WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

パプロ・カザルスの「鳥の歌」(ホワイトハウス・コンサート)

2006年07月31日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 21●

Pablo casals    

A Concert At The White House

Scan10007_5  クラシックものである。チェロの神様パプロ・カザルスのライブ盤である。1961年、大統領J.F.ケネディの招きに応じて、ホワイトハウスで行った貴重なドキュメント盤だ。

 1939年、スペイン内戦は独裁者フランコ軍の勝利に終わる。第二次大戦以降もフランコ独裁政権は続き、失望したカザルスはスペインに民主政府のできるまでステージに立たないと、事実上の引退を宣言してしまう。その後、多くの彼の支持者たちによって何度か音楽祭のステージに引っ張り出されたが、祖国スペインのフランコ独裁政権を承認する国ではコンサートを行わないとの信念を持っていた。したがって、フランコ政権の承認国であるアメリカでコンサートを開くというのはひとつの驚きであったのだ。一般には、ヒューマニズムの指導者ケネディに対する信頼と誠意をあらわそうとしたためだといわれる。

 85歳の誕生日をまじかに控えたカザルスであったが、瑞々しく力強い演奏だ。スペイン民謡の⑪鳥の歌は短い演奏ながら、やはり感動を禁じえない。長くその土地をふんでいない祖国スペインへの深い想いが察せられる。ライブ盤ならではの臨場感も伝わってくる。特に、会場に立ち込めるピレピリした緊張感がすごい。カザルスのチェロの音は、どこまでも深い。クラシックはまったくの素人の私だが、カザルスのチェロの響きには思わす゛聴き入ってしまう。

 1960年代、音楽家も歴史や政治のなかで生きていたのであり、それとの格闘の中で、音楽をつむぎ出していたのである。


ジャニス・ジョプリンのチープ・スリル

2006年07月31日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 20 ●

Big Brother & Holding company  Cheap Thrills

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 基本的にロックはもう聴かない。ロックは死んだ、と考えている。けれどもときどき、無性に古いロックを聴きたくなることがある。まだ魂のあった頃のロックをだ。ある雑誌を読んでいて、ジャニス・ジョプリンが聴きたくなった。チープ・スリル。高校生の頃、繰り返し聴いた作品だ。ところが、レコードもちゃんとしたCDも持っていなかった。エアチェックしたカセットテープで聴いていたのだ。その後、廉価盤のCDを買ったのだが、ちゃんとしたものは持っていなかったのだった。数日前に思い切ってネットで注文したものが、今日届いた。

 やはり、音が良い。1968年の作品なのだが、自分が聴いてきたものよりはるかに良い音質だ。どうもデジタルリマスターの高音質盤のようだ。ライブの臨場感が伝わってきてなかなか良い。買ってよかった。

 チープ・スリルは、ニューヨークのフィルモア・オーディトウリアムでのライブ録音盤であり、ジャニスの名を世に知らしめ、その評価を決定づけた作品だ。8週間も全米チャートNo.1の地位にあったヒット作でもある。ハスキーな声で搾り出すようにシャウトするジャニスのボーカルは、痛々しいほどに生々しい。そこには、本当に伝えたいことばがあり、叫びたい声が確実にあったのだ。バックバンドは、はっきりいってあまりうまくはない。しかし、それがかえって、良い効果をもたらしている。とつとつとしたギターが情感があるのだ。

 やはり、③ Summertime は素晴らしい演奏だ。ジャニスはシャウトし、ファズをきかせたギターはうなりをあげるのだが、不思議なことに、そこには静けさが漂っている。この静けさの感覚がこの演奏の聴きどころだ。④ Piece Of My Heart (心のカケラ)もいい。③よりさらにハードなサウンドだが、やはりどこかに静けさが漂うのだ。この静けさが情感的だ。

 のちに、「ロックは死んだ」と語ったのは、セックス・ピストルズのジョン・ライドンだったが、このアルバムにはまだ死んでいないロックという音楽の魂が確かに息づいている(まあ、「ロックの魂」などという言い方は本当は好きではないのだが……)。

 ジャニス・ジョプリンは、1970年10月4日、ハリウッドのランドマーク・ホテルで死亡した。27歳だった。死因は薬の飲みすぎであると発表された。やはり、ジァニスは生き急いだのだろうか。

    逝ってしまったあんたには  この先ずっと朝がない

    残された俺たちには  来なくてもよい朝がやってくる

                              斉藤隣

 


蛍を捕った!

