハードな練習についてこれないことを理由として、下級生3人が退部を申し出てきたのだ。選手は4人となり、新人戦は欠場するほかなかった。それでも引退した当時の上級生や卒業生の協力で、練習試合やスプリングキャンプで試合経験を積み、練習を続けた。昨年の3月には退部したうちの1人が戻ってきて、やっと自前のチームでゲームができるようになった。5月の地区予選の代表決定戦、終始リードしていたものの、人海戦術で向かってくる相手チームに対して、5人で戦い続けた我々は、最後の最後で運動量が落ち、数点差で敗れてしまった。悔しい敗北だった。それでも3年生は下級生のために夏のウインターカップ予選まで付き合い、県レベルの大会で2日目に残った。悔しいこと、辛いことがたくさんあった高校バスケだっただろうが、焼肉の会での顔は輝いていた。
今日の一枚はロックだ。イーグルスの1973年作品の『ならず者』である。アルバムとしてもたいへんすぐれた作品だと思うが、現在の私が聴くのはほとんどタイトル曲の「ならず者」のみである。「ラヴ&ピース」を合言葉に、自由を求めて社会に背を向けた1960年代後半の若者たちが、大人になって「社会」からの孤立に直面したことを歌った曲だ。「社会」との関係を考え直し、もう一度社会とのつながりを回復すべきことを訴えた歌であり、観念にがんじがらめになってしまった「生」からの脱出を説いた歌である。その意味で高度に大人の歌である。曲の美しさ、素晴らしさはもちろんであるが、社会の中での人間のあり方をテーマにするところが、私にとってのイーグルスの魅力だ。
「いい子」も「悪い子」も、教師にとって生徒はみな「ならず者」である。それはひとつには予定調和的でないという意味であり、もう一つにはそれでも無視できる存在ではないという意味においてである。退部してしまった下級生も、それでもがんばり続けた部員たちも、そして焼肉をとんでもなくたくさん食べた卒業生と下級生たちも、みんな「ならず者」である。Desperado・・・。
「ならず者」
正気に戻ったらどうだい
もうずいぶん長いこと空をながめては思案しているようだね
全く気難しい奴だな
君なりの理由があるのは僕にもわかっているけど
君を喜ばせているそうした理由ってやつが
どういうわけか君を傷つけることだってあるんだよ
なあ、ダイヤのクイーンは絶対引くなよ
そいつに力があれば君をひっぱたくだろうね
いつだってハートのクイーンが確実なんだって知ってるだろう?
ほらテーブルの上には
いいカードが並んで待っているように僕には思えるんだ
だけど君は手に入らないものを求めるばかりだね
「ならず者」
時が遡るってことはないんだよ
君の痛みや飢え
それらが君を心休まる場所へと駆り立てる
そして自由、ああ自由か、そうだな
そんなこと話す奴もいるってだけのことさ
君は檻に入ってこの世を歩き回っているんだから
たった一人でね
冬になると足が冷たく感じないかい?
空が雪を降らせることはなく、太陽も輝かないなんて
昼と夜を区別することも難しいんだね
心の浮き沈みというものを君は全て失いつつあるよね
そんな感覚がなくなってしまうなんておもしろいことなんかじゃないだろう?
「ならず者」
正気に戻ったらどうだい?
