WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

しあわせ未満……青春の太田裕美④

2006年08月28日 | 青春の太田裕美

Scan10008_10  太田裕美の1977年作品「しあわせ未満」のシングルレコードがあった。実家の物置から発見されたのである。保存状態もよく、まだまだ十分聴ける代物である。

 いい曲だ。ジャケットもかわいい。しかし、この詩はなんだ。(今風にいえば)ナンパして同棲をしたが、ピンボーで生活が苦しく、「部屋代のノックに怯え」たり、「指にしもやけ」ができたりした彼女を不憫に思い、「もっと利口な男探せよ」とか「もてない僕をなぜ選んだの」とかいってしまう男の歌なのだ。その女性を気遣う心の純粋さを歌ったものだ。「思いやり」の

2_7なのだ。

   しかし、現在という地点から考えれば、生活力も責任感もない男の自己弁護・自己慰安の詩ととらえられても仕方のない部分がある。意地悪くいえば、女性を思いやる「優しい心」が、生活力のない男のみじめさを隠蔽している。以前、他のところでも書いたが、「心の純粋さ」に高値のついた1970年代にしか存立し得ない歌詞だ。

 F・ニーチェならば、弱者のルサンチマンにすぎないときって捨てるであろう。そしてそれは、残念ながら、恐らくはあたっている。当時の「心の純粋さ」と社会的な「弱わさ」とは微妙にリンクしていたように思われる。 学生運動などの挫折の後、ちょっとやそっとでは変わりそうもない世界に対する無力感と違和感とが、若者たちを自己のうちに閉じこもらせ、独我論的な方向へと向わせたのである。そういう意味では、体制や世界に対するひ弱な異議申し立てと言えなくもないだろう。自閉した若者たちは、汚れた外の世界との対比において、汚れなき「心の純粋さ」に正義を見出したのである。

 にもかかわらず、われわれにとっては大切な歌である。多かれ少なかれ、われわれの世代はそのようなひ弱な「心の純粋さ」を持ちながら、ある者はそれを武器に、ある者はそれと決着をつけずに留保したまま、ある者はそれと格闘して乗り越え、もう一度世界に立ち向かおうとしたのだから……。

 歌詞の最後の「あー二人、春を探すんだね」というところが、せめてもの救いである。この二人は、今頃どういう生活を送っているのだろうか。


チャールズ・ロイドのThe Water Is Wide (加筆)

2006年08月27日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 36●

Charles Lloyd    

The Water Is Wide

Scan10008_12 Charles LloydThe Water Is Wideについて、何か語りたい。言葉がでてこない。語れない。けれども、とにかくすごいアルバムだ。ことばが出てこないほどすごいアルバムだということだ。

Charles Lloydは、すごい奴だ。かつて、無名のキース・ジャレットを見出し、ミシェル・ペトルチアーニを見出した。このThe Water Is Wideでもまだ出始めのブラッド・メルドーを起用しているのだ。それだけでも凄いことじゃないか。おまけに、1960年代後半の名作『フォレスト・フラワー』の爆発的ヒットの後、「心の雑草を摘み取る庭師になろう」といって、音楽活動をやめてしまった。かっこいい。かっこいいではないか……。ちょっと恥ずかしいが、私はこういう話が好きだ。ジャズにはこういう話がいくつかある。例えば、ソニー・ロリンズ。絶頂期に突然引退して橋の上で練習していたなんて、すごいじゃないか。かっこいいとしかいいようがない。

 次の言葉は、『Swing Journal』83年5月号に掲載されたチャールズ・ロイドの復活時のインタビュー記事である(ライナーノーツより)。

 「デビューしてからクァルテットを解散するまで、私は常に静寂を求め、平和と自己の幸福を知らなければならない、というメッセージを抱いていた。ここ10年あまり、私は菜食主義になって瞑想にふけり、禁欲的な生活を送り、苦行し、ベーダの研究をし、クリシュナ、ブッタ、キリスト、アラーなどのことを学んだ。自分自身が何者であるか、それを知るために努力を続けてきたんだ。もうジャズ界にカムバックするつもりはなかったし、ビッグ・サーでの静かな生活を一生送るつもりでいた。」