2006年07月30日 | 写真

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 夜、家の庭で蛍を捕まえました。

 家の周囲は水田で、先日も子どもたちと一緒に蛍を見にいったばかりでした。

 そのうち、模型飛行機で農薬を散布されると、これらの蛍も死んでしまうのかもしれません。


上田知華+KARYOBINのレコード

2006年07月30日 | エッセイ

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 休日だというので、レコード棚を覗いていたら、上田知華+KARYOBINの古いレコードが出てきた。本当はジャズのレコードを聴くつもりだったのだが、あんまり懐かしいのでターンテーブルにのせてみたら、これがなかなかいい。思わず聴き入ってしまった。上田知華+KARYOBIN[3]というレコードだ。

 1980年の制作とあるので、もう26年前だ。そういへば、こういうグループがあったなと、感慨に浸った。当時としては(今でも)めずらしい、弦楽四重奏+ピアノの弾き語りという構成だ。斬新な発想である。上田知華のボーカルがややでしゃばりすぎという感じがしないでもないが、今聴いてもなかなか新鮮なサウンドだ。ヒット曲のA-① パープル・モンスーンは、やはりなかなかいい旋律と詩をもっている。

     とりたての陽射しこぼれる (パープルモンスーン) 

     新しい朝に目覚めて

     曇った心の窓をあけてごらん

     昨日よりステキになれるわ

という詩がなかなか新鮮ではないか。実に80年代的だ。女性が自分を解放して、元気になりはじめた時期の雰囲気が伝わってくる。思えば、80年代前半とは、女性がどんどん自己主張をはじめた時期ではなかったか。渡辺美里のマイ・レボリゥーションなどもこの系列に入るものだろう。そういえば、いまはなき朝日ジャーナルも「元気印の女たち」という連載をしていたではないか。この後、女性はどんどん強くなり、80年代後半のバブル経済の時代には、ジュリアナ東京のお立ち台でパンツを見せながら踊るようになり、1990年代になると、言葉遣いもまるで男のように粗雑なものになるわけだ。

 これはやはり、女性の解放なのだろう。女性の社会進出に異存があるわけではないが、粗雑になりすぎた女性たちを見るのは残念だ、と私は思うのだが、そのような考え方自体が女性蔑視だと、田嶋陽子先生に怒られそうである。フェミニストのみなさんはどう考えるだろうか。

 いずれにせよ、1980年代前半のこのレコードは、これから始まるであろう女性の解放を予感させ、女性たちが自分の心の窓を開いていこうとしていることを感じさせる点で爽快である。


茶色の鞄 …… 青春の太田裕美①  (加筆)

2006年07月29日 | 青春の太田裕美

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 太田裕美が好きだった。青春の一時、アイドルだったといってもいい。ところで、意外なことであるが、私と同世代の人には太田裕美の隠れ支持者が多いようである。飲み会などで、ちょっと昔の思い出話などになると、この「太田裕美」という名前が登場することが多いのである。しかも、ずっと昔の一過性のアイドルというのではなくて、今でもその記憶を大切にしている人が多いのだ。 太田裕美には、周知のように多くのヒット曲があるが、ヒット曲以外の一般的にはまったく無名の曲(アルバム収録曲)を愛する人たちも少なくない。彼ら隠れ太田裕美支持者たちの心の中では(もちろん私もその一人だ)、今でもそうした無名曲が鳴り響いているのである。
 

