WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

夜のブルース

2010年05月31日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 271●

New York Trio

Blues In The Night

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 遅ればせながらだが、かのSwing Journal 誌が6月17日発売の2010年7月号をもって休刊するらしい。Swing Journal 誌の編集姿勢については賛否のあるところであろうが、やはり寂しい。当然のことながら、私がjazzを聴きはじめるずっと以前から存在していた雑誌であり、私にとっては空気のようにずっとそこにあることが当然のような雑誌だった。実際、私自身も定期購読していた時期があった。1990年代の末から2000年代前半だったろうか。ちょうど、venus レーベルが宣伝攻勢を強めた時期でもあり、おかげで私のCDコレクションには結構な枚数のvenus盤が含まれることになった。Swing Journal 誌のバックナンバーコレクションも一時は寝室の書棚を圧迫する程たまったのであるが、これは数年前に思い切って処分した。結局、あまりの広告の多さに辟易し、また広告掲載作品の論評での評価が妙に高いことや選定ゴールドディスクの不可解さなどに疑問を感じて定期購読はやめにしたのであるが、今思えばそういう我々一人一人がSwing Journal 誌のようなJazzジャーナリズムを支えていた訳だった。編集長の三森隆文氏は「何とか復刊を目指し、努力したい」と話しているらしいが、がんばってもらいたい。復刊の折には、是非また購読したい。

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 今日の一枚は、ビル・チャーラップ率いるニューヨーク・トリオの2001年作品『夜のブルース』である。venus レーベルの一枚だ。なかなかいい作品だ。ジャケットよし、選曲よし、演奏よし、録音もかなりよしだ。ただ、へそ曲がりな私は、venus レーベルの作品を聴くといつも一関「ベイシー」のマスター菅原昭二(正二)さんの次のことばを思い出してしまう。「何時の頃からか、ジャズの録音を物凄く"オン・マイク"で録るようになった。各楽器間の音がカブらないように、ということらしいが、もともとハーモニーというものは、そのカブり合った音のことをいうのではなかったか!?」(『ジャズ喫茶「ベイシーの選択』講談社1993)

 まあしかし、そんな偏屈なことを考えなくとも十分気分良く楽しむことのできる作品である。今夜の酒もすすみそうである。今日の酒は、土佐『酔鯨中取り純米酒』、つまみは情熱工房ねの吉の「情熱クリームチーズ」である。仙台で親戚がつくっているチーズなのだが、これがなかなかうまい。「夜のブルース」と「酔鯨」と「情熱クリームチーズ」のせいで、今夜も飲みすぎそうである。


庭球する心・JAZZする心

2010年05月22日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 270●

Bud powell

Bouncing With Bud

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 ソフトテニスをやっている中学3年生の長男の中学総体地区予選が来週にせまっている。今日も午前中は練習、午後からはO中との練習試合を行ったようだ。新人大会地区第3位の実績をもち今回も第3シードのO中最強ペアに2戦2勝だったということで、長男も気をよくしているようだ。めずらしく意欲を燃やしている長男のためにも、テニス素人にもかかわらず一生懸命指導してくれている顧問の先生のためにも、何とか県大会ぐらいには進出してほしいと思っている。

 親バカの私は、数日前、意識向上を期して、長男に早稲田大学庭球部OBの福田雅之助氏の有名な言葉を贈ったのだが、ちょっと反抗期の長男は意に介さなかったようだ。この言葉は、テニス関係者なら誰でも知っている有名なもので、松岡修造氏がウインブルドンでベスト8を決めるマッチポイントの時、大きな声で叫んだことでも知られている。たしか、マンガ『エースをねらえ!』にも登場したような気がする。この言葉を改めて読んでみると、単純な私などは涙がでできたりする。

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   この一球は絶対無二の一球なり
   されば身心を挙げて一打すべし
   この一球一打に技を磨き体力を鍛へ
   精神力を養ふべきなり
   この一打に今の自己を発揮すべし
   これを庭球する心といふ

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 有名な「この一球は絶対無二の一球なり」というフレーズもさることながら、最後の「これを庭球する心といふ」というところが何ともいえずいい。私はここに涙してしまう。

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 今日の一枚は、バド・パウエルの晩年1962年にコペンハーゲンで録音された『バウンシング・ウィズ・バド』である。バド・パウエル渡欧後の作品である。当時若干16歳のベーシスト、ニールス・ペデルセンが参加していることからも注目されるアルバムである。