柵から下りてきて門をあけなよ
雨が降っているかもしれない
だけど君の頭上には虹が広がっている
誰かに愛してもらうんだ
今ならまだ間に合うのだから。。。
☆今日の一枚 385☆
Eddie Higgins
Again
テレビはお笑い芸人でいっぱいである。いつからそんな風になってしまったのかよくわからないが、私も見ることはある。けれども、そんなに笑えない。多くは、ややウケか、どっチラケである。笑いの前提になるようなコード、あるいは時代精神のようなものを共有できていないのかもしれない。それにしても、そういったお笑いを見ていつも思うのは、「やすきよ」は面白かったなあということである。面白くて、腹筋がけいれんをおこし、筋肉痛になりそうなほどだった。そんなことを考えたのは、BSで横山やすしの伝記的ドラマをほんのすこしだけ見たからだ。
腹が痛くなるほど面白いお笑いはかつては「やすきよ」のほかにもあった。現代のお笑いには、爆発的なばかウケはほとんどないようにみえる。ばかウケを拒否しているようにすら思われる。表層的なややウケを永続的に繰り返し、起伏のない笑いが鎖のように延々とつながっていく。シーツ・オブ・サウンド・・・??。観客の表情を見てもそう思う。まるで、笑いのない沈黙の時間を忌避するかのように、のっぺりとした笑い顔が絶え間なく映し出され、鎖のようにつなげられていく。もはやかつてのような爆発的な笑いは不可能な時代だということなのだろうか。あるいは、シリアスな現実から逃避しようとする聴衆の要請なのだろうか。
1998年録音のエディ・ヒギンズ『アゲイン』である。ベースはRay Drummond、ドラムスはBen Rileyだ。コーヒーでも飲みながら穏やかな時間を過ごすのにはうってつけの演奏だ。この作品で小曽根真の名曲 ⑥Walk Aloneを知ったのだった。小曽根のようなシリアス感は薄いが、ゆったりした中にもスウィングのビートが聴こえてきて、これはこれでやはり素晴らしいと思う。今でも聴けば心がウキウキと踊り、胸がジーンとくる演奏も多い。
10数年前、私の住む街の海辺のホテルでエディ・ヒギンズのディナーショーを見た。大津波の前だ。デビューしたての小林桂が前座を務めた、料理と寿司食べ放題、アルコールドリンク飲み放題の、考えられないようなお得なディナーショーだった。料金もそんなに高くはなかったと思う。範疇としてはカクテルピアニストだと認識していたエディー・ヒギンズが、アドリブ全開のレベルの高いピアノの腕前を披露してくれてちょっと驚いた。やはり、実力のある人だったのだろう。
どんなしっとりした曲でも彼の演奏の背後にはのびやかなスウィングの感覚が息づいており、それがシリアスさやデリケートさを求める聴衆から軽くみられることも多いようだが、恐らくは彼自身がそういった高尚な音楽を目指してはいないことを考慮すれば、フェアな評価ではないだろう。いずれにしても、日常的な生活の中で、そのクオリティーを上げるための音楽としては、最上級の部類に位置づけられるべきピアニストなのではないか。しばらくぶりに、エディ・ヒギンズを聴いてそう思った。
☆今日の一枚 383☆
Eddie Higgins
Bewitched
先週の3連休の最終日、妻のたっての希望もあり、日帰りの強行軍で大学生になった長男を訪問してきた。私とは全く違い、理系に進んだ長男は、課題や、バスケットボール部の練習、アルバイトと結構忙しい生活を送っているようだった。課題のために深夜まで大学にいることも多いらしく、退廃的な学生時代を送った私にはちょっとイメージできない。それでも、酒や、夜の街を冒険することもおぼえ、それなりに一人暮らしを楽しんでいるようだった。
親のいうことを素直に聴くような人間にはなるなといって育てたせいか、反抗的だった長男は、高校時代は初心者からスタートしたバスケットボール三昧で、定期試験時を除けは、家で一秒も勉強している気配はなかった。高校総体が終わったころから受験勉強がはじまり、模擬試験も一応は受けているようだったが成績は伸びなやんでいたらしかった。「らしかった」というのは、通知票も模擬試験の結果も見せてもらったことがないからだ。息子が引っ越した後、ベッドの下からほとんどがE判定の模試の結果が大量に発見されたのだった。親の目からは、携帯電話に毒されて集中力を欠いた、かなりぐだぐだな受験勉強にみえた。けれど、一応勉強は継続していたようだったので、そのうち少しは伸びてくるだろうとは思っていた。問題は肝心の受験までに間に合うかということだった。