 10年ほど前、知人と酒を飲んでいる際、ふとしたことから太田裕美の話題となり、その人物が隠れ太田裕美支持者であることがわかったのだが、さらに会話をすすめていくと、彼が愛する曲は「木綿のハンカチーフ」でもなく、「最後の一葉」でもないという。まさかと思って尋ねてみると、なんとアルバム『手作りの画集』収録の「茶色の鞄」という曲だったのだ。その時の驚きはいまでも忘れられない。我々の間に一種の共犯関係のような奇妙な連帯意識が生まれ、互いにニヤッとほくそえんだのだった。そしてそれ以来、実は私は同じような体験を何度かしているのだ。最近、試しにウェッブで検索してみたら、まったく意外にも、この「茶色の鞄」が多くの支持を集めていることがわかった(古いアルバムもいまだに廃盤とならずに、CDとして発売され続けているのだ)。私にとっては、ちょっとした驚きだった。 

 アルバム『手作りの画集』は、よくできたアルバムである。テンポがよく、ポップな旋律をもつ人気曲「オレンジの口紅」からはじまり、ヒット曲「赤いハイヒール」や支持者たちの間で人気の高い「都忘れ」や「遠い夏休み」、「ベージュの手帖」などをへて、最後の曲がこの「茶色の鞄」なのである。聞き飽きしない構成だ。 

 それにしても、と思う。この時代の太田裕美における松本隆という作詞家の詩は、当時の若者の心象風景をみごとにつかんでいるものが多い。まるで、屈折した当時の自分がそこに映し出されているようである。名曲「茶色の鞄」の詩(1番)はこんな風である。 

   路面電車でガタゴト走り  橋を渡れば校庭がある 

   のばした髪に帽子をのせた 

   あいつの影がねえ見えるようだわ 

   人は誰でも振り返るのよ  机の奥の茶色の鞄 

   埃をそっと指でぬぐうと  よみがえるのよ懐かしい日々 

 「のばした髪に帽子をのせたあいつの影がねえ見えるようだわ」というところが良いではないか。「茶色の鞄」とは、かつてちょっと不良っぽい高校生が持っていたぺったんこの鞄だ。2番の歌詞はこうだ。 

   学生服に煙草かくして 代返させてサボったあいつ 

   人間らしく生きたいんだと 

   私にだけはねえやさしかったわ 

   もう帰らない遠い日なのに あの日のままね茶色の鞄 

   大人になってかわる私を 恥ずかしいような気持ちにさせる 

 「人間らしく生きたいんだと」というところがなつかしい。昔の高校生はこういうことを言ったんですね。「もう帰らない遠い日なのに あの日のままね茶色の鞄」というところが、時間の静止をイメージさせて秀逸である。具体的なモノをを登場させることで、イメージが広がっていく。3番(というか、リフレイン)だ。 

   運ぶ夢などもう何もない。中は空っぽ茶色の鞄 

   誰も自分の幸せはかる ものさしなんてもってなかった 

   誰かが描いた相合傘を 黒板消しでおこって拭いた 

   あいつも今は色褪せてゆく 写真の中でねえ逢えるだけなの 

 なんというか、せつない。多くの人が、自分なりの情景を思い描くだろう。「誰かが描いた相合傘を 黒板消しでおこって拭いた」などというところは、実に70年代的だ。色褪せてゆくアドレッセンスを見事に表現した名曲である。 

 

参考文献(太田裕美関連サイト)  ↓ 

http://www.force-x.com/~raindrop/ 

http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/hiromiohta/ 

http://hiromi.m78.com/index.htm


ジョン・コルトレーンの至上の愛

2006年07月28日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 19●

John Coltrane       A Love Supreme

Scan10004_3  勇気をもって告白しよう。やはり、私はコルトレーンが好きである。そんなことに勇気は必要ないだろう、と考える人も多いだろう。しかし、コルトレーンが、それも「至上の愛」が好きだなどというのは、現在では、まともなジャズ・ファンとはみなされない傾向があるのだ。1960年代のカウンター・カルチャーの時代、コルトレーンは異常ともいえる聴かれ方をした。その後遺症かどうかわからないが、ジャズ評論家のみなさんは、ジャズ音楽として積極的に評価されない方が多いのだ。例えば、吉祥寺のジャズ喫茶メグの寺島靖国さんは、つぎのように語る。