 隠遁していたロイドを復活させたのは、ミシェル・ペトルチアーニの ピアノだった。ロイドを訪ねた当時無名といってもよいペトルチアーニのピアノを聴いて、彼は音楽の世界に戻ってきたのだ。かっこいい話ではないか……。

ところで、ロイドの近年の傑作The Water Is Wide。何と表現して良いか言葉が見つからないが、深遠なアルバムだ。ポップで判り易い曲Georgia (ジョージア・オン・マイ・マインド)からはじまるのだが、ガラス細工を優しく扱うような、デリケートな音づかいだ。そして、それ以降は豊饒で深遠な世界だ。宗教的あるいは哲学的雰囲気すら感じるが、全然小難しい音楽ではない。音がゆっくりと流れ、心臓の鼓動が同化していくのが感じ取れる。

 「静謐」……。私は、このアルバムを聞くといつもこのことばを思い起こす。神秘性すら感じさせる豊饒な音の世界を聴きながら、実は、音と音の間の無音の空間を感じている気がする。そもそも音楽とは音だけではなく、音と無音のコントラストから成立しているのではなかったか。その世界は、まさしく「静謐」だ。そして、すべての演奏が終わった時、私はその静謐な余韻の中に、じっとたたずむことになる。そこには静寂だけがある。放心状態になり、椅子から立ち上がれなくなってしまうこともある。けれども、それは至福の時間だ。解放された制約なき時間。

 音楽を聞きながら感動し、聴き終わってからさらに感動する。まったく稀有なアルバムである。

 CDの帯にはこう書かれている。「緩やかに流れる大河の如く

その通りだ。


遠い夏休み……青春の太田裕美③

2006年08月26日 | 青春の太田裕美

Scan10005_3  アルバム『手作りの画集』収録の「遠い夏休み」。"いまでもファン"の多くが支持する名曲である。もちろん、私も大好きだ。日本的な哀愁を帯びた旋律、古き良き(?)日本の情景を思い出させる歌詞。思わずジンときて、涙腺が緩みそうになる。

 しかし、歌詞の描く世界が妙に遠くに感じるのはどうしたことだろう。「ランニングシャツ」「小川で沢ガニ」「夕焼け道」などのことばは、現代の生活の中ではリアリティーが薄くなってしまったのではなかろうか。おそらく、ある年代以下の人間にはもはやイメージできない情景だろう。「カタコト首振る古扇風機」「線香花火に浮かんだ顔」「(髪の毛を)風でとかした」などの表現から伝わってくるノスタルジックなニュアンスもぴ2_2んとこない人が多いに違いない。

 1970年代とは社会も生活も風景も感性も大きく変わったことを感じざるを得ない。かつては、地方はまぎれもなく「田舎」や「国」であり、人々の心の中には「田舎」の原風景が存在したのである。

 高度資本主義は、都市と田舎の境界を解体し、日本列島の均一化を推進してきた。そして、今や日本全国どこにいってもコンビニエンスストアーにがある時代になったのである。多くの若者が旅先で安堵の感情をもつのは、心の原風景に触れることではなく、コンビニがここにもあったということであるという。

 

 

 

 

 そんなことを考えつつ、「遠い日の夏休み、もう帰らない」という歌詞をしみじみとと噛み締めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのオリンピア・コンサート

2006年08月26日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 35●

Art Blakey' Jazz Messengers  

Olympia concert

Scan10007_8  アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズの『オリンピア・コンサート』(1958年録音)。名盤だ。若い頃は、こういうのは、馬鹿にして聴かなかったのだった。何というか、おじさんが昔を懐かしんで聴くレコードだと思っていた。今、私はれっきとしたおじさんになった。最近、この手のハードバップが無性に好きになり、アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズのCDもいくつか買った。。きっと、年のせいだ。ただ、昔を懐かしんでいるわけではない。なぜか、すっと身体に入ってくるのだ。すっと入ってきて、心が躍る。