長男が「相談」に来たのは、暮れもおしつまった12月末の深夜だった。明日までに受験する大学を高校に提出しなければならないが、何をやりたいのか、どこを受けていいのかよくわからないというのだ。そんなの適当に書いておけよと答えたのだが、そうもいかないのだということで、結局、明けがたまで二人で受験雑誌をひっくり返して検討した。一応の志望分野を聞き、直近の、恐らくは一番良かったであろう模試の結果を見せてもらい、受験日と移動日程、入学金支払期限を考慮しながら、応急的に決めた。多分に希望的観測を含んだ、まったく応急的なものだった。しかし結局、長男はこの時決めた大学をそのまま受け、私大は3勝3敗、奇跡的に地方の国公立大学にもぐりこんだ。「相談」を契機に、長男はたまにだが受験のことを話すようになった。私も、ホテルの手配や交通手段の確認を手伝い、勝手に合格最低点のシュミレーションをやってみたりした。楽しい時間だった。わずか2か月ちょっとだったが、息子と同じ目標をもち、それなりに濃密な時間を過ごすことができた。
エディ・ヒギンズの2001年録音作品、『魅惑のとりこ』である。エディ・ヒギンズなどというそれまで知らなかったピアニストを知ったのは、今はなきスウィング・ジャーナル誌の所為である。あのvenus盤の大キャンペーン攻勢だ。それにのせられてこのピアニストの作品を何枚か買った。7~8枚はあると思う。悪いピアニストではない。ディオニソス的な、「呪われた部分」に属するピアニストではないが、ゆったりとした寛ぎと、穏やかな時間を与えてくれる。一時期、結構熱心に聴いていた気がする。『魅惑のとりこ』は、恐らくは一番よく聴いた作品だと思う。ベースはJay Leonhart、ドラムスはJoe Ascione。曲がいい、ノリがいい、録音がいい、の三拍子である。魅惑的な演奏満載の、まさに「魅惑のとりこ」である。そういえば、最近エディ・ヒギンズを聴いていない。また聴きなおしてみようか・・・。当時すでに高齢だったように記憶しているが今でも元気でいるのだろうかと思って調べてみたら、2009年に亡くなられたのですね。遅ればせながら、追悼、エディ・ヒギンズ・・・。
『魅惑のとりこ』が録音された2001年は長男が小学校に入学した年、亡くなった2009年は中学生だったはずだ。時の流れの速さに立ち尽くすのみである。
●今日の一枚 375●
Ella Fitzgerald & Joe Pass
Easy Living
近所にスーパー銭湯のような施設ができた。津波で被災して鉄骨だけになった建物を利用してつくられたものだ。しばしば隣町の日帰り温泉までいっていた温泉好きの私にとっては、待望の施設だ。本物の温泉ではないが、「ナノ水」&「炭酸水」を使っているとのことであり、お湯の肌触りは悪くない。お湯がぬるいのがやや不満ではあるが、サウナはしっかり熱くて気持ちいいし、何より家から近いのがいい。なにしろ、入浴の後、車で5分我慢すれば、自宅でビールが飲めるのだ。開店して1か月程だが、もう7~8回も利用している。昨日も、露天風呂で空を見上げながら脱力してしまった。気分はもう最高だ。ただ、小さなスピーカーから流れてくるシャカシャカしたJ-popが耳障りだった。穏やかなジャズでも流れていれば「超」最高なのにと思い、頭に浮かんだのがこのアルバムだった。
エラ・フィッツジェラルドとジョー・パスのデュオ作『イージー・リヴィング』である。1983年及び1986年の録音作品だ。1970年代後半から80年代にかけて、この2人のデュオ・シリーズは何作か制作されたが、学生時代に、結構はまって聴いていたように思う。ほとんどの作品をレコードレンタル&ダビングのカセットテープで聴いていたが、現在所有しているCDはこの一枚のみである。緊密で質の高いデュオでありながら、リラックスした「脱力系」のサウンドであるのが好ましい。歌に寄り添いながらしっかりとしたアクセントをつけるジョー・パスのギターは本当に素晴らしい。エラは歌詞の意味をかみしめるようにはっきりとした発音で歌っていく。英語の歌詞の意味をリアルタイムでは理解できない私は、歌詞の解釈がどうのこうのではなく、エラの歌唱をサウンドとして好きだと感じる。