コルトレーン・ファンの怒りを買うのはわかっているが、あえて言うと、笑ってしまうのである。だいたい神などと口にする人をぼくはおかしいと思うが、コルトレーンは真剣なのだ。笑ってしまってから、気の毒だなあと思う。気の毒と思ったらもう音楽は聴けない。尊敬する人だけ聴けばいい。「ちょっと変だな」と思うのが普通の神経。》  (寺島靖国『辛口JAZZ名盤1001』講談社α文庫)

 また、寺島さんの天敵、四谷のジャズ喫茶いーぐるの後藤雅洋さんも次のように語る。

「至上の愛」は考えようによっては、コルトレーンのすべてが体現されている傑作なのだけれど、何度も聴いていると、いささか押しつけがましさが気になってくることがある。どうしてそうなるのか考えてみると、どうやら、音楽と同時に聞こえてくる内面の物語が、うっとうしく感じられるのだと思う。音楽はあくまで音楽のことばで、これが僕のジャズを聞くときの基本姿勢だ。》  (後藤雅洋『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)

 けれども、と私は思う。私は「音楽はあくまで音楽のことばで」判断して、コルトレーンがすきなのだ。例えば「至上の愛」パート2の「決意」。こんな爽快でかっこいいフレーズは、ちょっとないのではないだろうか。私は、コルトレーンが異常にかけられていた時代のジャズ喫茶の雰囲気をリアルタイムでは知らない。音楽で判断するしかないのだ。音楽で判断してコルトレーンが好きだ。彼の内面の物語の軌跡は理解しているつもりだし、内省的と言えば内省的な音楽だが、そこにはまぎれもなく黒人のブルースのフィーリングが息づいている。しかも、他のミュージシャンとはまったく異なる形で……。

 思うに、私より上の世代は、1960年代にあまりにコルトレーンが流行したゆえに、当時の政治的・文化的な背景がまとわりつき、それがうっとうしいのではないだろうかと考えるのだが、いかがであろうか。寺島さんのように宗教性を云々するなら、多くの西洋人が「ちょっと変」である筈だ。評論家の理屈としての気持ちはわかるが、ちょっと拡大解釈しすぎだと思う。

 確かに、コルトレーンは聖者への道を歩もうとしたが、にもかかわらず、音楽の芯の部分でブルースのフィーリングが常に息づいていた、というのが私の結論だ。


失われた歌詞・失われた記憶

2006年07月28日 | ノスタルジー

 1973~4年頃だと思うのだが、『若い先生』というドラマがあった。30分もので(確か7:30からで、提供はブラザーじゃなかったかと思う)、主演は篠田三郎水沢アキだった。

 今日、なぜか、その主題歌を口づさんでしまった。

 ♪それは、あなたよ、若い先生

  風の中を駆けていったのあなた

  君の涙は熱いはずだと

  泣いた私に微笑みくれたわ

  若い季節の変わり目は、誰も心が揺らいで

  そんな○×△※○×△※○×△※○×△※♪

と、途中で歌詞がわからなくなってしまった。メロディーはわかるのだが、歌詞がわからない。インターネットで調べてみたが、どうもわからない。新しい曲なら調べようもあるのだろうが、古いあまりヒットもしなかったドラマの主題歌となると、なかなか難しいようである。ということは、私が何かの拍子にでも思い出さない限り、この歌詞は永遠に失われてしまうのだろうか。

 年齢を重ねるとはそういうことなのだろう。人は生きるごとに多くのものを失って行く。

 失われた記憶……失われた歌詞。

[追記]

コメントの「くま田なおみ」様のご教示によれば、「そんな○×△※○×△※○×△※○×△※♪」の部分は、どうやら

「そんな言葉のひとつでも 生きる望みに変えるの」

らしい。


保立道久による「網野善彦『日本中世に何が起きたか』解説」を読んだ

2006年07月28日 | エッセイ

網野善彦『日本中世に何が起きたか』(洋泉社MC新書)は、網野さんにとってのひとつの「総括」のような作品だ。これまでの論考より一歩踏み込んだ考え方を提示しており、これまで明言してこなかったことについて述べている箇所もある。

 