 名盤『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』と同じツアーの録音である。どちらもすばらしい、② I Remember clifford によって、私はこちらが好きだ。②はリー・モーガン(tp)のベストプレイではないだろうか。曲の良さはもちろんだが、音の震えがなんともいえなくいい。熱狂の中のライブ録音ながら、繊細で情感溢れる演奏だ。リー・モーガンが当時弱冠20歳だったなんてちょっと信じられないほどだ。⑦ Whisper not もいい。私の知っているこの曲の演奏でベスト5にはいる。

 それにしても、称えるべきは、ベニー・ゴルソンのアレンジである。彼なくしてはこの時期のジャズ・メッセンジャーズは語れない。ゴルソン・ハーモニーはもはやひとつのカテゴリーといってもいい程だ。ただ、プレイヤーとしてのゴルソンについては、存在感の薄さを指摘せざるを得ない。CD付属の小西啓一によるライナーノーツは、

「ただこのライブで、一つ不満があるとしたら、プレーヤーとしてのゴルソンの存在である。いやが上にも盛り上がっている会場だけに、彼も目一杯の奮戦振りを聴かせるが、あのだらだらと長いソロ(?)は、どうも雰囲気を削いでしまう感じがしてならない。作・編曲、音楽監督としては、抜群の才を誇る彼だが、テナーマンとしては、やはりB級の人なのだろう。……」

と手厳しい。


ローランド・カークのドミノ

2006年08月26日 | 今日の一枚(Q-R)

●今日の一枚 34●

Roland Kirk     Domino

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 20年ほど前『名演Modern Jazz』(講談社) という本で故・景山民夫の紹介文によって、ローランド・カークというマルチ・リード奏者を知り、このアルバムを購入して以来、ずっとローランド・カークの音楽が大好きだ。

 盲目の人である。なんでも幼い頃看護婦の手違いで目が見えなくなったらしい。晩年には、脳溢血のため半身不随になり、それでも演奏を続けていたとのことである。きっと、カークにとって音楽こそが世界とかかわる唯一の手段だったのだろう。

 テナーとアルトとバリトンを同時にくわえて吹いたり、フルートやマンゼロにもちかえたり、果てはホイッスルを鳴らしたりと一見キワモノ的な演奏をする男である。が、あのジャズ喫茶「いーぐる」の後藤雅洋さんも

重要なのは、ローランド・カークの演奏技術が彼の音楽表現と不可分に結びついているということであり、決してテクニックのためのテクニックではないという点なのだ。その証拠にカークは、この奏法をのべつまくなしに披露するわけではなく、よく聴いていればわかるが、音楽的に必要と思われるところでしか使用することはない。」とか「ここで重要なのは、それが二人の演奏者がそれぞれテナーとマンゼロを吹いたのでは絶対に表すことができない表現力を獲得している点なのだ。」(『Jazz Of Paradise』Jicc出版局)

 と述べているように、レコードやCDを聴いていてもキワモノ的・見世物的な印象は一切ない。実際、私がカークの音楽を初めて聴いた時の印象も、楽器が不思議に気持ちの良いハモリ方をするなというものであった。

 比較的ポップな曲からなるアルバムDomino は、大好きな一枚だが、しばらくぶりに再生装置のトレイにのせた。アルバム全体を貫く疾走感がたまらない。アドリブはよどみなく流れ、楽器の響きは哀愁を感じさせる。バラード演奏でもないのに、聴いていて涙がでそうになる。聴き終わったあと、何か軽い喪失感のようなものが漂う不思議なアルバムである。


庭のアサガオが咲いた

2006年08月23日 | 写真

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 今年の東北地方(太平洋沿岸)の夏は涼しかった。霧のため楽天イーグルスの試合が中断したのは記憶に新しいが、ああいう気候が続いたわけである。