サウナで熱く火照った身体をウッドデッキに寝転んで冷やしながら、あるいは露天風呂で空を見上げながらこのアルバムを聴きたい。そう思う。
●今日の一枚 367●
Frank Sinatra
Sinatra ~Best of the Best~
NHKテレビの『日本人は何をめざしてきたのか』のシリーズがなかなかいい。こういう放送を見せられると、やはり受信料は払わなくっちゃと思ってしまう。姉妹編だった『日本人は何を考えてきたのか』の明治編や昭和編もよかったが、先日の「鶴見俊輔と思想の科学」や「丸山真男と政治学者たち」にはチャンネルにくぎ付けにされてしまった。敗戦後という状況の中で、彼らがどのように苦闘し、何を目指そうとしたのかがよくわかった。もう一度、鶴見や丸山を読みなおしてみようと思った。思えば、彼らをちゃんと読んでこなかったような気がする。1980年代のポストモダニズムの文脈の中で、戦後民主主義の理性中心主義の象徴として、いわば「否定されるべきもの」「のりこえられるべきもの」として読んできたように思うのだ。
ところで、フランク・シナトラ、である。NHKの番組を見て以来、私の頭の中で、なぜだか、鶴見俊輔や丸山真男とシナトラがリンクしてしまった。ひと世代前の、「否定されるべきもの」として読み、聴いてきたものとしての共通性だろうか。フランク・シナトラについては、長い間、古いタイプの、「保守的なエスタブリッシュメントの権化」という強固なイメージを持っていたが、『革新者としてのフランク・シナトラ」(2006.12.3)という記事を書いて以来、固定観念が消えて自然な気持ちでシナトラを聴くことができるようになった。まったく不思議なことだ。拙い文章ではあるが、書くことによって自分が整理され、気負いなく対象に向き合うことができるようになったということだろうか。今ではヒット曲の「マイウェイ」も、なかなかいい曲だと素直に感じることもできる。先日購入したこのベスト盤『SINATRA Best of the Best』はシナトラの代表曲が適切にチョイスされており、なかなか重宝している。家族が寝静まった後にひとり酒を飲みながら、食卓のBOSEで聴くシナトラは至福の時間である。
戦後民主主義の巨人、鶴見俊輔や丸山真男についても、そういう感じで向き合いたい。さて、今日のNHK『日本人は何をめざしてきたか』は、「司馬遼太郎」である。結構、楽しみだ。
◎今日の一枚 353◎
Eagles
Hotel California
天気が心配だが、明日からいよいよ日本シリーズだ。楽天イーグルスが日本シリーズを戦うなんて夢のようだ。やはり、地元に球団があるのはいいものだ。以前は私も何度か球場に足を運んだものだが、渡辺直人がトレードされたあたりからちょっと熱が冷めてしまって、球場には行っていない。
けれど、やはり嬉しいことに変わりはない。パリーグ制覇の時も、日本シリーズ進出決定の試合も、テレビの前でだが大きな声をあげ、応援グッズを使って応援した。渡辺も鉄平も草野も山崎も、かつて球場に行ったころに活躍していた選手はもうほとんどいない。そのことがやや心にひっかかるが、基本的には素直に応援できる。金で選手を集めたジャイアンツは強敵だ。もしかしたら、楽天はボコボコにされるかもしれない。それでも気持ちで負けず戦ってもらいたい。応援グッズを使い、またテレビの前で応援したい。
なお、ジャイアンツの阿部選手には、震災の時、胸に「JAPAN PRIDE」とプリントされた、アンダー・アーマーのウインドブレーカーを支援してもらった。金満球団、巨人軍は嫌いだが、阿部選手には頑張ってもらいたい。
※ ※ ※ ※
もちろん、楽天イーグルスということで、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』、1976年リリース作品だ。先日購入した「Eagles The Studio Album 1972-1979」のうちの一枚である。ロックの名盤と呼んでさしつかえないだろう。アルバム全体のトーンや、曲の配置にも気が配られ、非常によくできたアルバムだと思う。