しかし、保立道久による「解説」はさらに感動的だった。保立によれば、本書で提示された網野さんの「展望」は、第一に原始社会-奴隷制社会-封建農奴社会-資本主義社会というロシア・マルクス主義の世界史の4段階図式に対する否定であり、第二に「無縁」の原理の中から商品の交換そして「資本主義」が出てくるという発想の2点である。

 

第一の点については、世界史の4段階図を留保しながら一方で「無主・無縁」の原理によって歴史を捉える見方を主張していた網野さんが、大きく一歩踏み出したという点で重要である。これは、従来、「二元論」などと悪口を言われてきた点であり、私なども、なぜ網野さんが世界史の4段階図にいつまでもこだわるのか理解できなかった点である。

 

また、第二の点については、文化人類学者らによってはすでに説かれてきた事柄ではあるが、歴史家・保立道久をして「衝撃的」で、とても「網野さんの発想についていけなかった」と言わしめる事柄である。保立さんは、これまで先鋭的な網野批判を繰り返してきたが、数々の実証的・理論的研究と網野理論との格闘の末、「理論史の理解という点では、他の誰より網野さんが正解であったことを確認せざるを得なくなった」と網野さんへの「降伏」を宣言したのである(もちろん、無条件の降伏ではなく、発展的な「降伏」だ)。

 

私はここに真摯な歴史家の誠実な態度を見ないわけにはいかない。感動的な文章だ。これまで、多くの人が網野批判の文章を書いた。しかし、私には説得的な主張とは思われなかった。例えば、高名な歴史家・永原慶二さんの網野批判なども、マルクス主義という前提からの批判であり、政治的・イデオロギー的な感をぬぐいきれなかったのである。マルクス主義という枠を超えて、日本の歴史はどう理解すべきなのかという問題が、本当に学問的に誠実な態度で、真摯に論じられているようには思われず、どこか、ヒステリックな「網野たたき」のように見えて仕方なかったのだ。おそらく、こう思っていたのは、私だけではないはずである。事実、私の知人の中には、同じような感想を持っている人が少なくない。

 

その意味で、今回の保立さんの「降伏」には、真の歴史家の真摯な姿を見せつけられた思いだ。保立さんの姿勢は、私に勇気と元気をくれた。かつて、マルクス主義解釈でがんじがらめの中世史に網野さんが投じた一条の光が、若い我々に勇気と元気をくれたように……。

 

しかしそれにしても、網野さんがなくなったことは残念だ。保立さんには是非網野さんの姿勢を受け継いでもらいたい。

 


「俺たちの旅」箴言集(加筆)

2006年07月28日 | ノスタルジー

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Scan10007_4 若い頃に見た、「俺たちの旅」というテレビドラマを忘れられない。1975年から1976年にかけて、日本テレビ系で放映されたドラマなので、もう30年も前のことになる。しかし、私と同世代の人には、同じ思いの方も多いのではなかろうか。

 今振り返れば、高度経済成長の時代もおわり、それまでの社会や国家や家族のために献身する人生観に対して、「愛」や「友情」などの個人主義的な人生観を提示してみせた作品ということになろうか。社会的な価値観から相対主義的な価値観への転換といってもよかろう(これについては近い将来論じてみたい)。まあ、その行き着いた先が、現代の自分勝手の一億総「おれ様」化といえなくもないのだが……。

 しかし、当時は、やはり、「俺たちの旅」の提示した人生観に魅了されたものだ。その後何回か再放送され、1985年には角川文庫より鎌田敏夫原作で「青春編」「恋愛編」「出発編」の三冊本として、活字としても出版された。ただ、角川文庫版では、「青春編」4章、「恋愛編」6章、「出発編」6章の計16話構成であるのに対して、実際のドラマは46話だった。私も含め、再放送も見、活字版も読んだという人は、意外と多いのではないだろうか。

 ところで周知のように、「俺たちの旅」においては、毎回ドラマの最後にその回のテーマと関連づけられた意味ありげな箴言が字幕で流され、多くの人に感銘をあたえたものだ。今となっては、やや滑稽なものもあるが、当時の視聴者がそこから何かを学び取ったのもまた事実だろう。例えば、「誠実さ」とか「友愛」とか「自立」とかをだ。文庫本にもそれらは収められているが、何せ16話分しかない。もう一度全部確認したいと考えていたら、それを載せているホームページがあったので紹介する。もちろん、熱烈なファンの間では、よく知られているものなのであろうが……。