 庭の草花も平年に比べ咲くのが遅れがちだったが、最近やっと庭のアサガオがコンスタントに咲くようになった。 今年は何種類かの種をまいたので、いつもより楽しめそうだ。


世襲大国ニッポン

2006年08月22日 | つまらない雑談

 今日、家族旅行の帰り、子どもたちと妻にせがまれて、映画『ゲド戦記』を見てきた。はっきりいって、作品が破綻しているし、この映画が撮られる必然性が理解できなかった。機会があれば、この映画に対する批評めいたことを記したいとは思っている。

 しかし、そんなことより、監督・宮崎吾郎とは一体なんだ。妻に聞けば、宮崎駿の息子であるというではないか。何でも昔は親と子の確執があったとかで、きっといろいろ複雑な事情があったに違いない。しかし、スタジオジブリで映画を撮影するとはどういうことか。まったく、失望した。収益と話題性を考えねばならない鈴木プロデューサーはともかく、宮崎駿や吾郎本人は何をどう考えているのだろう。

 省みるに、近年の日本は、世襲制国家あるいは家産制社会である。政治家しかり、芸能人しかり、今度は映画監督かという感じである。経済的な財産の世襲が当然のこととされている以上、エスタブリッシュメントをめざす人間にとっては、親の知名度やコネクションも重要な財産のひとつと考えられてもいたしかたないのだろう。

 しかし、才能や能力を必要とする分野ぐらいは、フェアであってほしいと感情的に思ってしまう。まあ、二世議員や二世芸能人を受け入れてしまう有権者や視聴者のがわに問題があるのだろうが……。

 やはり、我々は二世議員や芸能人あるいは二世監督に対して特に厳しくあらねばならないだろう。経済社会同様、淘汰することが必要である。それが真の良い政治、良い作品を生む土壌になるのだから……。


ホリー・コール・のイエスタディ&トゥディ

2006年08月17日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 33●

Holly Cole Trio    

Yesterday & Today

Scan10008_7  Holly cole trio の 1993年、録音作品、Yesterday & Today を今聴いている。なかなか聴き易くていい。ボーカル、ピアノ、ベースという編成は、意外にいい。サウンドに落ち着きと深みがあり、しかもアコースティックな雰囲気がよく伝わってくる。Holly cole は、この編成のトリオに限る。一時、エレクトリック路線、ポップス路線に移行したようだが、最近また戻ったらしい。当然だ。このようにマッチするトリオはなかなかあるものではない。このトリオでは、ベースの役割が重要だ。深く柔らかい音で、ピアノやボーカルともよく絡むのだ。でしゃばらす、かといって引っ込みすぎず、全体のサウンドをしっかり支え、アクセントをつけ、そして包み込んでいる。

 Holly cole trio は、いまや日本ではけっこうな人気を誇っているようだ。ミーハーといわれるかもしれないが、私はこのトリオが好きで、CDも数枚所有している。このアルバムは、買ったばかりの頃はピンとこなくて、CD棚に放置してあったのだが、ちょっと前にたまたま取り出して聴いてみたらこれが思いのほか良かった。以来、仕事の最中などにときどき取り出しては聴いている。① Alison が好きだ。一緒に口ずさんでしまう。エルヴィス・コステロの曲がこんな風に料理されるなんて素敵だ。ホリー・コールの良さは何といっても、曲の解釈の仕方にある。あの曲をこんなふうに料理しちゃうの……、というのがたくさんあるのだ。そのことこそが、JAZZ的であるといえるだろう。

 ところで、雑誌Swing Journalに 「Swing Journal 選定ゴールド・ディスク」というのがあるが、多くのジャズ・ファンが嘆くように、その選定基準・選定理由が不明確で、なぜこの作品が選ばれるのか、なぜこの作品が選ばれないのかが理解できないことが多い。以前は、この「Swing Journal 選定ゴールド・ディスク」を信用してレコード・CDを購入し、失望したことが何度もあった。Swing Journal誌に巨額の広告料を支払い、カラーの大きな広告をのせることが条件だという噂を聞いたことがあるのだが、本当だろうか。実際、最近は、毎月同誌にカラー広告が載るヴィーナス・レーベルのCDが、選定ゴールドディスクとなることが多いようだ。