 評価は分かれるだろうが、晩年のバドの作品を基本的に好きだ。多くの批評家はこの作品をバド晩年の名盤のひとつに挙げているようだ。私のもっているCDの帯にも「1962年4月26日にコペンハーゲンで録音された名盤中の名盤」と記されてある。たまたま手元にある『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社+α文庫)も「晩年の彼は決して絶頂期の閃きを取り戻すことはなかったが、体調のいいときはかなりいい録音を残した。アップテンポで録音される③などまさに驚くほどの出来で、指は一度ももつれることなく、安定したソロを展開する。」としている。もちろん、このアルバムを評価しての文である。ただ間違っているわけではないが、考えようによってはちょっと失礼な言い方ではある。

 しかしである。ときどき考えてしまうのだ。ジャズ史的にあるいはジャズピアノ史的に聴くのでなければ、バド・パウエルのような「古い」ピアニストを聴く意味とは何だろうかと……。指のもつれない、スムーズで安定した演奏ならば、カクテルピアニストやきれい系ジャズピアニストの得意とするところである。そもそも演奏技術の発達した現代のピアニストの演奏は基本的にスムーズである。それでは、われわれが「古い」演奏に求めるのは何なのだろう。私は、楽曲の中心にある芯のようなものがより素朴な形で表現されているということだと考えている。それはいわば、《JAZZする心》だ。「古い」演奏には、《JAZZする心》が素朴な形で現れているのだ。それが、現代を生きる我々の心をとらえて話さないのではなかろうか。その意味でも、この作品を含めて、私が晩年のバド・パウエルを基本的に好きな理由は、指がもつれないとか、演奏がスムーズで安定しているとかのためではない。バドが多少不調でも、そこにはまぎれもなく《JAZZする心》が宿っており、たとえたどたどしい語り口であっても、楽曲の芯を弾きあてているような気がするのである。

 演奏が安定している本アルバムは、そのことがよりベターな形で現れているというべきなのだろう。

 

 

 

 


逃避行

2010年05月19日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 269●

Joni Mitchell

Hejira

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 ジョニ・ミッチェルの1976年作品『逃避行』、70年代の彼女の傑作といっていいだろう。素晴らしいサウンドだ。ジョニ・ミッチェルその人が弾いているらしいギターもさることながら、やはり何てといっても、ジャコ・パストリアスのエレクトリック・ベースが印象的だ。ベースをリズム楽器の地位から解放し、サウンドに広がりと奥行きをもたせ、あるいはサウンドそのものの中心となるアンサンブル楽器として、ベースにまったく新しい地位を与えている。

 私のもっているCDの帯には、「すさまじいまでの迫力を小編成のバックとともに気迫に満ちた音で描き出す内面的作品。」と記されている。私もそのように認識していた。ジョニの他の作品同様、歌詞も意味ありげで興味深いものが多く、まったく「内面的作品」というべきものと思っていた。だから、深夜に歌詞カードを眺めながらひとり静かに聴いていたものだ。

 ところが、である。この2~3日天気がいいので、お昼休みに海沿いを車で走ってみたのだが、たまたまナビのカーステレオのHDDからジョニのこのアルバムが流れ、印象がまったく変わってしまった。気持ちがいいのである。爽快である。よく晴れた日の昼休み、海岸通りをドライブしながら聴くジョニ・ミッチェルの『逃避行』。最高だ。もう、「内面的作品」などどうでもいい。私はただ、爽快で心地よいサウンドの中にいる。意味ありげな歌詞もとりあえずカッコにくくっておこう。私の新しいジョニ・ミッチェルの聴き方である。


音楽がある限り

2010年05月16日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 268●

Denny Zeitlin

As Long As There's Music

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 昨日は、しばらくぶりの完全なオフだった。午前中は庭に花を植え、午後からは私の住む街のホテルの温泉で次男と日帰り入浴、夕方からは、次男とともにスイミングクラブで泳いだ。