 

http://www.yo.rim.or.jp/~nag/OreTabi.html

 その中からいくつか印象的なものをあげてみる。

◎  明日のために  今日を生きるのではない

   今日を生きてこそ  明日が来るのだ

◎  いろんな悲しみがある  だがそれをわかりあえた時

   悲しいもの同士の心が  かたくむすばれる

◎  男は女の  やさしさを求め  女は男のやさしさを求める

   皆が  やさしさに飢えている

◎  それぞれの人間が  それぞれの人生を

   一生懸命に  生きている

◎  人は  なりふりかきわず  働くとき  なぜか美しい

◎  淋しさを知っている  人間だけが

   笑って生きて行くことの  楽しさも知っている

◎  やさしさを持った人間が  どうしようもない

   せつなさを心に抱いて  この世の中を生きて行く


スタンリー・タレンタインのシュガー

2006年07月28日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 18●

Stanley Turrentine     Sugar

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 エッチっぽいジャケットである。変なことを想像してしまいそうなジャケットである。今日は(も?)朝早くおきて仕事をした。気分転換に何か音楽を聴こうと思って何気なく取り出したのが、このCDだった。あまりにきわどいジャケット写真なので、ちょっと変な気分になりそうだった。

 テナー・サックス奏者スタンリー・タレンタインのシュガー。彼の代表作といわれる一枚だ。太く男っぽいテナーサックスを「ボス・テナー」というらしい。スタンリー・タレンタインはよく「ボス・テナー」の代表格として紹介される。彼の音色が男っぽいと思ったことはないが、太いとは思う。

 私は、「ボス・テナー」より何より兎に角かっこいいサウンドだと思う。ブルースを基調にしたソウルフルでファンキーなフレーズ。エレクトリックギターやエレクトリックベース、オルガンなど電気楽器を使った編成。よくスウィングするビート。私はこういうサウンドが大好きである。思わず踊りだしたくなってしまう。まったく、小気味良い音楽だ。電気楽器を多用している点で、アコースティック・ジャズとはいえないのかも知れないが、フュージョンではない立派なジャズである。いわゆるジャズ評論家の人たちが頻繁に紹介するジャズの巨人ではないのかも知れないが、とにかく爽快でかっこいいサウンドである。

 若い頃、車を運転する際、スタンリー・タレンタインのカセットテープをよく聴いたことを思い出す。そのカセットテープは、今も私の車の中にある。

 


ヨス・ヴァン・ビーストのビコーズ・オブ・ユー

2006年07月26日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 17●

Jos Van Beest Trio    

Because Of You

Scan10001_3  澤野工房発売の1993年録音盤である。きれい系JAZZである。BGMジャズである。通常、私はこういう作品をあまり聴かない。日本ではこういう作品はある程度売れるのかもしれないが、はっきりいって、Jazz の演奏としては何かが足りないように思う。私は、何かJazzという音楽に幻想をもっていて、形而上学的な何者かを求めているわけではない。聴けばわかる。確かに、とりあえずゆったりとリラックスして聞ける音楽ではあるが、やはり何かが足りないのである。「何か」……、それはおそらく、JazzをJazzたらしめているものである。相手を煙にまくような、スノビッシュな、ずるい言い方だが、それはやはり非言語的な何かなのである。反語的な言い方になるが、こういう作品を聴くのも、Jazzという音楽を改めて認識し、評価する良い契機となるのではないだろうか。しかし、付属のライナー・ノーツのような紙に書かれた次のような文章をみると、そういうJAZZがあっても良いじゃないか、と思ってしまう。

 ……これでもかとばかりに詰め込んだ美しいメロディーを更に発展させようとするかのような演奏は、楽曲をアドリブの素材として扱うこととは対極にあるジャズならではの寛ぎを与えてくれる。クリエイティブな刺激だけがジャズだろうか?  スウィート・ジャズ・ピアノ・フォー・ラヴァーズ・オンリー。そんな作品があってもいいじゃない、と天国のエヴァンスも笑っているかもしれない。