 ホリー・コール・トリオは、日本でも人気が高く、それなりにいい作品もあると思うのだが、なぜかSwing Journal誌で取り上げられることが少ない。選定ゴールド・ディスクどころか、紹介記事もほとんどない。不思議だ。1992年の「日本ゴールドディスク大賞」の新人賞とジャズ部門賞を受賞しているのにである。ジャズとして認識されていないのだろうか。ちなみに、近年、大人気の綾戸智絵さんの紹介記事もほとんどない。綾戸智絵さんに対する賛否はあろうが、少なくともジャズシンガーの範疇で扱うことには多くの人は異論はないと思うのだが……。

 ジャズ雑誌も経営的に大変なのはよくわかるが、メディアとしてジャズ作品の良し悪しを伝える使命があるだろう。その意味でSwing Journal誌には紹介記事についてフェアであってもらいたい。


君と歩いた青春……青春の太田裕美②

2006年08月17日 | 青春の太田裕美

Cimg1560_3  アルバム『12ページの詩集』 (1976年作品)収録の「君と歩いた青春」は、隠れ太田裕美ファンの中でも支持者の多い曲だろう。それを裏付けるかのように、1981年には別バージョンでアルバム『君と歩いた青春』が発表され、タイトル曲がシングルカットされている。『12ページの詩集』 は、12人の異なる作曲家の楽曲を太田裕美が歌うという企画で制作されたもので、知る人ぞ知る名盤の誉れ高い作品である。中でも伊勢正三作詞作曲の「君と歩いた青春」は、ファンの間ではいまだに根強い人気を誇る曲である。この曲は、松本隆&筒美京平というそれまでの太田裕美の路線とは異なるものだったが、歌詞のイメージの方向性などは松本&筒美コンビの路線を踏襲したものといえるだろう。 

 2ところで、「君と歩いた青春」の歌詞を今改めて眺めると、1970年代がもはや本当に遠い昔であることを実感せざるを得ない。幼い頃からともに遊んだ恋人と都会で暮らし始めたがうまくいかず、田舎に帰ろうとする彼女に対して男が語る思いやりのことば……。 

  今となっては、生活力のない男の女々しい自己弁護・自己満足のことば、ととらえることもできないでもないが、それを優しさとしてとらえることが可能な時代だったのだろう。思えば、社会全体が優しさを求めていた時代だった。高度成長が終わって人々は目標を見失い、一方、若者は学生運動の終焉とそれに続く連合赤軍事件や内ゲバによって社会変革への夢を閉ざされた。若者たちは「自己」の中に閉じこもり、そこに小さな幸せを見出すようになったのだ。そこで「発見」されたのが、「心」であり、心の「優しさ」や「純粋さ」に束の間の慰安を求めたのだ。  

 おそらく、この時代ほど、「心」というものに高値がついた時代はないのではないか。社会的な活動やエスタブリッシュメントは傲慢な自己主張としてしりぞけられ、純粋な心の優しさが重要な価値となったわけだ。

 皮肉なことに、その後の消費社会の進展と高度資本主義によって、「心」や「純粋さ」や「優しさ」さえも自己慰安的な欲望のひとつにすぎないとされるようになり、パロディーとしてしか成立しえなくなってしまった。資本主義とはまさしく、すべてを飲み込み、すべてを解体してゆくシステムなのだ。 

 恐らく、我々は、もはや1970年代のような「純粋な心」や「優しい心」という夢を見ることはできないだろう。そう思いながらも、この曲を聴きながら、過ぎ去りし「みんなが優しさを求めていた日々」に想いはめぐる。懐かしきは、われらが1970年代である。


ビル・エヴァンスのエクスプロレイションズ

2006年08月16日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 32●

Bill Evans     Explorations

Scan10007_7  今日は、身体の調子が悪く、午後休みをとった。過労だろうか。ところが、家についてみたら、だいぶ具合がよくなたので、音楽でも聴くことにした。

 Bill EvansExplorations 。説明する必要もあるまい。リバーサイド4部作のうちのひとつ、Bill Evans(p)、scott La Faro(b)、Paul Motian(ds) という伝説のトリオの2作目だ。録音は1961年。インタープレイを主体とする現代のピアノトリオのフォーマットを決定づけた作品だ。