 そういえば、昨日は私の誕生日だった。沖縄返還の日でもある。新聞やテレビは、連日、沖縄の基地の問題でもちきりのようだ。基地のもとでの沖縄の苦悩を顕在化させ、日本人全体の問題にしようとした鳩山政権のポーズは悪くはなかったが、やり方が稚拙すぎた。思ったことを素直に何でもしゃべり、すべてをオープンにすればよいというものではない。中学生の学級会のようだ。裏がないのである。利害関係がもつれるような重要な問題を遂行する時は、周到な水面下での交渉が必要だ。「汚い」取り引きも必要かも知れない。そのためには、秘密が必要なのだ。時には仲間をも欺くことだって必要かも知れない。ヘンリー・キッシンジャーが中国との国交を樹立したようにである。

 徳之島の人たちを見て、沖縄のためにちょっとぐらい引き受けてあげればいいのに、と住民のある種の「身勝手」さを感じてしまうのは、私が自分の問題として引き受けていないからであろうか。もちろん、徳之島の人たちが自分たちの生活を守ろうとするのは当然の権利であろうし、それを責めることはできまい。しかし一方、日米安保体制を堅持し、国内移設という前提で沖縄の負担を軽減するのであれば、どこかの街が引き受けねばならない。沖縄には同情してその現状を嘆きながらも、問題が自分に及ぶようになると、全体的な視点で考えることは困難になる。そういうものだ。総論賛成、各論反対という感じか。

 国民みんなが批評家になってしまった感がある。自分たちの問題として引き受けていないということだ。それにしても、こういう話になっていつも犠牲になるのが「辺境」の地というのは心苦しい。そんなに日米安保体制が必要ならば、しかも国外移転も無理というアメリカの意向に逆らえないのであれば、いっそ最も人口の多い首都東京が引き受けるべきではなかろうか。例えば、たいへん恐れ多い話ではあるが、天皇陛下に京都にお移りいただき、あの広い皇居に基地をつくるというのはどうだろう。アメリカの半植民地として正しい遇し方かも知れない。荒唐無稽な話で、都民や右翼の方々に怒られそうであるが、米軍基地の問題を、他人事ではなく真に国民全体の問題として考えるにはそのくらいのことが必要ではなかろうか。

 私も含めてだが、昨今の他人事のような沖縄基地に関する議論を聞いて思いおこすのは、太平洋戦争末期、本土決戦の時間稼ぎのために、沖縄を犠牲にした昭和天皇である。

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 精神科医をしながらジャズ・ピアニストとして活動するデニー・ザイトリンの1997年録音作品『音楽がある限り』である。venus盤である。精神科医の演奏する音楽だからって小難しいことは一切ない。若い頃はいろいろ実験的なこともやったザイトリンだが、このアルバムから感じるのは、題名のとおり、ただただ音楽を奏でることの喜びである。⑨ I Fall In Love Too easily 、美しい曲だ。ああせつない、このやるせない哀しみ何だろう。

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 この記事をupした後、法政大学の田中優子先生が(正確には田中さんのお母さんが)同じようなことを述べられているweb記事に接した。内容のある記事なので紹介しておく。

http://onnagumi.jp/koramu/anosuba/anosuba43.html

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フルハウス

2010年05月15日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 267●

Wes Montgomery

Full House

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 忙しく疲れた一週間だった。仕事も忙しかったが、身体が疲れている。先週の日曜日に長男とテニスをしたのがきいているようだ。先週の日曜日、中学3年生になったテニスのローカル大会があったのだが、惨敗。たまたま会場に居合わせたテニスに詳しい知人にご教示願ったところ、いくつかの問題点を指摘され、その夕方、急遽、市営テニスコートを借り、「老体」に鞭打って長男とサービスとボレーの練習をしたのだ。まったくもって、親ばかである。

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 今日の一枚は、ウェス・モンゴメリーの1962年録音作品『フルハウス』である。当時のマイルス・デイヴィスのリズムセクションにジョニー・グリフィン(ts)を迎えて演奏されたライブ録音アルバムである。

 ライブ録音であることを忘れてしまうようなしっかりした演奏である。バンド全体がまとまっており、サウンドが安定しているので、安心して聴ける。安心して聴けるが、ノリのよさはやはりライブ演奏のなせる業なのだろう。心が躍る。知らず知らずに足でリズムをとっている有様である。

