◎今日の一枚 361◎
Charlie Parker
Now's The Time
先日アップした、『渚にて』という記事で、「瓦礫焼却場の周囲には広大な瓦礫分別場もあり、かつて美しい渚があったこの海辺の地区は、夜になると辺り一面に照明が点灯され、まるで巨大な要塞都市のようになってしまった」と記したのだが、その風景を記録しておこうと思い立ち、数日前の仕事帰りに写真を撮ってみた。たまたま持っていた ipad mini で撮影したため、手がぶれてあまりよく撮れなかったが、こんな感じだ。ここは海に近い被災エリアなのだが、瓦礫焼却場と瓦礫分別場があり、24時間体制で稼働している。夜になると、360度こんな風景が見えるわけである。
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チャーリー・パーカーの1952~53年録音盤『ナウズ・ザ・タイム』、晩年の「最後の偉大なレコーディング」といわれる作品だ。
同時代にパーカー体験をしたわけでもなく、ジャズを歴史的に研究しているわけでもなく、1980年代からジャズを聴きはじめ、ただジャズを横に並べて超時代的に聴いているに過ぎない私にとって、「ビ・パッブ革命」や「パーカー芸術」の衝撃をリアルに感じることは不可能なのかもしれない。できるのは、ただ頭で理解することだけだ。
パーカーを基準にジャズを聴くという、「いーぐる」の後藤雅洋氏は、『Jazz of Paradise』(JICC出版局:1988)の中で、「僕はモダン・ジャズの本質はジャズ的即興演奏にあると思う」とした上で次のように述べる。
ジャズではビ・パッブ革命において、即興演奏ということがきわめてラジカルにつきつめられたが、たまたまその時出現したチャーリー・パーカーという一人の天才によって、アッという間に人間のなしうる限界と思われるところまで即興性が昇りつめられてしまった。だからモダン・ジャズの本質を即興性とするならば、その歴史の始まりにおいて、もっとも重要な部分はもうそれ以上発展させようがないところまで行ってしまっていたのだ。
すごい結論である。だとすれば、パーカー以降のビ・バップは、そして恐らくはハード・パッブも、演奏者の個性を加味したパーカー・イディオムのバリエイションにすぎないということになってしまう。実際、後藤氏は、即興演奏に焦点を絞ってみた場合、「ジャズに"進歩・発展"はあったのか」と挑発的に問いかけ、次のように語る。
パーカー以降のミュージシャンには、仕方なしにパーカーがやり残した部分を一つずつ埋めていくしか、もはややるべきことが残されていなかった。
恐らくは、後藤氏のいう通りなのだろうと思う。だからこそ、後藤氏もいうように、若い頃にパーカーと行動をともにした、「頭のいい」マイルス・デイビスは、「クール・ジャズ」といわれる構成的な音楽にシフトし、さらにはモード手法を模索していったのだろう。
もちろん、「パーカーのバリエイションにすぎない」と考えるのではなく、そのバリエイションの中で加味される「個性」こそが重要なのだとする立場もありうるだろうし、音楽を聴く立場からすれば、その方がずっと豊かな聴き方であろう。ただその場合でも、演奏のイディオムを完結させたパーカーの偉大さは否定すべくもない。
けれども、後から来た私は、そのように考えてビ・パッブを聴いたことは一度もない。1980年代にジャズを聴きはじめた私にとって、ビ・パッブはすでにそこにある音楽だった。パーカーは、ビ・パッブ期の多くの演奏家の中のひとりであり、パーカー自身がそのバリエイションのひとりだった。ビ・パッブ期の多くの演奏家の中で、私がパーカーの音楽に感じるのは、音の輪郭がはっきりしていて、一音一音がすごく明瞭だということ。アドリブが流麗で力強いこと。そして、流麗な演奏にもかかわらずそこに、荒々しさや激しさをいつも感じることである。
私は、そんなパーカーが好きだ。