 リバーサイド4部作のうち、どの作品が最もすぐれた作品かは、なかなか難しいところであり、いろいろな意見があろうが、少なくとも私が一番よく聴く作品はこのアルバムである。ピアノとベース、ドラムが最もよく絡み合っいる作品だと思うのだ。

 お目当ては、⑤ Nardis 。感動的な演奏だ。ジャズ喫茶「いーぐる」の後藤雅洋さんは、このアルバムについて「彼(エヴァンス)の耽美的な美意識が極限までいってしまったような作品」といい、⑤ Nardisについても「ナルディスの世紀末的な美しさは、ギュスターヴ・モローの描いた、サロメの青白い裸体を思わせるものがある」と評したが(後藤雅洋新・ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)、至言であろう。「ギュスターヴ・モローの描いたサロメの青白い裸体」という部分は知的スノビズムを感じさせやや鼻につくが、「ナルディスの世紀末的な美しさ」という表現は、あまりにぴったりで私の頭から離れない。私はこの演奏を聴くたび、このことばを思い出してしまう程だ。


ソニー・クリスのゴー・マン

2006年08月15日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 31●

Sonny Criss     Go Man !

Scan10013  数日前、インターネットで注文したCDが今日届いた。そのうちの一枚 Sonny CrissGo Man ! を早速聴いてみた。1956年の録音であることを感じさせないいい音だ。モノラル録音であることを忘れてしまいそうだ。どうも最近はやりの24bit デジタル・リマスタリングのようだ。

 とても艶やかなアルトの音色だ。音はどこまでも明るく、どこまでも伸びやかだ。アドリブもメロディアスで歌心に満ちたものだ。しかし、この饒舌さはなんだろう。音数が多く、休むまもなく次の音がでてくる。手もとにある『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社+α文庫)は、「初期の音数が多めなのも、歌おう歌おうとする彼の思いからすれば仕方のないことだと思う」と好意的だが、この饒舌さは尋常ではない。何かにせかされるように、あるいは静寂を恐れるかのように、彼は吹き続けるのだ。それは、うるさいというより、神経症的である。

 ソニー・クリスは、このアルバムから約20年後の1977年、ピストル自殺という衝撃的な人生の結末を迎えるのだが、もちろんこのアルバムとは無関係であろう。しかし、この作品から垣間見ることのできる、何かを求め続けずにはいられないような彼自身の神経症的な資質と後年の悲劇的な結末を関連づけずにはいられないのは、私だけではないかもしれない。


ジョニー・グリフィンのケリー・ダンサーズ

2006年08月15日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 30●

Johnny Griffin     The Kerry Dancers

Scan10012_1  お盆休みも今日で終わりだ。墓参りと親戚まわりを済ませて、ちょっと叙情的なのが聴きたいなと思って取り出したのがこのアルバムだ。 Johnny GriffinThe Kerry Dancers(1961,1962録音)。もちろん、④ The Londonderry air (ロンドンデリーの歌,ダニー・ボーイ)を聴くためだ。やはり、名演だ。さびのところを消え入るようなかすれた音で吹くのが良い。ググッときて、ああ、もう卒倒しそうだ。

  しかし、しばらくぶりに聴いたが、他の曲もすごく良いではないか。はっきりいって全曲あきるところがなく、結局、2回も聴いてしまった。特に、② Black Is The Color Of My True Love's Hair (彼女の黒髪)や⑧ Ballad For Monsieur は好きな演奏だ。⑦ Hush-A-Byeは、彼の作品の中でもかなりの名演ではなかろうか。 

 寺島靖国さんは『辛口!Jazz名盤1001』(講談社+α文庫)の中で、「入門者には『ハッシャ・バイ』だが、そのうち必ず『彼女の黒髪』がよくなる。演奏が深いのだ。一番気持ちがこもっていて、その証拠にテナーの音がギュッと絞りこまれていてそこが聴き物。」といっている。寺島さんもたまにはまっとうなことをいう。「彼女の黒髪」はたしかに感動的な演奏だ。「入門者には…………」という寺島さんらしい権威主義的なものいいは好きではないが、私の好きな「彼女の黒髪」を評価してくれるのはうれしい。 