 私にとって、ウェスの作品の中では、最初に購入したものだった。買ったのはいつ頃だったろう。1980年代であることは間違いないだろう。CDが出始めの頃のものだ。AADと記されており、決して音質がいいとはいえない。けれども、ずっとこのCDを聴き続けている。古いCDでも演奏の素晴らしさは十分に伝わってくる。演奏自体の質の高さはメディアによって翳らない、ということだろうか。近年、音質の良いCDが次々に発売され、再購入の欲望を刺激されるが、そのことを肝に銘じ思いとどまっている。

 「いーぐる」の後藤雅洋氏は、この作品について「メンバーの相性、楽器の組み合わせがいい。ジョニー・グリフィンの黒々としたテナーにウェスのグルーヴィーなギターがからみ、これをウイントン・ケリーのリズミカルなピアノが支えるという構図は、ギター・クインテットの1つの理想形だろう。」と賛辞のことばを記しているが(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、なるほど、まったくその通りだと思う。


黒い空間

2010年05月11日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 266●

浅川マキ

黒い空間

~大晦日公演 文芸座ル・ピリエ 1992~

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 浅川マキが死んだのは、今年(2010年)の1月17日だった。ライブのために名古屋に滞在中、ホテルの浴室で死亡しているのを発見されたという。"アンダーグラウンド"と"アングラ"を混同してはならないと主張し、「時代に合わせて呼吸をする積りはない」と語ったという浅川マキらしい死に方だ。高校生の頃、私の街で浅川マキのLIVEがあることを地元紙で知ったが、青臭いロック少年の私はその特異な存在感を十分に理解できず、結局まだ若い彼女の歌声に接する機会を逃してしまった。私が浅川マキの音楽にやっと何かひっかかりを感じるようになったのは30歳近くになってからだった。

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 浅川マキのLIVEアルバム『黒い空間』。1992年の大晦日に文芸座ル・ピリで行われた公演の実況録音に1994年に新録された2曲を加えた作品である。浅川マキのアルバムの多くは廃盤になっており、このアルバムも永らく廃盤扱いで中古市場では高値がついていたようだが、浅川の死のため復刻されたのだろうか、HMVのwebでこのアルバムを発見、早速買い求めてみた次第である。

 初期浅川の作品しか知らなかった私にとってはちょっと意外だったが、サウンドがジャズっぽい、というかジャズである。渋谷毅・川端民生・植松孝夫らバックのプレーヤーもなかなかに好調である。特に渋谷毅の美しく、狂おしいピアノは特筆ものである。しかし、闇の中から立ち上ってくるようなその歌声は、まぎれもなく浅川マキのあの特異な世界である。「しかし、ここには60年代から70年代にかけての《新宿》が、残像のように立ち上がる」とは、広瀬陽一氏の言であるが(Beat Sound No.3-2004)、かつての新宿の雑多で混沌とした雰囲気がアンダーグラウンドを標榜する浅川マキの世界の背後にあるということだろうか。

 1980年代初期に渋谷で青春時代をおくった私は、新宿の《汚い》雰囲気がどうしても好きになれなかった。けれども同時に公園通りの《きれいな》文化にも同化できず、道玄坂界隈の《混沌とした》文化にシンパシーを感じてしまう私にとって、浅川マキの音楽はアンビバレントで複雑な感情を湧きおこす存在である。それは、《雑多》や《混沌》への憧れと嫌悪であり、上の世代に対する共感と否認のような気がする。

 ところで、音がいい。終生、作品の音質にこだわり続けたという浅川にしてみれば当然の事なのであろう。しかし、エコー処理された「きれいな音」にはやはり違和感がある。浅川マキの音楽には、もっとざらざらとし、ごつごつとした手ざわりの音がふさわしいように感じるのだが、それは浅川マキの世界をあまりに固定的にとらえすぎる感想だろうか。


「ホヤ」の季節だ!

2010年05月05日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 265●

Ray Bryant

Ray Bryant Plays

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 もう春だ。私にとって、春は「ホヤ」の季節でもある。私の住む三陸海岸でも「ホヤ」が普通にスーパーに並ぶようになった。「ホヤ」はグリコーゲンが豊富で、海のパイナップルなどともいわれ、私の住む地方ではメジャーな食べ物であるが、他の地方ではほとんど知られておらず、大学生の頃にそのことを知って愕然としたものだ。私にとっては、この季節になると、どうしても食べたくなる食材のひとつだ。若い時分、愛知県で働いていた頃には、名古屋の市場でやせた「ホヤ」を見つけて買ったものの美味しくなく、どうしても美味い「ホヤ」を食べたくなって、新幹線料金を払って仙台までUターンで「ホヤ」を買いにやってきたこともある程だ。