 このことばに特に否定的な意見を述べるつもりはない。天国のエヴァンスが笑っているかどうかはわからないが、きっとそんな作品があってもいいのだろう。では、なぜ今夜このCDを聴いているのか……。選曲がいいからである。一曲目から、大好きな What Are You Doing The Rest Of Your Life (これからの人生)である。それだけではない、"いそしぎ"もある"酒とバラの日々"もある、"イン・ア・センチメンタル・ムーズ"もある、"ブルー・ボッサ"もある。寺島靖国ではないが、を聴きたくなる日もあるのだ。そう思って、このCDを取り出したのだ。

 しかし、やはり何かが足りない。


ブロッサム・ディアリーのワンス・アポン・ア・サマータイム

2006年07月25日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 16●

Blossom Dearie  

Once Upon A Summertime

Cimg1554  昨日の「今日の一枚」で、ブロッサム・ディアリーのマイ・ジェントルマン・フレンドの紹介をした際、ワンス・アポン・ア・サマータイムのジャケットについて触れたら、是非見たいというメールが届いたので掲載します。いうほどひどくないじゃないかという声が聞こえそうですが、昨日紹介したレコードと比較すれば、どちらを買いたくなるかは衆目の一致するところでしょう。ちなみに、私はこのほかにもブロッサムのレコードやCDをいくつか所有していますが、このジャケット写真を見たら、声とのあまりのギャップにショックを受けることになると思われるので、今回はこれ以上は紹介しません。どうしても見たい人はネットのCDショップサイトなどで検索してみてください。

 さて、1959年録音の本作。昨日のアルバムと内容的には甲乙つけがたいと思います。「かわいい」「キュート」という視点だけなら、本作のほうが上かもしれません。A-①二人でお茶を、②飾りのついた四輪馬車、B-①ティーチ・ミー・トゥ・ナイト、②ワンス・アポン・ア・サマータイム などは特に好きですね。

 いつも同じことを言うようですが、やはりレコードはいいですね。中低域の響きの深さが全然ちがいます。忙しい日々を言い訳に、普段はなかなかターンテーブルにのせられず、手軽なCDですませてしまいますが、時間と気持ちに余裕のあるときは、レコードを聴きたいものです。


ブロッサム・ディアリーのマイ・ジェントルマン・フレンド

2006年07月24日 | 今日の一枚(A-B)

● 今日の一枚 15 ●

Blossom Dearie   

My Gentleman Friend

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 写真でみる若い頃のブロッサム・ディアリーは、きれいだ。美しい人だ。この写真の人があのようなかわいい声で歌っていると想像するだけで、どきどきしてしまう。年老いたブロッサムについてはあまり語りたくはない。

 最近、油井正一『ベスト・レコード・コレクション・ジャズ』 (新潮文庫)という古い文庫本を書棚で見つけた。1986年にでた本だ。きっとその頃買ったのだろう。この本の中に、林真理子の「ブロッサムのように」という短いエッセイがあった。とくにどうという内容の文章でもなかったが、私はその文章ではじめてブロッサム・ディアリーという歌手を知った。そして、エラでもシャーリーでもないというその歌声に想いをめぐらせた。早速?(よく憶えていない)、名古屋の大きなレコード店に買いにでかけた(当時わたしは名古屋のすぐ側のまちに住んでいたのだ)。林真理子が紹介していた Once Upon A Summertime の入った同名のレコードがあった。しかし、わたしはそのレコードを買わなかった。そのレコードのすぐ後ろにあったMy Gentleman Friend という作品を買ったのである。理由はもちろんジャケット写真である。上の写真をみれば、多くの言を費やす必要はあるまい。私は、ブロッサムの写真に恋してしまったのだ。(Once Upon A Summertime のジャケットをご存知の方は、より深くご了解いただけると思う)