②New Kid In Town が好きだ。このアルバムで一番好きな曲である。いい曲だ・・・・。⑤Wasted Time(reprise)を聴いて、浜田省吾の『約束の地』の「マイ・ホームタウン」の前のやつを思い出すのは私だけだろうか。
①Hotel California はもちろん名曲である。メランコリックな曲想。歌詞構成のみごとさ。十二弦ギターの響き。静かなレゲエのビート。絶妙のタイミングのオブリガード。そしてなんといっても、ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュによるツインギター。どれをとっても素晴らしい。ただ一方で、ほかの曲でなぜツインギターがフィーチャーされなかったのかという疑問と不満はある。もう少し、ツインギターを前面に出しても良かったのではないか。また、あまりに素晴らしいサウンドのためか、アルバム全体の中で、この曲だけ浮いているように感じるのは気のせいだろうか。
しかし、それにしてもである。私のカーステレオのHDDには、この名盤『ホテル・カリフォルニア』の次に、最近の2枚組『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』が入っているのだが、車を運転しながら、いつも後者の方に共感をもってしまうのは一体どういうことだろう。
◎今日の一枚 352◎
Free
"LIVE"
台風27号もどうやらわが三陸海岸をそれていきそうだ。けれども、海は荒れている。あの大津波以来、松林や家々がなくなってしまったからだろうか、あるいは地盤沈下で海岸線が近くに来たからだろうか、"ゴーッ"という、海の荒れる音が本当によく聞こえる。少し、恐怖すら感じるほどだ。伊豆大島とか、台風の通り道になりそうな地域の人たちは、本当に不安だろう。痛いほど気持ちがわかる気がする。
現在の家は海から1km以上も離れており、また家の周囲に崖などもなく、その意味では安心だ。子どもの頃に住んでいた家はそうではなかった。小屋のように粗末な家は嵐が来るときしみ、裏にあった高い崖が崩れはしないかという不安がいつもあった。嵐が来るたび、父とともに外にでて、風雨の中を裏の崖の状態を見に行ったものだ。子どもには決して楽しいことではなかったが、男は家族を守らねばならないということを学んだような気がする。父はそれを私に伝えたかったのだろうか。現在でも、私は嵐のときに家のようすを見ようと外に出るが、わが息子たちはついては来ない。
※ ※ ※ ※
ずっと以前に取り上げたことのある、フリーの『ライブ』である。レコードプレーヤーが故障中ということもあり、CDを購入してみた。7曲のボーナストラック付きである。なるほど、オリジナル・トラックの方が確かに洗練された演奏だ。けれど、ボーナストラックの方も粗削りではあるが、なかなか力強い演奏である。ポール・コゾフの"泣きのギター" を堪能できる。ボーナストラックを聴くことで、当時のフリーのライブの臨場感をよりリアルに感じることができるように思う。
ところで、しばらくぶりにフリーを聴いて感じるのは、アンディー・フレザーのベースの物凄い存在感である。ドライブするような音色でサウンド全体をけん引している。まったく独立したようなフレーズを弾きながら、曲をしっかりと支え、分厚いサウンドを作り上げている。本当にすごいベーシストだ。アンディー・フレザーは最近どうしているのだろうと思いwebを検索してみると、何と今年2013年の10月22日,24日に42年ぶりの来日公演があったらしい。近年は東日本大震災へのチャリティーや、幼児虐待防止キャンペーンなどの社会活動も行っているとのことだ。
以前の記事でも取り上げたものだが、フリーというバンドについては、渋谷陽一氏の次の文章が核心をついていると思う(渋谷陽一『ロック ベスト・アルバム・セレクション』:新潮文庫)
フリーのサウンドの最大の特徴はやはり重く落ち込み、そして決してネバつかないあの独特のリズムといえるだろう。ローリングストーンズが黒人音楽やスワンプサウンドを真似て重いネバつく音をつくりあげたとするなら、フリーはブルースから離反していく過程で重いリズムを獲得したといっていいだろう。フリーはあくまでも白人独特の疲労感と痛みを歌うグループなのである