 「ホヤ」を食べると、次に飲んだものに甘みがでてくる。昔、伊達の殿様が「ホヤ」を食した後に水を飲み、この名水はいったいどこの水だと聞いたというのは地元では有名な話だ。「ホヤ」を食しながら飲む日本酒は本当に美味い。私自身、現在のように日本酒にはまった理由のひとつは「ホヤ」にある。

 GWの最終日ということもあり、ゆっくり日本酒を飲みたいと考え、近所のスーパーで「ホヤ」を5つ買ってさばき、半分を実家におすそ分け、もう半分を日本酒の「おしばて」とした。「ホヤ」ももう1ケ88円になっており、本格的な「ホヤ」の季節である。今日の日本酒は、金紋両国の「福宿 無濾過原酒 あらばしり 吟醸酒」だ。地酒である。「ホヤ」とともに飲む酒はさすがにうまい。雑味が消し去られまろやかな風味になる。また、楽しみな季節がはじまる。

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 今日の2枚目である。レイ・ブライアントの1959年録音作品『レイ・ブライアント・プレイズ』である。原盤が超マイナーなレーベルSignatureだったため、かつては"幻の名盤"と呼ばれたらしいが、CD時代の近年はピアノトリオの定番として大人気を博している。いつも思うのだが、レイ・ブライアントの作品は、基本的に上品である。彼の演奏を聴くといつも「端正」ということばを思い出す。清く正しく美しくとまではいかないが、良くも悪くも下品なところがなく、ソフィストケートされている。それが退屈に感じることもあるが、無性に恋しくなり、じっくり聴きたくなることもある。私にとって、ピアノトリオといわれて、まず思い浮かべる「基本の」ピアニストの1人である。

 あまり休めなかったが、GW最後の夜だ。今夜はレイ・ブライアントの端正なピアノを聴きながら、「ホヤ」と日本酒をじっくり味わいたい。

 


バッド!ボサ・ノヴァ

2010年05月05日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 264●

Genne Ammons

Bad! Bossa Nova

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 気持ちのよい朝だ。GWも今日で終り。ほとんど休みはなかったが、それでも昨日はオフ、さてどこに行こうかと思案していたところ、朝の県内版ニュースで、楽天vs西武のニ軍戦に菊池雄星くんが登板するとの情報を得、次男と妻を伴って、急遽、Kスタへ向かった。ニ軍戦とはいえ、GWで雄星くん登板ということもあり、満席に近い状態(外野席は開放せず)、選手の半分程度は一軍でなじみの選手であり、なかなか楽しめた。試合の方は楽天の負けということで残念だったが、それなりに見せ場もあり、面白かった。西武の雄星くんは、5回まで無失点の投球だったが、内容はあまり良いとはいえない気がした。チャンスで楽天打線のいい当たりが再三再四、野手の正面ライナーという幸運(不運)があったからだ。何より、玉が遅い。150㌔以上の速球を投げるという鳴り物入りで入団した雄星くんであるが、昨日は130㌔台後半が大半、141~2㌔の玉も少しあったが(MAX 147㌔)、速いとは全然感じなかった。甲子園で無理をして投げて、肩を壊してしまったんじゃないかと思ってしまうような投球であり、一軍はまだ無理かなと思った。

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 今日の一枚は、ジーン・アモンズの1962年録音作品『バッド!ボサ・ノヴァ』である。1962年といえば、スタン・ゲッツのボサ・ノヴァ作品の大ブレークで、世界的なボサ・ノヴァ・ブームが巻き起こった年だが、ジーン・アモンズのボサ・ノヴァは一味も二味も違う。ボサ・ノヴァの爽やかで軽快なリズムをバックに、ジーン・アモンズはブルースフィーリング溢れるサックスを吹きまくる。まさに、吹きまくるという表現が適当だろう。このへんが、「バット」の所以なのだろうか。②「カプランジ」が耳について離れない。「ジャングル・ソウル」というサブタイトルがぴったりだ。単純で土着的ともいえるリズムの繰り返しをバックに、《どブルース》といいたくなるようなサックスが展開される。これが9:35も続くのだ。はじめはそれほどでもないのだが、聴いているうちに、演奏に引き込まれ、リズムに身体が同化してしまう。ところどころでアクセントをつけるバッキー・ピザレリとケニー・バレルのギターもなかなかの聴きものである。ブルース感覚溢れるプレイで充満しながらも、結果的にはきちんとボサ・ノヴァ作品に仕上がっているところがまたいい。