 全体的になんというか、本当にしばらくぶりにジャズらしいジャズを聴いた感じがする。やはり、ジャズはいい。


9.11テロなど大したことではない

2006年08月15日 | つまらない雑談

 先日の朝、ホームドラマチャンネルでアニメ映画「はだしのゲン」を放映していた。原子爆弾の悲惨さを伝えるドラマだ。朝食中の子どもたちは、テレビに釘付けになり、私は涙が止まらなかった。その中で、ゲンの母親が言った。「戦争が憎い」と……。それは基本的には正しい認識なのだろう。しかし、と思った。原爆を投下し、人々をあのようにしたのはアメリカなのではないか。アメリカが日本をこのようにしたのだと……。もちろん、日本が一方的被害者なのではない。日本が中国侵略や東南アジア侵略でやったと同じように、あるいはそれ以上にアメリカは原爆を使って人々を殺戮したのである。

 アメリカではなく、戦争が憎いといった日本人は、やはり良心的だ。そのような視点は間違ってはいないだろう。しかし、愚かな私は思ってしまう。日本に原爆を落としたように、アメリカはベトナムに枯葉剤をばら撒き、アフガニスタンで無実の人々を殺戮し、そしてイラク戦争でひとつの国をめちゃめちゃにしたのだと……。そして、こうも考えてしまう。わずか数千人が死んだにすぎない9.11のテロなど、アメリカがしてきたこと(そしていまでもしていること)に比べれば大したことはないのだと……。

 無論、それは感情的な思いにすぎない。しかし、戦争が悪いというまっとうな視点からだけでは、アメリカの行為を隠蔽することになりはしないだろうか。

 私は右翼ではない。ナショナリストでもない。被害者としてのヒロシマ・ナガサキを強調することで侵略戦争を隠蔽しようなどとは考えていない。ただ、罪のない多くの日本人が意味なく殺されたことについて、あるいはベトナムやアフガニスタンやイラクで大勢の人々が殺戮されたことについて、憤りの思いを否定できないだけだ。そしてそう思うのは私だけではないだろう。

 戦争と平和の問題は理性的に解決されねばならない。「戦争が憎い」という良心的なスタンスも正しいだろう。しかし、わたしの(そしておそらくは多くの人の)憤りの思いは亡霊のように残り続ける。

 国際政治は、この「思い」の問題を考えなければだめだ。そしてそれはおそらく「赦し」の問題に関係している。


脅威のジャズ喫茶・宮城佐沼「エルヴィン」

2006年08月14日 | つまらない雑談

20060708_1929_001_2 20060813_2132_000 20060813_2132_001 20060813_2141_000 20060813_2142_000

 お盆でたまたま、宮城・佐沼を訪れたので、ジャズ喫茶「エルヴィン」に行ってみた(携帯電話で写真をとったのでかなり不鮮明)。

 ここに来るのは一年ぶりだ。しかし、いってみてびっくり。ジャズはかかっておらず、女性客1人とマスターが、なんとNHK大河ドラマ「功名が辻」を見ていたのだ。客の私が入っていっても、しばらく音楽をかける様子はなく、しばらくは無視された感じ。約5分後、ようやくマスターは椅子から立ち上がり、レコードをかけてくれた。ところが、音量が小さい……、何で……。昨年来た時にはもう少し大音量だったはずだが……。しかもかけてくれたレコードがビル・エヴァンスの『クインテセンス』。実は、昨年来た時にもこのレコードがかけられていたのだ。まさか、一年中同じレコードをかけているわけではなかろうから、単なる偶然であろうが……。

 私は、何故か、十数年前はじめてこのジャズ喫茶を訪れた時、「本当はレッド・ツェッペリンが好きなんだよね」と語ったマスターのことばを思い返してしまった。

 おそるべし、「エルヴィン」……。