 内容は……。これがまた良かった。本当にかわいらしい声だった。声量があるわけでもなく、ずば抜けたテクニックがあるわけでもないが、なんともいえない雰囲気をかもし出す歌手だ。side-B最後の曲、Someone to watch over me が好きだ。アン・バートンやチェット・ベイカーの名唱があるが、それらに引けをとらないトラックだ。リラックスした雰囲気の中にも、誠実な人柄がにじみ出るような歌い方がいい。「やさしき伴侶を」という日本語訳もいいではないか。夫であるボビー・ジャスパー(fl)がサイドメンのひとりだということもあるのだろうか。静かで落ち着いた雰囲気の中、淡々と歌うその声が誠実さを感じさせるのだ。

 この作品は最近廉価版CDでも発売されたので、是非一聴をお勧めする。ところで、私がOnce Upon A Summertime のレコードを買ったのはそれから数年後のことだった。


キース・ジャレットのザ・メロディー・アット・ナイト・ウィズ・ユー

2006年07月24日 | 今日の一枚(K-L)

● 今日の一枚 14 ●

Keith Jarrett   

The Melody At Night With You

Scan10002_4  今、夜中の2:30だ。考えるべきことがあってこんな時間になってしまった。となりの寝室では子どもたちが寝息をたてている。めずらしく、私を慕ってやってきたのだ。私はひとり書斎でアンプのボリュームをしぼってこのCDを聴いている。

 豊かな時間だ。ほんとうに時間がゆっくり流れているのがわかる。若い頃の、わたしの気性と生活からすると夢のようだとふと考える。Keith Jarrett のソロアルバム The Melody At Night With You (1999年作品)は、こうやって聴く作品だ。美しいメロディー、繊細なタッチ、透徹したロマンチシズム。じっと耳を傾けていると、あまりの美しさに涙がこぼれ落ちそうになる。繊細な指先で奏でられる音楽は、いつものキースではない。あの緊張感にあふれた、鬼気迫るような、そして時として神経質なキースの演奏ではない。もっとくつろいだ、音楽に対するまっすぐな愛情だけで奏でられた愛すべき音たちだ。

 少女趣味な文章を書いてしまった。恥ずかしい。① I Love You Porgy 。ビル・エヴァンスにも素晴らしい演奏があった。けれど、これもいい。双璧だ。他の曲もいい。すべてがいい。

 家族が寝静まった後、ゆっくりと流れる豊かな時間を過ごすための一枚である。よく見ると、ジャケットもなかなかいいじゃないか。

 豊かな時間……。豊かな音楽……。


フェレンツ・シュネートベルガーのノマド

2006年07月23日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 13 ●

Ferenc Snetberger   NOMAD

Scan10001_2  ハンガリー系のジプシーギタリスト、フェレンツ・シュネートベルガーの2005年録音作品だ。CDの帯に「パット・メセニー&チャーリー・ヘイデンによる名作『ミズリーの空高く』を彷彿とさせるコンテンポラリー・ギターアルバムのマスター・ピース誕生」とあるのを読み、期待して購入した。しかし、どこが『ミズリーの空高く』を彷彿とさせるのだ。理解できない。そんな宣伝文句にのせられた私も愚かだった。しかし、考えて見れば、この宣伝文句は汚いやり方ではないか。他のアーティストの作品を引き合いに出して、それを「彷彿とさせる」とは一体どういうつもりだろう。『ミズリーの空高く』のおこぼれにでも預かりたいのだろうか。その根性がさもしい。下品である。作品にそんなに自信がないのだろうか、と思ってしまう。

 この作品自体は悪くはない。幻想的で絵画的な音楽世界は、オリジナリティーあふれるものだ。典型的なジャズとは異なるイディオムで演奏されるギターは大変新鮮であるし、NOMAD(流浪の民)の悲しみを連想させる旋律は魅惑的でもある。私自身としては、推薦したい一枚である。

 だからこそ、先の宣伝文句は悔やまれる。はっきりいって、このことばを考えた人は、このギタリスト・フェレンツ・シュネートベルガーを、そしてこの作品を侮辱している。せっかくのいい作品に泥を塗ってしまったことばである。

 堂々とその作品自体の素晴らしさを伝えることばを考えて欲しい。それがまっとうな宣伝というものだろう。