 難点をあげるならジャケットである。なんかちょっと汚い感じだ。芸術を私が理解できないだけなのだろうか。絵の具を吹き飛ばしただけのようなデザインは、小学生のやっつけ仕事にしか見えないのだが……。私としてはあまり手に取りたくないジャケットである。これも「バット」の所以なのだろうか。


スカーレットの毛布……青春の太田裕美(21)

2010年05月03日 | 青春の太田裕美

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 太田裕美の1978年作品、『海が泣いている』のCDを買ってみた。確かにLPを所有していたはずだが、いくら探しても見つからないため、CDを買ったのだ。やはり、記憶どおり、当時流行のLA録音で、ギターはリー・リトナーだった。さすがにいい演奏だ。録音も良い。太田裕美のアルバムの中でも評価の高い一枚である。しかし、どうも当時の印象と違う気がする。やはり、太田裕美はアナログ盤で聴くべきものなのだろうか。それとも時代が変わってしまったという事だろうか。 

 ①「スカーレットの毛布」に懐疑的である。webで検索するとファンの間ではかなり高い評価をえているようだ。軽快なリズムにのせて、当時流行のAOR的なシティーポップが展開される。今聴いてもお洒落なサウンドだ。クオリティーの高い音楽をめざし、太田裕美が名実ともにアイドルを脱皮して《アーティスト》へとテイクオフしようとする意欲がうかがえる。実際、悪い作品ではない。当時の私も拍手喝采を送っていたのかもしれない。 

 しかし、である。この違和感はなんだろうか。今という地点からみると、私の考える太田裕美的世界ではないということになろうか。この曲を太田裕美が歌わねばならない《必然性》が感じられないのである。お洒落なサウンドではあるが、リズムに、メロディーに同化できない。歌詞をじっくり聴く気にもなれない。どのような詞なのか、興味が湧かないのである。太田裕美的名曲とは、聴衆と時代を共有し、太田裕美そのひとでなければ表現できないと思われるような世界を表現したものだった。この曲にはそれが感じられない。サウンドのクオリティーは高いが、太田裕美的必然性がどうしても感じられないのだ。もちろん、こう考えるのは聴き手の勝手な思い込みであり、私の独善的な思考のなすところである。けれども、「音楽」というものが、演奏者と聴き手の関係性によって成立する限定された時間と空間なのであると考えると、この曲に対する高い評価というものに懐疑的にならざるをえないのである。どうやら、「スカーレットの毛布」は、私にとって時間というろ過装置をくぐりぬけられなかった作品といえそうだ。 

 このアルバムで私が太田裕美的世界を感じるのは、例えば「茉莉の結婚」であり、「水鏡」である。

 


こんなレッド・カーランドが好きだ!

2010年05月01日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 263●

Red Garland

When There Are Grey Skies

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 今日からGWである。いい天気だ。HCをつとめるバスケットボールチームの練習につきあわねばならないため、今年もゆっくり休めそうにない。最近、バスケットボールの練習に付き合うのが億劫になってきた。年のせいだろうか。思えば、週休2日になってだいぶたつが、休日をゆっくり過ごしたことなど数えるほどしかない。忙しい忙しいといっているうちが華なのだろうが、やはりもうそろそろ休日をゆっくりしたいなと考える今日この頃である。

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 レッド・ガーランドの1962年録音作品、『ホエン・ゼア・アー・グレイ・スカイズ』である。CDには、ボーナストラックとして⑦「私の青空」が収録されている。しっとりとしつつ、溌剌とした演奏で今日の天気にぴったりだ。ブルースフィーリング溢れる③「セント・ジェームス病院」の名演で名高いこのアルバムであるが、私が聴くのは①「ソニー・ボーイ」と⑥「誰も知らない私の悩み」である。静謐で、一音一音が繊細に、ゆっくりと奏でられるメロディーに身体が同化し、全身が脱力していくのがわかる。横になり、目を閉じて、音楽に身をゆだね、深く堕ちてゆきたい。

 こういうレッド・ガーランドは大好きだ。